「写楽が北斎である」ことをむしろ裏付けた「写楽展」 

平成二十三年に特別展「写楽」が東京国立博物館で開催された。この拙論は、学術的な体裁をとっているこの展覧会カタログの記述の検討により、「写楽が北斎である」という自説を、論証するために書かれた。

この展覧会は、一昨年、ギリシャから写楽の作と喧伝されて、その肉筆扇面画(図1)の展覧会が開かれた後だけに、その成果をもとに、あらたに写楽の全作品が点検されるものと思っていたが、その肉筆画も、唯一の日本にある「老人図」(図2)も展示されなかった。このはじめて出てきた肉筆画についてそれを支持したはずの浅野秀剛氏のカタログ解説も、あとのまだ確定されぬ九図の版下図とともに述べられて、ただ小林忠氏の『国華』の論文を指示しただけの何やら拍子抜けの論考であった。浅野氏はこれを写楽と認めている一人であったから、このような簡単な書き方をすべきではないだろう。

写楽

写楽

寛政六年(一七九四)に突然現れ、十カ月で消えた写楽が誰であるか、今回もそれが、大きな主題であったが、カタログでもわかるように、「写楽は写楽である」と答えにならぬ言葉を吐いている。正体探しに「疲れ」、結局、クルトが最初に述べた能役者「斎藤十郎兵衛」に傾いているようだが、相変わらず、その斎藤たるものがどんな画業をしていたかわからず、カタログでも、斎藤に関する記述も、むろん、その作家論も書かれていない。

私は今回の展覧会で、かえって「写楽は北斎である」という拙論が確認された、と考えている(『実証 写楽は北斎である』祥伝社、二〇〇〇年)。というのは、この拙論を、とにかく否定するために、意図的に北斎、すなわち勝川春朗に対して、無視したり、いろいろなレトリックが使って、出来るだけ、話題にしないようにしているのがわかるからである。反証が逆の効果を上げている。とくに「写楽とライバルたち」という主題を掲げながら、なぜ春朗がさっぱり出てこないのであろう。前年まで春朗は役者絵を描いていたのである。つまりそれは同一人物である証拠ではないか。

しかし結論は急がぬようにしよう。このカタログ論文を検討し、後に小林忠氏の肉筆画論を批判し、私の考察を展開しよう。

1 カタログ論文の検討

ではこの写楽展の主催者の国立博物館の田沢裕賀氏の「写楽の謎」から述べてみよう。氏が《私の周囲》の研究者が氏のように思っているものが多い、と言っているから、この論考が、現代の研究者の意見を代弁しているととっていいだろう。

《「謎の絵師」と評される東洲斎写楽。写楽は誰ですかと聞かれることが多いのだが、多くの研究者は、「写楽は、写楽」と答えてきたと思う。少なくとも私の周囲にはそのような答える人が多い。このように言えば意外と思われる方が多いに違いない。写楽別人説が数多出され、写楽を名乗った画家は、ほかの活動で知られる文化人。それも絵が描きなれた人が一時期別名として写楽を名乗って密かに役者絵を制作したのだという説が。一般に広がっている》。

主催者側が、このような一般に広がっている説をどう対処するかが、この展覧会の大きな題目であったはずである。むろんこの広がっている説のひとつに拙論の「写楽=北斎説」も念頭に入っていたに違いない。少なくとも巻末の「主要参考文献」の単行本に拙著の書が挙げられている、

田沢氏はその中で、北斎の若きときの名、勝川春朗について触れている。

《天明から寛政前期にかけて役者絵の多くを描いていたのが勝川派であったが、その総帥、勝川春章は寛政四年(一七九二)に没し、その高弟勝川春好も中風により右手の自由が利かなくなったとされる。勝川春朗と号し勝川派の役者絵を描いていた葛飾北斎も、師の春章が没してまもなく勝川派から離脱したようで、寛政五年頃には勝川を持ちいなくなり、俳諧・狂歌の世界に身を移すように作画のテーマを変えている。勝川派では、春英が役者絵の中心となっていたが、かつてのような勝川派による役者絵の独占的出版状況ではなくなっていた》。

しかし春朗の俳諧・狂歌の作品が残っているが、寛政七年(一八九五年)以降が主であり、寛政六年(一八九四年)、写楽が現れた年の作品として考えられるもの(但し『狂歌三十六歌仙』には刊行年も署名もない)は、役者絵と描き分けてはいるものの、写楽図に近く、別人のものとは思われない。このことを言及しないでいること自身、レトリックを感じざるをえない。

勝川春章が亡くなり、春英が中風なら、春朗が活躍して写楽の名に変えた、というのが、この文脈なのだが、勝川派を離脱したことで、役者絵をやめたという筋にしてしまい、春朗が、打って出るチャンスをみすみず失ったことを説明しないでいる。この春朗が、それまでの十五年以上、役者絵をやってきたのに、俳諧・狂歌の絵だけに活路を見出したというのであろうか。風景画ならともかく、俳句、川柳を書き入れる絵師に転じたというのであろうか。それまでの春朗の役者絵と写楽の役者絵も同一役者が多いことを、なぜ無視するのであろうか。

