田中英道著『戦後日本を狂わせたOSS「日本計画」』(展転社)が発行さる!
私は推薦する。
渡部昇一氏(上智大学名誉教授)
《いわゆる昭和史家の昭和史はダメである。それは日本の敵が何を考え、何をやっていたかを考慮しないからだ。田中英道氏のアメリカのOSS文書を解き明かして昭和史の深相=真層を示してくれた》。
小堀桂一郎氏(東大名誉教授)
《民主主義化の名で呼ばれ、国民の大半がそれと信じてゐた日本の戦後改革は、実は隠れ共産主義者F・ローズベルトを淵源とする米国戦略情報局の、日本改造計画の実現だった。その真相をつきとめた本書により、戦後史の根本的書換へがはじまる》。
中西輝政氏(京都大学教授)
《近年、日本の近代史を書き換える新事実が世界中で続々と公表されはじめ、古い東京裁判史観やGHQ史観を清算すべき時が来ている。本書は戦後史の根源に遡り、なぜ日本が今のような「おかしな国」になったか、その原因を大胆に探る》。
『戦後日本を狂わせたOSS「日本計画」』
はじめに
いわゆる「A級戦犯」七人、「BC級戦犯」九三四人の死刑を含む「東京裁判」なる「儀式化された復讐劇」が行われてすでに六十年以上たつ。次々と、未だににこの裁判に関する書物が出るが、しかしこのOSSによって準備された路線の上に立って、行われたことは、天皇を法廷に出さす、軍部だけを裁き、ニュ―ルンベルク裁判を日本にあてはめようとしたことなど、当時のアメリカ国務省の想定外の論告求刑が行われたことでも明らかである。この書で、何度も指摘しているように、日本のこれまでの多くの研究が、国務省、マッカーサーラインという、表面に出ていた外交史で説明しようとして、さまざまな謎がいつまでも残されたのである。終戦から一カ月たたぬ、九月八日から「戦犯狩り」を始めることが出来たのも、GHQ以前の方針があったからである。
あえてここでこの問題を、私のような政治史以外の文化史家の私が取り上げるのも、政治イデオロギーにとらわれた政治学者が、その本質を意外に見失ないがちであるからだ。これまでの多くの、「東京裁判」が、一般の戦争で引き起こされる「殺人・虐待などの戦争犯罪」といった罪に対するだけでなく、「人道」や「平和に対する罪」などという極めて勝者にとって恣意的に判断できる規定があるかぎりイデオロギーの問題にならざるをえない。ここから、ある特殊な闘争史観によって、貫かれた、という視点を明確になる。
主任検事のジョセフ・B・キ―ナンが、そのアドヴァイザーとして、OSSの一員であった都留重人やライシャワーなどと知己になっていることも知られているが、むろんマッカーサーと共に、民政局のホイットニー、ケーデイス、ラウエルといった、戦後憲法を作成した左翼的な法律関係のスタッフと密接な関係にあった。
キ―ナン自身もブラウン大学の後にハーバート大学で学び、ルーズベルト大統領の支持者として、連邦政府司法長官特別補佐官に任命されている弁護士であった。その経歴は憲法作成のスタッフと似たところが多い。その環境の中で、左翼的な立場を取るのは当然である。ギャング退治の意気込で、日本の軍閥に臨んだと言われるが、冒頭陳述にもあるように、日本の行為を「文明に対する挑戦」と述べた背景には、強いイデオロギーを感じさせる。
多くの分析では、対日政策の立案を担当したのは、アメリカの占領政策を決定する国務、陸軍、海軍三省の調整委員会(SWNCC)の下部機関、極東小委員会(SFE)だったといわれる。このSFEは、ポツダム宣言が発表された後、対日戦犯問題を本格的検討を始めた。主な争点は日本に対して戦争犯罪化の国際裁判をするかどうかで、敵国指導者を高度の政治的行為として処罰したほうが賢明だとの意見も国務省から出された、というものである。
しかしこの裁判が、もともとこの国務省筋からきたものではないことは、その裁判憲章(条約)というものが、ほとんどニュールンベルク裁判の原則の引き写しであることだ。「人道に関する罪」などという起訴理由などは、ナチス・ドイツを裁くために作った理由であり、しかもポツダム宣言の中に、戦争犯罪人を罰するという規定をいれているのである。どうしてナチ断罪の規定を、日本にあてはめようとしたのか。それは別個の流れ、すなわちドイツ対策を中心にしてきたOSSからGHQ民政局の流れがあったからに他ならない。というのも、ニュールんベルク裁判には、ルーズベルト大統領下のOSS勢力の、徹底的な反ナチの動きが元になっており、ナチ・ドイツと同盟関係にあった日本への断罪の意味があったからである。
ニュールンベルクの写しであるこの裁判は、アメリカのジャクソン判事がその原則をつくったと言われるが、もともとロンドンの米・英・ソ・仏の四カ国会議によっている。そこでソ連との間で軋轢があり、連合国軍最高司令官総指令部(SCAP)は、日本にも裁判を設けることになっただと言う。その結果、ニュ―ルンベルク裁判と犯罪の定義はそのままになった経緯がある。
