はじめに 「常世の国」を歩く
天平時代(八世紀はじめ)に書かれた『常陸国風土記』を読むと、常陸を水陸のめぐみ豊かな「常世の国」と誉め称えている。このおおらかの自己肯定こそ、本来の日本人の風土と人間へのあり方なのだ。
《そもそも常陸の国は、面積はすこぶる広大で、境界もまたはるかに遠く、土壌は肥えに肥え原野はゆたかなうえにゆたかである。 耕し墾(ひら)かれた処と海山の幸とにめぐまれて、人々は心やすらかに満足し、家々は充ち足りて賑わっている。 もし身を農耕に励むものがあれば、たちどころに多くの富を得ることができ、力を養蚕につくすものがあれば、ひとりでに貧窮から逃れることができる。 あえて述べるまでもないが、塩や魚などの珍味が欲しかったならば、左は山で右は海である。 桑を植え麻を蒔こうとするならば、後は野で前は腹である。 いわゆる海の宝庫・陸の宝蔵、膏(あぶら)したたる物産の楽土である。 昔の人が「常世の国」といったのは、もしかするとこの地ではないかと疑われる。 ただ全体としてこの国の水田は上級のものが少なく中級のものが多い。 年のうちに長雨が続いたときは、たちまち稲苗が成熟しないという歎きがあり、歳のうちに陽照りのよいときは、ただただ穀実豊作見るであろう》(『風土記』吉野裕・現代語訳、平凡社)。
この文章で、この地方の人々の土地の豊かさと富に、誇りの念が大変強いものがあることがわかる。 こうしたおおらかな生活肯定は、近代人の懐疑精神からは考えられないことである。 これを近代史家はただちに「古代」の生活の実際はそんなはずがない、と言い募るであろう。 しかし文面から言っても、嘘や虚勢とは思われないし、「貧窮」という言葉を知っていることからも決して経済を無視しているわけでもないことがわかる。
この『風土記』の別のところを読むと、「常陸」という名の語源が、昔の人がいったという「常世の国」では必ずしもなく、川や海で陸が途切れず、「常に」続いている「陸」なのでその名がついたとか、倭武(やまとたける)天皇(すめらみこと)が東夷の国を巡察されたとき、流れ出る清らかな泉に「袖を漬す」ことがあったので、その「ひたす」から来たかもしれない、と述べられている。 或いは、風俗(くにぶり)の諺に「筑波岳に黒雲かかり、衣袖(ころもで)漬(ひた)ちの国」になり、それが「常陸」になったというのがこの当時の通説だったらしい。 とか、東北地方の「道奥」や「陸奥」という名称に対して「常道」とか「常陸」と書かれることから、東北地方に接する「直道(ひたみち)」が「常陸」になったという説もある〈由良弥生『日本の神話と地名のはなし』ランダムハウス講談社〉。 しかしこの名前はやはり『風土記』にあるように「常世の国」という言葉との関係で流布したと考えられ、「常世の国」の意味で使われたと考える方が適っていると私は判断する。 少なくともそうした意味で、人々は使っていた、と考えられる。
いずれにせよ、この常陸の国が豊穣の国であり、歴史的にも「やまとたける」の威光があったことが、ここで確認されている。 このことは、この関東の土地でも「すめらみこと」の記憶が『記・紀』記される中央だけでなく、地方に強く残っていることがここで認められる。 『風土記』によれば、第三十八代天智天皇の造営とされる鹿島神宮がこの常陸にあり、建御雷神(たけみかずちの神)ここに祀られているのであり、この神は天照大御神の命令によって天孫(天つ神の子孫)として、「高天原」(天上界)から「葦原中つ国」(地上)に派遣されている、と書かれる。 「国つ神」である「大国主神」に武力を迫って国譲りの交渉をし、地上を再び天つ神の管理下に置くことを成功させた神で、雷神・剣神・武神であるとされた。 歴史学でも津田左右吉以来、『記・紀』が虚構説として考えられているが、『風土記』や地方史の記述は、それが誤りであることを示しているのである。
この鹿島神宮は全国にある鹿島神社の総本社であり、毎年九月一日から三日に行われる「御船祭り」は、ご神体や御輿を船にのせて水上で行われる。 神が海の彼方の「常世の国」に住んでいる人間世界との間を行き来したという、古くからの信仰に基づいているからだという。 このことからも、この地方が「常世の国」=「常陸」である、という由来を確認出来るようだ。
この『風土記』は養老年間(七一七~七二四)に書かれたものであるが、冒頭の文を読むと《常陸の国の司、解し申す、古老の相伝ふる旧聞を申すこと》を記している。 この地で「古老」がその歴史を語った貴重なもので、播磨、出雲、豊後、肥前とこの常陸しか残っておらず、関東では唯一なものだ。 筑波郡に関しては、筑波岳の自然美を讃えている。
この「常世」の「常陸」のイメージはこの時代だけのことではない。 江戸の旅人、幕府巡見使に従っていた古川古松軒が、「さて常州に入りて見るに、実に上国の風儀見えて、民家のもようもよく百姓の体賤しからず、農業も出精するにや、何れの作物もみごとなり」と、天明凶作直後の奥羽の村々を見てきた後に、この水戸領の農村の平穏さや武士の威風に感激し、「西山(徳川光圀)公の御遺風」と褒めているのである(『茨城県の歴史』山川出版社)。 決して「常世の国」は古い時代だけではない、と伝えている。
常陸の国については、まず筑波山のことを語ることがいいだろう。 『風土記』でも豊穣の代表的な地方として筑波郡を語っている。