「絵師写楽」の項で、田沢氏は斎藤月岑(げっしん)の『増補浮世絵類考』を基本文献として論じていることはいいとして、まず斎藤月岑は一八〇四年生まれで写楽が出た年にはまだ生まれていないし、その『増補浮世絵類考』かまとめられたのは一八四四年である。月岑は写楽については、自分自身は何も知らなかったというべきである。最初の大田南畝の『浮世絵類考』が出たが《これまた歌舞伎役者の似顔をうつせしが、あまりに真を画かんとてあらぬさまにかきなせしかば、長く世に行われず、一両年にして止ム》という有名な写楽についての記述を、もっと深刻に受け止めるべきであろう。この《真を画かんとてあらぬさまにかきせし》ということである。この「あらぬさま」が、役者の美しさではなく、好まれない面を示した、と取ることができるが、一方で、このことは、芸術の本質をついており、ものの真実を表現しようとしたら、そのまま描くようでは駄目だ、ということを示唆していることでもある。それが世の中に受け入れられなかったことを指摘しているが、ここにはすでに、長い修練を積んだ絵師が描いたことを示していることを見て取らねばならない。南畝はそれを知っていたのである。

式亭三馬が文政四年(一八二一)の補記に《三馬按(あんずるに)、写楽号東周斎、江戸八丁堀ニ住ス、半年余行ハル、ノミ》と記され、年時未詳であるが、《写楽は阿州侯の士にて、俗称を斎藤十郎兵衛といふよし、栄松斎長喜老人の話なり、周一作画》と追記されている。そして月岑の《天明寛政年中の人、俗称を斎藤十郎兵衛、居、江戸八丁堀に住す、阿波侯の能役者也》が、信頼すべき記録として、相変わらず「事実」として信じずべきだという。

たしかに、由良哲次氏は斎藤十郎兵衛が存在しない、ということで、写楽=北斎説を主張したが、中野三敏氏が『江戸方角分』(文化一四年一八一七年)で、写楽斎という号をもつ浮世絵師が八丁堀地蔵橋にかって住んでいたという記載があることを報告された。それで、あたかも斎藤=写楽が証明されたかのようになった。内田千鶴子氏が文化七年(一八一〇)に斎藤十郎兵衛四十九歳で生きていたことが、能役者の名簿からわかった、という。平成九年に文政三年(一八二〇)に五八歳で没したことが明らかになった。これらを挙げて、田沢氏は《別人説を主張することが出来ないであろう》と述べている。

しかし月岑自身が、歴史考証家であっても、浮世絵には素人であったことを忘れてはならない。それも出版されたのが、弘化元年(一八四四)のことで、すでに五十年経っている時である。それに月岑が最初に依拠した『浮世絵類考』は、最も古い神宮文庫本ではなく、かなり後の鎌倉屋豊芥の本で、古いものには記されていない能役者説が出てくるものだ。栄松斎長喜も、すでに三十数年前に亡くなっており、確かめようもない。

月岑はかっての浮世絵の世界を知らないで、ただ情報だけを集めて書いたと言ってよい。美術史家が文書主義であったとしてもいいが、信頼をおいていい記録と区別をしなければならない。斎藤十郎兵衛説はクルトが最初だが、日本に来たこともない人の説がまだまかりとおっているのもこの文書主義のおかげである。もっともクルトはこの能役者が後に艶鏡という絵師となる、と見て絵師としてのつじつま合わせをしているが、日本の研究家は、未だにこの能役者が、絵を描いていた、という証拠を見出せないにも関わらず、この説を支持しているのである。斎藤十郎兵衛とは異なる別人説を主張しなければならない所以である。

さて興味深いのは、浅野秀剛氏が「写楽と寛政六年の役者絵界」という論文で、寛政六年という写楽が五月から現れた年の役者絵を論じていることである。もし浅野氏が写楽=春朗(北斎)説を批判するなら、この年、春朗が何をしていたか、明確に書くべきである。ところが、寛政五年の春朗が細判で数図描いたと述べるだけで、これまで役者絵を十五年以上のやってきたこの絵師が、この年、何もしなかった、と暗に言っているのである。それならなぜ、この春朗が写楽になった可能性について言及しないのか。否定するにしても触れるべきではないか。

そして栄松斎長喜のこの年、中判で、写楽色が濃厚な「忠臣蔵」のシリーズを描き、この美人絵師の長喜が《写楽の出現にいち早く反応し、蔦屋重三郎ならぬ鶴屋喜右衛門からニ種の役者見立絵のシリーズを刊行した。長喜はまた、写楽の大首絵を描いた団扇絵をもつ「高島おひさ」を描いている》と指摘している。

