運慶といえば鎌倉時代の最高の彫刻家として、皆さんもご存じでしょう。私も『国民の芸術』(扶桑社)や『運慶とバロックの巨匠たち』(弓立社)などの本で、この巨匠が、奈良時代の東大寺大仏を造った国中連公麻呂(くになかのむらじきみまろ)と並んで、イタリアのミケランジェロ級の仏師である、と書きました。時代は異なりますが、この二人は、屈指の肖像彫刻を造っています。公麻呂の方は『鑑真』『行信』像を、そして運慶は『無着』『世親』像がすばらしい作品です。しかしそれらの拙著に書かなかった新しい発見をここで述べておきます。この時代の文化を調べはじめてわかった発見です。
『鑑真』像や『行信』像は、当時の実在のモデルから造ったものです。しかし『無着』『世親』像は、遠くインドの坊さんで、それも五世紀の人です。七世紀近くも前の人の肖像が残されていたとも考えられません。実際、この肖像を見ると、色の黒い眼の大きいインド人には到底見えません。またお釈迦さまや、菩薩、四天王などの理想化された型通りの顔もしていません。黄色人種の顔をしており、誰かモデルがいると思わせる独特な風貌をしていることは、おわかりでしょう。運慶は、この像をつくるために、モデルを探したはずです。
この像は今、興福寺の北円堂にありますが、この興福寺は、東大寺と共に、治承元年(一一八〇年)に、平重衡(たいらのしげひら)によって、焼亡してしまいました。それで東大寺は後白河院が、安徳天皇の名と共に、詔書を発せられ、再建を命じられました。重源という上人が、老体を鞭打って、その勧進を引き受けました。この東大寺の再建に、積極的に参加したのが、運慶ら、慶派の仏師たちでした。運慶はその再建のために尽力していることが、法華経の書写をしていることでもわかります。おそらく運慶が造った原形をもとに、大仏が再建された、と推測されます。
再建には資金が必要です。その重源上人が指名した勧進僧が、西行であったのです。西行(一一一八~九〇)はその時、もう六十九歳でしたが、そのために鎌倉を経由して、東北の平泉まで訪れました。そこには藤原秀衡がおりました。平泉は今でこそ、中尊寺やモ越寺しか見るものはありませんが、そのころは、京都に継ぐ東北の都として栄えていました。金色堂でもわかるように、東北は砂金が取れ、豊かな都市だったのです。東大寺にも頼朝から千両しか出さないのに、秀衡からは五千両出されたといわれています。
西行も元はといえば、東国の武士の出でしたし、藤原氏とも縁がありました。彼の経歴を見ても、東北への旅は若いときから行っています。彼が歌人になったのも、日本の源郷土を東北に見ていたようです。西行自身、武士にも僧侶にも成りきれぬ、自分の存在、自分の心理を和歌で読みとり、それを一生創り続けましたが、しかし彼の表の姿は、僧侶でした。「おのれ」とは何かを追及していった歌僧です。
運慶は東大寺の関係で、彼の姿を見ていたにに違いありません。かれは東大寺の隣の興福寺から、その法相宗の創始者である『無着』『世親』像を依頼されたとき、彼自身、興福寺の仏師でしたから、その始祖の考え方をよく知っていました。それは唯識論で、人間の心理というものを深く考察したものです。人間には八識があって、眼耳鼻舌身意などの感覚的な意識だけでなく、自分を考える第七識の末那識、さらに第八識に宇宙の意識を説く阿頼耶識という相がある、と説いたのです。
このような人間の深さというものを認識している人物を探したとき、運慶は西行に出会ったのです。西行は決して興福寺の僧侶でもなく、法相宗をよく知っていたわけではありませんでした。しかし、西行の歌を知っていた運慶は、この人こそが、その人間の奥義を知っているに違いない、と思ったのも決して意外なことではありません。
西行には鎌倉時代に描かれた肖像画があります(MOA美術館所蔵)。これは老僧が袈裟をつけた法衣の僧侶として描かれています。これが西行の像であることは、上部につけてある色紙形によってわかります。
《月の色に 心をきよく 染ましや 都を出ぬ 我身なりとは》
と言う歌で、最後の句が《我が身なりせば》というのが正しいものです。自分が都を出る事がなかったら、月の色にこれほど心が清く染まったであろうか、と詠っています。我が身の深層を詠っています。人間の心理の根底に、月の色、自然そのもの、宇宙そのものがある、という意味で、確かに唯識論を歌に詠っているように思えます。右手に歌集のような冊子をもっています。
これを運慶の『無着』と比べると、頭、顔、眼の大きさ、鼻、口の形などそっくりです。絵の方に頬骨が屋や張っているところ、眉毛が突き出ているところなど誇張がありますが、同一人物と考える他ありません。この彫像は建暦二年(一二一二年)に造られましたから、西行の死後、二十年以上たっていますので、理想化がありますが、勧進でえた寄進物を左手で持ち、右手をそえて支えながら、西行が歩いている姿と言えそうです。
もう一人の『世親』像の方のモデルは文覚上人と思われ、これについては次号で述べましょう。