《古老がいうことにはーー昔、祖(みおや)の神尊(かみのみこと)が多くの(御子)神たちのところをお巡りになって、駿河の国の福慈(富士)の岳にお着きになると、とうとう日が暮れてしまった。 そこで一夜の宿りをとりたいと頼んだ。この時、福慈の神が答えていうには、「いま新栗(わせ)の新嘗(にいなめ)をして家中のものが諱忌(ものいみ)をして(他人の接触を絶って)おります。 今日のところは残念ながらお泊りいただくわけにはまいりません」といった。 ここにおいて神祖の尊は恨み泣き、ののしって「わしはお前の親なのだぞ。 どうして泊めようとは思わないのだ。 これから、お前の住んでいる山は、(お前が)生きているかぎり、冬の夏も雪が降り霜がおり、寒さ冷たさがつぎつぎに襲いかかり、人民は登らず、酒も食べ物も無かろうぞ」といった。
あらためて今度は、筑波の岳にお登りになり、また宿を請うた。この時、筑波の神は答えていった。 「今夜は新栗嘗(にいなめ)を致しておりますが、どうしてあなた様の仰せをお受けしないことがあってよいものでしょうか。 そして飲食物をしつらえて、うやうやしく拝み、つつしんで丁重に奉仕した。 そこで神祖の尊は晴れ晴れと歓んでお歌いになった。
「愛(いと)しい我が子よ たかい神の宮 天地(あめつち)とともに 日月(ひつき)とともに 人民(ひとら)集い慶び 飲食富豊(ゆたかに) 代々絶えず 日日(ひましに)栄え 千秋万歳(とこしえに) 遊楽窮(きわ)まらじ」
このことがあって、福慈の岳は いつも雪が降っていて人々は登ることができない。 この筑波岳は人々が往きつどい、歌い舞い、飲んだり食べたり、今にいたるまで絶えないのである》(口語訳『風土記』平凡社)。
富士の厳しさに比べて筑波の優しさを語ったものだが、このような神の宿の諾否の筋書きは「蘇民将来」の伝説と同じである。 その場合、「神祖の尊」は、「すさのおの尊」であったり、「牛頭天王」、「武塔神」であったりする。 いかにも旅好きの日本の神々の旅のエピソードであるが、神をうけいれた蘇民将来はこの筑波の神のことではないが、同じ役割だ。
この「常陸風土記」の場合、興味深いのは「神祖の尊」が、新栗の初嘗という新穀を神に捧げ、神人共食の儀を取り行っているところに来たのであるから、《恨み泣き、ののし》ることなどぜす、彼らの祭祀に対する理解してやってもいいはずである。 何せ、そのときは村をあげて厳重に潔斎をし、婦女子は屋内にこもって神(産霊)との交流をはかる聖なる儀式であったのだ。 つまり神々への崇拝の念は尊敬に値するからである。 「神祖の尊」だから、その位の理解はあっていいはずである。 しかしこの神は、自分がないがしろにされたとしか考えない。
私が注目するのは、このような話の中に、しかつめらしい宗教儀式よりも、人間的なもてなしの方を優先する方が、かえって神の心に適う、という日本人の思想のことだ。 宗教の経典、信仰の儀式よりも、人間の普段の行ないの方に、神が関心をもつという、生活重視の考え方があることだ。 神の言葉を守り、その祭祀を厳しく行うことよりも神はその人間の優しさが大事で、人々を平和と豊穣さの中に暮らしていけるようにする、ということである。 つまり、実際の行ないや生活の方が大事なのだ、と。 それが日本の神道なのだ、と言っているのである。 まさに筑波の山は、そのような「常世の国」にふさわしい行為を行い、人民は幸福にしているのだ、と。
『常陸風土記』はさらに続けて、
《東の国ぐにの男女は、春の花が開く時季、秋の木の葉の色づく時節に手を取り、肩を並べて続々と連れだち、飲み物や食べ物を用意して持ち、騎馬でも登り徒歩でも登り、遊び楽しみ日々を暮らす。その唄う歌にいう。
「筑波ねに 逢はむと 言いし児は 誰が言聞けばか み寝あはずけむ。 筑波ねに 盧(いほ)りて 妻なしに わが寝む夜ろは 早も明けぬかも。」
詠歌は非常に沢山でここには載せきれない。土地の人の諺にいう。 「筑波嶺の会で求婚の財を得ることができないと児女としない」と》。
何とおおらかな土地柄であろう。 男女はこの筑波でみな結ばれると歌っているのである。 近代人はこのおおらかさを、単純で感情の未発達の人々と評するであろうが、しかし『万葉集』にあるのは、まさにその単純さが決して素朴な感情によるものではなく、複雑な近代の人間にも同感出来るものである。 この楽天性は決して素朴なものではない、ということがわかるのだ。
1 常陸の古墳、神社を巡る
舟塚山古墳を登った。そこから見る風景の広がりは、目を奪うばかりであった。 西に筑波の霊峰を仰ぎ、南は高浜の入江にのぞむ。 この前方後円墳が「常世の国」にふさわしい景勝の地に、人々によって構築されたことがわかる。 全長は一八六米、周辺の堀を含めた墳形全体では二五〇メートルもあり、県内最大の古墳であるばかりでなく関東でも第二の大きさを誇っていた(最大なのは群馬県の太田天神山古墳で墳長二一〇メートルある)。 墳形は堺市の仁徳天皇陵と共通し、後円部は三段に構築されており、築造は五世紀後半のものとされている。 被葬者は不明だが、皇祖霊を受け継ぐ有力者の人物であると推定される。 古墳を登るのは、本来なら襟を正してその被葬者のことを思い、祭祀を捧げなければならない。 死者の霊を礼拝するためだ。 古墳を見学させるためにはそうした配慮が必要だか、ここにはそれがないのは残念である。