《長喜の描いた役者は、ほとんど写楽が錦絵として刊行した作品であるが、一人だけ例外がある。二代目中村助五郎である。その助五郎が、写楽の版下絵とされる九図のなかに描かれていることは偶然の一致であろうか。今に伝存していない写楽の描く助五郎の錦絵があった、長喜が写楽の版下絵を見て助五郎の図を描いた、長喜が写楽風にアレンジして助五郎の似顔を描いた、などの可能性が考えられるが、今はこれ以上言及しない》。

この指摘は重要なことで、私が後で言う、あのギリシャから出てきた肉筆画の扇面図が、この栄松斎長喜の手になる、という私の見解を裏付けるものである。長喜の「高島おひさ」の中に、ギリシャの肉筆画と同じ「四代目松本幸四郎の山谷の肴屋五郎兵衛」が左右反転して描かれているが、この図と同じ角度で、同じ役者が扇面画に描かれているのである。

次に蔦屋重三郎との関係を論じたマティ・フォら―氏の「東洲斎写楽―その人、その仕事と蔦屋重三郎」の春朗との関わりのある点を検討しておこう。、

《一七九〇年から九一年頃、蔦屋は中判錦絵の制作に乗り出していった。作画を担当したのは勝川春朗で、「壬生狂言」は十一点、「仁和嘉狂言」は十六点、そして「風流見立狂言」では五点の絵が確認されている。しかしこれは歌舞伎ファンの次なるターゲットにという蔦屋の計画の一環なのかどうか定かではない。いずれにせよ、蔦重版の初期の役者絵はその春朗(後の北斎)によって描かれたものであった。一七九〇年一月の興行時に二点、一七九一年一月(?)と三月の興行時に各一点、同年十一月の顔見世興行時に三点(そのうち二点は細判の二枚続き)、そして一七九二年一月と二月の興行時に二点の作品がそれぞれ発表された。それ以降、蔦屋の歌舞伎への興味は少なくとも数年間続いていくことになる。三代目市川高麗蔵(一七六一~一八三八)、三代目坂田半五郎(一七五六~九五)、中山富三郎(一七六〇~一八一九)が歌舞伎役者の最高位に番付けされ、一七九三年十一月から九四年十月にかけて市村座と契約を結ぶことになった際、蔦屋は勝川春英に白雲母摺りの背景にこの役者三人が並ぶ大首絵を描かせている》。

ここで指摘されているのは、蔦屋が春朗(北斎)の役者絵を、九一年から九二年にかけて多くの発表したことである。しかし春朗は一七九三年まで役者絵を発表しており、九四年になると発表していないということは、彼が写楽になったのだ、と考えることが出来る。この春朗が大首絵によって、写楽になったのだ。それまでの立姿だけであったのが、大首絵を描き、顔を丹念に観察するようになり、「見立て」から「中見」に変わり、すなわち芝居が始まる前に形式で描く方法から、芝居そのものを見て描く方法に変わったということである。

《役者大首絵としてはすでに一七八九年に、勝川春好が描いた約二十点が出版されたのであり、この時には既におなじみとなっていたと考えられる。しかしながら、無名の女性を主題に描くというのは非常に思い切ったことであった。一七九三年には浮世絵において一般女性をその名前えを特定できるような描き方をすることが禁止されていらので当然と言えば当然なのであるが、多数のファンの間で確実に売れる有名な歌舞伎の役者絵とは全く事情が違うである》と、大首絵が写楽が始めてではない、と指摘しているが、しかしこの大首絵は写楽の大首絵とは、性格が異なるものである。春朗だけはそれまで大首絵を描かなかったことが、その斬新な画風につながっている。そのために、写楽は、その個性と表情の変化をとらえるために、あらたに役者絵の研究をした。それは「中見」という芝居小屋で見る、じかの役者の顔を基本にしたのである。

《いずれにせよ、これら最初の二十八作品については、蔦屋がなぜこのように大それた試みを行ったのか。依然として疑問が残る。当時、勝川派の絵師、そして代々彼らの制作活動に出資をしてきたパトロンたちはその頃徐々に手を引き始め、結果的に、その頃から勝川派の絵の多くに版元印が見られるようになる》。

この疑問は、蔦屋が、それまで立姿しか描いていなかった春朗に、この新機軸を打ち出させることによって、人々の目を引き付けることを考えたからだ、と言えば氷解する。このような謎は、春朗=写楽を、最初から排除している固定観念が、災いしているのである。

《蔦屋が勝川春英との短い共同制作も一七九三年には三人の役者を描いた傑作を生みだしていたにもかかわらず、その翌年一七九四年の初めに、かなり唐突に終わりを迎えたかのように見える。これは春英が当時売り出し中の豊国に対抗するのを恐れたためであっただろうか》。ここでなぜ、それまで弟弟子であった春朗のことを言及しないのであろうか。春英ではなく、春朗の方を起用した、と考えれば、別に豊国を恐れた、などと邪推しなくてもいいことになる。

