『戦後日本を狂えわせたOSS「日本計画」』の次の論文の発表
はじめに 新しい「ユダヤ人問題」
中東問題がまた深刻になってきている。二十三年間続いたチュニジア・ベンアリ政権の終末から三十年間のエジプト、ムバラク政権の崩壊、四十一年間のリビアのガダフィ独裁政権のあがきまで、アフリカ北部のイスラム諸国の動揺が著しい。それは単に、民主化の動きだとか、貧富の格差、失業問題の増大の問題だけではない。見逃してはならないのは、そこにイスラエルの問題があることである。
こうした長期政権の裏にあるのは、彼らをイスラエルが支えた事実がある。一九四八年イスラエルの建国以来、パレスティナの反抗をおさえるために隣国エジプトばかりでなく、シリア、ヨルダンなどへの懐柔策は避けられなかった。長く続いた中東戦争後の軋轢は、これらの独裁政権を長期に支持することによって、パレスティナの反イスラエルの動きを抑えてきた経緯がある。しかしユダヤ人のパレスティナ支配が年を経るごとに、抑圧を生むという事態によって、あらたな「ユダヤ人問題」として、その観点を変える状況が生じてきた。
日本の知識人の間では「ユダヤ人問題」は、イスラエル抜きで文学的に語られることが多いが(※1)、しかし現実にイスラエルのパレスティナ占領という問題が、イスラム諸国対イスラエル、イスラム諸国対アメリカ、イスラム教徒対ユダヤ・キリスト教徒の問題として広がるにつれて、これまでの文学化されたユダヤ人問題ではなくなっていることを認識しなければならない。それは世界の政治的中心課題となっているのである。
長い歴史問題はともかく現代のイスラエルがパレスティナ地域を占領し、アラブ諸国にとって侵略国である、と見なされている事態は、すでに特権化の余地なきイスラエルの問題として浮上しているのだ。その統治の方法が問題となり、ユダヤ人の中から『ガザ回廊―反開発の政治経済学』や、『ホロコースト産業 同胞の苦しみを「売り物」にするユダヤ人エリートたち』、『イスラエル擁護論批判―反ユダヤ主義の悪用と歴史の冒涜』、『占領ノ―ト 一ユダヤ人が見たパレスチナの生活』といった本が出されている(※2)。 それでわかるのは、アウシュビッツの生き残りの次の世代が、次々と侵略国イスラエルの行状を告発し、批判していくという事態であり、あらたな「ユダヤ人問題」が提起されているのである。
ネタニヤフ首相ら、イスラエル政治家は、パレスティナのハマスの「テロ」の攻撃のみを言い募り、被害者意識だけを語るが、モサドの攻撃についても、そのパレスティナへの圧政のことを言わない。イスラエル入植地は、すでにイスラエル全域に及ぼうとしている。それは「侵略」という以外にない。 そしてガザ占領地区があたかもアウシュビッツに近い状態になっているということ、イスラエル統治下のパレスティナ人の隷属・衰退ぶりは、「ナチ」の下のユダヤ人と似た状態になっていること。こうした「ナチ」とイスラエルとの類似性が、必然的にユダヤ人観を変えるのである。 「アウシュビッツの後に、詩を書くのは野蛮だ」などというアドルノの発言は、ユダヤ人の被害者としての特権化の上に立っていたが、もうそうした発言は、無効となる事態が生まれていることになる。
ベンアリもムバラクもガダフイもその長期政権だった理由は、イスラエルとの関係なしには考えられないことであった。 彼らの権力は、イスラエルからの取引なしには成り立たず、その密な関係を国民は知っていたに違いない。 彼らのパレスティナ人との共闘を抑え、彼らの植民地主義への批判を軽減することでもあった。それは彼らへの懐柔策がなければ成り立たないものであった(※3)。
いずれにせよ、イスラエル国家という共同体の成立は、ユダヤ人をして、パレスティナ側から見た侵略国である一面を如何に糊塗するかにかかっていた。 国際的にそうした立場を否定する言論をつくり出すことを、メデイアや資本を握ったイスラエルの外のイスラエル人(ユダヤ人)が、行ってきたことの綻びが、今度の政変で出始めたのである。かえって今度の政変で、このイスラエル問題が、どこにも論じられていないかに見えるのも不気味である。 かつての「ユダヤ人問題」の特権を借りて、この問題を避けようとする風潮は、今後のユダヤ人にとっても、好ましいことではないはずなのだ。
1 共産主義による弾圧
しかし、もともと「ナチ」の犠牲となった「ユダヤ人問題」という神話は、アドルノがそうであったように世界の文化人の正義の御旗となりうるものであったのだろうか。もともとユダヤ人自身の自らの特殊化に対する反動ではなかったのか。 ユダヤ人の開発にかかる原子爆弾の犠牲者となった日本人の生き残りの一人としては(私は八月九日に長崎・香焼島にいた)、こうした特権化は、決して快いことではない。
ところでその中東の政変の余波を受けて、それを知った中国の青年たちが、「中国ジャスミン革命集会」と称する呼び掛けを行なった。共産党当局が全国三十以上の主要都市に多数の警察官を動員し、集会やデモの封じ込めた、とネットのニュースは伝えている。ノーベル平和賞の劉暁波氏の拘留は続いている。
しかしこうした弾圧は、すでに行われてきた粛清、虐殺に比べるとまだ小さいことのように見える。表に出てくるニュースは、これまでの隠された多くの事実の氷山の一角である。現在でも、表面の経済発展にも関わらす、年に十万件以上の暴動が起き、その取り締まりで、どの程度の人々が犠牲になっていることはほとんど知らされていないし、ネットにも稀にしか載らない(むろん、統制されているのである)。
二十世紀、世界ではこうした共産主義政権下の虐殺は一億人に上っていると指摘されており(※4)、それはこの一世紀の世界の戦争で殺された人々よりはるかに多いのだ。それにも拘らず、その悪は、ドイツ「ナチ」のユダヤ人「虐殺」ほど執拗に追及されてはいない。
私は別に「ナチ」のユダヤ人弾圧を擁護するものではない。その「人種抹殺」の思想は、例え戦時中とはいえ、決して許されるものではなかった。それは、規模はともあれアメリカが日本に対して原爆を落とし、強制収容所をつくっていた「人種差別」と同じように糾弾されるべきものである(※5)。 「差別」は決してユダヤ人に対してだけではなかった。さらにここ三十年、中国共産党政権によって「南京大虐殺」記念館が多数つくられ(ここ三〇年、というのが、事件の起こったはずの一九三七年から四〇年以上経っていることに注目あれ)ことも、捏造された中国共産党による「歴史無視」の宣伝であることへの糾弾する同じ精神に基づいている。
しかしそれよりも、数からいっても犠牲者の多い、共産主義による惨状に対して、それへの追及は、ドイツの「ナチ」への非難ほど、徹底してはいないことは、どうしたことであろうか。あくまでまだ少数意見の段階にとどまっているのである。ここには、彼ら罪悪を糊塗しようとしている、未だに続く共産党支持者の一方的な党派性があるのだ。
