日本の美術で世界的な傑作の一点と言っていい運慶の『無着』像が、あの大歌人、西行を表している、と言ったら、誰しも驚き、誰しもありうることだ、と納得するでしょう。運慶がそこで語っているのは、日本の仏教が本質的に理解されるのは、西行のような和歌の世界に身を投じて始めてなされるものかもしれない、ということです。インドや中国の仏教用語をいくら振りまわしても、日本人には理解できない、ということです。仏教的な悟達の域に入るのは、国語による自己洞察がなされて、はじめて得られるものだ、と言っているかのようです。
西行は、東大寺再建の勧進に六十九歳の身で遠く東北まで旅して、藤原秀衡から寄進してもらったものを、静かに持って帰って来た。その姿に、運慶は、その実践者の姿を見たのです。ふつう興福寺、北円堂では、『無着』像の方が何か包みを持っている姿で、立っていますが、一方、『世親』像の方は、何も持っていない姿で置かれています。
しかしよく見ると、『世親』像ほとんど『無着』像と同じ手つきをしています。昔から何も持っていない姿なので、見る人も慣れてしまい、その類似性よりも、その対照性の方に気をとられてしまいます。あたかもその手つきが、《何かを問いかける》ような姿だ、と言って別な解釈をしてしまう人もいるほどです。
確かにこの二つの像は対照的です。『無着』の方は、意志的な老年の顔をしており、同時に諦観を秘めているようです。一方の『世親』の方は、壮年で慈悲に満ちた、どちらかといえば、不安気な様子で何かを見ているようです。立て皺が眉間に見えています。意志と慈悲、諦観と感情という対照性により、この二つが対になっているようです。
二人とも仏像のように理想化された顔ではなく、誰か実在の人物を感じさせます。それならこの像は誰をモデルにしたのでしょうか。インド人や外国人には見えません。当時の人間で、やはり運慶の周辺の僧侶の肖像画を探してみる他はありません。当時の他の像が、例えば『重源上人』(東大寺、俊乗堂)像や、『運慶』『湛慶』『平重盛』像(いずれも京都、六波羅蜜寺)のように当時の人々をモデルにしているとすれば、この像もまた誰かをモデルにしていると考えざるをえないのです。
すると神護寺にある『文覚上人』像であることが、その顔の肖似性からいえるように見えます。やはり眉間に二本の皺がある。頬骨がはった顔、優しい眼、顎が四角い様など、そっくりといわなければなりません。美術史というものは、視覚的な類似性を見る事が大事です。日本の美術史家は文字資料ばかりを追って、形を見ていません。それで大事なことを見逃してしまうのです。
文覚上人は保延五(一一三九)年生まれ、建仁三(一二〇三)年没しているちょうど、運慶の前の同時代の人物です。西行と同じように、武士で僧侶でしたが、頼朝や御白河法皇の庇護を受けて、神護寺、東寺、高野山大塔、東大寺などの各地の寺院の再建、修復の勧進を行いました。それらの寺が、東寺も東大寺もちょうど運慶と関係する寺院でした。
文治五(一一八九)年、京都の東寺は源平争乱の影響で、著しく疲弊していました。ここは平家の勢力下にあった事情もあって、平家滅亡の過程で、荘園からの徴税もままならず、『東宝記』には《堂宇傾危して雨露を支え難く、壃壁頽落して牛馬を禁じ難し。僧侶止住の便を失い、修学鑽仰の勤を闕(か)く。只雉兎(ちと)の棲(すみか)となり、徒に旅人の路と成る》と書かれています。
そんなひどい状態にあった東寺を、文覚は、頼朝から勧進許可証を交付させ、また鷲眼十万疋の寄付をとりつけ、公家、武家を廻って、勧進を行ったのでした。この修理では、堂宇ばかりだけでなく、仏像、仏具類を修復させることに力が注がれました。仏像修理の工房を確保し、そこで運慶が仕事をすることが出来たのです。
文覚はその南大門の仁王像を、惣大仏師運慶とその子、湛慶に新造させたのです。この南大門の修理に文覚は一万貫も投入しました。そのような勧進と注文に、運慶が感謝の念で、その肖像を創りたい、と思ったとしても無理ではなりでしょう。しかしそれ以上に、そこに文覚の人格を見た、と思われます。
文覚は「高尾の聖」と呼ばれるほどの、神護寺の名高い僧侶でした。『平家物語』では巻第五に「文覚荒行」「勧進帳」「文覚被流」「福原院宣」などに荒僧として登場していますが、海の嵐をも鎮める法力をもつ修験者として書かれています。行動力があり、僧侶というよりも、その政治力が目立つ面がありました。しかし面白いことに『井蛙抄』(巻六、雑談)に、文覚は西行を憎んだ旨、書かれています。西行は頓世の身ならば、一筋に仏道修行に励むべきなのに、数寄を立て(風流の道を進み)、《うそぶきありく条、にくき法師なり》などと言い、《いづくにても、みあひたらば、かしらを打ちわるべきよし、つねにあらましてありけり》と、極めてきつい態度をとっていた、と言います。
その西行の対の像として、運慶がこの文覚を選んだとすれば、逆にこの二人の共通な人格を見て取っていたと思われるのです。お互いに仏道に入りながら、一方は風流で、他方は行動力で、そこにある破天荒の生き方をしている。しかし運慶にとっては、まさにそのことこそ、人間の真の生き方ではないのか、無着・世親の説く法相宗の、阿頼耶識から生まれる、人間の根本的な情動をまさに体現しているのではないか、と。そして、この二人こそが、東大寺にせよ、東寺にせよ、自分の創造に関わる仏像制作の重要性を深く認識していたのでないか、と感じたのでしょう。