ニュールンベルク裁判では、最初から、ナチス・ドイツが「ユダヤ人絶滅」という人道上の悪を犯しており、「人道」上、処罰するのは当然だ、という連合国四カ国の一致した意見があり、そこでルールが出来上がっていたのであった。それをそのままもってきているから無理が出来る。訴因を立てたときに、修正せざるをえなくなったのも当然である。(座263p)そのような犯罪の情報は欧州のOSSが持っていた。
日本にそれがあてはまるかどうかは、考慮がなかったために、相当な無理があった。(座250p)。ナチス・ドイツと違うのは、ドイツはポツダム宣言をもって、交渉する政府が消滅していた。敗戦の時点で、すでに軍事占領されてしまっていたのである。しかし七月二十六日の段階では、日本は軍事占領されておらず、まだ政府が存在し、それがポツダム宣言を受諾して占領軍を受け入れる、という過程をへなければならない。全くドイツの違うのである。このことは、すでに戦時中からの、アメリカの方針が、国務省日本関係筋からではなく、大統領と直結したOSSなどからの分析が上がっていることを証拠立てる。
この裁判がソ連が連合国側にあったことにより、裁判がソ連の思うところで行われたことは明らかである。例えば、日本の「侵略戦争」を起したとされる「満州事変」に関し、それが日本が中国における共産主義の発展に脅威を感じ(リットン報告書)、その脅威から満州の権益を守るために満州国を建設したという事情を全く無視していることからもわかる。検察側は最終論告において、「満州事変」が起こされた年の一九三一年、共産主義は中国における日本の権益を脅かすものでならなかったとみなすようにと、パルなどの裁判官に要請しており、リットン報告書の反対のこをを述べさせようとしていた、とパル判事自身が述べているのである。弁護側が共産主義蔓延の危険に関する追加証拠を提出しても、関連性がない、と却下していた。(小堀桂一郎編『東京裁判』講談社学術文庫)。
よく東京裁判が「勝者の裁き」といわれるが、その「勝者」があるイデオロギーを持って行われたことを、日本人は注目しなくはならない。
まず戦勝国が検事と裁判官を兼ねるという構成をもつ東京裁判が、「勝者の裁き」であることは明らかだが、その勝者の法廷は、何よりも戦時日本の国家指導者や軍人たちの「戦争責任」を断罪しようとしたことそのものが、OSSの方針であったと言える。(牛50)。支配者と被支配者、権力と民衆、という階級意識が、その根底にあり、国民は常に、指導者と対立させられている被害者、という論理に基づく見解である。ナチが選挙で選ばれた、ということを忘れ、ナチ軍部によって、国民が犠牲にさせられたという観念が、彼らのイデオロギーとして貫かれている。
その権力者に対して「連合国に対する侵略戦争遂行の責任」の追及を行い、それに対する批判を許さなかった。しかし連合国側の侵略戦争の責任は全く問わない、ただの敗者への断罪ということ自体、裁判に値しないものであったのだ。単なる「勝者の敗者への戦争自体への復讐」に過ぎない。ここにも民主勢力と独裁国家勢力との対立構図をつくり上げることによって、「勝者」の正義と、「敗者」の悪を絶対化する論理があるのである。敵と味方の固定的な見方、すなわちユダヤ主義と反ユダヤ主義が、社会主義勢力の善と、帝国主義の悪の絶対化、そこにはマルクス主義の階級闘争の絶対化の思想が元になっているのである。
これに対して唯一、裁判の中で、インドのパル判事が、反論したことは、知られている。
《勝者によって今日与えられた犯罪の定義に従っていわゆる裁判を行うことは敗戦者を即時殺戮した昔とわれわれの時代との間に横たわるところの数世紀にわたる文明を抹殺するものである。かようにして定められた法律に照らして行なわれる裁判は、復讐の欲望に満たすてために、法律的手続きを踏んでいるようなふりをするものにほかならない。・・儀式化された復讐のもたらすところのものは、たんに瞬時の満足に過ぎないばかりでなく、究極的には後悔をともなうことはほとんど必至である》(講談社学術文庫、前掲書)
「敗者」日本に対して、「勝者」の一員としてのぞんだ側では、唯一インドのバル判事が、東京裁判を「儀式化された復讐」という指摘によって、このまやかしの論理を非難したのである。しかし「復讐」の中にイデオロギー的意図があったことを見抜くことはなかった。パル判事だけでなく、裁判自体の違法性を訴えた判事も他に二人いたが、法律上の問題からに過ぎなかった。
そしてそのイデオロギ―の中には、決して西洋の植民地主義に対する批判はふくまれなかったことである。バル判事は言う。
《ただもう一度つぎの点を述べておきたい。すなわち東半球内におけるいわゆる西洋諸国の権益とは、おおむねこれらの西洋人たちが、過去において軍事的暴力を変じて商業的利潤となすことに成功したことのうえに築かれたものである》。この指摘は、西洋植民地主義者の戦争を過去のものとし、第二次世界大戦は、そこから脱している、という西洋側の論理がある。自分たちに「民主主義」という名の「社会主義」路線がある、という認識が隠されているのである。
