はじめに 一九六八年「五月革命」を回顧して
私が、ちょうどフランスに留学していた時期(一九六五~六九)の一九六八年に、いわゆる「五月革命」が起きた。私はすでに日本で大学に入った一九六〇年以降「安保闘争」を経験しており、左翼運動の虚構性、欺瞞性に気づいていたから、この「五月革命」とやらに、冷ややかに対処していた。フランス語でドクター論文を、ストラスブール大学の地下室の書庫で書いていたが、ある学生から《今は研究するべき時ではない》などといわれて、デモや議論に誘われたりした。暇の折りに、見物がてら、数多くのデモや議論を観察していたが、それはたしかに私が日本で経験していた安保騒動に似ていた。それは共に、決して労働者中心の革命運動ではなく、学生を中心にした中間層の運動であったからだ。そこには社会を変革するような動きというより、今思うと、これまでの親たちや社会の「権威」を否定しようとする、青年の反抗期の破壊運動のように見えた。
近年でも日本において、「五月革命」とか「1968年」という題で、参加者たちが、当時のイデオロギーを欧米の左翼知識人の名をあげて語り、この時期の運動を回顧しているが、それらには日本から望遠鏡でみた対岸の火事のような見方が多い。また西川長夫氏のようにフランスで実見した仏文学者の「五月革命論」(1)もあるが、その中心的人物であったドイツ系ユダヤ人学生、ダニエル・コーン=ベンデイットの思想が粗雑で、「五月革命」がどんな理論のもとに行われたか、はっきり捉えられないでいる。私もフランスにいたので、よく記憶しているが、「コンテスタシオン・ペルマナントContestation Permanente(継続的意義申し立て)」の思想が、いったい何に由来するかよく理解できなかった。たしかに何かが起こり、かなりの若者が動いたが、果してこの左翼運動が、何の理論が基本にあったかを日本の左翼が誰もとらえていないように思われた。
私の留学先の大学がストラスブールにあったので、ドイツに接しており、西ドイツの運動の動きもいつも耳に入っていた。それから三十五年たった二〇〇三年にベルリンで(フンボルト大学に半年、招かれて研究していたが(2)、その年が、アドルノの生誕百周年の年にあたり、あらためてドイツの知的状況に接して、フランクフルト学派を再検討する機会をえた。そのことから「五月革命」の様相をより理解出来るようになった。
「五月革命」のときの西ドイツの学生運動の立役者は、ルディ・ドゥチュケという人物であった。ドゥチュケは、東ドイツ出身で、そこを追われてベルリン自由大学で社会学を専攻していた学生で、東ドイツの教条的マルクス主義ではなく、西欧におけるマルクス主義、とりわけフランクフルト学派の影響を受けていた。そのフランクフルト学派的な革命裡論とは、「反権威主義」思想であり、決して、「革命」を起こそうとする直接の暴力「革命」路線ではなかった。それは「革命評議会(レ―テ)」という形態にもとづいた「レ―テ民主主義」と言われたりしたが、議会制民主主義とは異なる概念をもっていた(3)。
それは「反権威主義」と言われるだけあって、政治的行為をする決定は、上に立つ「権威」が行うのではなく、すべて底辺レベルの共同審議に基づく、とされ、役職をローテーションで行い、お互いにコントロールし合って行うものであった。直接民主主義の発想である(4)。
フランクフルト学派の「批判理論」と言われるものは、前号まで述べたように、現実批判にもとづく社会の在り方を追及するとともに、社会分析において、従来のマルクス主義のような経済学的解釈だけでなく、フロイトの精神分析をはじめとする近代の心理学、社会学の方法を取り入れたものであった。「労働者」の概念より、「プチブル」と言われた小市民層、とくに学生に訴えるもので、従来のマルクス主義とは相いれない層の精神変革に重点をおいていたのである。すでに労働者を中心とする革命運動は退潮し、中間層が参加する、いわゆる資本主義の「疎外感」に訴える運動であったのである。