《共産主義の犯した犯罪は数えきれない》と同『共産主義黒書』はいう(※6)。まず精神に対する犯罪がある。これは世界の文化、民族の文化に対する犯罪でもある。スタ―リンはモスクワの教会をいくつも破壞し、チャウチェスクは誇大妄想の光景を現出させる宮殿を築くために、ブカレストの歴史的都心を打ち壊した。カンボジャのポルポトはブノンペンの大寺院を倒し、アンコールの寺院をジャングルの中に荒廃させた。毛沢東は「文化大革命」を呼称して江衛兵を使い、貴重な文化遺産を破壊させ焼失させた。 これらの破壊が人類全体にとってどんな重大な蛮行であったか底知れない。それは文化破壊だけでなく祖先たちへの冒涜であったのだ。そうした祖先たちの精神の圧殺だけでなく、現存する人々、子供を含む人間の大量虐殺が、起こっていたのである。
最近スリグ―ノフ著『ソヴィエト=ロシアにおける赤色テロル(1918-23) レーニン時代の弾圧システム』(※7)という訳署が出た。この書物の原著はすでに一九二四年、ベルリンで出版され、ロシアで二〇〇六年に最新版が発行された。 訳者が述べているように、日本でも三十年前以上から出版の話があったが、そのままにほっておかれ、やっと二〇一〇年になって陽の目に出たということだという。いかに日本でも左翼論壇による自主規制が行われているかを見てとれる。
この本は、すでにロシア革命の後、スターリン以前からいわば公然と虐殺が行われたにも関わらず、それ自身が、「暴力革命」路線として秘匿され、非難の的にならなかったことが語られている。「血まみれの統計」という章では一九一八年の段階から、毎年、「革命裁判所」により、銃殺された人々の記述がなされている。 この著者は、それが「赤色テロル」として共産党の持つ「階級抹殺」というイデオロギーでされたことを語っているのだ。ナチの「人種抹殺」よりもはるかに主観的な「階級抹殺」を口実に人々が逮捕され、処刑され、暗殺されていたことを述べているのである。 それが、レーニンの時代から行われていたが、意外にその指導者の責任のことは、この書物では語られていない。つまりこれらの処刑は、集団指導的に行われたのである。かならずしも誰かが「責任」を問われることのない体制の中で、されていたことになる。この「革命」はある共通な集団によってとりしきられていたのだ。
その集団とは何か。それはユダヤ人グループである。当時の新聞が発表したソ連の指導者の記事は、いかにユダヤ人が多かったことと記している(※8)。そのロシア名から、彼らがユダヤ人であるかとうか判然としないが、この記事では、その本名と偽名を両方記しているのである。私はトロッキーとかカーメネフがユダヤ人であることは知っていたが、レーニンもメシュコフスキーもユダヤ人の血があることは知らなかった。 事実、レーニンの母親はユダヤ人であった(ロシア正教に改宗はしていたが)。そして指導者一四人の名が並んでいるが、すべてユダヤ人であった。この書の調査によると、ソ連政府の各委員会におけるユダヤ人の数、及びパーセンテ―ジは、政府の中心の人民委員会、総数二三人のうち、一七人、七七%がユダヤ人なのである。 また軍事委員会も七六%、外務委員会、財務委員会が八〇%、司法委員会に至っては九五%であり、裁判がこの委員会の下で行われたとすると、ユダヤ人に処刑された、という印象が生まれたとしても不思議ではない。社会委員会、公の新聞記者の数に至っては、一〇〇%すべてユダヤ人なのである(※9)。
《ユダヤ人はロシアの革命を準備し、之を仕組んだ、ユダヤ人は真の無産階級、萬国主義者で国家をもたない。トロッキーを吾々の帥とし君として立てることはロシアの無産階級の義務であって又最も安全な途である。如何なる程度まで過激主義とユダヤ主義とが一致するかを示す手段の為に、過激派は赤色の星を採用した。此の星はユダヤの徽章であって又シオンの徽章である。勇敢なユダヤ人は社会主義の前衛である。資本家は無産階級に頭を下げ、ユダヤ人の涙は血の汗となって、彼らの身体から流れるであろう》(※10)。
これらの状況証拠から、ロシア革命の裏の姿は、ユダヤ人の革命運動であった、ということである。またこの革命に資金的援助をしたのもユダヤ人のヤコブ・シッフであった(この人物は、日露戦争時に日本に資金援助をしたことで知られている)。 こうした事実をこのソ連と対立するヨーロッパ諸国、とくに歴史的にもロシアとの対立することが多かったドイツ人が受け取ったとすれば、彼らのユダヤ人に対する恐怖と憎悪の念が生まれないはずはないのである。ヒットラーが『我が闘争』の中で、《ユダヤ人はドイツ全国民の皮を剥ぎ、搾取しながら国民の怨をプロシャ人に向けて煽った。 此の宣伝は戦線では判っていたが、後方には影響はなかった。・・プロシャとバイエルンが互いに口汚く論争し合っている間に、ユダヤ人は革命を仕組み、プロシャとバイエルンと双方共に、骨抜きにしてしまった》と書いている(※11)。事実、ロシア革命だけでなく、ドイツ革命をユダヤ人がねらっていたのだ。しかしそれは頓挫してしまったが。
ドイツのヒットラー政権がおこなったユダヤ人迫害は実をいえば、このような歴史的伏線があったことが、余り日本に伝わっていない。アウシュビッツは何はさておき、反ユダヤ主義という「人種差別」の象徴である、と語られてきただけである。しかしこうしたソ連のユダヤ人で固められた共産党政権の残酷な弾圧、虐殺に対する反動の意味合いを忘れるべきではない。 そのことを考えると、アウシュビッツを絶対的・悪の象徴として語るなどとは出来ないことになる。「アウシュビッツの後に詩を書くことは野蛮だ」などと、公言するユダヤ知識人そのものが、いかに人を瞞着させるものであるか知ることが出来る。私はこれまで述べてきたとおり、ユダヤ人の友も多く、反ユダヤ主義者では毛頭ないが、しかしこのことは大変注目すべきことだ、と考える。 アドルノの思想は、こうしたユダヤ人の自己憧着に依拠している面が多い、と感じるのは私だけであろうか(前回ではそれが第二次世界大戦中の問題として論じた)。
むろん、若いアドルノのいたドイツにこのようなソ連共産党の蛮行の情報が伝わっていたかどうか、それは調べなければならない。彼の先輩である「社会研究所」の一九二〇年代のメンバーのヴァイルやホルクハイマーやボロックたちが、ソ連の恐怖政治について、知らされなかったのであろうか。そんなことはあるまい。ソ連に関する情報は現地から直接届いていたはずだ。意図的に無視したのである。
