セザンヌ論――「近・現代」の虚構 

はじめに

セザンヌの絵画は、絵画市場では、大きな作品で、一点、すべて千万ドル(十億円)を越えており、すでに「近代美術の祖」としての揺るがない商業的位置を占めているかに見える。しかし、商業的位置と、芸術史上の価値とはひとしいものではない。私がこれから述べる「セザンヌ論」は、その商業的価値を一層高めるための、彼の絵画へのオマージュや紹介の類ではない。

セザンヌについて「語る」ということは、一般の美術史家が、いつどこでその作品を描いたか、などということではない。それは「説明する」ことであって、作家「カタログ」で行うことである。価値が定まっているかのように、賞賛の念をこめて「語る」のでなく、相対化して「語る」ことでなければ、その「描く」絵画と拮抗する「語る」の関係にならない。そして彼を「近代画家」というのなら、私たち自身が、「近代」という言葉を吟味しなければならない。虚構の言語には「語る」ものとして、対峙しなければならないのである。そしてセザンヌのその「近代絵画」の評価には、日本絵画が「ジャポニスム」の形で、深く関与していることは確実である。このことがからも、日本人の私はセザンヌ論を書かざるをえないのだ。

この「語り」は、私が東北大学時代に、西洋美術史の各論という講義のテープ録音を、友人が起こしてくれたものに手を入れたものである。饒舌をいとわず、ここに収録したのも、セザンヌを「語らなくてはならない」という日本人の立場があるからである。

1「近代美術の祖」とは何か

「セザンヌ問題」というのは結局、ヨーロッパの「近代美術」を語る上で基本的なものであって、何といってもその「近代美術」の解明が中心におかれなければならない。この画家について検討することは、「近代」ヨーロッパ美術をどう捉えるか、あるいは現代人のあり方についても、非常に興味ある諸点を開示するものとなっている。

セザンヌ論では、まず「近代」以前の画家達の芸術から、この画家がどのように抜け出したか、という西洋美術史の基本的なあり方が検討されなければならない。つまり我々は、ジョルジュ・バタイユによ拠るまでも無く、「近代」とは何かということをセザンヌによって知ることになる、と言うことだ。我々が今生きている「近代」とは何なのかと知らざるをえない、ということである。これはまた、セザンヌの表現したものを、形の上で分析することであって、その手紙などの言説から類推するものではない、ということだ。表現されたものと表現しようとしたものの差異を知ることでもあり、それが、形象と言説の乖離、分裂という問題にも逢着することでもある。

我々のこの「近代」という時代は、フランス革命によって理念化された「自由、平等」ということ、所謂「市民主義」が重要な「近代」社会の構成要素と認識させられている。しかし「自由、平等」と言うともともと矛盾する概念だが、両方を獲得したいと願望する「大衆社会」の登場が前提にある。つまり人口増加に伴う、コントロールの聞かない市民層の増大という、マッスの社会の現出が背景にあるのだ。「近代」と言うのは何かと云うと、基本的に「自由」とか「平等」を基本にした「大衆社会」という前提があるのだ。つまりそれらを大多数の人々が共有しなければならないので、お互いに価値の多様性を認める事態となる。その「多様性」というものは、結局、「相対化・相対性」に求めており、そこに「前近代」的な宗教や神話、そして物語性といった絶対的な表現を捨てていく、という現象になって現れることになる。つまり私はこう信じるけれども、あなたはあの様に信じて、それはお互いに認め合うという精神が、あらゆる自己主張の相対化を導く。対象の主観的意味合いを奪った表現にしていくということになる。「自由、平等」などという「近代」は、実をいえば、人々が、空虚な時代、ニヒリスムを引きうけることといってもよい。