この理論は、すでに触れてきたように、五〇年代に亡命先のアメリカから帰国したアドルノ、ホルクハイマーたちによってフランクフルト大学で再興されたものである。同学派の中心人物であったヘルベルト・マルクーゼはアメリカに残り、コロンビア大学、ハーバード大学、カリフォルニア大学サンティエゴ校などで、意識的な学生たちをとらえていった。マルクーゼはアメリカの学生運動に理論的な基盤を与えたと言われ、従来の共産党主導の理論ではなく、学生をターゲットにしていた行動理論を謳っていた。学生運動を支持し、彼らの警官隊とのぶつかり合いを含めた行動(アクション)としての反政府運動を煽った。「抑圧」された少数派には抵抗する権利がある、とする理論を展開し、民主主義に抵抗したのである(5)。 日本の「安保闘争」とやらも、似ているものであったが、宇野弘蔵の資本主義分析にもとづく共産党路線を批判したブンド(共産主義者同盟)の理論や、共産党知識人の右翼から左翼への「転向」を問題にした吉本隆明の批判が部分的に似ているだけで、マルクーゼのようなイデオロ―グはいなかった。フランクフルト学派の理論は戦後の普遍化された「ナチズム」的「権威主義」への批判であったが、日本の場合は既成左翼への「権威主義」批判が強かった。とくに根本的な違いは、彼らフランクフルト学派が、その根幹に「反ユダヤ主義」があったことである。彼らのほとんどすべて左翼ユダヤ人であることを問題にせず、またそれに対する人種差別を、運動の核心においていたことを秘していた。「反ユダヤ主義」を封じ、常にアウシュビッツを非難することで、絶対的な悪としてナチズムを置き、その傾向のものをファッシストとして告発する態度を貫いていた。
この背景は日本では余り理解されず、あたかも普遍的なマルクス主義理論であるかの如く、喧伝された。日本ではマルクス主義自体が、ヨーロッパにおける少数派左翼ユダヤ人の民族差別糾明とその救済、そして資本主義批判の思想の両方であることが意識されず、さも反共産党的な社会主義思想である、と信じられてきたのである(6)。
マルク―ゼは一九六六年にベルリンの「ヴェトナム会議」で、現代の革命の主体は、もはや消費と操作によって後期資本主義システムに統合されてしまった労働者階級ではなく、システムにまだ統合されていない社会グループ、とくに学生たちである、と説いた。また翌六七年、ベルリン自由大学の連続講義でも同趣旨の思想を述べた。
一方、ユルゲン・ハーバーマスは当時の西ドイツの学生に広く読まれた『公共性の構造転換』(一九六二)を書いて、新しいフランクフルト学派として脚光を浴びた。ハーバーマスの「公共圏」とは、自由な政治的議論を展開される「空間」という意味で、自らの行動の中心を、その形成の試みととらえるものである。アメリカの学生運動からえた情報交換と公開協議のために自己組織フォーラムである「ティーチインTeach -in」は、ひとつのはやりとなって日本でも行なわれるようになった。
これらもフランクフルト学派の提起した「批判理論」の影響であり、そこからドゥチュケは、実践としての「行動」(アクション)をさらに強調し、挑発的行動と、それに対する体制側の反応により、支配者の「真の姿」、すなわち、国家の「権威主義的で抑圧的な性格」が浮き彫りにすると説いた。彼は形式的民主主義のルールを破ることによって、民主社会を実現する学習プロセスが可能になる、などと語った。一九六六年十二月、彼の属する「社会主義ドイツ学生同盟」のメンバーが、デモ禁止の西ベルリンの目抜き通りで、ヴェトナム反戦デモを行い、行進をときには通行人に扮して「歩行者デモ」の形態をとったりした。警察は学生と通行人と区別出来ず、学生七十人の他、買い物をしていた市民まで逮捕した、というので事件となった。ドゥチュケはこうした挑発行為が、「国家権力」による暴力の顕在化である、といい、警察との衝突も、「権威主義」に屈しない「学習プロセス」の試み、などと解釈した(7)。
こうした主張は、アドルノらがユダヤ人を弾圧したファッシズムの根源としてあげた「権威主義的人格(権力に対して無批判に同調する一方、弱者に対して威圧的態度をとる心理や性格)」を変えるための戦略として考えられたものであった。しかしそのようなドゥチュケの行動は、主観的なものでしかなく、ただ挑発してメデイアに目立たせるだけの行為であったことは事実である。それは国家の「抑圧的な暴力」を挑発するためにさらに暴力行為となっていった。
彼らは「ブルジョワ的小家族」が、「権威主義」的教育によって受身的な人格を再生産し、資本主義的支配システムを支える場として機能していると考え、学生たちの「コンミューン」をつくるべきだ、という考え方をとった。こうした動きとともに、「性の解放」も唱えられた。心の奥底の潜む「権威主義」的要素を根本的に除去するため、という理屈からであった。「コンミューンI」という組織がつくられ、日常生活における男女のあり方の固定観念を放棄し、男女のあらたな役割分担を導入すべきだと主張したのである。
また「シュプール」というグループは、フランクフルト学派の行った「文化産業」に対する批判を受け継いだ。活動の目標を、広告やメデイアによる大衆操作への抵抗におくように考え、この動きにはドゥチュケの盟友であったラべ―ルが指導した。