この点で、最近のロレンツ・イエ―ガ―のアドルノに関する「政治的伝記」は参考になる(※12)。例えば、のちにモダニズムを代表する写真家となったジェルメ―ヌ・クルルは、ミュンヘン大学の学生だったころからホルクハイマー、フリードリッヒ・ボロックとは交流があったが、熱血の共産主義者としてロシアに赴いた経験を持っていた。彼女はドイツの社会主義革命の一端であるミュンヘンのレ―テ共和国が挫折した後に、バイエルンから追放されている。 そしてロシアからも追放された後、一九二一年一月十二日にリガからホルクハイマー宛てに送られた手紙で、《今や私は断固たる反ボルシェヴィストになりました》と書いている。監獄の状況は「とてもひどく」どうにかこうにか生きていける程度であったと彼女は書いている。自分がソヴィエトの制度に対する批判者となったのは、個人的な理由ではなかったという。 《もしボルシェヴィスムが西側世界に実現したら、それは全世界と、そして何よりも労働者階級にとって不幸になるだろうと、今では考えています。歴史は先に進むし、先に進むほかないことは分かっていますが、この血なまぐさい実験は、歴史の腫瘍です。これは何人かの犯罪に長けた天才たちの犯行として烙印を押されたものです》。ホルクハイマーはこのメッセージを理解していたはずである。
しかし彼がソ連に抱いていた期待は、事実を認めるには強すぎたのである。彼の当時の友人であり、のちに妻となるローザ・リーケアに宛てた手紙でホルクハイマーは、ジェルメール・クルルの手紙からは「朽ち果てた者」の声が聞こえてくる、などと言っている。彼女は「恐ろしい程に」変わってしまった、と記している。あたかもソ連の実験に対して批判的な意見を言う者は、道徳的に怪しい存在とされたのである(※13)。 それは最近まで日本の左翼知識人が中国、北朝鮮に対してとっていた態度と似ている。
研究所の人々は殊更、ソ連の迫害を無視したのである。それもレーニン下の情報をことさら無視し、共産党政権の弾圧やウクライナ地方の飢饉について、誰も語ろうとしなかった、と言う。三〇年代初頭に、ロシアからの亡命者でジャーナリストのフヨ―ドル・ステブンは、当時《ベルリンとフランクフルトの著名な知識人たちに、ロシアで何か起きているかをはっきり教えよう》(※14)と試みたが、分かってもらえずに失望したと書いている。ステブンはそのような知識人の態度を見て、「左翼スノビスム」と表現した。 この状況について彼は、知識人たちのなかではヨーロッパ文化に対する感覚が後退してしまい、彼らはむしろュ―トビア世界への感情的、イデオロギー的な旅を求めている、としている。そのうえで、その傾向を助長するように、ドイツの文化はもう終わったと知識人は言っている、とも語っている。これも戦後のある時期における日本知識人の、日本文化否定の風潮と似ているようだ。
つまり、この時代、それだけソヴイエト・ロシアへの偏愛が強かったのである。左翼のインテリの家庭では、政治や哲学や芸術に関心をもっていれば、まずはロシアのことを期待をもって話していたと言う。ロシア革命はそれだけインパクトがあったのである。他の地域の革命がすべて失敗していただけに、このソ連のボルシェヴィスムが、彼らにとって、大きな希望となっていた。異論を唱えても、「反共」の議論はことごとく反論される雰囲気であった、という。当時のソ連びいきは、日本においても、戦後のある時期とよく似ている。 平和運動家が、ソ連や中国の原爆はきれいで、米国のそれは汚い、というのに似ている。共産党の国の暴虐には眼をつぶっていたのと同じ心理である。拉致の暴露以前の北朝鮮に対する日本の報道もそうであった。
アドルノ自身はどうであったか。その頃の発言から窺ってみると、どうやらホルクハイマーらと同じであったようだ。研究所のある討論で、ソ連における自由は、一般に思われているよりも大きい、などとコメントしているし、その音楽論文で《「ロシアの亡命者ストラヴィンスキー」と「ファシズム」との関係は明らかだ》と、ロシアを逃れたこの作曲家を結びつけて、非難している(※15)。
このような明らかに党派性をもった「革命」志向の知識人たちが、自らの志向を、その思想的な著述に反映するとすればどのような形になるのであろうか。
2 知識人の革命志向と学問
マルクスの有名な言葉に《哲学者は世界をさまざまに解釈してきた。だが肝心なのは世界を変革することである》(※16)という、書斎の左翼学者を震撼させた文句がある。学者が共産党員となる、というひとつの伝統をつくり上げたフォイエルバッハ・テーゼの文句である。私は二〇〇三年の半年間、ベルリン・フンボルト大学に招聘されて歴史の研究をしていたが、社会主義政権下の東独の大学となっていたその入り口ホールにこの文章が、壁にまだ記されていたのを思い出す。 東ドイツの崩壊後もまだこの用語が残されていたのは、大学人が、まだそれに執着していたからに違いない。少なくとも、崩壊後、十年以上、経っていたからである。まさにこの東独は、その「変革」をした結果、国家が滅亡してしまったのである。
しかし同じ年、一方でアドルノ(一九〇三~一九六九)自身の生誕百年を祝って、あたかも「変革」の勇者のごとく、連日メデイアでその「評価」が行われていた。「解釈」者が「変革」者に勝った如くであった。
私は皮肉を言っているのではない。もともとマルクスの言葉自身が間違っていたことを言いたいからである。哲学者が「世界を変革する」ことなど出来はしないのだ。「哲学者」でなくとも、歴史上、社会の「変革」を一部の人々が意図的に行なった例は、南米で植民地化するために押し入ったスペインの侵略者のグループだった。 武器の圧倒的優位が、少数者の「変革」を可能にしたのである。「哲学者」たちがそうした侵略者になる覚悟があれば、の話である。レーニンがロシア革命を成功させた、などという「神話」は、その政治性、暴力性によるもので、その「哲学」によるものではない。
従って、おそらくアドルノをはじめとするフランクフルト学派の哲学者たちが、はじめて「解釈」だけの作業で、世界を「変革」出来ると思っていた一派であったことになる。実際、彼らがフランクフルト大学を拠点とし、アメリカに移っても、「社会研究所」という「権威」あるグループをつくることによって、うぶな学生を従えてアカデミズムを牛耳ることになり、彼らの意図する中産階級の意識の「変革」に貢献した、と言えるかもしれない。 今もなお、「カルチュアル・スタデイーズ」とか、「フェニミズム」「ポスト・コロニ有りスム」とか、名前を変えて、ある種の「変革」を目指している。
果たして「哲学者」の「変革」の武器となる「解釈」とはどんなものであっただろうか。