フォラ―氏は、他の絵師たちが、蔦屋から離れていったことと、写楽が役者絵を辞めたことを、同等に考えているようであるが、他の絵師は蔦屋以外の版元に鞍替えしただけであるから、制作を断念したことと同等に考えるべきではない。断念したのではなく、他の活路を見出していったのが、春朗であることは、例え、春朗=写楽説を取らなくても、事実である。フォラ―氏も意図的に、春朗無視の態度をとっていることがわかる。カタログの筆者たちに共通する、事実を無視したフェアではない史家としての態度がある、と言わなければならない。春英が一七九三年から九四年に辞めると写楽が出てくることの意味は明瞭である。 

この展覧会の特色は「写楽とライバルたち」と名打った展示である。この序文でも、不思議な記述がなされている。

《「寛政の改革」の影響を強く受けた歌舞伎界は、写楽の登場する寛政六年(一七九四)には、江戸大芝居三座がすべて控櫓(ひかえやぐら)を取って代わられる未曾有の不況期であった。そこに突如、蔦屋を版元にして写楽が登場する。写楽に対抗するように、師の勝川春章以来役者絵を得意とした勝川春英が、さまざまな版元から大首絵を中心とした役者絵を出版する。写楽より一足先寛政六年春に、和泉屋市兵衛を版元として役者の舞台上の全身像を描いた「役者舞台之姿絵」シリーズの出版を開始した新鋭の歌川豊国。さらに春英の同門で、役者の顔を鏡に映して趣向に富んだ団扇絵を描いた勝川春艶を加えた三人の絵師が、写楽と同一場面の役者を描いた競作作品を残している。芝居考証のための当時の番付類も参考にしながら、絵師が、どの場面をどのように描いたのかを比べ、絵師の個性が作品に反映していることを確認していただきたい》。

この文章は、もし勝川春朗=写楽という説がなければ、書けない性質のものである。というのも繰り返し言ってきたように、春朗は役者絵を描き続けており、写楽が出てくる前まで役者絵を描いていたのであれば、彼が写楽のライバルにならざるをえないからである。この文章はあたかも、春朗が存在していないかの如き書き方をしているが、もし専門家であれば、それを知らないはずはない。意図的に避けていることになる。もし別人ならばライバルにならざるをえないことを、殊更、無視していることになる。

2 ギリシャの肉筆画は写楽の作ではない

私は冒頭にこの大規模な展覧会において、一昨年発表された肉筆画が出品されていないのだろう、と書いた。ギリシャにあるので出品が困難なら、写真でもいいから掲げるべきだったし、カタログでも、大きく写真を掲げて、これが自筆の写楽の実態を述べるべきであった。ところが「写楽の肉筆画」と題して一頁、それも写真も扱いが小さいもので、この作品に対する見方の変化を感じざるをえなかった。カタログで浅野秀剛氏は次のように述べている。

この《「役者扇面図」は、興行に即して描かれたものとすれば、寛政七年〈一七九五〉五月河原崎座『仮名手本忠臣蔵』のニ段目に取材したものである。墨書は、加古川本蔵が妻・戸無瀬に言う台詞である。墨書にある「五代目松本幸四郎」は、「四代目松本幸四郎」の誤記か五代目幸四郎自身が書いたものと考えられる。描かれて、骨が日本の扇子に仕立てられた後、骨を外して墨書が加えられ、再び骨十二本の扇子に仕立てられ、また骨を外して画帖に貼られたものと推定される。描かれた場面は、忠臣蔵の図像としては類例の全くない特殊なシ―ンである。線質は弱々しいほどに繊細であるが、様式は、写楽と同一である》。

この解説を読むと、あたかもこの肉筆画が写楽のものではないことを述べている、ように見える。まず墨書にある「五代目松本幸四郎」は、「四代目松本幸四郎」の誤記であること、これは同一人物を写楽が描いているのであるから、間違えるはずがないからである。描かれた場面が、忠臣蔵の図像としては類例の全くない特殊なシ―ンであることも、忠臣蔵を知悉したはずの写楽の描いたものでないことを示しているようだし、線質は弱々しいほどに繊細である、というのも、彼の線描ではない、という証拠を出しているようである。

実際、この見方は私も同感で、これが写楽の線ではない、ことは誰が見ても明らかなのである。「様式」というものに、この線の質も入るもので、様式が同一とは言えない。この場合、構図が似ていると言えるが、しかしそれも上半部であって、下半部は、まとまりがなく、その画面を作り上げる構図感覚が失われており、版画の構図を切り取ったような印象を与えている。写楽らしい創意が欠けていると言ってよい。浅野氏はそれでも写楽のものと考えるのであろうか。

線に勢いがなく弱いということは、実を言えば、発見者の小林忠氏でさえも述べている。《写楽の役者絵版画では、彫師が彫刻刀で彫った切れの良い描線と単純で大胆な色面が目立つが、直接筆で描いた肉筆画では、意外に繊細な筆づかいが印象的である》と書いている(『写楽 幻の肉筆画』江戸東京美術館、二〇〇九年、カタログ、135頁)。もしこの図が写楽作であるとすると、肉筆画は、浮世絵の描線と異なり、弱い線で描かれた、という意外な事実が浮かんでくるのである。たしかに顔だけでなく、その着物の描線も遅く、勢いがない。それをもとにしている限り、彫師がより強く線を出していたということにならざるをえない。写楽の浮世絵の一貫した線の強さは写楽自身のものではない、ということになってしまう。こうした線は、私の経験から言えば、摸写的な線で、模倣者の弱い筆で、もともと違う作家の線なのである。