《第二次世界大戦が始まったときには、一九二八年の不戦条約の規定をのぞけば、まだいかなる種類の戦争も国際法下における犯罪ではなかった。それを戦勝国が、ただ戦争に勝ったからというので、事後法で裁くのはおかしいと、パル判事は述べた。また同時に、日本は共同謀議をしていない、と指摘し、「共同謀議」というのは東京裁判の主たる訴因っをも否定した。それが成立しない以上、被告全員は無罪にすべきである、と主張したのである。。不戦条約(ケロッグ=ブリアン条約)を基準にしているがこれも国際法として確立されていなかった。そこでは「侵略戦争」の定義さえ明確ではなく、「自衛戦争」の境界はどこにあるのか不明であったのだ。不戦条約でさえも「侵略戦争」でさえ、犯罪としていないのではないか、と疑問を投げかけたのである。さらに戦争という国家の行為に対して個人が責任を問われるということは、これまでなかった、と指摘した。。すべてが一方的な論理で裁判が行われたことを明らかにしている。その一方的論理とは、法理論には配戦国を裁く、という論理がもともとないのだから、この東京裁判が、党派的イデオロギーによってのみ、なされたことになる。
むろんその党派性とは、勝利した側の、ソ連を含んだ「連合国」という党派性であるが、そこに、共通な「隠れ社会主義」の党派性が、あったことに気づかねばならない。この裁判自体は、かってドイツ帝国の初代宰相ビスマルクがいみじくも述べた《国際法は力のある国家同士が作っているのであって、力のない国が主張したとしても受け入れられないのは明らかである。だから、そのような発言をしたいのなら力をつけてからするしかない》という考え方は、社会主義勢力であろうが、民主主義勢力だろうが、みな同じである。裁判という公正を装った「儀式」はイデオロギーとは関係がない。(座257p)。
1 天皇の免責
日本では今日まで、近現代史家も評論家も、天皇の訴追せず、という決定は、マッカーサーがした、ということになっていた。
これまで日本では、アメリカ政府内で、天皇起訴論と不起訴論が対立していたが、しかし東京にいるマッカーサーは九月二十七日、天皇と会見し、占領政策の遂行上、天皇が不可欠と判断した、とその不起訴論がマッカーサーの判断に由来するというのが一般的であった。元帥はまた十一月二十六日、米内光政海相に、「天皇の地位を変更するという考えを、自分は全然持っていない」と伝えたともいわれる(植松慶太「極東国際軍事裁判」でも、最近では日暮吉延氏の『東京裁判』(「講談社現代新書、二〇〇八年)でも繰り返されてきた。それは間違えであったことが、このOSSの存在によって、明らかになったことは第二章以後述べてきたことである。
さらに東京裁判の直前、戦犯リスト作成中のマッカーサーが、アメリカのアイゼンハウアー参謀総長に宛てた四六年一月二五日の書簡で、《天皇を告発するならば、日本国民のあいだに必ずや大騒乱を引き起こし、その影響はどれ程、過大視しても、し過ぎることはないであろう。天皇は日本国民統合の象徴であり、天皇を廃絶するならば、日本は瓦解するであろう》という機密電報など、マッとサーの証言を中心に、象徴天皇論の直接の系譜として論じられてきた。
この裁判が、「勝者の論理」による「復讐劇」である、といわれながら、その国の元首に手を下さなかったことは、OSS―マッカーサーーキ―ナンの線がいかに強力であったか、を示している。国務省は、だいたい東京裁判で天皇を裁くという判断を下していたのである。たしかに。日本通の元日本大使であったグルーが、天皇ヒロヒトと天皇制とを区別して持論を展開している。彼が、天皇ヒロヒト個人が戦争に反対していたことは、グルー自身が日本に関知した証拠に照らして明らかである、と述べていた。しかし、その名において戦争が行なわれた以上、天皇はその行為の結果に対して、少なくとも形式的責任は免れない。したがって、敗戦に際して天皇ヒロヒトが責任ととって退位することを免れるとは考えがたい、と考えていた。(五81)。キ―ナン個人も、初めは天皇を裁くという側にいたと言う説もあるほどだ。もっとも昭和二十年十二月に日本に来た時は、マッカーサーを助けるためにいう言い方をしている。(264p)。このときまでに、OSSの方針を知ったのであろう。
こうして、ほとんどの裁判官が、天皇を訴追して被告席に座らせることにより、少なくともそれで共同謀議を行ったといえるし、裁判も成り立つと思っていたと考えられる。やはり御前会議というのは、天皇臨席のもとに軍と政府の最高指導層を集まって重要な国策を決めたのあるから、共同謀議と言うことが出来る。
裁判長になったオーストラリア人のフェッブも《この犯罪の主導者は、裁判に付され得たにも関わらず免除された》。《「被告の刑罰を量定する際には、天皇が裁判を免除された事実を考慮に入れるべきだ」と被告の死刑に反対するとさえ、言ったのである。フランスのベルナール判事も裁判の手続きの瑕疵として、天皇の裁判からの免除を挙げている。《だから有効でない、と》。しかし、その肝心な人が座っていない、ということ自体、裁判官の正義観なるもの、ひいては西洋人の理性たるものが、力というものには、いつでも屈することも暴露していることでもある。この場合の力とは、日本国民の必至の抵抗力を恐れたのである。