それまでの「哲学」においての「解釈」といえば、近代ではデイルタイの提唱した「解釈学」のことを思い出すべきかもしれない(※17)。その「解釈学」は、いわば、それは過去の人間がつくり出してきた精神の産物を、過去と現在の共通性にのっとって、あくまで客観的に了解しようとする学問である。その際には過去のテクストや文化的な創造物には、それをつくりだした者の意図や意味が現在でも不変である、ということが前提となっている。現在から見て、意味不明であるかに見えても、そこには解読コードが隠されて存在していることが前提である。
こうした文化の連続性を認めたがらないマルクス主義者は、その存在そのものを否定的に述べようとする。それを社会の階級的な存在であることを、ことさら強調するのである。アドルノは哲学の負うべき課題は、現実のなかに隠れて存在している意図を探り出すことではなく、《意図なき現実を解釈すること》だと述べているが、その現実とは、社会的存在として批判の対象とすること、と言ってよい。 そのような「解釈」を通じて哲学は、個別科学が獲得した成果をも新たな謎として、コードなき「判じ絵」として探求することになる。
アドルノは実証的な個別科学と解釈的な哲学の連携という主張をする。例えば「反ユダヤ主義」の研究をするとき、社会的背景を実証的に示すために、アンケートや面接調査を行い、客観的な装いで示すが、その解釈の際には研究対象を常に批判的に行い、歴史との連続性を断ち切ろうとする。それが共同研究『反権威主義的パーソナリティ』〈一九五〇〉(※18)などで、もともと「権威」というものは、伝統的なものから生まれるのであるが、アドルノらはその「権威」がもつ社会性が、罪悪を生みだすことをことさらに取り上げるのである。それが「権威主義」批判となって表わされる。
アドルノのその後の理論的営みは、古典的な哲学や文学テキストの「解釈」に向かう。彼の講演「哲学のアクチュアリティー」(※19)にあるように《意図なき現実の解釈》という出発点は、その社会的背景を問題にしながら、アドルノの関心は現実そのものというよりも、テクストそのものの意図を批判することを目指すのである。
彼の思想がしばしば「ネガティヴィズム」と言われるのもそれで、後期のアドルノの『否定弁証法』に代表される著作(※20)には、理性や合理性に対する全面否定ないし懐疑を投げかけ、共同体の連続性を断ち切ろうとする傾向をもつことになる。
たとえばカントの哲学的体系が抱える種種のアポリア的な矛盾を重視し、ヘーゲルの絶対精神の自己実現という哲学の、個々の主体に対して、自立した経済法則の背景を述べて、それを裏返しの形で否定する。これは観念論のテクストを精神の歴史的状況の暗号として読む読み方ということになる。つまり、哲学的解釈による古典的な問いは、そういう問いを出している社会的現実の変革を要請せざるをえない、とアドルノは考えていることになる。
講演「哲学のアクチュアリティー」でアドルノは、そのような現実変革の思想を「唯物論」と名づけ、マルクスの例の変革のフォイエルバッハ・テーゼの文句《哲学者は世界をさまざまに解釈してきた。だが肝心なのは世界を変革することである》を、あくまで哲学的な理論にかかわるものとして、引き合いに出している。彼の「弁証法」とは、このような理論(「解釈」)と実践の絡まり合いを意味しているのである。
アドルノによれば、その「解釈」は、現実そのものを「変革」することに、最終的に果たされる性格のものである。だが、アドルノは、プロレタリアートによる社会の革命的実践による「変革」には期待を寄せていないようだ。それでは「解釈」のための現実的な実践は、どのようなものとして考えられているのか。この実践が特定されないかぎり、問いの消滅が生じえないし、結局のところ謎解きは成功しないことになる。
ということは、「解釈」により、社会を「変革」するのではなく、理論的に否定し、その後の展望は、示さなくてもいい、というのがその態度と言ってよい。『否定弁証法』のありかは、あくまでその過程が重要である。たとえば自然と人間の関係の質的な変化を考えるとき、分業という社会的支配の廃絶を述べるが、最終的には自然と文明の宥和というユートピア的な期待が示唆される。しかしその具体的な方途は記されないし、彼の「弁証法」は目的をつくる性格のものではない。 アドルノ哲学の非実践性、実践との関係の欠如という批判は、戦後の一九六〇年代の「五月革命」の時期に繰り返し投げつけられることにもなるのも、その理由によるのである。
アドルノ自身に社会の変革の展望がないとすると、彼が依拠したマルクス主義とは何であっただろうか。彼の論理のあり方とは実をいえば、ユダヤ人特有な性格による、と思われる。のちにナチスによって殺害された哲学者テおドア・レッシングは、一九二四年に次のようなユダヤ人と革命の結びつきを述べている。
《歴史の中で永遠にさまようユダヤ人は、生まれつき革命的で急進的な思想の持ち主であると一般に言われているが、これはある意味ではあたっている。のちに小さな集団となったとはいえ、高度な能力を身に付けた人々の共同体としてユダヤ人たちは、正義についての厳格な要求をみずからの身に引き受けたのである。 聖書とタルムードは、満ち足りた者たちを糾弾する説教を絶えず行っている。それゆえに、抑圧された苦悩を定めとされた民族が(実際に苦悩する共同体であり、苦悩する人々の共同体であるかぎり)ユダヤ人は、すべての無力な人々の代表であり、代弁者として、すべての権力に抵抗する。これは強い本性の特徴である。彼らの弱い者たちのために責任を負うのである。それゆえに、われわれユダヤ人には、ヨーロッパの急進主義と偉大な革命の歴史、つまりヨーロッパの共産主義とアナーキズムの歴史が、ユダヤ人の最も高貴で、最良の証拠であると思えるのである》(※21)。
常に権力に抵抗する、という性格は、それが現実の「変革」であろうが、言論における「批判理論」であろうが、同じユダヤ人の態度なのである。このようにマルクスがユダヤ人であったように、アドルノにとっては、「解釈」そのものが、実践であったのだ。そしてユダヤ人の特種な姿勢として、少数派からの変革の運動に身をおくことは初めから当然のことであった。
その根幹にはルカーチの理論がある、といえるであろう。アドルノは『小説の理論』など、大学入学資格試験の受験生だった十七歳のときにすでに読んでいた。ルカーチは文学理論家として活動を始めており、彼の著作では、革命は、まさに歴史に書き記された約束の論理的な帰結にように現れている。はじめから文学的願望なのである。
