「やまと・ごころ」という宗教

日本人は、君は何の宗教をもっているか、と聞かれると、たじろいで自分が無宗教でないか、と考えてしまう。また多少とでも宗教をもっている人々でも、そのあいまいさに自分が本当にその宗教の信者である、とは思っていない。

ところが世界を見ると、日本以外は、みな宗教をもっている、ということは常識である。西洋人はキリスト教徒だし、中東の人々はイスラム教徒である。たしかに新聞やテレビの報道では、宗教界のことなどは、特殊なあつかいで、精々法王がどこかに訪問された、とか、宗教界のスキャンダルをあつかうだけで、あまり報道はされていない。それで外国でも、あたかも宗教などは大きな問題ではない、と日本人は思わされている。

しかし事態は逆なのである。アメリカが戦争をやっているアフガニスタンも、イラクも、まさに9・11テロ以後起きた宗教戦争であるし、イスラエル・パレスティナの長く続く戦争もユダヤ教徒とイスラム教徒の戦いと言ってよい。実をいえば、紛争があるところ、すべてが宗教が多かれ少なかれ関わっているのである。

オバマ大統領が宗教と無関係のように報道されているが、ケネディ大統領と異なるのは自分がキリスト教徒であることを公言している点である。自分がイスラム教徒ではないか、という疑念を打ち消すため、という人もいるが、そうではない。大統領が、自分の宗教を公言する意味は決して小さくない。

ソ連が国としてあった頃、冷戦ということはマルクス主義と自由主義というイデオロギーの戦いのように見えたが、じつをいえば無宗教者とキリスト教徒の戦いで、前者が後者に敗北したのだ、と言ってよい。マルクスは「宗教は阿片だ」と言っていたのである。

社会主義国が消滅したのが、無宗教の国であったから、という事実により、日本のことが気にかかる。自殺が多い国が、旧社会主義国や、数字に表れないが、中国や北朝鮮であることは指摘されている。日本はそれらの国に次いで率として多いのである。

日本が無宗教の国、とされたのは、戦後である。私は自分の専門として西洋研究をしている関係で、キリスト教をよく知ることとなったが、私自身決してキリスト教徒にはならなかった。といって自分が無宗教である、とは感じなかった。それは日本人が戦後の占領軍支配による懸命なキリスト教化にも拘らず、まだ二%にも達していないことを説明するようである。

自分は一体何の宗教をもっているのか。考えてみれば仏寺の除夜の鐘を聞いた後、新年には神社に初詣をするし、クリスマスもお祝いをしてきた。つまり神仏キリスト教混交のように見える。葬式は仏式だが、神社のお祭りには参加する。

次第に私の中には自然に驚異を感じる自然信仰、祖先を敬う御霊信仰、そして天皇を大事にする皇祖霊信仰が自然に備わっているのを感じた。私はそのことを「やまとごころ」の宗教である、と考えるようになった。「山」に自然と祖先の霊を見、神話の天皇の祖先の神々を感じる信仰である。それは既成の宗教を超えた伝統的な心の在り方なのである。基本は神道であるが、神道に経典がないように決して文字言語で書かれることが出来ない、信仰心なのである。ある意味でそれは縄文時代からある、と考えてよい日本人に深く根づいた心の構造といってよい(拙著『「やまとごころ」とは何か』(ミネルヴァ書房)を参照されたい)。