地球史の通説によると恐竜が絶滅したのは6500万年ほど前のことで、大隕石が地球に衝突し、その衝撃の強さからであったらしい。 それがどこに落ちたかというと、メキシコのユカタン半島辺りであった、と言われている。 それで全世界の恐竜たちが全滅したかと思うと、さぞユカタン半島辺りには、えぐられた陥没地帯が見られるだろうと、勝手に想像していた。 今回、メキシコシティの学会の際に、ユカタン半島のマヤ遺跡を見て廻ったが、それらしい場所はなかった。 無論その後の地殻変動で、そのような痕跡はすべて変化してしまったのだろう。 それほど大昔のことであったのだ。
ところで、マヤ暦によると2012年に、世界は終末を迎えるという。 始まりは紀元前3114年というから、6500万年前の出来事などマヤ人には眼中になかったのだろう。 恐竜時代の終わりがどうであったのか、などとは、思いも及ばなかったに違いない。 しかし、このユカタン半島がこのとき、「この世の終わり」を体験したことが、何か潜在的に土地に宿った記憶として残ったのかもしれない。 無論こんなことをメキシコの友達に言ったら怪訝な顔をされたが。
そのマヤ暦の世界の終末を主題にして、ハリウッド映画も何本か作られている。 私はエメリッヒ監督の『2012年』という映画を観たが、ロサンジェルスが大波に呑みこまれるだけでなく、ヒマラヤ山脈にまで洪水が押し寄せるシーンがあり、これまでの『ハルマゲドン』といったデイザスター映画の究極を見たような気がした。 地球全体が水に呑みこまれるのである。 もっともその大洪水の場合は、結局、旧約聖書のノアの大洪水の場面を思い起こさせ、キリスト教徒の想像力の形式にはまっており、それならばレオナルド・ダ・ヴィンチの「大洪水」の場面の方が迫力がある、と思ったりした。 そこには大洪水だけでなく、何やら大隕石の衝突のような場面が見られ、この15世紀の大画家の想像力を改めて確認したのである。
マヤ人の文明は2世紀から9世紀までが「古典期」とされ、それはちょうど日本の古墳時代から奈良、平安初期の日本の「古典時代」にあたっている。 マヤ文明の数多くのピラミッド風の建物や宮殿は、まさに日本の前円後方墳の巨大な古墳建築や、壮大な寺院建築を思わせ、同じ背の低いアジア人が、太平洋を隔てて大きな文明をつくっていたことに、大きな感銘を受けた。 しかし、なぜマヤ文明が衰退し、日本文明がその後も残り、今日まで存続し繁栄しているのか、その差異を考察せざるを得ない。
マヤ文明には統一国家の強力な動きがなかったことが挙げられる。 マヤ文明にはユカタン半島を中心に現在のメキシコ、グワテマラ、ホンジュラスなどに60から70の王朝があった。 しかしお互いに戦争はすれども、それらを統一するほどの強力な王国はなかったのである。 これは古墳時代に同じように、各地に氏族たちが群雄割拠しながらも、天皇家を中心にゆるやかな統一国家があり、飛鳥時代からは天皇を押し戴いて摂関政治が開始され、律令制度のもと、統一国家が7、8世紀に成立した。 この日本の過程がマヤには見られないのである。
戦争は行われたが、武器は石器で、青銅や鉄器が使われなかったために、大規模な衝突に至らなかったと考えられている。 それが強力な軍事政権の成立を阻んだのであろう。そのことと関連して、この文明では馬や牛といった家畜が利用されなかったことが挙げられる。 また車輪も使われなかったことから、農耕や物資の輸送も大規模なものにならず、人力にのみ頼った文明であったのである。 そのような新石器時代であったにも関わらず、建築を大規模にできたのは人力を最大限に使用したからであっただろう。 それに大規模な灌漑施設もなかった。 大河がなかったから、灌漑施設も必要としなかったからであろう。
場所が低湿地帯であったし、石は切り出しやすい石炭岩であったことは、ここに他の文明が必要とする条件が備えなくとも、文明を創り出す条件があったのであろう。 天体観測による暦だけでなく、文字や数学を生み出し、数学の0(零)の発見もしていたのである。 数学は点と線で表され、点は1、線は5を示した。 0は貝型で示され、どんな大きな数字でも示され計算が可能となった。 約350の表意文字、370の表音文字があり、神の名を記した100ほどの絵文字があった。