ヘーゲルの歴史哲学では、「世界精神」が打ち出す方向性は明らかである。それはあたかも東から上り西に向かう太陽の軌跡のように、中国から革命後のヨーロッパへと向かって進む。そのような進行によって「世界精神」は「自由」の意識の進歩に従っている、とルカーチはいうのである。ヘーゲルの歴史哲学からおよそ百年後に書かれたその『小説の理論』の中では、世界精神の進む方向はヘーゲルの場合とはまったく逆に、西から東に向かっていく。 つまりスペインで『ドンキホーテ』に始まった市民階級の小説が切り開いた新しい世界は、その後フランスとドイツを経て、革命前夜のロシアにおける未来の期待(それをルカーチはドストエフスキーに見出そうとしている)へと脈々とつながっていく。そして実際にルカーチが辿った道は、長年にわたってモスクワに通じていた。この点では、彼は社会主義的リアリズムの教条主義者になり、またヨーロッパのモダニスムの敵対者となったのである(※22)。
ルカーチが《プロレタリア的思想家の偉大さ》と讃えたレーニンについて、彼は《革命的な労働運動が生みだした偉大な思想家》であり、そこには《自分が絶対に正しいとする感覚と、自己の立場と歴史法則とを同一視する思考》が形づくられている、という。それがロシアの共産主義の特徴だ、と述べている。これに対してルカーチの悲劇形而上学では《歴史的必然性は、あらゆる必然性のなかで最も生に密着したものである》としている(※23)。
私も一九六九年にハンガリーの学会でルカーチが出席しているのに出会ったことがある。私は歴史的人物である、という印象はあったが、すでに彼への批判的な見解を持っていたから、近づいて紹介してもらう気にもなれなかった。
アドルノもルカーチに個人的に出会って、次のように書いている。《大きく深みのある人だというのが、第一印象だった。小柄で、繊細で、タルムードの雰囲気のある鼻、奥の深いすばらしい眼をしたぎこちない東欧ユダヤ人、麻のスポーティは服を着て、まさに学者風だが、型にはまらない、死んだように透明で穏やかな雰囲気を漂わせていた。その雰囲気を透してこの人からかすかに感じられるのは内気さだけであった。・・私が驚いたのは、第三インターナショナルと彼の問題について、彼の敵の方が正しいと言ったことだった。 ただし具体的かつ弁証法的に見れば、弁証法という彼の考え方が絶対的に必要とされるのだ、と説明した。この錯誤のうちに、彼の人間的な偉大さと、転換の悲劇がある。トルストイについて、彼は悲しいほど悪口ばかりを言った。恐らく彼は自分のことを考えていたのだろう》(※24)。
たしかにこのフランクフルト社会研究所は、革命と学問の接点を模索するものであった。この研究所の設立には、ユダヤ人で小麦相場で成功した実業家フェリックス・ヴァィルが資金を出した。フランクフルト大学に創設したかったのは「学問的社会主義の本拠地」であった。一九二四年に研究所はマルクス主義者カール・グリューんベルクによって開設され、まず労働運動の歴史をテーマとして研究したが、一九三一年に研究所長としてホルクハイマーが就任すると、社会哲学の方向に向かい、それは文化全般、法、市民社会、国家、芸術、世界史の発展を視野に入れることになった。 それはへーゲルの後を継ぐという意味をもっていたが、歴史の担い手を「民族精神」におくとするヘーゲルの考え方を否定し、《哲学的問題を精密な学問的方法によって追及し、研究のプロセスのなかで、その問題をそれぞれの対象に照らし合わせ組み直してより厳密なものとし、新しい方法論を模索すること、しかもその際に全体を見る視点を失わないこと》であるとした。これは哲学的マルクス主義の基盤となるものであった。
研究所の基本方針はもはやマルクス主義ではなく、「批判理論」と名づけたことに示されるように、偽装したマルクス主義思想の展開にあった。ヴァルター・ベンヤミンがある論文で使った《現在の秩序に対抗して》という表現を《真に人間らしい秩序》という、より肯定的な表現に置き換え、あるいは「ファシズム」という表現の代わりに「全体主義国家」と言い換えた(※25)。 さらに「共産主義」という概念を、ベンヤミン自身は「人類の建設的諸力」と言い換えることを望んだ、という。このように、内部の事情に通じた者にしか理解できない言葉の使用が、もう初期の頃から始まっていた。戦後の共産主義者が「革命」用語を使わなくなったし、現代でもかっての「階級闘争」を「反構造」などと呼ぶのと似ている。つまり「隠れマルクス主義」となったのである。
所長のユダヤ人のホルクハイマーはマルクスの名を一度だけしか使わなかったことで有名であるが、それはもはや発想の源泉ではなく、オーギュスト・コントやマックス・ウエーバー、その他多くの古典的社会学者の一人に過ぎない、という態度を殊更取ったからであった。 つまりマルクスを含めた、これら従来の社会学者たちの理論は、これからの命題として、あるいは世界観として議論されるべきではなく、実証的研究によって再検討されねばならない、とされたのである。それで大学という「解釈」の学に徹するべき研究の場所が、「変革」の場所に秘かに転化する基因を作ったのである。
ホルクハイマーは一九三一年の研究所長の就任講演で、経済のプロセスにおいてそれぞれの集団の果たす役割と、《その集団を構成する個々人の心理構造の変化、およびその心理構造に社会全体が総体として及ぼす作用と、そこから生じる思考や諸制度》との関係の解明を目指すと述べた(※26)。 その際にまずはドイツの熟練労働者とサラリーマンの調査をするつもりだと語っている。この講演で何よりも重要なのは、心理学を重視したことである。
すでに引用しているアドルノ研究の好著であるロレンツ・イエ―ガ―の『アドルノ 政治的伝記』では、この研究プログラムが目指すのは、マルクス主義と精神分析とを合わせたものであり、それはもはや労働運動のたんなる下僕に甘んじまいとする態度に由来するものである、という。ドイツでは革命は挫折した――この原因は革命の担い手たちの、「虚偽意識」以外にありえない。 それゆえに、この「虚偽意識」こそが分析されなければならないと言うのだ。それゆえに研究所は、「革命」の理論研究から、挫折した革命の理論分析へと変化したのである。だからこそ、精神分析の研究者エーリッヒ・フロムとの共同作業が、研究所にとって非常に重要な役割を果たすことになった、という。しかしあくまでマルクス主義にそった「変革」こそが、その使命であった。
ユダヤ人のフロムの「共同体」とは、つまり彼らの理想とする社会とは、日本の抱く社会の「共同体」像と異なっている。なぜか。
フロムは、次のように考える。それは、国家の持たないユダヤ民族、宗教による統制はあるが、「教会による」拘束をもないユダヤ民族の存在を基準にして考えるのである。