しかし東京裁判は天皇を被告から外す、という決定をしたのである。それこそ私たちは、マッカーサーの畏れの言葉を導いた、日本における天皇の力の大きさを感じる。連合軍ははじめて日本史を理解した、といえるかもしれない。とはいえ、彼らは諦めたわけではなく、将来に託す作戦に出たに過ぎない。
結局検察官キ―ナンが、マッカ―サ―の意向を受けて天皇を訴追しない、と言う判断から、あとの裁判官は、真意がわからぬまな終わったのが、この裁判なのである。OSS~GHQ―マッカーサーーキ―ナンという連鎖によって、この東京裁判が成り立ったということになる。
その上に立って、東京裁判では、キ―ナンが東條英機元首相に、最初の弁論を撤回させて、天皇にはその御意志がなかった、と述べされた経緯がある。《豈、朕が志ならむや》という詔勅の御言葉を引いて、しぶしぶと同意されたの再証言したから、キ―ナンもその後、追及をしなかった、ということになっている。
ただ天皇免責の発言としては、それ以前にあった、ということは、多くの研究者によって指摘されている。
これまでの学界における日米関係史・占領史研究の通説では、一九四二年十一月十九日のアメリカ国務省におけるホーンべック国務省顧問の極東課宛覚書で《われわれの戦争遂行努力の進展にともない、わが国政府が、日本国天皇に関して(おそらく皇居や皇室関係の神社等に関しても)とるべき方針の問題を集中的に検討されたい》という要請されて以降の、米国国務省領土小委員会内の検討(一九四三年七月三〇日~一二月二二日)に遡る、と考えられてきた。五百旗頭真氏、、中村政則氏でもその点が指摘されている。アメリカ側からの戦争終結と戦後改革に天皇を利用する考え方についても、国務省極東課で戦後日本構想を立案したジョージ・ブレイクスリ―、ヒュー・ボートン、ジョゼフ・バランタイン、ジョージ・アチソンらの外交官、特にコロンビア大学日本史担当から国務省に入った「知日派」ボートンがキーパースンとされきた。またボートンにも影響を与えた元英国大使ジョージ・サンソム、開戦時駐日米国大使から四四年一二月には国務次官になるジョセフ・グルーらの日本観・天皇間に焦点を合わせるものが多かった(加藤哲郎『象徴天皇制の起源』前掲書)。。
加藤氏は例えば五百旗頭真氏の『米国の日本占領政策』(上下、中央公論社、一九八五)に対して、日本では米国対日政策形成研究の定説的位置に占めていると評価している。そこで、第二次世界大戦期の米国の戦時対外政策が、国務省ばかりでなく、陸・海軍、戦時貿易省、さらに大統領補佐官ハリ―・ホプキンスやOSSドノヴァンらの多角的ルートで起案され、ルーズベルト大統領の決定がなされてきたことを述べているからだ。
《しかしながら》と氏は言う。《対日政策については、国務省の第二次諮問委員会・特別調査部(SR,一九四一年二月発足、四二年末で七一名、内学者二七名)の極東班六名(班長クラ―ク大ブレイクスリ―、コロンビア大ボートン、スタンフォード大マスランドら)が、四二年一〇月から四三年六月にかけて行なった対日方針策定に、焦点を合わせている。ここから、「徳川時代の百姓一揆」で博士号をえた知日派ヒュー・ボートン~ブレイクスリ―、~バランタイン、グルーら穏健派外交官の「自由主義的改革に天皇制のマントを着せる」方向が、戦後日本構想の基調となったとみなしている》ことを批判する。
第一に国務省の構想が大統領の対日政策の柱になったかどうか、今日のイラク戦争でもわかるように、国務省が外交政策を独占しているわけではない、という。第二に専門家による極東班(中国、朝鮮政策を含む)が戦時政策立案に影響力をもったか、疑問がある、とする。私もこの点は賛成で、ルーズベルト大統領の性格からしても、決して国務省の言いなりになったとは思われない。
中村政則氏は象徴天皇の起源を四二年一二月一四日の国務省極東課員マックス・ビショップの言葉に注目した。天皇を《日本の国民統合の象徴(a symbol of Japanese national unitiy)と記したホーンべック宛て覚え書き、ビショップの上司のグルーの四三年九月三〇日付ホーンべック宛の《象徴として、天皇制はかっての軍国主義崇拝に役立ったと同様に、健全で平和的な内部成長にとって磁石としても役立っている》と言っているからである。その延長上で、「天皇は実際上の指導者ではなく、象徴的指導者である」と書いてグルーが推奨したという日本研究者ヘレン・ミア―ズの四三年「日本の天皇」論文、それにボナー・フェラ―ズがマッカーサーに提出した天皇を「象徴的元首the symbolic head of the state」とした四五年一〇月二日の文書が重要だとした。そしてそれがマッカーサーに影響し、東京裁判直前の、四六年一月二五日の先程のべたアイゼンハワ―参謀総長への手紙にまで発展する、と見ている。
また加藤氏はOSSのソルバート大佐の腹心であるラインバーカー文書を見出している。大佐の「日本計画」の策定に関わっており、デュ―ク大学助教授として、四二年二月に陸軍省軍事情報部(MIS)心理戦争課、四二年八月から戦時情報局(OWI)海外局の極東班長、ソルバート大佐の下にいた、という。日本では、ジョセフ・グルーの戦時スピーチ・ライターで、『心理戦争』(みすず書房、一九五三年)の著者であると共に、「人類補完機構」シリーズの覆面SF作家子―ドウエイナ―・スミスであったことで知られている、」という(加藤、前掲書)。240p)