というのも、写楽のこの四代目松本幸四郎の像をそのまま写している画家がいることは周知のことであるからだ。栄松斎長喜の『高島おひさ』の図がそれである(図 )。その中の団扇絵に、まさに写楽の「四代松本幸四郎の山谷の肴屋五郎兵衛」の大首絵が描かれている。それも左右逆にしている。これは写楽図をそのまま上から模写したものを、裏腹にしたものである。模倣画家が、転写するときに用いる一つの方法といってよい。全く同じにしてしまうと、真似ということになるが、こうして反転して別の絵のようにするのである。この扇面の顔はまさにこの団扇図と同じ角度であり、顔としては同じ特徴を持っている、と言ってよい。

この『高島おひさ』について、浅野氏はこれが写楽のデビュー後、まもない寛政六年の夏に

制作されたものと考えている。また氏は、長喜が同じ年、写楽に影響を受けた忠臣蔵のシリーズを中判、大判の各種で描いていると述べているが、写楽には忠臣蔵を描いておらず、その構図だけ影響を受けている。しかしそれらは同時期の写楽の図によるものであったのだろうか。

その役者絵の方は、同時期の写楽の影響というよりも勝川春朗の影響が強いのではないか。例えば、『忠臣蔵 六段目』(カタログ、二七八図)の三代目大谷鬼次の原郷右衛門の顔は、とくにやや唇の厚みのヘ文字の口などは写楽にはなく、春朗がよく描くもので『三代目市川八百蔵の五郎と四代目岩井半四朗のお蝶』(寛政三年)の五郎の顔とほとんど同じである。長喜はこの春朗が写楽であることを知っていたとさえ考えられる。

春朗には蔦屋から出した『新板七変化 三階伊達の姿見』という寛政四年頃の細判錦絵がある。これは役者の舞台でのある姿を固定し、顔を空白にして、七つの異なる着物を着せかえて示す、ある意味で見本帳であるが、それにそったものが長喜の役者絵には多い。『忠臣蔵 六段目』(カタログ、二七八図)の左端、三代目坂東三津五郎の千崎弥五郎の姿も、同じ『忠臣蔵 初段』の三代目市川高麗蔵の桃井若狭之助もこの見本帳からとっている。役者絵ではなく、美人画を得意とした長喜であったから、このような型の見本は役だったであろう。それを利用しているのは、当の写楽でもそうで、とくに最後の四期であった。彼の『三代目沢村宗十郎の薩摩源五兵衛』などもそれから取っている(拙著『写楽は北斎である』一五六~五九頁参照)。

長喜の『高島おひさ』に描かれた写楽の団扇図の大首絵が、寛政六年の春の作であるので、この図はその後に描かれたものであろう。《いい役者 団扇にしても 煽(あお)がれる》という川柳があるように、この四代目松本幸四郎が、人気をえたことを知って、長喜が描いたことになる。しかし他の絵師の松本幸四郎ではなく、写楽のそれを描いたからには、彼がとくに写楽の役者絵の良さを認識していたことになる。写楽の定評が出来、それが扇絵になるほど一般化した後、すなわち同時期ではなく、ギリシャの肉筆画が描かれたと同じほどの、少し後の時期と見た方がよいであろう。つまり扇図と同じ頃と考えていいだろう。いわば長喜にとっては描きなれた顔であったことになる。

ここで注目されるのは、扇絵の肉筆画と、この『忠臣蔵』のシリーズの姿態の動きとの関連である。まさに左にふりかえった姿そのものが長喜の『忠臣蔵 初段之図』『同 六段目』の図に出てくるのである。とくに『六段目』の三代目大谷鬼次の原郷右衛門の姿とほぼ同じで、右手で扇をもっているところまで似ているのは、このような姿の型を踏襲する、長喜のような二流の絵師の方法と思われる。扇絵が長喜の特徴を示している、と言ってよい。

いずれにせよ、栄松斎長喜の『高島おひさ』の団扇図と、この扇絵の肉筆画との関連は、その松本幸四郎の同じ角度の図であるばかりでなく、その筆使いも同じ肉筆(団扇図自体)のおそい筆致も共通しており、同じ作家の手であると判断される。この扇絵も、団扇図も共通する、精彩のない線描から推測されることである。これは模写画を描く絵師の通弊であろう。それと『忠臣蔵』の春朗との姿態の類似性で、この長喜の能力が理解されるのである。