この舟塚山古墳の周辺には、愛宕山古墳の他に陪塚と思われる小円墳など二四基もある。 多くの氏族の人々が、この領主の後、続いたのであろう。 人々はこの「常陸国」共同体を形づくる死者の認識を持っていたのである。 このことからも、五世紀において、すでに地方統治がなされていたということが理解されるのである。 霞ケ浦からの入り船のような形をしており、愛宕山古墳(全長九六米)の出船形とならんでこの土地を支配している。 この辺は水上交通の要地で、国府の外港であった。 国司が常陸国の1宮鹿島神宮に参拝する際には高浜から舟で霞が浦を渡ったのである。
このバス旅行の最初にお参りしたのが、常陸国出雲大社であった。 出雲大社といえば、『日本書紀』に斎明天皇によって日本で最初の神社として知られている。 その分社がここにもあったか、と驚いていたのである。 名前からして重要そうなのに、『茨城県の歴史散歩』などの外とブックにも載っておらず、どうしたことだろう、と思っていたが、この分社はまだ二〇年のたっていない平成四年に、出雲大社教という宗教団体によって建てられたものであった。 なるほど神社の建物自身は全く新しいものであった。
《鎮座されているこの福原の地は、日が沈み休まる国、日隅宮と称される島根県・出雲大社から、大国主命の第二御子神である建御名方大神が鎮まる長野県諏訪大社を通り、日が生まれる国・常陸国へと直線上で結ばれている御神縁の地である》(出雲大社常陸分社パンフレット)。
この説明文を読んで、出雲大社と諏訪大社を直線で結んだ延長線上にこの常陸分社があったことを知った。 太陽が動く線上に造ったということなのか、こうした神社を最近に建てたことの、現代にも続く信仰の強さを改めて思った。 今日的にいえば、新興宗教の勝手な建造物ということで、ガイドブックも載せたくないのであろうが、こうして建ってしまい、人々が参拝者が多くなっていくうちに、そこに自ずと信仰の場所が生まれる、というのも事実である。 日本の神道がまだこのような形で生きている、と言ってもよいのかもしれない。 我々現代人が、新興宗教といって無視しがちな宗教も、こうした長い伝統の中で更新されていく、その流れのひとつに過ぎないのだ、と思わせる。
ここの祭神はやはり「大国主命」だが、この土地の神、「少名彦命」がむすびつけられ、共に国づくりを行ったとされているのである。 出雲大社と同じように拝殿には大きな注連縄がはられ、本殿も同じ「大社造り」で建てられている。 神代の昔、霞ヶ浦は今よりも大きく、筑波山まで湖だったようで、その時代はとても温暖で過ごし易い場所だったという。 鹿島~九十九里浜は砂鉄の産地として、出雲からも製鉄のために多くの人々がやって来たと推測されている。 そうなればこの出雲大社の分社の建立は故なきことではない。
この分社が、常陸教会と呼ばれ、何やらキリスト教会の名を思わせ、入口に「大国主命」の像が、これみよがしに置かれているが、しかし神社は偶像を作らないという原則を破っているのは残念である。
一方、笠間稲荷神社の方は、古くから存在し、創建は白雉年間(六五〇~六五四)とされており、祭神は「宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)」と言われている。 この神は『記・紀』には、「いざなぎ」「いさなみ」の御子とも、「すさのおの尊」の御子ともいわれている。 またこの笠間は、『常陸国風土記』の新治郡の条に《郡より以東五十里に笠間村あり》と記され、四方を小段丘に囲まれた小盆地に、古くから村落が形成されていた。 それを思うと、村人がこの神とどんな交流をしていたか、想像してしまう。 この稲荷神社は、未だに豊作・商売繁盛を祈る参詣者が多い、と聞くが、しかし「宇迦之御魂神」の「宇迦」は「食(うげ)」で食物の意味である。 「稲に宿る神秘的な精霊」という意味で五穀・食物を司る神であり、もともと『稲荷神社』の祭神であった。 今日でもその信仰は変わってないのである。
笠間城主であった井上正賢が、寛保三年(一七四三)にこの神社の社寺、社殿を拡大し、その後も歴代の藩主の守護を受けてきた。 万延年間(一八五四~六〇)に建造された本殿には当時の名工、後藤縫之助らが彫った欄亭曲水図の彫刻がある。 人々は「宇迦之御魂神」に対して変わらぬ信仰を持ち続けたのである。
《笠間の稲荷か、石岡の金刀比羅さまか》と言われているので、私たちは石岡市の金刀比羅神社にも訪れた。 ここの神社は平成十二年(二〇〇〇)二月の火事で、すっかり新しい社殿になっていた。 建築が新しいのは先程の出雲神社と同じであったが、こうして火災にあうたびに新しく建て直されていく神社に、私たちは日本人の神道に対する深い思いと信仰の根強さを感じる。 高い殺風景なビルの横に、鳥居が建てられ、木々が植えられて、ここを新たな杜にしようとする人々の継続の意志が、それこそ現代人の信仰の証なのである。
「金刀比羅」とは、もともとの意味はサンスクリットのクンビ―ラが漢訳されたもので、ガンジス河に棲息する鰐の神格化したものが、仏法の守護神として薬師如来十二神将のひとつ、宮毘羅(くびら)大将になったものだ。 「鰐の神」から「竜王(龍神)」。 あるいは「海神」となって、海難祈願や雨乞いなどの水に縁のある善神となり、これが日本では「金毘羅」となった。 有名なのは香川県の金刀比羅宮であるが、その社伝によると、面白いことにこの「金毘羅大将」が日本の「大物主命(大国主命と異名同神)」となって、琴平山に本拠をおいて、中国、四国、九州などの経営にあたった、とされているのである。 いずれにせよ、この神は神仏融合の神であり、水に関係する神の象徴である。