私はチェチェンイッツアで91段あるピラミッドを登ったが、その階段は四方にあり合計で364段。 その頂上に1段あって合計365段となり、それが1年の日数を表していた。 マヤの太陽暦だと1年は365日で、その誤差はわずか17・28秒であったという。 星の周期も584日と計算され、ほとんどずれがなかった。 33年先の日食も正確に予想することができた。 天体観測器具も、例えば垂直に立てた棒で太陽の影の長さを測ったり、季節によって変化する日の出や日の入りの位置を二つの棒の間に水平に張った網に記録していた。 チェチェンイッツアには「天文台」さえ建てられていたのである。 マヤの人々にとって、宇宙は神聖な力を持った場であり、惑星は人間の存在を左右する神だったのである。
宗教といえば、まさに自然信仰であり、太陽、雨、死といった自然の存在が神となった。 太陽はオウムやジャガー、雨は蛇、死は蝙蝠(こうもり)やみみずくで象徴されたのである。 宇宙は天、地、冥利の三つで構成され、天は13層に分かれ、月や金星などの惑星が配置されていた。 その最高神は宇宙の創造エネルギーを創り、全世界に生命を与える存在であった。 その創造神は周期的に世界を破壊し、新たに創造するのだ、と信じられていた。
こうした自然信仰は、日本の神道の自然信仰の部分と似ている。 創造神はまさに天照大神とスサノオの尊のような存在に見える。 祭祀の中心は、神の食する供物を捧げることで、その供物とは、線香や花、食物ばかりではなく、動物や人間の心臓を特に好んだという。 れはマヤ文明の衰退の後、トルカテ文明が入ると、生贄としての人間の斬首や心臓の抽出が行われ、その残酷さが後のスペイン人たちの侵略の正当化にされたのである。
このような高度な文明であったにも関わらず、マヤ文明はトルテカ文明やさらにアステカ文明にとって代わられ、それがスペインの侵略によって、終焉を迎えるが、しかしマヤ文明自身はすでに、9世紀頃に滅びていたのである。 9世紀から10世紀にかけて、古典期のマヤ文明が次々と没落し、放棄されていったが、その滅びの原因について、これまで多く語られてきた。 疫病の蔓延説、自然災害説、農民の反乱蜂起説などをはじめとして、その「カタストロフィー」を説明しようとして、いろいろ唱えられてきたが、何の決定的なものはなかった。 ただ16世紀のスペイン人の征服について、欧米人はそれを糊塗するかのように、9世紀のマヤ民族は自ら滅んでいった、と強調してきたのである。
16世紀の日本は、このメキシコ同様、ポルトガルやスペインの侵入を受けながら、彼らがもたらした鉄砲をすぐ作り出し、信長の軍隊のように強力な鉄砲隊を組織して、彼らに容易に侵略する機会を与えなかったし、秀吉がキリスト教の布教を禁じて、彼らの増派を抑えた。 そこには鉄器を使わず、馬も利用せず、統一国家を持たなかったマヤ民族らのメキシコの滅亡の推移を知っていた日本が、その轍を踏まず、これら侵略国を追い払った経緯が見られる、と言っていいほどである。
それでは9世紀のマヤ文明が滅びたのは、なぜであろう。
私は今回も美術史家として、マヤをはじめとしてこの中南米アメリカ文明の彫刻をできるだけ見て歩いた。 各地の美術館ばかりでなく、首都メキシコシティの文化人類学博物館も訪ねた。 そこで見たものは、その人間彫刻が、すべて異形人の姿をしていることであった。 つまり奇形、病人の人たちなのである。 その一貫性に私は驚いた。 そのヴァラィティや洗練度は、それが異形人だけに異様さを強めていた。
私はかつて、日本の縄文土偶はみな異形人像である、と発表したことがある(民族藝術学会、東北大学文学部年報、第50号)。 当時は兄妹、姉弟の結婚が当たり前であったことは、日本の神話を読めば明らかである。 民族の移動が少ない場合、同族結婚が一般化するのである。 インセスト・タブーは文化を意味すると言ったのはレヴィストロースであったが、縄文時代はそれがなかったのである。 三内丸山文明の衰退はそれが原因ではなかった。 しかし中南米では、驚くことにそれがずっと続いていたのである。
マヤ文明研究者はその美術について語るが、この異形性について深く言及しない。 異文化に対してそのような指摘をすると人種差別をしている、と考えるらしい。 しかし事実は事実である。 私はそのことをマヤ民族の内部的衰退の原因として考えるべきだと思う。 本ではすでに天皇の皇子でさえ、妹と関係を結ぶと島流しになった、という記述がある(允恭天皇の木梨の軽の皇子)。 その意味での文化であったのである。
天文学に数学、建築に偉大な才能を示したマヤ民族が、ただ共同宗教である自然信仰だけで保持し、仏教のような人間の個人宗教を持たなかったことは、そうした強い共同体維持の方向を強めたのかもしれない。 私は文字記録以上に美術史を語ることが、その民族の特質を語ることになる、という持論を持っているが、マヤ文明の美術史は、この民族の運命を語っているように見えた。