従って、実際に存在する「権威主義」的な人間関係や領土への執着を、人間の性格のマゾヒズム的歪みとして、あるいは後退的で近親相姦的な歪みとしてしか説明できない、と倒錯的に考えるのである。フロムの考えでは、現在の社会の存続を保障しているのは、逆に、服従を欲する倒錯した快楽となってしまう。秩序に執着するのは、母親に対するオイデイプス的結びつきをまだ充分に克服していないのだ、とフロムは言う。 彼は預言者の役割から、生の実践のありようを導きだす。《預言者たちの教えの中心にあるのは、偶像に対する戦いである。預言者たちは偶像ではなく、すべての人類に共通する基本的価値を説いた。それは真理、愛、正義である。預言者たちは、これらの規範に従わない国家や、すげての世俗的な権力を攻撃した》(※27)。ここにあるのはユダヤ人特有の『旧約聖書』の思想である。
イエガ~が言うように《このような社会研究所のとりまく精神的な雰囲気は、ユダヤ教および預言者的モチーフと、全体を把握しようとするヘーゲルの継承する意志と、マルクス主義の階級理論と、哲学的・文化的次元での徹底したモダニズムとが混じりあったものだった》という(※28)。
3 アドルノの最初の芸術論文
研究所の最初の『社会研究誌』は一九三一年に発行された。アドルノは「音楽の社会的状況」を書いている(※29)。
芸術作品を社会との関係で論じる、という試みが、果して成功しているか、みることにしょう。つまり、「階級闘争」の諸力が抗争しあう場での音楽作品を、どのように論じることが出来るか、である。考察の出発点は、商品生産社会における音楽の役割である、という。そのような社会では、作曲の二つのタイプがあるとされる。一つは社会にすり寄り商業的な成果を目指すものであり、もう一つは市場に背を向けて「音楽そのもの」の立場に立つものである。この二つのタイプは、「娯楽音楽」と「純音楽」の区別と一致するように思えるが、それは見かけ上そうであるにすぎない、とアドルノはいう。「純音楽」のジャンルに入るものでも、とっくに市場に適応したものであるからだ。
ここで批判されているのは、リヒヤルト・シュトラウス(1864-1949)の作品である。アドルノはシュトラウスの『サロメ』や『エレクトラ』といった作品は認めながら、この作品が、シュトラウスの市民階級の趣味が耐えられる限界点に至っており、その後の作品は妥協に甘んじている、とアドルノは見ている。《市民階級の作曲家の中で、シュトラウスはおそらく最も階級意識をもった作曲家だろうが、大成功を収めた『バラの騎士』で彼は唯物弁証法を外側から打ち破り、全音階を一切の危険な夾雑物から浄化した。消費者意識に知性を捧げてしまった結果、シュトラウスの創造力は枯渇してしまった。『バラの騎士』に続く作品は芸術産業の産物である》という。
私もウイーンで『バラの騎士』を聞いたことがあるが、このような社会的な関係ではなく、シュトラウスの洗練の極致を聞いた思いであった。アドルノの見方は、商業的な受けをねらった、ということであろうが、しかし作曲自体にそれがあったかどうかは、単なる主観による推測だけである。作曲家は一旦、いいものを作ると、その後は繰り返しになる、という傾向をもつだけで、芸術産業の産物であるかどうか、言えることではない。売れなくとも同じ傾向を示す芸術家は多いのだ。
リヒヤルト・シュトラウスに対して「進歩」的な音楽の代表者として、アーノルド・シェーンベルク(1874-1951)を好意的に取り上げる。社会的状況からいかに孤立していても、細部まで考え尽くされた作曲がもたらす「不協和音」は、「社会的二律背反」を表現し、またそれによって社会への批判となっているのだ、とアドルノはもっともらしく言う。
アドルノはシェ―ンベルクの音楽の中に二重の運動に「弁証法」的転換を見ている。というのは、一方では作曲家ジェーンベルクは《歪みのない、萎縮していない魂を表現》しようとする衝動に身を委ね、その衝働のゆえに、彼の初期の作品は、精神分析に近いものがあるとする。音楽の規範性に拘束されることを止めてしまったので、シェーンベルクの音楽は《市民社会の個々人の魂とのあいだで「示しあわせている合意」を反映せざるをえなくなった。そして個人は今やその苦悩からの解放を告げられるのだ》と語る。ただシェ―ンベルクが、前衛的手法を取ったことを、評価しているのだが、しかし果たして市民が、それに賛同しているかわからない。もしそのことを評価したいのなら、ただそれがこれまでなかった、新しい手法で、それが珍しいと言えばいいのだ。
他方では、個人的な表現と均衡を保つものとして、十二音技法の作曲法には素材を《完全に合理的に、徹底して構成し尽くしている》。そのためにこの技法は《現在の社会のあり方とはまったく相容れない》ものだ、という。その限りではシェーンベルクは音楽を、《歴史のプロセスにおける合理的な見通し》があり、それがいわば計画経済に近づいている、という。言わばシェーンベルクに社会主義経済を見て、共感の言葉を送っていることになるが、その音楽は、そのようなものとは関係がない。実際、この作曲家は、ユダヤ人ではあるが、社会主義の立場をとっていたわけではない。アドルノにただそう見えたに過ぎない。実際はもしシェーンベルクが社会主義国、ソ連にいたら、その芸術の前衛性故に「ブルジョワ的」だと排除されたであろう。ソ連では前衛芸術は評価されなかったのである。
シェーンベルクと対立関係にあるのが「音楽的客観主義」である、という。これは過去の様式を仮面として使いそれを揶揄する戯れをしたり、場合によってすでに決まった秩序へと戻ろうとするものである、とアドルノは批判する。「下部構造」の経済が文化的「上部構造」に影響を及ぼすというマルクスの理論を応用して、アドルノはこの音楽的客観主義の方向を、ヴァイマール共和国の経済的安定期に属するものだと結論づける。私に言わせてもらえば、それは全く関係のないことだ。前衛音楽の手法をとらないからと言って、それは「下部構造」の反映でも何でもない。
パウル・ヒンデミット(1883-1963)はストラヴィンスキーの音楽の「毒抜き」として、それによって《社会的諸関係と基本的に融和できる可能性を表現したのだ》、とする。ストラヴィンスキーの『兵士の物語』にはまだ絶望や破壊的要素が感じられたが、ヒンデミットではその毒が抜き去られて、《自然に由来するような、解消されない、非弁証法的な憂鬱へと変わってしまっている。その憂鬱は、死を恒常的状態とみなす点で、同時代の哲学が具体的な社会的矛盾を実存的に回避し、結果として客観主義という人間学的・非歴史的な理念におもねろうとするのと同じものになってしまう》と指摘する。この「解釈」も主観的である。それはヒンデミットがある意味で新鮮さを欠き、凡庸であったからに過ぎない。