加藤氏は、やはり、象徴天皇の起源を、一九四二年六月のOSSの米国心理戦「日本計画」が注目している。
《日本の天皇を(慎重に、名前をあげずに)平和の象徴として利用すること》と日本計画にあることが最初である、という。
そこには、天皇の「ネイション=国民・民族」ないし「ピープル=民衆・人民」の統合機能であった。しかし同時に「シンボル=象徴」としての天皇を国旗になぞらえた記述や、「国家そのもの」とする見方もでき、「ステイト=国家の象徴」につらなる流れをつくったと考える。
私はすでに、第 章で紹介した一九四二年二月刊のヒュー・バイアズ著『敵国日本』が、《天皇は日本の聖なるシンボルであると同時に、人間である》と記している。これがよく読まれた結果、その「日本計画」が生まれたと予想した。すでに「象徴天皇」は新渡戸稲造から語られているが、それが日本の支配工作として取り上げられたのは、OSSが、社会主義の二段階革命を意識し、まず天皇の力を利用して、軍国体制を崩壊させ、その封建的体制の崩壊の後、民主主義という名の社会主義への転換を考えるという構想が明確になったからである。
マッカーサーはOSSの「日本計画」を一九四三年の段階で承認していたことは、書簡でわかるが、OSS長官のドノヴァンとの対抗心があったことは、それを明らかにしない態度を説明している。ドノヴァンが、情報収集にカトリック側を利用し、一方マッカーサーの方がプロテスタントであったという違いも影響しているからかもしれない。ドノヴァンのOSSは、その情報力は広範囲で、そこに多くの共産主義者を多数抱えていたことはすでに述べた。
いずれにせよ、天皇を温存させるという政策は、OSSから決められていたのである。
占領軍の天皇制政策について、ダワーは『敗北を抱きしめて』で、マッカーサーの軍事秘書官であるボナー・F・フェラ―ズ准将が最重要の人物だ、と述べているが、そのフェラ―ズは、実をいえば、マッカーサー司令部に赴任する直前まで、ドノヴァン直近のOSSの「心臓」にあたる心理作戦計画本部に勤務しており、極東のみならず世界全体での米国心理戦略立案で重要な役割を果たしていたのである。そのことをダワーは知らなかったという。OSS文書には、その名が、一九四三年の「心理戦計画グループ」の四番目に名がある、と加藤氏はいう。四二年七月から四三年九月までOSS計画本部に勤務していたというのだ。
加藤氏は米国の「天皇制温存=利用政策」の起源はこれらの起源よりもさらに早い、このOSSの「日本計画」だという指摘をしたが、しかしその計画の意図は何であったか、語っていない。五百旗頭氏が言うように国務省の六人の極東班のつくった案(ソ連共産党の「三二年テーゼ」をつくったコミンテルン極東班と同じ程度)では力にならなかった、と述べている。OSSでは、調査分析部(R&A)極東課が、数十人のアナリストを揃え、朝鮮関係でも五人以上の専門家を擁していた、という。『資料日本占領1 天皇制』でも、OSSの資料は国務省中心に、「皇居を爆撃すべきか」以下四十四年以降の三本が入っているのみで、四二年四月には爆撃回避の指令がされていた。
加藤氏は原秀成氏の『日本国憲法制定の系譜・戦争終結まで』(日本評論社)の線で、自分は研究したと示唆しているが、原氏の五巻に及ぶ大著は、日本国憲法の策定に関わった人々の経歴を追って、日本国憲法に込められた想いの数々を俯瞰する「系譜学」の手法をとっている。第1条天皇、第9条戦争放棄のみならず全条項に目配りし、例えば米国ローズヴェルト大統領「四つの自由」や国連憲章がどのように46年憲法に流れるかを詳しく逐語的に解明している。しかし米国内の流れは国務省・三省調整委員会文書に集中されたため、OSSの動きか閑却されている。但しすでに述べたエマーソン=野坂参三の線はよく指摘されている。
「戦時」中のアメリカは一枚岩ではなく、国務省の独占的外交権限が弱まっていた、と考える必要があるだろう。それだけ、内部抗争も激化していたのである。OSSの「日本計画」が廃棄された形になったのも、その政策過程に関する限り、国務省が無視した結果と思われる。しかし実際は国務省の方が受動的で後発であったのだ。その中で、本書で述べてきたドノヴァンのCOI OSS~CIAの流れが、有力であったのだ。加242ぺ。
加藤氏はOSSのドノヴァン文書(リ―ル四六)に、「極東における戦後のリーダーシップ」という調査分析部(R&A)ソ連課長ジェロイド・T・ロビンソン起草の一九四三を年八月一八日の覚書があり、チャーチル首相=ルーズベルト大統領のケベック会談を受けて、戦後極東政策を全面的に洗い直している文章という。それが、カイロ・テヘラン会談からヤルタ協定、ポツダム宣言へと、連なる連合国の戦後アジア構想策定を誘導した米国側態度決定の、OSSにおける土台となったと思われる、とアメリカの動きの本筋が、こちらにあることを指摘している(加藤・前掲書)。加24.