小林氏はこの扇絵の肉筆画が、寛政七年の五月に河埼座で上演された「仮名手本忠臣蔵」の舞台を取材したものという。しかし、賛の冒頭に「五代目松本幸四郎」とあるのは四代目の間違いだけでなく、図上に松本幸四郎が演ずる加古川本蔵のせりふの一部、《只今 使者に参るは娘小なみといいなづけの力弥、御ちそう申しやれ》が引用されているが、このせりふは本蔵が、小浪ではなく、妻、戸無瀬に語るせりふである。この歌舞伎を知らないものの間違えをしていることになる。

小林忠氏はこれは後の人の書き足しだ、というが、このような重要なせりふを、絵の内容を知らずして書き入れるとすれば、それは写楽であろうか。この図の作者が彼ではないことを暗示しているようである。これは東洲斎写楽画の字体と異なるから、後に入れられたものとわかるが、必ずしも役者絵に通じていなかった絵師によるものと考えざるをえない。

この図は寛政七年の五月のものとすると、写楽の名を使わなくなってから四ヵ月たってからのものである。とすると、写楽が引退していないことになる。ただ扇面画だけの絵師になったのであろうか。肉筆絵師に転じたのであろうか。そうであれば、もっと他にも出てきてよさそうなものである。これまで一切それが出てこなかったことからも、これが写楽の作ではない、と断言できる。なぜこれを写楽だと考える研究者は、それを説明するのであろうか。肉筆画のように弱い線で描く写楽は、蔦屋が手を引くともに、画業をやめたはずなのに、この肉筆画を描くことで活路を見出したとでもいうのであろうか。

ここで能役者、斎藤十郎兵衛説が頭をもたげることになる。能役者であれば、未煉もなく、画業を捨て、能舞台の方に専心したのだと。また武士階級であったから、それが知れると、お咎めを受ける事になる。町人に行う浮世絵など断念することは、当然であろう、などと説明する。しかしそうなると、こうした肉筆画を描いている事実が、その説明を覆すからである。彼であったら署名するだろうか。別名を使うであろう。つまり、そのような積りはなかったということだ。    

もしこれが写楽自体の作なら、この肉筆画がなぜ孤立して造られたかを、説明しなければならない。能役者の仕事の暇に、少しだけ手を出していた、という説明では、その数が少な過ぎる。斉藤十郎兵衛説は、この能役者が、浮世絵関係の一切の修業をしていた証拠がないことばかりでなく、これらのことでも、成り立たないのである。

小林忠氏は石水博物館の「老人図」(図 )をも写楽図と認めているが、この扇面が今度ギリシャの美術館の扇面とほぼ同じ寸法であり、同質の竹紙であることは同じ作家の作品と考えられるという。小林氏も《繊細な描法も相通ずるものがあると直感された》と書いている(前掲書)。 

画面右上に描かれている「豊国画」のお半と長右衛門の絵は、「豊国画」の署名の様式が寛政十~十三年のものであることから、この「老人図」もその頃の作画であると考えられる。この豊国図は寛政十二年(一八〇〇)の二月、市村座で上演の「楼門五山桐」二番目の「瀬川の仇浪」のお半と長右衛門道行きの場面であるから、この年以後描かれてことになる。版元印は、寛政十年(一七九八)頃から錦絵を出版しはじめた鶴屋金助で、と現存する間判役者絵「二代目嵐雛助の帯屋長衛門と三代目瀬川菊之丞のしなのやお半」(寛政十二年二月市村座「瀬川の仇浪」に取材、鶴屋金助版)を基に描いていると小林氏は、推測している。

この図には、その上に天児(あまがつ)と這子(ほうこ)とを合わせたような裸人形が両足を踏ん張るようにして立っている図が右方に描きこまれている。画中の豊国細判が黒く変色して《版画を突き刺すかのように置かれている。それを見てか、禿げ頭の老人の口はへの字に固く結ばれ、豊国をあたかも呪詛するかのよう》(前掲書)だ、と小林氏は述べている。

この調査によると、写楽の引退後、五年も経ってから描かれたことになる。小林氏は《かなりの期間、絵筆を遊ばせていたことがここで明らかになった》と言うが、能役者齋藤十郎兵衛説をとっている氏は、《寛政改革の当時のこととて、藩お抱えの能役者が庶民の慰みものであった歌舞伎や浮世絵に関係することは危険を伴う所業であった。それゆえ唐突に役者絵版画の制作を中

断、浮世絵界から離れ、身を隠し、周囲の知己、友人たちも事情を察して口を塞いでしまったために、その後の消息は杳として知られなくなってしまったのだと思われる》と説明しているが果たしてそうであろうか。《写楽の目覚ましい活躍は江戸の人々の記憶から去りやらず、密かに肉筆の作画を需めた人もあったのであろう》。扇面画は気軽に応じる画面形式としてふさわしいと述べている。