「近代」の「美術館」と云うものは、これまでの宗教あるいは神話など、共同体(国家、教会、寺院など)、一つの権威とか権力にもとづく、社会的な価値観から生まれた美術作品を、美術表現でない時代の政治的、宗教的な部分を一挙に剥ぎ取って、芸術というその固有の表現の地平に、すべてを統一していく空間となっている。美術館という一つの空間、一つの平等空間ということになるが、それまでの価値を剥ぎ取ったことは、芸術の純粋性を露わにさせるようになった。それまで教会とか寺院、宮殿にあったある種の権威を包含する社会的な価値を剥ぎ取って、芸術価値、美術価値というものを際立たせたのである。だから美術館の思想と云うものは、相対主義で多様性を認める代わりに、時代別にしながらも、芸術価値というだけで並べるという作為が必要になった。そのことが、当然それが美術史という学問を生み出す原動力になったことは理解し易い。一九世紀に美術史学が誕生したのも美術館の発生と軌を一にしているのである。これまでは、宗教史でよかったし、。あるいは社会史でよかった。しかしここに初めて美術館から美術史学が生まれてくることが要件であった。

ちなみに日本では、それが徹底せず、相変わらず、政治史、社会史、宗教史に追随する美術史になっている。最近の辻惟雄氏の『日本美術の歴史』(東大出版会)もまた、幕府の変遷で美術史をくくっている。そこには政治史、社会史、宗教史にそった美術である、という意識が濃厚となる。「ア二ミスム」とか「かざり」とか、芸術の自立性を無視した評価軸を設定しているのである。芸術価値という問題意識が無いと、自立した芸術の歴史が生まれてこない。そこには国家、寺院、宮廷社会といった社会的な価値観が優先し、芸術的価値がそれに隷属するという考えしか生まれない。

西洋美術史では、勿論ギリシアの寺院を含めてキリスト教会あるいは宮殿、これは王政の権威といったものが、剥ぎ取られているが、日本美術史では、まだその力が芸術の力を引きずっている、という観念が強いのだ。しかし事実は異なる。そのことは、日本人の学者にまだまだ、芸術的価値を判断する世界的視野の欠けている、という他ない。ルイ十四世が描かれていればそれだけでもう立派だという価値観がそこにあることになる。ルーヴル美術館が始まった一七九三年からの「近代」の洗礼を受けていない。ただ私は、この「近代」がいい、と言いたいわけではない。美術に対する態度として、その認識方法が、逆に「近代以前」を評価する上でも正しい視点だから言っているのである。

日本では美術自身は、すでに「近代」が江戸時代で到達しているのに、それを学問する美術史学の方は、未だにそれに伴った方法論をもっていない。つまらぬ「唯物史観」の範疇にいるのである。それ故に美術「様式」も自立して見られず、「日本の「古典」美術という価値観から始まる歴史変化も見にくい。セザンヌ評価も、日本では、十全に出来ないのも、その不徹底故である。

2 セザンヌ問題とは何か

そこで、セザンヌという画家の問題にも入る訳であるが、セザンヌの絵の「近代絵画」と言うことは、美術価値だけが問題にされることを、『オーヴェールの首吊りの家』(一八七四年)以降、社会的、宗教的あるいは国家的な価値を剥ぎ取った世界が、自分の世界である、という認識のことである。それがやはり「大衆社会」あるいは「平等化した市民主義」の社会の価値感になっている、という思考に基づいている。それは人間一人ひとりの生き方がばらばらであるから、結局人間の一人ひとりはあなたの意見も認める、彼の意見も認める。それもいい、あれもいい、と云うことで、一人ひとりの中で意見を主張するのが間違いである、つまり、セザンヌはそこに相対化した形しか描かないと言う事だ、という意味になる。もし意味のある形を描いてしまうと、それは新しい形ではない。そうしてしまうと自分というのが失われてしまう。

あらゆるものが平等にみえる。あらゆるものがあっちもいい、こっちもいい、という相対主義が「近代」なのだ。学校で「平等」が教える「民主主義」教育は、何かというと、「共産主義」思想もよろしい、「自由主義」思想もよろしい、どんな考え方もよろしい。しかしあらゆる思想は相対的である、ということになる。それに対して、「王」を支持しなければいけない、ということに対して「近代」があるだけではない。