この石岡の金刀比羅神社は、平安時代の中ころ、平高望王が国府に着任して以来、平氏ゆかりの神社として伝承されるようになったという。 江戸時代には石岡の町(府中平村)が浜海道としてにぎわい、海の守りとして銚子から新潟にかけての海浜の人々の崇敬を受け、ここで講中(互助会のようなもの)などの集まりをつくったという。 いずれにせよ、私たちのように遠くから来たものにとって、新造のどこにでもありそうな神社に見えようとも、そこに歴史と由緒があり、その重みを見逃してはならないのである。 それが歴史の尊さというものだ。
これも平安時代の創建と推定される常陸国総社宮には、「大国主命」らの天神地祇六柱の祭神が合祀されている、という。 多くの神社の祭神を一か所に集めてまつったので、だから総社といわれる。 国府のあるこの土地に建てられたのは、新任の国司が国内の諸社を参拝するのに便宜をはかったからだといわれているが、それ以来、この地で支配者から篤い尊崇をうけてきた。 私たちはここでも神々に挨拶をした。
2 寺院を歩
神社と別個に語りたくないが、すでに寺院は神社と別のところにある、という考えは明治以後、定着してしまった。 ここでは国分寺のことから語ろう。 石岡市には、巨大な国分寺があったことが知られている。 ここには七世紀の大化改新の頃、常陸国十一郡を治める常陸国衙(こくが)が置かれていたが、奈良時代になって、国分寺、国分尼寺がおかれたのである。 寺域は東西、南北とも約三〇〇米で、全国の国分寺の中でも大きく、山門の手前に七重塔の心礎がおかれており、百メートル近くの塔が建っていたことがわかる。 中門、金堂、講堂、回廊などの磁石もよく残されており、ここが「常陸の国」の仏教の中心地として人々の通うところであった。 今建っている薬師堂や山(門などは明治時代以降の再建であるが、いずれかは昔どおりの国分寺の甍が立ち並ぶことを期待したい。
「関東の清水寺」と呼ばれる西光院本堂からの、関東平野の眺望もまた忘れ難いものであった。 断崖上に組まれた脚高十一米の懸造の構造をもつこの西光院は平安初期の大同二年(八〇七)、徳一法師の開基と言われる。 会津で活躍した徳一法師がこの地に過ごしていたのである。 現在の建物は寛政三年(一七九一)の再建であるが、このような山の中腹にお寺を建てること自体、自然信仰とともにある神仏融合の境地がよく理解される。 寺には高さ五,九米、腕の一部を除いて一木造り、木造『立木観音菩薩像』があり、頭でっかちのずんどうの像でナイーヴな姿であるものの、ある種の力強さもあって感動した(二つ星)。 この十一面観音像はもともと山麓にあった立木山長谷寺高照院の本尊と言われるが、ハルニレ材を使ったこの仏像は、神の木そのものを仏像にしたようで、神仏融合の形はここでも表れている。
西明寺は常陸の国に入る手前の栃木県の益子にある。 ここは天平九年(七三七)という古い年代に行基によって草創され、天平十一年(七三九)に紀有麻呂が堂宇を建てたという。 桓武天皇の延暦年間にすでに十二坊も数えて隆盛し、大治二年(一一二七)に兵火に見舞われるまで二二〇年間、それを保ったとされる。 再建されたのは治承二年(一一七八)で承元三年(一二〇九)には宇都宮景房によって本堂が再興され、建長七年(一二五六)には七堂伽藍が壮麗を極めたそうな。
その後正平六年(一三五一)にまた兵火を受けたが応永元年(一三九四)に益子勝直によって堂宇が再建された。 今日残っているもともとの建物は、楼門(明応元年一四九二)と三重塔(天文十二年一五四三)などである。 三重塔は益子家宗が建立したもので、初層と二層が和様で、三層が唐様となっている。 これを関東甲信越の四古塔のひとつとして知られている。
しかし何といって見どころは、鎌倉時代の仏像群で、内陣には弘長元年(一二六一)に造られた木造『千手観音立像』があり、木札六枚が納入され、そこにはその年より寛政十二年(一八〇〇)までの修理を記録している。 この像は洗練された慶派の力強さを持っており、次に見る楞厳寺(りょうごんじ)の仏像との関連がある、と思われる(三ツ星)。 そこの『千手観音立像』の引きしまった造りが似ており、それらが京都の蓮華王院(三十三間堂)の湛慶一派の千体仏の『千手観音像』と基本的に似ているのである。 つまりこの西明寺が建長七年(一二五六)には七堂伽藍が再建されたとき、すでに建長四年(一二五二年)に来ていた慶派が、これらを造ったのではないか、と推測させる。
木造『千手観音坐像』は同じ坐像で、三十三間堂の主仏を小さくしたと思わせるものだ。 とくに頭上の十一面の配置や表情も似ており、小さいながらも丹念な造作となっている。 湛慶が造ったとは思われないにせよ、その一派が来たと考えられる(三つ星)。 『馬頭観音立像』の表情は三十三間堂の『阿修羅像』と類似しており、異なるのは三面がない、ということだけのようにさえ見える(三ツ星)。 『如意輪観音像』もよい出来栄えで、平安時代の官能性はないが、動きも自然である(三ツ星)。