一方、社会主義者ベルトルト・ブレヒト(1898-1956)とクルト・ヴァイルの共同作業として作られた『三文オペラ』や『マホゴニー市の興亡』を、音楽的「シュルレアリスム」として、「伝統」を批判的に扱っている点で積極的に評価する。それに比べて、共同体音楽や特定の目的のために作られる音楽を好まない。なぜなら、このような音楽が要求する人間同士の共存は、「資本主義の生産プロセス」によってとっくに否定されているから、という。ただ前衛「好み」の問題を、社会の用語に置き換えているに過ぎない。
「共同体音楽」のなかで批判を免れているのは、ハンス・アイスラーの「階級闘争歌」である。その態度は、アドルノの「党派性」と言っていいが、さすがにこの音楽も特定の目的に使われるがゆえに、大衆の意識を変えるのではなく、それに迎合してしまう危険性がある、とアドルノは付け加える。 アイスラーは現在のプロレタリアートの意識を念頭に置いているが、《その際に彼は、作曲が従わねばならない要求、つまり歌いやすさ、単純さ、集団的効果などが、それ自体必然的に、階級的支配によって抑圧され拘束された意識状態と関連していることを見逃している。この意識状態についてマルクスほど明確に表現した人はいない。もし作曲活動がプロレタリア―トの意識状態だけを指標としてしまうと、その意識状態は音楽の創造力にとって足枷となってしまう》などと言う。音楽の前衛性と社会運動の前衛性を混同しているのである。民衆は音楽に、「歌いやすさ、単純さ、集団的効果」を期待しているのであって、アドルノの「創造力」などには期待などしていないのだ。
アイスラーの作品の実際的な効果、つまり《アジテーションとしての価値と、それにともなう政治的正当性》については、疑いの余地がない、とアドルノは語っている。しかし彼の作品を音楽の独自の形態として見るなら、その作品はすでに古くなったさまざまな様式の「疑わしい混在物」である、と言う。このアドルノの見解は、のちのアイスラーが作曲した東ドイツの国家『廃墟からの蘇り』の特徴を示していると言えよう。社会主義の「党派性」と音楽の「前衛性」は一致しないのである。
《これまで一貫してプロレタリア作曲家であったアイスラーという人物において、彼自身の出身であるシェ―ンベルク楽派が、一見するとこの楽派とはまったく逆の方向の試みと触れあっているのは、少なくとも注目をひくことである》。音楽に文字によって書かれた思想性と同じものを予想することは出来ない。このような単なる「党派性」は、ナチの側の「党派的」音楽と同じことになりかねない。
アドルノの文章はさらに続く。この論文は、《消費者意識、およびプロレタリア―トの意識の現状に一方的に、受動的に》合わせるのではなく、《音楽の形態によって積極的に意識に》介入するような音楽への展望を描いて終わっている、という。アドルノが描いていた理想は、音楽の「前衛性」と階級闘争の「前衛性」との結合であり、その際に音楽と階級闘争の両方の表現の固有性が保たれることであった。
しかし音楽は、それ自身に固有の芸術的論理に従うとき、それは決して、社会のそれと合致するわけではない。なおかつその際に《社会の現状の苦しみを表現し、苦悩を記す暗号のなかで変革へ向かうように訴えるべきだ》と言う。進歩的音楽の客観的目的は、《階級社会の克服である。たとえそのような音楽が、まるで独房のように、階級社会のなかで社会的に孤立した状況がら形成されるとしてもである》とするのも、音楽表現に、言語表現を混交しようとする思い違いをしている。
アドルノ自身はシェーンベルクによって代表される「無調音楽」を現代形式として主張するが、それは「調性音楽」の発展によって現われたひとつの方法である。シェーンベルクの作品自体は、「後期ロマン派」と呼ばれる「調性音楽」から発展させたものである。「調整音楽」がべ―ト―ヴェン、モーツアルトによって代表される「古典音楽」により成熟を遂げ、ワグナー、ブルックナーなどによって崩壊過程をたどり、シェーンベルクに至って、「無調音楽」や「十二音技法」の使用に達する。
これは「古典音楽」が、芸術の発展形態としての自立的なものでありそれ自体は、背景の社会の変化とは関係がない。上部構造や下部構造の反映ではないのである。その結びつけは、主観的なものでしかない。バッハの音楽形式が十七、八世紀のハブスブルグ家やルイ王朝の「王政」時代の社会と関係がないのと同じである。バッハの音楽表現は、かえって「ゴシック時代」の教会社会に対応するような形式であるからだ。音楽史は固有な表現としての歴史をたどるのである。
それは美術史が、ピカソ、カンジンスキーに至って「キュビスム」や「抽象絵画」の時代に至るのと対応する。それと時代的に同時現象である社会主義の動きと直接関係のないのである。現在社会主義国が崩壊したからといって、彼らの美術が崩壊したわけではない。もともとそれとこれとは別の動きであったからである。
たしかにルカーチ、アドルノ、ベンヤミンなど、フランクフルト学派が、ヴァイマール共和国の末期に、市民社会の社会的、政治的、心理的、文化的な「革命」的変革の時代に対応する、「批評理論」を目指したことは確かである。芸術に社会主義とモダニスムの傾向を植え付けようとした。それはまた、マルクス主義と精神分析の理論に、人間の存在の根本問題を解く鍵があると考えた左翼知識人たちの新しい動きともなった。しかしそれはあくまで芸術批評史の新たな動きであって、社会の「変革」とは関係のないことなのだ。マルクスの動きと、シェーンベルクやマーラーとは何の関係がない。これらの音楽家たちが、別に社会主義者ではないのと同様である。
芸術は過去の作品を否定することによって、「新しさ」を追い求める歴史をもつ。それは芸術家が自覚するかしないかの問題ではない。弟子が師匠の作品を模倣しようと務めても、それが師匠の作品を越えることもある。ピカソやカンジンスキーのようにそれを自覚的に「前衛性」を追求する芸術家もいる。
しかしそのことと「下部構造」の動きとは関係がない。マルクスは誤っていたのだ。むろんこれらフランクフルト学派の人々のように、時代的に並行現象である、と錯覚する人々もいる。たしかに「党派性」を持った芸術もある。「プロレタリア文学」や「社会主義レアリスム」などと呼ばれる作品である。そこに階級闘争であれ、計画経済であれ、また精神分析の治療による解決であれ、書かれていたとしても、それは「党派的政治文書」のひとつと変わりはない。しかしそれらは往々にして「プロパガンダ」作品となり、芸術史の軸では評価されない素人的なものとなる。アドルノがアイスラーの作品に見たように、技術における古さ、解りやすい通俗性をもつものが多い。