今や、それが「総統」であったり、「主席」であったり、「大統領」や「首相」であったり、それら「権力」そのものがよくない、それこそ否定されるべきだ、とすることによって、「民主主義」、「グローバリスム」「地球人間」が対峙されていかざるをえない。「専制主義」「ファッシズム」「共産主義」は、「市民」を強制して「自由」を奪う「近代」に逆行するものだ、となるところが、よく考えてみると、「王」以外は、みな「民主主義」「共和主義」によって導かれたものばかりだ。このことは、「民主主義」こそが、「平等」化した社会を装いながら、「不平等」を主導するという、「主義」の矛盾を体現している。特に「社会主義」「共産主義」が「民主主義」の最たるものだ、という信仰が、二十世紀を風靡し、その思想が破綻する経緯があった。ヒットラー、スターリン、毛沢東といういずれも「社会主義」を標榜する独裁者たちである。

「近代」、それは、問題は我われの問題である。つまり、一人の人間は意見を持てなくなることである。相対的に良いと云うことだけが一つの指標になる。相対的に良いということは、結局はその時々の力関係で決まる。つまり人間が一人ひとりが相対化され、結局皆平準化される。皆同じ様な意見になってしまうということになる。つまり相対化され、あの意見もいいしこの意見もいいで、これが判断される時、皆同じ態の考え方になっていかざるを得ない。

昔も同じだったかもしれない。自分は仏教、キリスト教、イスラム教など、それぞれの国、地域の風土、伝統に依拠した一体性が、地域の精神的な共生感を生んでいた。風土や歴史に根づいた思考形態が、共有されていたのである。しかし「近代」となり、「自由」「平等」の社会では、選択の自由の中で、宗教も慣習も、それぞれの住民の選択にまかされた。それぞれ別個の信仰をもつことが可能となり、また持たないことも可能となった。「自由」教育で、宗教も慣習も相対化される中で、存在が希薄になってゆく。その上で、同意見になっていくのである。結果は同じではないか。

そこで芸術に対する一つの問題が出てくる。そのような芸術外的価値の相対化が、芸術自身にも意味の消失の事態をつくり出し、芸術以外の価値が見い出されなくなったのである。芸術が本来、人間、神話、社会、哲学、宗教、あらゆるものの総合としての芸術表現があったのに、それが一九世紀後半以後、美術だけの価値が追及されることになった。十八世紀以前、特に十七世紀以前の西洋美術、日本においては、ほぼ十四世紀以前の美術(日本の方が早く近代的発想の芸術が生まれ始められたた)、それは宗教が基本であり、それに基づいた図像が基本であったが、「近代」になると、静物画とか風景画というものも含めて総合的なものであった芸術が、形と色だけのものになった。

芸術価値だけを追求されるようになったのである。純粋芸術ピュア・アートという単にこれが l’art pour l’artラール・プー・ル・ラール、芸術のための芸術が追及となった。すると美術・絵画に関しては、形と色の問題、二次元性の画面の上の形と色の問題だけになったのである。つまり、それは画家の手腕だけの問題となり、思想は問われなくなった。それが芸術の衰退でなくて何であろう。

そこに意味や物語を排除する。そういうものは他の価値、文学的価値、神話的価値だったりしたが、形だけの問題になる。これが「近代の美術」の基本的な形となったのである。そしてそれをまず追求した最初の人がマネであり、そしてセザンヌであった。

「セザンヌ問題」というのは、それである。衰退を推進することを新機軸だ、と思ったその思想が、セザンヌの筆の強さとなり、手腕の冴えとなったのである。

「近代人」というのは人間として、このつまり表現主体者として、一体どういう風に位置付けられるのか。一人ひとりが相対化されてしまうと、問題は、知識人、教養人が、結局意見なしということになる。彼らが知識が多いだけにその傾向が強くなる。これは問題である。学生だって同じことで、知識人の卵になる人(まあ大学出ただけでは大衆の一人になるだけだが)、しかし少なくても勉強しようとする者は、何かの意見、独自な見解を持つことが良いとされる。、そのために他から色いろな知識を得ようするので、その色いろな知識が、逆に、意見を持たないようにさせてしまうのである。「近代」の人間として、知識吸収すればするほど、そこに凡庸な人間しか現出しないことになる。IT人間がパソコンで、知識をえればえるほど、意見が言えなくなる事態は、すでに「近代」全体が背負っている前提になるのだ。生きるということは結局何かを目指して何かに賭けることなのに、それが不可能になっていく。