OSSの力を大きく見る加藤氏は《日本の無条件降伏の遅れに乗じて、ソ連の対日参戦が間に合った》ことが、マッカーサーとGHQの跳梁の余地を与え、OSS出身のフェラ―ズや「日本の対米スパイ」とマークされた寺崎英成の暗躍が可能にした、と述べている。
加藤氏は、なぜOSSが、それだけ力を持ったかについて、次のように述べている。
《OSSは、反ファシズムのヒューマ二スムと学問研究の特性を利用し、戦時体制下に研究者を総動員し、その成果を吸収しつくして世界戦略を立案し、勝利した。だからこそ、その担い手たちは、戦後アカデミスムで圧倒的な影響力を持ち得た。その実証分析を重んじた組織的な情報戦によって、ナチス・ドイツや軍国日本はもとより、指導者の意に沿わない情報を遮断し切り捨てる旧ソ連の国家哲学強要型情報部や、伝統的なイギリスの秘密主義的諜報戦に勝利しえた》などと言っているが、そのソ連の異なった、左翼ユダヤ人学者のフランクフルト学派的な「批判理論」が、ルーズベルトの隠れ社会主義路線によって、支持されていったことが、理解されていない。その理解の仕方が、「天皇制民主主義」である、というのも、大半の保守陣営の受け止め方と変わりがない》(加藤・前掲書)。
2 「A級戦犯」と「一億総懺悔」
「東京裁判」で「A級戦犯」として、訴追され裁かれた二十八人の日本人被告は、昭和二十三年十一月十二日、判決を受けた。公判途中で、二名が病死、一名は精神病ということで外され、判決を受けたのは二十五名である。そして死刑執行されたのは七名、服役中に病没したのが五名、計一四名が、昭和五十三年靖国神社に合祀された。牛42p。
私たちは、いつの間にか、この「A級戦犯」という言葉に慣れてしまっている。このことは、あの戦争は、国民には責任がなく、すべて戦犯たちの行為であった、という、私たちの安易な責任逃れの精神を与えてきた。少なくとも、彼らを選び、戦時中、支持してきた、という事実を忘れさせ、それさえも、彼らの勝手な暴走によって、我々が被害を受け取ったのだ、という意識に慣れてしまったのである。戦争直後に東久邇宮稔彦王が国会での施政方針演説の中で「一億総懺悔」という言葉を聞いたときに、日本人はそれを身にしみて感じたにも関わらず、戦後二十年たつと、その言葉が不自然なものに聞こえ初め、私たちは「戦犯」がいて、自分たちはそうではない、という思考になってしまったのである。
「一億総懺悔」などと聞くと、なるほどそれは宗教用語で、今や意味が理解出来ない、領域の言葉だと感じる。「懺悔」などというと、造られた言葉にように聞こえ、リベラル派はこれを「仏教用語、キリスト教用語」と言って特殊化しようとしたり、それ故「わけのわからない言葉」と言うようになっているが(半藤一利、竹内修司、保坂正康、松本健一『占領下日本』筑摩書房、二〇〇九)、決して特殊な用語ではなく、過去に犯した失敗を神仏や人々の前で、告白し、許しを乞うと、いう意味で、皆で深く反省しようというものである。現在の『広辞苑』でさえもそう書いている。そこには軍部とか、支配層だけ、なとという概念はない。それが東久邇宮首相が述べたとき、正直な、国民の世論を代弁していたのである。
というのは、「一億総懺悔」と、昭和二十年八月一七日に内閣総理大臣に就任した東久邇宮稔彦王が、九月五日に行った国会での施政方針演説の中の発言したとき、戦争前の平時の法体系に戻すことを閣議で決定しようとした。彼は記者会見で、日本はいま国民的な苦哀に喘いでいる。このようなときこそ、軽々(けいけい)に足並みを乱さず、国家的な団結を維持しなければならない、と語った。
《敗戦の因って来る所は固より一にして止まりませぬ、前線も銃後も、軍も官も民も総て、国民悉く静かに反省する所がなければなりませぬ、我々は今こそ総懺悔し、神の御前に一切の邪心を洗い浄め、過去を以て将来の誡めとなし、心を新たにして、戦いの日にも増したる挙国一家、相援け相携えて各々其の本分に最善を竭し、来るべき苦難の途を踏み越えて、帝国将来の進運を開くべきであります》
それが「国体護持」につながると述べた。さらに言葉をつないで、そもそも今度の敗戦にはいくつかの理由がある。原爆の投下やソ連の参戦、国民道徳の退廃、それから戦略の間違いとか全部で五つくらいある、と言うのだ。そのために戦況が悪化し、敗戦を余儀なくされた。しかるが故に、この段階ですべての国民が敗戦という事態を反省し、懺悔し、そして改めて団結を固めようという。それがいわゆる国民的な「一億総懺悔論」である。私はこれが日本人の全体の世論であったことに疑いを容れない。天皇の終戦の「詔勅」の精神を、自ら感じとっていたのである。戦争を始めるときの、多くの日本人の共感も、同じものであったはずだ。
この見解は、今のような軍部だけに責任がある、などと、保守まで信じ込んでしまったことに対する、本来の責任論の在りかとなっていると思う。それを今更、嘘であった、私は抵抗した、反対だった、などいう人がいれば、それは真実ではない。
むろん一方で、この東久邇宮稔彦王の言葉には、「詔勅」に対して天皇陛下に申し訳ない、という気持ちの表現ととる、向きもあるのも知っている。しかしこのような国民全体に責任がある、という感情が、日本人の偽らぬ感情であったはずである。多くの人々が皇居に向かって跪いた。自刃するものもいたはずである。しかしそれよりも、戦争が終わって安堵する者も含めて、その艱難に、国民ひとしく懺悔する精神は共通していたはずである。
それを丸山真男のみならず、後藤田氏のような自民党の中枢まで、同じ様な意見になってしまったのは、いかにOSSのプロパガンダ路線が、東京裁判にも貫かれていたか、を思い起こさせる。