老人保健施設の方に一像だけおいてある『聖観音菩薩』はすっきりとした像で、その表皇の清楚さは印象的である(四つ星)。 「看清坊」と名づけられたこの施設の食堂に置かれていたが、ここの寺の僧侶である田中雅博氏は同時に医者でもあり、このような貴重な仏像を、老人の方々に日頃からお見せになっていることに、仏像の本当の意味を理解された仏心(ほとけごころ)を感じさせるが、しかし日本文化の豊穣さを無視する無粋な戦後を過ごしてきた方々に、この「美」を見つめる心があるだろうか。あったら嬉しいのだが。
楞厳寺(りょうごんじ)でも、主として鎌倉時代の質の高い仏像を見ることが出来た。 この寺の本尊の『千手観音』像(像高二米七糎)で、建長四年(一二五二年)笠間時朝がに寄進したものである。 像の背面に銘があり、その年代もわかる。 時朝は『新和歌集』の歌人としても知られ、藤原定家ら当時一流の歌人たちと交流している。 室町時代につくられた山門から入ると、この時朝の墓がこの寺院の中ほどの右手にあり、そこには十八基の五輪塔が並んでいる。 片庭には八幡神社がある。
この『千手観音』像の頭の十一面も千手もよく残っている。修理をしたものであろう。 襞も技巧的であるが、顔はひきしまっており、慶派の系統を引いていることがわかる(三つ星)。 実際、時朝は京都の蓮華王院(三十三間堂)の千体仏のなかの二体を寄進しており、西明寺と同じように、そこで活躍した湛慶の一派がここにもやって来た可能性がある。 山形県の寒河江、慈恩寺の大日如来坐像などを寄進しており、その寺の十二神将像は、明らかに慶派の秀作である。 同じ時朝が、地元への寄進仏として、岩谷寺の『薬師如来像』(建長五年の銘あり)があり(三ツ星)、それも慶派の像と考えられる。
3 親鸞と出会う
石岡の板敷山大覚寺を訪れた。ここは「親鸞聖人法難の遺跡」と呼ばれるところである。 その寺には山伏弁円の「懺悔の像」と、親鸞聖人の「御満足の像」があった。 一方は山伏らしく腰掛けており、聖人の方は数珠をもち座っている。 鎌倉時代以来、頂相彫刻は日本美術史上で確立した肖像彫刻のジャンルであるが、その伝統の上にのっているしっかりとした彫刻である。 しかし弁円像の方は傷みが激しいので修復を要する(二つ星)。
親鸞は流罪にあった越後から、妻子とともに、この常陸の笠間郡の稲田にやってきた。 親鸞四十四、五才の時である。 この稲田に草庵を結び、以後二〇年間近く、ここで自己の信仰を体系的に論じるべく、『教行信証』の執筆に心血を注ぎ、同時に粘り強く関東一円に伝道するに至ったという。
この稲田に弁円という山伏が勢力をもっていた。 山伏とは修験道の「行者」とを言うが、修験道というのは古来の山岳信仰に神道、密教、陰陽道などが混じり形成された「行」であり、山林で修行し、霊験を得ようとするものであった。 山伏はその霊験によって加持祈祷し、病気を治したり、災害を消滅する存在であると信じてきた。 親鸞が念仏の教えを説くようになると、次第に弁円の信者が減っていった。 弁円は親鸞を憎むようになる。 流罪にあった親鸞を殺そうと三十数人の弟子とともにこの場所で待ち伏せたという。
弁円が剣をもって荒れ狂っているのに対し、その前にあらわれた親鸞の姿は、数珠だけもって平然としている。 しかもその顔は険しくない。親しみをこめてさえいる。 親鸞にしてみれば、弁円は阿弥陀仏が最も救おうとしている人間として映っていたのである。 敵があらわれたのではなく、罪深い自分の仲間が現れたと見たのだ。 弁円は「祈祷によって現世利益をえられる」と考え、親鸞は「現世利益」はえられない、とし、「現世利益」などを考える事自体、罪深い存在であるとした。 そして二人は、ともに仏に救われる存在である、と考えたのである。 それで弁円は殺意を失ってしまい、かえって門弟となった。
親鸞を紹介する書では、むろんこうして親鸞に軍配を上げる。 弁円は自らの非を悔い改め、抜いた刀をおさめた、と。 しかしそうであろうか。共に救われたいというのは同じである。 弁円は「行」によって人々を救おうとする山伏である。一方、親鸞は念仏衆である。 「念仏」によって救われようとしたのだ。弁円といえども、むろん念仏は唱えていたに違いない。 しかしそれは「行」のひとつとしてであっただろう。 一方の親鸞はただ「南無阿弥柁仏」という言葉で祈る。 この言葉により、仏の真理に近づこうとすることに集中させたのである。 ここに大きな違いがある。 言葉を信じる、というインテリの親鸞と、行で行おうとする古い弁円との違いである。 弁円は詠んだ。
《山も山道も昔にかわらねど かわりはてたる我がこころかな》と。
これを宗教学者に言わせれば、親鸞の方が進んだ宗教の徒と見るであろう。 しかし双方とも必ずしも救われるとは限らないのは同じである。 かえって弁円の方が、「行」で苦労しているだけに、本当の宗教的行為といえるかもしれないのである。
私は『国民の芸術』(扶桑社)で次のように書いたことがある。
《阿弥陀信仰は、原始仏教からどれほど変容したかを明確にしている。 仏陀(釈迦)は個人の努力で救いを得なければならないと説いた。 しかし浄土教の教えは、あの世からの仏陀の助力により救われるのだ、と教えるのである。 阿弥陀の信仰は、修行生活さえ捨てる。自力本願から他力本願へ。 このような浄土教が本来の仏教であるといえるだろうか。 「阿弥陀」という存在が、超越的な「神」のような存在になってしまったことを感じざるをえない。 「阿弥陀」は、「無限の光明を持つもの」の意味であり、その「阿弥陀」が人間の形を持ったのが歴史上の仏陀だ、という認識は当然、仏陀より「阿弥陀」の方が上だ、ということにならざるをえない。 仏陀は「阿弥陀」の地上の子であるという認識である。 この考えもまた、キリスト教を思わせるものをもっている。 すなわち、キリストが「神の子」であるということである》。