もう一つの問題というのは、今「専門化」の問題。これはつまり、相対化をしていくと、またそれぞれのジャンルというものか、小さく細分化していき、それぞれ視野の狭い、専門家をつくり、それが学問に弊害を生みだすことである。これは近代産業の分業化と結びついており、その部分は全体にとって必要だが、部分自身は、全体性を持たないことを、対応している。これは資本主義社会そのものが、部品を生産することによって成り立ち、結局、全体をつくることが、ひとつのところですべて統括出来ないことにも似ている。これは自動車産業から、あらゆる産業製品にわたって、表れてくる現象である。自動車会社が、ひとつのところで、作っている訳ではなく、あらゆる部分が、別なところで作られ、それが組み立て工程で、連結されるだけである。電気関係から、タイヤまで、別の分野から集められる。色んな分野が、分業化され、それぞれの専門が、社会的に云えば分業化されている。たしかに全体は、デザインで完成されるが、個々の部分が積み重なっているに過ぎない。

それはやっぱりラール・プーラールの様に、テクニック・プール・テクニック風に技術が技術を生んで、ますますそれが専門的に展開するということになってくる。技術的エースと同じ様なことがあらゆる分野に出てくるのである。オルテガの言葉を待つまでもなく、各分野の専門家達は大学教授の名を与えられても、自分の専門だけをやっている限り、町工場の職人と同じなのだ、ということになる。他のことを知っているということは余計なことだ、と自覚するようになり、専門外のことを発言すれば、かえって軽蔑される事態を招くようになる。そのこと自体が、学問の衰退であることさえ自覚出来ない。自分の専門だけ。社会科学の先生は社会学の用語で、哲学の先生は哲学だけの難解な言葉で、美術史の先生は美術史だけの専門語で喋り始めて得意になっている、そこにコミュニケーションが生まれない。

というのも、相手が、自分の分野は素人で、引用に値しない、という前提をつくってしまい、それが良くとも枝葉末節な事をあげつらって無視しようとする。結局大学なんて、総合大学といいながらちっとも先生達の間の議論なんか存在しない。あなたはこれの専門家で、運慶なら運慶の専門家で、雪舟なら雪舟の専門家で。そこのところでしか相手を認めない。また同じ美術史でもあるところしか喋れない、という欺瞞的な関係しかないことになる。私の批判しているのは、美術史という学問でも、彫刻や絵画を分けて、そこの部分だけの専門家であると、秘かに自負して、怠惰に陥る、無能力者が多くなるということである。あらゆるところにそういう専門家が出てくると(実際、あらゆる学会がそうなっている)、専門が少しでも違うと、もう喋れない、それが今の本当に大学を停滞させており、魅力のないものにしている。

実際、私が「近代」という問題を私は出せば、すでに「近代」の専門家が、社会学の分野にいて、それは私の分野です、と言い出す。次に哲学分野は哲学者で、文学は文学分野で皆「近代」のことを、材料だけ別であるが、ほぼ同じことを別の言葉でしゃべり出す。いったいお互いの関係は何であるか、不明になっているのである。問題はそのような専門化がもたらす学問の衰退の認識と悲劇の感覚の欠如である。全体のパースペクティブ、全体の総合的な意見と云うものは、誰も述べなくなってしまう。そこに「近代人」の結末がある。

つまり、専門化することによって、そこの知識しかないという事態となり、全体のパースペクティブを誰も持てない。TVなどに出てくる解説者が、何を云うかというと、部分的な知識をひけらかすが、それが全体的な関連の中で、どう動くか何も述べようとしない。従って単に断片的な予想でしかない。しかしそれは彼らだけではない、人間全体もみなそういう断片的な人間になっていく悲劇が「近代」むろん「現代」なのだ。