この「一億総懺悔」に似た言葉に「悔恨の共同体」という言葉がある。これは丸山真男が使った言葉であるが、同じような意味であるが、一方は肯定的な意味で、人々に賛成を促し、他方は日本社会をつき離した否定的な意味合いがある。
「東京裁判」が閉廷された翌年(一九四九年)、東大に奉職した政治学者丸山真男が、「軍国支配者の精神形態」(『現代政治の思想と行動』(未来社、所収)という論考を発表した。ニュ―ルんベルグの裁判で、《私は百パーセント責任をとらねばならぬ》と言ったナチス被告のゲーリングの責任感の強さに対して、日本人被告は「既成事実への屈服」と「権限への逃避」とを常とする「無責任体系」を糾弾したことで有名である。その態度は、まさに東京裁判の「A級戦犯」への断罪の精神と重なり、世論を変える原動力のひとつとなった。
ここにはナチのゲーリングがユダヤ人虐殺の責任をとらされたのであって、ドイツでの戦争を起したことに対する責任ではない。もしそれを衝けば、ゲーリングでさえ、その責任はない、というであろう。
丸山真男の「超国家主義の論理と心理」でも、さきの戦争について、 これを主導した日本人指導者に「世界観的体系」や「公権的基礎づけ」がないと言っている。 ドイツ・ナチスの指導者は「今次の戦争について、その起因はともあれ、開戦への決断に関する明白な意識を持っているにちがいない。 然るに我が国の場合はこれだけの大戦争を起こしながら、我こそ戦争を起したという意識が・・どこにも見当たらないのである」(丸山)という一文がある。私はこれについて、批判したことが、あるが、(拙著『日本と西洋の対話』講談社出版センター、二〇一〇)。」、丸山にはさらに、「軍国支配者の精神形態」という論文があって、 東京裁判での日本人被告の「矮小性」をナチ戦犯の「明快さ」と対比的に論じ、繰り返してナチの責任感の強さを評価している。 「空気」で行動する日本人が、自分の主体的な「責任」が取れない、ということを論難しているのである。 そして戦争における蛮行を日本人だけ非難する。 丸山の「悔恨の共同体」とはまさに大東亜戦争を日本人が「悔恨」するものでなければならないというのである。
しかしなぜ、丸山はこうした軍国支配者だけを批判するのであろうか。自分自身が、そうではないとでもいうのであろうか。もし自分が、ゲーリングのように、なりたい、と思うなら、彼自身若いときに五年以上、西洋に留学して、むこうの学者の中で、もまれれば、西洋人的な生き方が身につき、ゲーリングのようになれるかもしれない。それは心性の問題であって、「既成事実への屈服」や「権限への逃避」「矮小性」の問題ではない。
しかしそれ以上に、政治学者として、こうした支配者批判が、勝利国の、日本の歴史否定の謀略にのせられていることに気づかなかったのであろうか。OSSの意図した、日本国民の分裂を目的とする、軍事政権断罪を、日本人として肯定してしまっている。最も、丸山自身が、日本の共同体を批判するマルクス主義者であったからであろうか。(牛61)。
OSSの「日本計画(最終報告)」の中に、《日本の諸階級・諸集団間の亀裂を促すこと》とある。36ぺ。《今日の軍部政権の正統性の欠如と独断性、この政府が、天皇と皇室を含む、日本全体をきまぐれに危険にさらした事実を指摘すること》と述べられている。
つまりこの軍部政権を裁判にかける、という意味は、日本に階級分裂の状態をつくり出し、彼ら同志、闘争状態にする、ということである。ここから、日本人全体を断罪する、ということは、敗戦という処罰で、充分である、という発想以上に、指導者層をギロチンにして人民と対立を図り、日本社会の階層分裂から、次の段階で、さらに日本を変革する、という思想が内包していることを見て取らねばならない。
キ―ナン首席検察官は検察側冒頭陳述(昭和二一年六月四日)で、《文明である連合国が野蛮な日本を裁くという枠組み》を示した上で、《彼等が同胞の上に何を齎したかを見んと欲するならば我々は単にこの建物の階上に数歩を運べば足りるのであります。人が記述に依り為し得るより事実はさらに雄弁に語って居ります》(『極東国際軍事裁判速記録』九号付録)と言っているのは、その指導者層が、人民に齎した事実も述べ、空襲の惨害は、被告席に座るこの《極めて少数の人間》たちのせいにほかならないと、あからさまに言っている。「結果責任」への言及である。
しかしこれは、《極めて少数の人間》の戦争責任のみを問うという視角を明示することで、その他の多数の日本人を事実上免責し、対立させ、占領軍への協力を容易にするための発言である、と言える。歴史的考察ではなく、政治的方策であったのだ。つきつめれば、おフラ―トに包んだ階級闘争史観である。軍部とそれを支える財閥に対する階級闘争を示唆している。それが戦後のGHQによつ「財閥解体」に結びつくことになる。実際、東京裁判の審理の場で、訴因にもない「A級戦犯」の敗戦責任が糾弾されることは、ある意味では階級裁判であった。牛50p)。たしかに戦後、常に、政府と国民は対立する、といった発想は、ここから出ているのである。
確かに「A級戦犯」とな名ざされたち人々も、東條英機大将以下、何かしらの形で、自国民に対する責任を明言している。しかし彼らは戦前、戦中の日本の指導者であり、当然そのような意識をもつであろう。しかし、彼らもまた裁判中に、キ―ナンらの見解にすでに馴染んでいる。