学生が所属する大学そのものについても、いわゆる「批判大学」が設立しようとした。この「批判」と言う言葉も、フランクフルト学派の「批判理論」から取られた言葉と言ってよい。「反権威主義勢力」としてのドゥチュケやラべ―ルが「対抗大学」プロジエクトを立ち上げようとして、西ベルリンの労働者層と連帯を目指していた。そしてこの学派の創立時期のヴァイマール期におけるマルクス主義的労働者教育の伝統との結びつきを目指し、ベルリン自由大学の学生と若い労働者が共闘する場としての「労働者大学」を構想したのであった。六七年十一月一日ベルリン自由大学大講堂で「批判大学」の設立が宣言された。そして「大学改革」や「革命主体」「文化産業批判」などをテーマに三十三の講座が設置された。翌年夏学期にはさらに「反権威主義的教育」に関するセミナーも設置される。この「批判大学」の動きは、さらにボーフム、ハイデルベルク、キ―ル、エアランゲンなどの各都市に波及していった。こうした一連の動きからもわかるように、フランクフルト学派の理論がわからなければ、「五月革命」の思想がわからないことになる(8)。
これらの運動がその後、成功したわけではないことは、経過が示すところである。しかしそれらがソ連、東独をはじめとする既成の共産党の理論でも、とロッキー的な世界革命の理論ではなく、この新しいフランクフルト学派の「批判理論」を中心的なイデオロギーとして行われたことに注目しなければならない。「反権威主義」の題目が掲げられたことは、この思想がいかに学生にわかりやすかったかを示している。彼らにとって「大学」そのものが、身近な「権威」の塊に見えたのである。これまで「新左翼」の名で、より革命的な理論が説かれたが、このドイツではこれが中心的理論があったということが出来る。それは他の国の「五月革命」の、「新左翼」運動や、「赤軍派」的な場当たり的な暴力志向の動きと比較して、実現可能な体制内変革の思想として、理解できることである。他の国の運動も、実情はそれぞれ異なっても、理論的にはこのようなものであった。
こうした動きがフランクフルト学派から発したとはいえ、フランクフルト大学社会研究所の方は、このような暴力化する学生運動と距離をとることになった。当然、大学は「権威」の居城であったからである。ここに「五月革命」の核心がある。実をいえば、ドイツでは、ナチの崩壊以後、アメリカ的「民主主義」社会が、「平等」を旨とし、すべての階級的特権を奪う体制をつくっていた。すでに王制もなく、貴族制度も廃止された。軍人の位階性も批判され、社会の階級は、大学の学歴主義に依拠するようになっていた。日本でも東京大学を頂点とする学歴社会の出現があった。社会的階級の「「権威主義」批判が、その理論を説く、大学の「権威主義」に向かったのである。運動の対象が、そこに向かったとき、それはまさに学生運動の皮肉な「自己崩壊」の方向に向かわざるをえなかった。学生自身が大学に属していたからである。
ハーバーマスは一九六七年、既成体制のルールを破るだけの直接行動を訴えるドゥチュケを、「左派ファッシズム」と批判した(七〇年代後半になり、運動が沈静するとその発言を撤回しているが)。それは同志討ちともいうべき批判であった(9)。
左翼学生たちとアドルノ、ホルクハイマー側のフランクフルト大学社会研究所とどう対立していったのかさらに追跡してみよう。この学生たちが所属する「ドイツ社会主義学生同盟(SDS)」と「社会研究所」のそれぞれの責任者たちは会議を持った(六七年七月)。アドルノはそれに参加して、《この話し合いは生産的で、かつその雰囲気は友好的だと、評価していた》という。彼は《我々の大学の体質に対する学生たちの批判》を受け入れていたのだ(9)。それは両者の間で、フランクフルト学派の「批判理論」が共通な見解としてあったからであろう。学生の側から、この「批判理論」が社会秩序の変化を目指す運動において、政治的実践とどのような間連性を持つのかという問いが発せられた。
フランクフルト大学の学長も務めたホルクハイマーは、その討論の直前に、公開書簡の中で、党派的な左翼運動への政治的加担については、疑問を投げかけていた。彼は共産主義の創始者の思想と、現実の共産主義のあり方を混同すると茶番劇になり、その体制の全体主義的な潜在力を見えなくするものだ、と警告した。アドルノはそれに続く討論で、《社会学の視点で、学生たちの政治的要求と政治行動に対しての先鋭化されつつある誹謗中傷戦術を、抑圧的社会の典型的な表れであると解釈する一方で、批判的社会理論が直接的な実践へ転化するという考えに対しては、激しく反対したのである。革命状況から出発するということは幻想的なものであるがゆえに、「学生の行動は、《檻に閉じ込められて出口を探し求める動物の動き》と同じなのである、と述べた(10)。