しかし扇面であろうと、写楽の名を使っている限りは、その存在は知られ、写楽がそこに健在であることを明らかにしていることでもある。例え、扇面であろうと、あれだけ評判になった写楽が、この「老人図」はともかく、同じ図案で役者絵を描くであろうか。また豊国図をわざわざ画面に引き合いに出して描くであろうか。扇面であろうと、誰かに見せるために描いている限りは、その存在を明らかにしているのであり、まだ描く用意があったことを示していることになる。しかも、あれだけの表現力のある画家が、この豊国図を見ている「老人像」で止めていくことが出来るであろうか。写楽ほどの芸術家を冒涜している、と言っても言い過ぎではないだろう。

この「老人図」の、写楽がこの豊国図を脇にして、それを嫉妬しているような図は、説明を用することである。すでに写楽が引退しているところに、豊国が一人勝ちしている役者絵の世界に対する陰鬱な気持ちの表れなのだろうか。写楽自身が絵でわざわざ、そのような敗北を認めることなどするであろうか。余り考えられぬことである。

 浅野氏は、それで、他の役者を想定したのであろうが、この「老人図」の老人は、富本延寿(初代富本宮太夫)である可能性が大きい、と述べている。鈴木重三氏の説に従ったもので、根拠は、鳥居清長の出語り図と比較して似ているということと、丸に三つの柏紋をしていることや薙髪(ちはつ)していることなどがあげられるという。しかし、清長の図は、薙髪前の十五年前のものであり、《二代目富本斎宮太夫の襲名が関係している可能性がある》と言っているように、きわめてあいまいな同定である。なぜ、このような老人の顰め面(呪阻するような、と小林氏は言っている)から、、それは二代目の襲名を好まなかったからであろうか。その説明をしなければ何の理由にもならない。浅野氏はまた、「豊国画」の部分を《豊国が描いたとすれば》などと言っているが、写楽の絵に豊国が描きこむことなど、ほとんど在り得ないことである。

いずれにせよ、二つの扇面画は、用紙と仕立てに共通するものがあり、花押も類似、筆法と様式も近似するので、同一人の制作と思われる、と述べているのは両氏は共通している。ただ、浅野氏が、《「役者扇面画」の署名が「寫楽画」ではなく、「東洲斎寫楽画」となっているのはやや不自然であるが、それにより作品の真贋が直ちに問題になるとは思えない。寛政六年中の制作の可能性も全くないわけではない》と述べているのは気になることである。つまりこの二つの署名の違いは、写楽であったら、少なくとも時期の違いを示すものであるからだ。筆法と様式が近似しているとすれば、それは絵師が、署名そのもの相違が時期を示すものであることを意識しなかったことであり、作者が写楽自身ではないことを示唆していることになる。作品が写楽ではない、というひとつの理由となろう。

しかしなぜ、小林氏も浅野氏も、この「老人図」を写楽の唯一の老人の図である、「都座口上図」と比較しないのであろう。それが同じ作者であれば同じ老人の図として、写楽画であることを立証するものとなる。だが、この老人の渋い表情の線の写実は、写楽の明快な線と異なっている。とくに衣服の線の凡庸な動きは。写楽図には見出すことが出来ない。ここにも肉筆画よりも版画の方が優れている、という、ギリシャ図と同じ問題が生まれている。果してこのような活気のない線描を写楽が肉筆ではしたのであろうか、と、同じ問いが生じている。同様に、版画では彫り師、刷り師の巧さ、力強さを想定しなくてはならないことになる。

しかしもしこの「老人図」と長喜の団扇図と比較すると、同じ筆致を感じさせる。この『高島おひさ』の中の団扇図は、肉筆画を、浮世絵の中に描き込んだものである。これを拡大してみると、同じ写楽の『四代目松本幸四郎の肴屋五郎兵衛』よりも、鈍い線描で、こちらに近いことがわかる。とくにこの「老人図」の衣服の線は平行線で、写楽が決して画いたりしない平凡さを示している。この団扇図も扇面図に共通する単調さである。

とにかく、この二つの肉筆画は、写楽ではありえない、と考えなければならない。ただ言えるのは、この「老人図」も決して素人の描写とは思えない。しかし同時にこれは同じ肉筆画を比べてみても、鋭さや活気のある線ではない。

それは両氏がいうように、筆、様式とも、二つの扇面画が近似するだけでなく、長喜のようにもともと役者絵の専門でない絵師だから、歌舞伎絵に対してさまざまな誤りをすることも理解できる。私は扇面画の肉筆を、栄松斎長喜の図と同定する。寛政六年から写楽自身を模倣していたことが明らかであるからだ。

この「老人図」が、ギリシャの扇面画同様、栄松斎長喜であるとすると、すべてが解決するのである。そしてこの「老人図」は長喜が描いた写楽像、つまり北斎像である、と思う。