しかし当のマッカーサー司令官自身が、後に米議会で、この戦争の理由を、、資源の乏しかった日本が輸入規制等により包囲され、何千万、何百万という国民が失業に陥ることを恐れて行った安全保障であったと証言していることでもわかるように、彼らの戦争を起こした責任は、国民のためであった、ということが出来る。これは日本が「ハルノート」を拒否せざるをなかったことが当然である、という敵の言葉でもあった。
それに対し、戦後《「ハルノート」を受諾出来なかった筈はない》という非難が東郷に浴びせられたとき、そういう批判に対し、東郷は《戦争による被害がなかった丈け有利ではなかったかとの考があるかも知れぬが、これは一国の名誉も権威も忘れた考へ方であるので論外である》と獄中で記した『時代の一面』の発言は、そのことを述べている(牛44ぺ)。
戦後、同じように、この国民の分裂を意図するOSSの意図が見抜けぬ人たちがいる。「それは《結果として負けたからではなく、初めから戦争を導いた点で、「A級戦犯」の多くは、国民に対して政治的責任をもつのではなかろうか》(村田晃嗣『朝日新聞』平成十七年七月三〇日)などという学者も、結局、同じ、OSSの支配者、被支配者を分裂させる、宣伝に乗っていることになる。
他に、自民党の副総裁であった後藤田正晴氏まで《A級戦犯といわれる人たちが戦争に勝ちたいと真剣に努力したことを、だれも疑っていない。しかし、天皇陛下に対する輔弼の責任を果たすことができなかった。国民の多くが命を落とし、傷つき、そして敗戦という塗炭の苦しみをなめることになった。そのことに、結果責任を負ってもらわないといけない》と「東京裁判」を肯定するような発言をしている。
牛村圭氏は《靖国合祀の十四名の「A級戦犯」全てに敗戦の責任があるという前提に基づく論理である。侵略戦争の遂行の共同謀議で、日本側被告を一網打尽にしようとした検察側の枠組みと同じ、すなわち「個」を認めない視点が感じられる。戦後政治に残したその足跡には敬意をはらいたいものだが、この元副総理もまた、「A級戦犯」それぞれの功罪についてはあまりご存じないのではないか、と思わざるをえない》(『「戦争責任」論の真実』PHP研究所、二〇〇六)と述べているが、《日本側被告を一網打尽にしよう》とする、アメリカ側の意図に、さらにイデオロギーがあったと見るべきなのだ。
そこに東京裁判と日本国憲法の一貫性があることは、OSSを牛耳ったフランクフルト学派の「隠れマルクス主義」の階級と言う言葉を使わない「階級闘争史観」である。、この裁判と共に、日本国憲法にもそれが持ち込まれたことが、保守の側でさえも気がつかれない、のは、やはりマルクス主義音痴とでもいうべきであろう。これらによって日本国民の価値観を転換させるまでの大きな影響を及ぼすことになったことさえ、気がつかないでいる。この日本国内の、少数勢力であるはずの「革新」勢力が、あたかも大きな力をもつかのような理論的は背景を与えられたのである。ここの二極分解れによって『権力を取らずに世界を変える』(ジョン・ホロウエイ著、同時代社、二〇〇九年)術策にはまり、戦後の「左翼」化が始まったのである。
これらがOSSのプロパガンダ路線を継いだ、左翼GHQの策謀である。というのも、GHQ司令部に対する批判を、一切認めない、というGHQの指令、東京裁判の結果を、批判してはならない、という徹底した統制が出ていたことによる。《連合国最高司令官および司令部に対する、いかなる一般的な批判および以下に特定されていない連合国最高司令官指揮下のいかなる部署に関する批判も、この範疇に属する》という指令である。むろん、極東軍事裁判に対する批判も禁じられ、アメリカのみならず共産党国のソ連に対する批判も一切、禁じられた、この恐ろしい左翼的な全体主義が、あたかも正義の法であるかの如く新聞、放送を通じて蔓延した。此の占領時代に、一万にも上る焚書、禁署令が出ていたことを、左翼論壇は一切無視してきたのである。
これら「A級戦犯」が、他の死者とともに、靖国神社に合祀されたのも当然である。それは昭和五十三年のことであるが、松平永芳宮司の主張が、、昭和二十七年四月二十九日までは戦争だったという考えを持っていたことは、正しい判断であった。占領下は戦争の期間である。その間に死んだ人たちは、平等に殉難者である、という考え方は、これがある種の「階級裁判」であって、決して正しい意味での「裁判」ではなかったからである。(座285p)。昭和三十一年厚生省は殉難者と同じように年金を出していることも、事務的な手続きとはいえ、当然のことであった。松平によれば、維新殉難者を前例として、獄中で死んだ人たちも皆、殉難者とした、と言うことだが、まさにそれが「一億総懺悔」の精神の体現であったのだ。
この判断は正しかったのである。国民がすべてで敗戦という責任を取った以上、それをあたかも国民は責任がなく、一部の軍国主義者だけが、責任がある、なとということは、現実の過程ではなかったからである。
最後に一言すれば、五一年のサンフランシスコ講和条約十一条、《日本国は、極東国際軍事裁判所ならびに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘束されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする。》によって、日本は、この「東京裁判」を受諾した、と解釈してきた。日本はサンフランシスコで戦争責任を認め、謝罪して国際社会に復帰したはずだ、と言われてきたが、それは裁判が「儀式化された復讐劇」だとすれば、この「平和条約」も「義典化された復讐劇」なのである。これらの「儀式」や「義典」は、日本人の本質的な人間行為を覆い隠すものに過ぎなかったのだ。