たしかに親鸞の言葉での救いはキリスト教が、ルターの神への直接の信仰によって救われる、というのに似ている。 教会に通い、僧侶とともに、教会という共同体の中で祈祷を捧げるのではなく、一人で、『聖書』を読んで、自らその言葉の世界に入り、そこで神と出会おうとする。 みずから描いた神と神の子、キリストに出会うのである。 プロテスタントの優越を論じたヘーゲルもマックス・ウエーバーもそうした言葉を『新約聖書』に求め、そこに宗教の最高の姿を見ようとする。 「個人宗教」の愛の精神に出会うのである。だが。 カトリックとプロテスタントのどちらが本当の信仰の徒であるか、決して判断がつかないものである。
かえって弁円の行の方が信仰の度合いが強かったかもしれない、とさえ感じられる、ただ親鸞の言葉の救いが、経典を読むことではなく、ひたすら念仏を唱えることと共に、その熱心な布教活動にあった、という点で弁円の「行」に近づき、そしてそれを「専修念仏」で越えたのだ、と感じさせたのだ、と思わせる。 その共感こそが親鸞の原動力となったのだろう。 怒り狂う弁円をにこやかに迎えた親鸞には、弁円の行への否定はなかったのである。
親鸞はもともと言葉の人である。 つまり比叡山で修行する学僧であった。 仏教を学ぶということは仏典を読むこと、すなわち知識僧であった。 もともと宗教という信仰の道はインテリである必要はない。 しかし仏典というものが、日本には中国語訳でインドから来ており、その漢語を読むことにより、言語そのものに対する頭の作業を必要とした。 比叡山の最澄も高野山の空海も留学することによって、日本に仏教を修得したが、それは漢籍を読むことを基礎としていた。 外国の言葉を読むという日本の知識人の典型であったのだ。 親鸞も比叡山に入り、『法華経』を中心に外国語文献の読書に励んだのである。
しかし親鸞はその過程で、先覚「聖徳太子」に出会っている。 比叡山で九年修行を積んだ親鸞は、河内国磯長にある「聖徳太子廟」を参詣し、お籠りをした。 そして夢の中に「聖徳太子」が現れ、彼の寿命があと十数年に過ぎないと告げられたという。 このお告げは示唆的である。 つまり外国人の言葉の経典を読むより、日本人の「聖徳太子」の教えを体得し、そして布教という行為に向かうべきだ、と悟ったのである。 比叡山にいれば、低い位の堂僧としてただ修行に励むだけの存在に過ぎなかった。
日本で仏教がなぜ、神道を基礎とした日本で広まり、キリスト教が広まらないか、という点は、仏典というもの、釈迦の生涯といったものが、金科玉条のものとして、読まれなかったことにある。 つまり釈迦の言葉への信仰ではなかった、という点である。
キリスト教は『聖書』の言葉を絶対のものとする言葉の宗教である。 《はじめに言葉ありき》と『新約聖書』(ヨハネ伝一章)にあるように、神の言葉はそれ自体、神となった。 日本人はそうした言葉を絶対視することが出来なかったのである。 神の存在は信仰しても、その言葉は信用できるとは限らない。 神道は言葉よりも、その神々の姿、それらの霊を信じさせるのであり、決して経典的言葉をつくらせなかった。 そんなものを作っても嘘になる、と考えたからである。 一方で、仏像は造った。 それは言葉を発しないからである。
それで親鸞が、言葉を最小にした念仏衆となったのも理解出来る。 「南無阿弥陀仏」という言葉は、すでに言葉ではない。 仏からの呼び声であり、自らの叫びである。 それは言葉を発しない仏像に似ている。
親鸞は越後を出ると信濃の善光寺に参り、碓氷峠を越えて上野の国(群馬県)に入った。 佐貫にさしかかったとき、飢饉にッ苦しむ人々の惨状を見て、自分の無力さを悟る。 生き倒れや死体の山、物乞いが親鸞にすがってきたが、ひたすら経典を読む、自分の姿に、自力という姿の悲しさを感じざるをえなかった。 これらの人々のために『無量寿経』『阿弥陀経』等々を読経しても、何の助けになろう。 現実に対しては言葉は何も役に立たないことを悟らざるをえなかった。
仏教史上最初の妻帯者となった親鸞だが、その妻が次のような手紙を書いている。
《ふして二日と申日より、大きょうを、よむ事ひまなし、たまたま目をふさげば、きょうの、もんじの一字ものこらず、きららかにつぶさにみゆる也。 ・・人のしうしんじりきのしんは、よくよくしりよあるべしとおもいなしてのちは、きょうよくことはとどまりぬ》
この恵信尼の書簡によると、寛喜三年(一二三一)年、五十九才の親鸞はある日風邪をひき、夕方には床につき、重体になった。体は火のように熱く、頭痛もひどくなった。四日目の朝、苦しそうに「まはさてあらん」(ああそうか)と言ったので、なぜかと問うたら、すでに二日目から大経(『無量寿経』)を読んでおり、目を閉じると経文の一字一字が思いだされていた。一七,八年前、佐貫で念仏の他、何も必要がないと『三部経』を読むことをやめたのに、まだ自力執心(自力に執着する心)が残っていたのである。それが未だに「われが、おれが」という自我が残っている。他力を説きながら、まだ自力に走る自分が残っている、それを懺悔しているのである。懺悔しつつそんな自分を救ってくれる仏の力を感じている、というのである。(これも最終的には、ありのままの自分を認める、その精神が表れている、ということなのだ)。