こうしたアドルノ芸術批評の欠点は、芸術の新しさへの追及と、社会批判とを重ねたために起きたものである。彼自身、作曲家であったために起きた、ひとつの主観的な結合となってしまった。時には、一方で質的な批評を行なっても、それを社会運動と結びつけるかぎり、そこに党派性、教条化が生まれる。それであるかぎり、芸術性とはならない。浅薄な「解釈」となり、アジびらと同じ性格のものとなる。それをフランクフルト学派は「批判理論」という、非政治的な形を与えたために、あたかも存在理由があるかのような感をえてしまった。それは芸術批評史の上でも有効性をもたないものである。
(『澪標』第62号掲載)
註
※1…日本ではユダヤ人の移民が少なかったため、「ユダヤ人問題」の書物は文学的な甘い視点のものが多い。最近では徳永恂『ヴェニスのゲットーにて 反ユダヤ主義思想史への旅』(一九九七年、みすず書房)や、内田樹『私家版・ユダヤ文化論』(文春新書、二〇〇六年)、なども、ユダヤ人の戦略に乗ってしまい、一切、ソ連共産党問題、イスラエル問題を触れていない。まだ一九四八年、イスラエル建国以前の第二次世界大戦中の一九四一年(昭和十六年)に発行された四王天延高『ユダヤ思想及び運動』(内外書房)は、共産党とユダヤ人の運動を結び付けたり、また国際連盟とユダヤ人とを結びつけ、日本を中国から追い出す工作をし、日本を敵としていたことを暴露している。筆者が、ロシアでユダヤ人との接触があっただけ、その体験が生かされて、すぐれた日本人によるユダヤ人考察となっている。序文平沼騏一郎、四王天延孝(陸軍中将)『ユダヤ思想及び運動』内外書房、昭和一六年。この本を御貸し下さった難波江紀子氏に感謝する。
※2…サラ・ロイ『ガザ回廊―反開発の政治経済学』原著一九九五年)『ホロコーストからガザへーパレスティナの政治経済学』(サラ・ロイの発言を集めたもの、二〇〇九年、青土社)。ノーマン・G・フインケルスタイン『ホロコースト産業 同胞の苦しみを「売り物」にするユダヤ人エリートたち』、二〇〇三年、立木勝訳、三交社、二〇〇四年、同著『イスラエル擁護論批判―反ユダヤ主義の悪用と歴史の冒涜』、三交社、原著二〇〇五年、立木訳、二〇〇七年。エリック・アザン『占領ノ―ト 一ユダヤ人が見たパレスチナの生活』、二〇〇六年、益岡賢訳、現代企画室、二〇〇八年。
※3…こうした政権の合い継ぐ没落は、今後、その長期政権の中で、いかにイスラエルとの関係を持っていたかを、明らかにする起因となるであろう。
※4…ステファヌ・クルトワ、ニコラ・ヴェルト『共産主義黒書―犯罪・テロル・抑圧―ソ連篇』外川継男訳、恵雅堂出版、一九九七年発行。クルトワ、ジャン=ルイ・バネ、ルイ・マルゴラン『共産主義黒書―犯罪・テロル・抑圧―コミンテルン・アジア篇』同、二〇〇六年。
※5…ドイツが降伏する前に、米英は日本に落とすことを決めていたことが明らかにされている。
※6…『共産主義黒書』一九九七年発行。
※7…スリグ―ノフ『ソヴィエト=ロシアにおける赤色テロル(1918-23) レーニン時代の弾圧システム』梶山伸一訳、社会評論社)
※8…英国の新聞『モ―ニング・ポスト』記者、ヴィクトール・イ―・マースデン著『ロシアにおけるユダヤ人と改宗ユダヤ人』(一九二〇年)という書物による。
※9…ニューヨークのロシア人亡命団体「ユニテ・オブ・ロシア」による。
※10…一九一九年四月十二日『デル・コミュ二スム』ロシア、ハリコフ市発行。
※11… アドルフ・ヒットラー『わが闘争 国家社会主義運動 下』邦訳、角川文庫、昭和四八年(一九七三)。
※12…Lorenz Jager, Adorno Eine politische Biographie, Munchen, 2003.(邦訳、ローレンツ・イエ―ガ―『アドルノ 政治的伝記』岩波書店、二〇〇七年)。
※13…Max Horkheimer,Gesaamelte Schriften, Frankfurt a.M. 15, 80.
※14…Jäger, 邦訳、84頁。
※15…Jäger, 邦訳、77頁。
※16…Die Philosophie die Welt nur verschieden interpretiert es Kommt aber darauf an, sie zu vernadern. Kar Marx. これがベルリン、フンボルト大学入口ホールに書かれたあった。
※17…マルクスはHermneutics, つまりギリシャの神々の意志を伝達するヘルメスの役割が、「解釈学」の基本であったと考え、それを哲学が行なってきたと、述べていたのである。「解釈学」では二十世紀ではハンス・ゲオルグ・ガダマーが名高いが、やはりデイルタイ(一八三三~一九一一)を上げるべきであろう。Die Entstehung der Hermeneutik,1900 『解釈学の成立』。
※18…Th.W.Adorno, Else Fr-Branswik, D.J.Levinson, R.N..Sanford, The Authritarian Personality, New York,1950.(抄訳『権威主義的パーソナリティ』青木書店、一九八〇年)
※19…Th.W.Adorno,Philoaophische Fruhschriften,Gesammelte Schriften, Bd 1, Frankfurt a M.1973(「哲学のアクチュアリテイー」はこの中に含まれている。邦訳『現代思想』1987、11)。
※20…Th.W.Adorno, Negative Dialektik, Frankfurt a.M, 1966,(邦訳『否定弁証法』作品社、一九九六)。
※21…Th.Lessing,Untergang der Erde am Geist. Europa und Asien,Hannover 1924.271 f.
※22…邦訳、ジェルジュ・ルカーチ『小説の理論』筑摩・学芸文庫。
※23…Georg Lucacs,Lenin,Neuvelt und Berlin,1967,(Jager,、イエ―ガ―・邦訳、40頁)。
※24…Th.W.Adorno, Ontologie und Diarektik,384 f,(『遺稿著作集』第七巻、「存在論と弁証法」。
※25…『暴力批判論 ベンヤミン著作集第一巻』晶文社、一九六九。
※26…M.Horkheimer,Op.cit. 3, 33.
※27…Erich Fromm,Philosophie und Religion, Munchen,1970, 101.
※28…Jäger,イエ―ガ―、邦訳、86頁。
※29…Th.W.Adorno,Gesammelte Schriften, Bd,18, 733.11『音楽論集V』「音楽社会学に関する諸論文」所収、邦訳『アドルノ音楽・メデイア論集』平凡社、2002年。