一方で純粋な専門化を追求すれば追及する程そこからつくり出される表現は分裂せざるをえないものになっていく。表現されるものと現実の乖離がはげしくなっていくが、それに気づかない状況が続くことになる。思想と現実の分裂が著しくなっていく。結局普通の人間まで罠にかかっていくことは、自らが人間性を失っていくことであるのだ。人間はもともと、全体性の中で、生きることを義務づけられていたのである。この分裂した専門化した人間が、狭い思想の中で、生きていくことになる。

だから問題なのだ。セザンヌという人間が、もっと総合的に生きよう、もっと人間というもの本来の姿にもどろうとするのであれば(初期はそうであった)、「近代絵画」も変わっていただろう。しかし、それはもう出来なくなっている状況に気がつかざるをえなかった。あるいは、そうした動きに対する反抗心に目覚めたことが、セザンヌの特色となった。

セザンヌの絵だけ見ていくと、その主題の単純さに驚く。風景画、静物画、肖像画に限られ、あとは裸体画となると、そこには図像学は見当たらない。図像学を拒否しているのである。テオドール・レフをはじめ、そこに図像学を見出そうとする美術史家たちは、みな失敗している。当然である。セザンヌ自身それを拒否しているのであるから。セザンヌの生き方、セザンヌの描き方が、それを拒否することによって、画家の存在理由を見出したのである。このことからいえば、描くことによって、自らを分裂させていくという悲劇を負っている。この芸術家は実を云うと精神分裂あるいは妄想。妄想というのは精神分裂的な人間となっている、と言ってよい。なぜなら描くことは、図像学を含めた総合的なものであるにも関わらず、その正常な感覚を、意図的に失われているのであるから。統合失調症という病状は、セザンヌだけでなく、現代の知識人が、専門家たらんとすることによって陥る一つの病状といってもよい。

3 ゴッホの場合

この疑心暗鬼、つまり自分がしていることと自分の考えている事と分裂してしまうこと。自分の考えていることはもっと大きなはずだ、もっと総合的なはずだ、と知らないはずはない。描いている絵が専門的なものでしかないという悲劇。そういう悲劇がセザンヌひとりの悲劇ではない。「近代絵画」の悲劇なのだ。これは例えばヴァン・ゴッホを見ると、如実に理解できる。 

ゴッホが、精神病を患っていることは知られている。その精神病を癒そうとして、絵画の道に打ち込んだのだ、という解釈もある。しかし、彼は最後まで精神病者であった。自殺で終わる彼の生涯はそれを示している。セザンヌと異なって、この人自身が最初から躁鬱で、鬱病が非常にひどい人である、といえるかもしれない。精神病の病名はかなりいい加減で、一人ひとり皆違うわけで、あまり病名はあてにならないが、やはり、自分の耳を切ったり、人を切ろうとしたり、最後は自殺してしまうのをみると、統合失調症、精神分裂でもあることが推測されるのである。

ゴッホの場合には、その手紙を見ても分かる様に、総合的知識人たらんとしていることは理解出来る。この人は、牧師になろうとしていたし、レンブラントを愛していた。しかし彼の絵は、一八八五年以後、色彩が突然、明るくなって以来、セザンヌ同様、ほとんど図像学を失ってしまう。この人の悲劇というのは正に自殺をしてしまう悲劇だけれども、あまり病状がはっきりしているから、それが絵画そのものから、指摘する批評家はいない。彼の描いた輝く様な太陽の色、黄色、そして緑の純粋な色、正に形と色を追求した近代画家であることは、強調されるが、彼が考えていることと、表現するものの分裂が、その原因であるとも言わない。しかし、彼がその病疾者であることより、私たちには、その方の病状の方が、重要なのである。ゴッホも「近代画家」であるが、セザンヌを論ずるよりもその気質から、説明できることによって、素人の美術愛好家の活躍の場となる。この人の悲劇というのは、明らかな悲劇であるから、ここではこれ以上述べない。