その言葉による救いは『教行信証』に結晶している。 この本は流されていた越後でその構想をもっていたが、五十二才頃、常陸で書き始めたものである。 七十五才頃に完成した、というが九〇才、死の直前まで手元におき手を入れていた大著である。
私はすでに親鸞が「念仏」を唱えれば他に何も必要がない、と考えたとき、この大著を書く必要がなかった、と考えるものであるが、この自己矛盾をどのように説明しているか、それが私のこの名著の読み方のひとつであった。
この書の「行巻」では、「人間は何をすべきか」を問い、ひたすら念仏をとなえることが真実の行為であり、それ以外の行う必要がない、とする。 この巻の終わりに、真宗門徒に親しまれてきた、いわゆる「正信偈(せいしんげ)」が付されているが、格調の高さと韻律の美しさで有名である。 つまり『教行信証』では必要のないことに、悟りを見出したことの喜びの文章なのだ。
私はこの「常陸」という名前が、「常世の国」という意味から来ている、ということをこの『風土記』を読んで知ったとき、ああこれで、なぜ親鸞が、専修念仏をこの地で固めたか、わかった気がした。 この世が浄土ならぬ「常世」であれば、そこで何を求めよう。 この世が「常世の国」であれば、「浄土」や「阿弥陀仏」を言葉で求めなくとも、この世を肯定できるではないか。 妻帯し、九十まで生きる親鸞にとって、基本的な生き方は、この「常世の国」に生きることであったのである。 言葉はあくまで最小限でよい。 むろん「念仏」することは師の法然から学んだことである。 しかしそれを実感したのは、おそらくこの常陸であったと思われる。
「悪人正機」が有名である。 《善人なをもて往生をとく。いわんや悪人をや。 しかるを、世のひとつねにいわく、悪人なお往生す。いかにいわんや善人をやと。 この条、一旦そのいわれあるにたれども、本願他力の意趣にそむけり。 そのゆえは、自力作善のひとは、ひとえに他力をたのむこころかけたるあいだ、弥陀の本願にあらず。 しかれども、自力のこころひるがえして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり》。
この文章は善人の虚偽を語っている、と言われる。 阿弥陀仏はどうしようもない悪人を救おうとなさって本願を立ててくださったのだから、自分がどうしようもない人間だと気づく人こそが、正しい救いの機会をもった人間であるというのである。
しかしこの文章はおかしいのは、「悪人」とは何か、「善人」とは何か、何も内容のことを語っていない。 「善」とか「悪」とか、言葉が創造するものであることに気づかねばならない。 「悪人」は父親を殺し、母親を殺し、阿羅漢を殺す、仏の身体を傷つける、教団の和合を乱す、その「五逆」とするが、それを犯したものでさえ、救いを受けられるというのだから、仏の慈悲は無限である、という意味になる。 私はここに言葉の遊び、言葉の創造の世界がある、と思う。 つまり現実にかんがえられないことを極端に言っておいて、それを否定して見せる。 これはいつもの西洋の「二項対立」のレトリックの類を感じさせるのである。 こうした言葉のレトリックを知っていた故に、親鸞はあくまでただ念仏を唱える、という解決法に出た、と考える他はない。
私はこの大覚寺を訪れながら、そのようなことを考えた。 それはこのお寺に「裏見無しの庭」という池泉回遊式庭園があったからである。 それは「親鸞法難の地」とされている寺自身の暗い記憶とは対照的な平和な空間であった。 真冬の庭園であったから、「わび」とか「さび」を感じさせる様子であったが、そこは桂離宮を模したといわれる造園であった。 日本では庭は自然の模倣であり、そこには「常世の国」を造り出そうという意志があったのである。 つまり「常世の国」の庭園ほど、日本の庭園にふさわしいものはなかったのである。 それは言葉の世界と異なる形の世界であったし、日本人が縄文の時代から持っていた自然というもののありのままの世界であったからだ。
おわりに 美術館を訪れる
こうした長い歴史の足跡がみられる、各地の神社、仏閣を訪れて、そのひとつひとつの事跡をたどる醍醐味は、歴史紀行を書く楽しみとなる。 私たちは「美」があるというので「美術館」、すなわち笠間日動美術館にも立ち寄った。 もともとここの藩医であった長谷川家が子孫の代になって美術に関心を抱き、「近代美術」の作品を集めるようになって、銀座の日動画廊を営むようになったという。 和洋の近代画を集め、日本でも有数の画商である。 知名画家のパレットを集めたり、自画像に着目したり、特色を出そうとしている。