北斎の自画像に寛政十二年(一八〇〇)の「竈将軍勘略之巻」がある。これは北斎自作自画の黄表紙巻末を飾る版元、蔦屋重三郎宛の「舌代(しただい)」(口上書)と共に、描かれているもので、《初ての儀に御座候得ば、あしき所は曲亭馬琴先生へ御直し被下候》と書いて、馬琴に添削を乞うている。両手をつき口上を述べている北斎(時太郎可候と言っていた)の姿も、やはり薙髪であり、あたかも僧侶のような姿で、「老人図」と同じような着物を着ている。むろん戯画化しているので、眼鼻立ちの写実性は感じられないにせよ、すでに老人になったような姿や、その眉のハの字で目が下がり目のところなど、似ていないとはいえない。これはちょうど、長喜が「老人図」を描いた時期に近いもので、写楽以後の北斎の姿を髣髴させている。長喜は役者絵専門の写楽を辞めた北斎が、その分野で活躍する豊国の図をみて、渋い顔している姿を描いているのである。写楽の自画像のつもりで長喜が揶揄したと取れるのである。元気一杯の子供のような人形が上に立つ豊国図に対して、自らは、退いて役者絵師として対抗も出来ない、哀れな北斎を描いていることになる。

この長喜が、後に《写楽は阿州侯の士にて、俗称を斎藤十郎兵衛といふよし、栄松斎長喜老人の話なり、周一作画》と『増補浮世絵類考』に記述されたことも、符号するといってもよい。写楽を模倣していた長喜が、写楽の正体を知っていたからこそ別名を言ったのである。もし彼が、斎藤十郎兵衛が写楽だとすると、武士である斎藤が絵師であることを暴露することでもあり、同時に彼が浮世絵界の絵師ではない、ということを明らかにすることになる。それより、写楽が春朗=北斎であることを知っていた長喜が、健在の北斎の意志を慮って、そうした噂を振りまいたというのが真相と考えた方が正しいであろう。

この《長喜は歌麿と同じ鳥山石燕(せきえん)に学び、寛政時代(一七八九~一八〇一)に入ってから、蔦屋から多くの美人画を出している。寛政七、八年ころには百川子興(ももかわしこう)と改め、また享和元年(一八〇一)頃に長喜に戻している。歌麿風の美人画のほか、黄表紙などの版本挿絵も描いた。その彼の筆になる『高島屋おひさ』の団扇に、写楽の大首絵が写されている》(拙著、前掲書)。また大童山の相撲絵も大錦判で描き、すでに述べたように写楽が出た年に、その影響を受けた「忠臣蔵」のシリーズを発表している。ただ《写楽は一度として、長喜のように三人いる場面を作ったことがなく、その表現も粗野で線の質も異なっている》(前掲書)。

すでに述べたように、その長喜が『浮世絵類考』に、写楽は能役者の斎藤十郎兵衛なり、と語っていることが知られている。長喜自身の作品が享和年間(一八〇一~〇三)までわかっているだけで、文化年間以降は、文化四年(一八〇七)の黄表紙を最後に消息が途絶えており、その後死んだと推測される。すると死後、三十年以上たった時点でのこの書き込みも、実をいえば、斎藤十郎兵衛説を補強するには、余り力にならないと思われる。、

いずれにせよ、この二つの扇面画が、栄松斎長喜のものであることは、ほぼ確実と言ってよいであろう。小林氏に、この絵師の存在とをどのように考察するか、お聞きしたいものである(小林忠「東洲斎写楽の肉筆扇面画」『国華』一三六四号、二〇〇九年)。

写楽が北斎である、ということについては拙著に詳しいので繰り返さないが、その事実を知っていた同時代の古い文献について語っておこう。写楽が消えた一年後の寛政八年(一七九六)に出版された『初登山手習方帖』に、挿絵があり、その作者は十返舎一九であるが、彼は下手な役者について揶揄をした後、一人写楽の役者絵だけが高空を飛んでいる、と語っている。そこに「東洲斎写楽画」と書かれているが、その図と対応する作品は、現存の写楽作品にはない。それは彼の失われた作品か、他の絵師もものかわからないが、テーマは「暫」であり、勝川派の多くが描いているもので、作者が勝川春朗であることを意識したものと思われる。

最後に拙著でも、この展覧会図録でも言っていない、大変興味深い事実を報告しておきたい。それはボストン美術館所蔵の、写楽の版木の裏が、北斎の図であったという版木が発見されているということである。この写楽版木四枚は。表に北斎の狂歌絵本「東遊(あずまあそび)」が刻まれている版木の裏にあるもので、写楽四期の相撲図である。つまり写楽の相撲図が彫られた後、それを北斎が、狂歌図に使ったということになる。これは一九八七年の発見当時、写楽=北斎説を唱える研究家がいなかったので(由良哲次氏は一九七九年死亡)、謎のまま残されたが、これは写楽=北斎説の大きな証拠である。現存する『大童山土俵入り』は、日本に二点あるが(MOA美術館、中右瑛氏蔵)それと合わせてもぴったり一致するものである。

写楽が使っていたものを、北斎が使うことは、私が、とくに第四期の武者絵、相撲絵が北斎のその後の作品と間連が深い、という拙論をよく裏付けるものとなる。いずれにせよ、写楽は北斎であり、それを摸写していたのが栄松斎長喜であることは確実といってよい。