セザンヌの場合は明瞭には見えない悲劇、つまり時代の悲劇である。そのことを見ていくということは、実を云うと私共の陥没の穴をたどっていくことでもある。つまり我々がそうやって生きている訳だから、私のように、こうして大学の教師ずらして美術史学をやっていることが私たちの病状なのである。美術史学者だということで決められて講義をしているが、本当は私はフランス文学をやり、本当は小林秀雄みたいに総合的批評をやりたかった訳だが、しかしそういう時代ではない、と思ってしまう。小林秀雄自身に対しても、彼は素人だと攻撃してしまうのである。

私の小林秀雄を論じたことがある。まず小林の『ゴッホの手紙』『近代絵画』でも、彼の一番ポイントなる仕事が美術に関係していることが重要である、と私は評価した。大体小林秀雄論というのは大体文学関係を論じるものが多いから、彼の主要な仕事は美術に対してであり、人生の一番いい時代は美術批評を行っていることに共感したからだ。しかしそれを私は評価したものの、その批判した内容は、何かというとその批評が、素人的である、ということなのだ。端的に私の考えていたように「近代絵画」を批判していると思っていたからである。彼は「近代」の空虚を論じたのではなかった。かえって「近代」の中の個々の作家の営みに感情移入していた。

それで小林の絵画論を否定的に見てしまったのである。例えばレンブラント論を彼が語る時に、それは自分の眼で見たレンブラント論ではない、と私は書いた。実際彼が見た昭和二十八年の『夜警』は、修復され洗浄されて、明るい色をしているはずである。ところがその絵を洗浄される前の暗い絵だと書いている。つまり、これは暗い絵を掲げた本を読んで書いているということになる。これではやはり人の本を読んで書いているくのは素人だと。そういう批評の仕方をした。それはある意味で、私が美術の本のことを知っている、専門家の立場から、書いたことなのだ。小林は、実際洗浄された絵の前で考えたことではない、と述べた。しかし小林は、ゴッホの最晩年の『烏の飛ぶ麦畠』を、複製から見ており、それを公言してはばからない。彼のランボー像も、神田のランボーであっても、パリのランボーではない。それを小林は最初から知っている。世代としても、フランスに行っていつでも見ることが出来る時代ではなかった。そんなことを小林に批判していても、仕方がないではないか。私自身もそう思った。

しかも、その態度は、私が専門家、ということを誇示しているように見える。確かに現在は専門的にやらないと言葉を発せられない。つまり専門的に考察しないと対象を理解することが出来ない時代ではないか。しかし私のその態度こそが「近代」の虚妄を表しており、小林が「近代」を総合的に受け入れようとしていたことが、まともな態度で、私の批判点など瑕瑾に過ぎないのではないか。確かに私が「近代以前」を評価し過ぎることによることなのかもしれない。小林に「近代以前」の美術史を勉強せよ、ということは、おこがましいこと、と人は言うであろう。

だから私は美術史の専門家になっているし、誰よりも専門を徹底的にやる主義であるから、仕方がないことかもしれない。しかし全体的・総合的な世界観・社会観を目指すことは、「近代」でも可能ではないか、という思いは、「近代以前」に思いを寄せることを必要とさせる。美術史という視覚を中心とする研究は、文書研究よりも容易であるし、全体も見通せる。総合的な世界観・社会観をその中で、見通すことも可能となる。だからこそ、私の美術論が、全体的な歴史の構想の基本になりうるという考えに至る。

私は『イタリア美術史』(岩崎美術社)や『日本美術全史』(講談社)を書いて出版したのも、まずその基本を語りたいからであった。イタリア史、日本史の人に言わせれば私は専門家だないということで無視しようとしている。これもやっぱり西洋美術史をしていれば、自ずから日本美術史が見えてくることを無視している。日本だと日本美術史の人は日本美術史、西洋美術史の人は西洋美術史、まあ西洋美術史で専門家というのはごく三、四人しか日本にはいないことを考慮の外におく。これは西洋美術史の場合は、ヨーロッパ、南北アメリカで行っているから、層は厚い。しかし層の薄い日本でさえ、お互いに無視し合って、論文を書いているのだ。ましてや、日本の西洋美術史家で、西洋で文献として取上げられる人は、ほとんどいない。日本において、相互の意見交換でさえ、成り立っていないのだ。(続く)