私は世界の美術館をほとんど廻っているので、珍しいとは思わないが、しかしこのような土地で、西洋印象派や現代美術まで三千点にもおよぶ美術館がある、などというのも日本だけの珍しいことだと思う。 この土地で誕生し、物故したりした芸術家の美術館なら外国でも見ることが多いが、土地とは関係のない作品が、このような大都市から離れた場所にあるのも意外性があることである。 アメリカの地方都市にもこの種の美術館はあることはあるが、アメリカの場合は「西洋近代絵画」も彼らの祖先の歴史的な創造物である。 しかし日本の「近代美術」は必ずしもそうではない。 戦後という時代が、日本の歴史というものを忘れさせ、欧米の「近代」にアメリカ人同様、とりつくよう、仕向けられたひとつの証拠と言ってよいであろう。
ここで集められた作品を見ても、歴史を断ち切った主題の、出来るだけ「近代」を表そうとした作品であることがわかる。 それは色と線のみで、官能性やら、抽象性をねらったものであるが、名のある作家のものが多い。 この美術館に集められた作家は、少なくとも何点かは、その筆致の中に真実性をもったものがある。 その作品の作家が有名である、というのも故なきことではない。 ただ専門家には、その先端性が理解されても、ふつうの観客にとっては、有名画家の作品、というだけのことである。 この美術館も有名画家の小品ばかりの美術館、と映るであろう。 専門家には面白いと言ったのは、有名作家でも、こんな程度のものもあったか、という印象をあたえるという意味である。 有名作家でも皆すぐれた(星がつけられる)作品でありるわけではない。
この美術館で注目したのは藤田嗣治の『家族』という作品である。 これは一九二三年の作品というから、「エコル・ド・パリ」の作家として活躍した時代のもので、ふつう『室内、妻と私自身』という題される自画像である(二つ星)。 トレードマークの丸い眼鏡と鼻髭を生やした藤田と、その頃の妻フェルナンド・バリと共にいる場面だが、二人の上に十字架が描かれ、彼らがキリスト教で結ばれていることを示している。
周知のとおり、戦後、藤田はレオナ―ル・フジタと名を変え、フランスに永住した。 それと共に、彼は洗礼を受け、キリスト教徒になっている。 晩年のノートル・ダム-・デ・ラペ礼拝堂でキリストの生涯の壁画を描いたことでも知られる。 日本で戦争に協力した、という非難を浴び、フランスに渡った、と言われるが、彼はキリスト教徒になるために、フランスに渡った、という動機もある。
彼には十字架を描き込んだ絵は他にもある。 また一九二七年に『受胎告知、十字架降下、三王礼拝』(ひろしま美術館)という作品があり、この時代の作家としては珍しく宗教主題をまともに描いている。 これは「近代」西洋画家では考えられないことである。 こうしたまともな宗教主題の絵は、すでに十七世紀で終焉し、まるで十五世紀の宗教画のコピーのような絵は、おそらくキリスト教の国ではなかった日本の画家によってしか描けない、時代離れした作品といってよい。 ジョルジュ・ルオーなども宗教画を描いたが、しかしそれはかっての宗教画とは縁遠い粗っぽい筆致の象徴主義的絵画となっている。
フランスでこそ、彼はキリスト教的な絵画を描くことができたが、しかしその面は、西洋ではほとんど評価されていない。 晩年のノートル・ダム-・デ・ラペ礼拝堂の技巧的、装飾的な宗教画は、カトリック教徒には評価されても、美術評論家には人工的である、という評価が一般である。
私はここにフジタの悲劇を見る。 それは日本人的な筆致で「エコル・ド・パリ」で活躍し、日本人ということでその存在価値をもっていた戦前のパリの藤田が、一方でキリスト教徒であったことは、ある矛盾を抱え込まざるをえない。 しかし一方でヨーロッパという風土の中では、ある必然のことであったのだ。 そこに生きている限りは、彼らの思考方法に従わざるをえないからである。 彼が戦前に帰国し、日本人の画家として、『秋田の祭り』とか戦争画を描いたのは、まさに日本人へ回帰した象徴図であったといえる。 ここには日本人としての共同体の意識が、その筆致の強さを支えていた。
しかし戦後、日本を離れて、フランスに定住したとき、フランス人になるためにキリスト教徒として洗礼を受け、そこにアイデンティティ―を求めたとき、その表現方法と、齟齬をきたすことになった。 肉体が日本人でありながら、つまりそこから出てくる筆致が日本人の手でありながら、精神がヨーロッパ人にならなくてはならない、その矛盾である。
海外に長く体験する日本人の通弊であるが、ただ肉体を西洋人に近付けても、それ以上は、どうにもならないということである。 いくら似せても顔も体も表面的に異なるだけではない。 精神的にいくら努力しようと、風土や生活からくる精神性の差異は如何ともし難い。 藤田がフジタになったときの連続性と、変化の齟齬が、そこに表現の人工性をもたらした、と考えるのは単純過ぎる思考であろうか。 もうひとつ、すでに死語化したキリスト教的言辞を、現代絵画に表現せざるをえなかった日本人の必死な思いもまた、芸術家フジタにとって悲劇の根源となっていたはすである。
美術館から二キロのところに、ここの美術館長であった長谷川仁氏が建てたという「芸術の村」があり、茅葺入母屋造りの江戸時代の民家がある。 これは昭和のはじめに北大路魯山人が北鎌倉・山崎の地で自らの住居としていたものを移築したのだという。 魯山人が藤田ほどの芸術家であるとは思えないが、しかし自己のアイデンティティ―を貫いた「近代」日本人芸術家であったことは間違いない。 しかし藤田は、西洋に飛躍し、悲劇の中で、魯山人の小さい趣味人的な日本人の世界よりも、その実験性において、はるかに広い世界を提示した、と思わせる。 それが私の胸を打つ。