日本時評1 レオナルド・ダ・ヴィンチ展の誤りを正す

田中英道 ※平成28年2月29日掲載

政治のあれこれ、経済のあれこれも、それが日本の本質的な問題に触れてこない限り、コメントをする気は無いが、今年の安部首相の施政方針演説で、日本の文化・芸術を世界に発信して行こう、と述べられていたのには感銘を深くした。このような文化・芸術に首相が触れたのは大変重要で、政治・経済は時代の流れであるから、首相は、それを大きく転換することなど出来ないが、文化・芸術を世界に発信し、日本の外交のイメージを変えて行くことは、積極的に推進出来ることである。

津川雅彦氏が政府の「日本の美」顧問会議の座長をされ、私も、と誘って下さったが、なぜかなれなかった。私が「新しい歴史教科書をつくる会」の元会長で、現在も育鵬社の教科書作りのメンバーだし、展転社から「戦後を狂わせた OSS 」の謀略のことや「左翼思想の正体」などの本を出していることが、ネックになったのかもしれない。人事を司る官僚はまだまだ左翼が多く、中立の立場がいつも左側にひっぱられているからだろう。しかし文化・芸術にはそんな偏向の念を持ってはならないである。

ところで現在、東京都江戸美術館でレオナルド展が開かれている。私は西洋学界・公認の日本では唯一のレオナルドの研究者を自負しているが、述べたいことはすべて本や論文で述べているので、繰り返す気がなく、その後、沈黙してきた。しかし、これも友人に誘われて展覧会に行き、この目玉である『紡車の聖母』と言う作品は、レオナルドによるものではないことを説明したので、それはどこかで発表しておいた方が良いというので、ここで取り上げる。

この作品はポスターにもカタログにも、レオナルド作と書いているが、それははっきり間違えである。一見して見れば、それは断言出来るが、主催者たちは、それが分からない裸子なので、少し理由を述べておこう。

まず風景は貧寒としていて、まず誰もこの部分がレオナルドであると考え無いであろう。モナリザ、岩窟の聖母ばかりでなく、レオナルドの自然景は、もっと豊かな、もっと観察の細かなものであることは誰でも判断出来よう。そのことだけでも、レオナルド派と書くべきである。聖母の顔に、似てるはずの岩窟の聖母の深さ、生き生きとした表情もないし、幼児キリストの顔も姿も、レオナルドのタッチの卓越した手法が無い。弟子の誰、と言わないがレオナルドではないことは断言出来る。「紡車の聖母」をレオナルドが描いた、という記述があるから、というが、その作品は失われている、と書くべき出あろう。

この作品だけでなく、この展覧会で出品されているものは、書物で十分知ることができるものが多く、ヴェネツイアの美術館から来たデッサンを除くと、何ひとつオリジナルのものはない。こんな展覧会は、西欧ではレオナルド展といってはならない類のものである。レオナルド工房展でも言うべきであろう。この作品をポスターにして日本人を誑かしてはならない。