このアドルノの主張は、左翼学生に通じなかった。こうして教授と学生が、例え、共通に左翼的理論をもっていたにしても、大学という体制内の中では、やはり「上下」の関係がある。教授は大学の「権威」をもたざるをえなかったからである。その「批判理論」が、「権威」を否定するなら、大学を離れ、先生と学生の関係を断つ以外には解決法はない。まだそういう「革命状況」にないとアドルノが言ったとしても、それを安直に作ろうとする学生には通じないのである。
フランクフルト学派が「反権威主義」を言うなら、ます、その学派の学者が、自分で実践せよ、というように、学生が単純思考に陥ることは当然である。資本主義社会の中で、資本主義そのものを否定する態度をとる限り、その理論は常に矛盾の中で、妥協していく以外ないのだが、こうした大学という、ゆりかごの中の教師と学生の関係の中に、そうした理論をもちこめば、それは実現できないことではない。実践を旨とするマルクス主義の立場をとっている限り、一番実勢が容易なのは、大学という拘束の弱いところしかない。実践をもちこもうとするマルクス主義を教えることは決して大学の教授にはなれないはずなのだ。しかしアドルノは最初からその職について、それ自身を批判することもなかった。マルクス主義を「幻想」だ、というならともかく、まだその革命状況に至っていないから実践しない、という見解は、左翼学生には日和見主義以外には見えないだろう。この問題は、それ以後、大学に巣食う左翼教授の運命であり、偽善的姿への批判ともなるものである。
アドルノが《野蛮に対抗する》ためにベルリン自由大学で行った講演会では、彼は「ゲーテのイフイゲ―二エの擬古典主義」を取り上げたという。その講演のとき、左翼の学生たちがやって来て、講壇に向かって横断幕を広げた、という。そこには《ベルリン左翼ファシストたちからの挨拶、ようこそ古典主義者テディ》と書かれてあったという。明らかに、ハーバーマスが彼らを「左翼ファシスト」と非難したその言葉を返してここに使っていたのである。アドルノ自身は彼らをそう言ったわけではないが、弟子のハーバーマスがそう言ったので、その同類と見られたらしい。そのアドルノが、折からの運動の昂揚の時期に、ゲーテの「擬古典主義」の話をすることに、その内容を理解しようともしない単純な左翼学生は非難せざるをえなかったのである。
その横断幕は別のグループが奪い、ずたずたにした、というが、しかしその左翼学生たちは、次にようなという内容のビラの播いたという。
《文化的行事に必要不可欠な道具たるアドルノ教授殿、この小道具氏は、フェステイバルや3チャンネル「教育番組」やアカデミーなどで、批判的無力をまき散らし、今夜もまた我々に荘厳な一時間を御与えくださろうとしている。・・アドルノ教授殿は、連邦共和国社会が非人間性へと向かう潜在的傾向を御示しくださるのに、いつも準備万端である。フリッツ・トイフェルに対する不条理な起訴のなかに潜むその非人間性と向かい合って自ら意見を述べることを、やつは拒んだ。やつは、以前から認めていた矛盾を、密かに思い悩むほうがよいのだ》と(11)。
体制を批判する「批判理論」「反権威主義」「文化産業批判」の理論を、資本主義体制の中に「文化的行事」として講演して歩くアドルノの矛盾を、左翼学生が衝いているのである。反体制でありながら、体制の中で、もてはやされるという矛盾。その矛盾をこの「批判理論」自身の体質にもっていることを、うまくアドルノは利用していたことになる。少数派の意見が、あたかも多数派の意見であるかのように錯覚させる「理論」でもあったからだ。彼を思想家ではなく、文化の「小道具氏」と言われているのも、日本におけるメデイアで活躍する左翼知識人と同じである。しかしそうした状況をつくり出すのが、フランクフルト学派の戦術でもあったのだ。まさに体制の国立大学に居座り、学生に革命理論を説き体制批判を繰り返す知識人の矛盾を、左翼学生は正直に批判しただけのことである。
アドルノは講演を中止し、彼らとの討論も拒絶した。学生たも抗議しつつ会場から出て行った。そのあとスピーチでは、《革命や解放だと勘違いされている意識の暗黒の神秘》についてや、《抑圧状態のなかの人間性》は逆転することもある、と語ったという。それによって《完き人間性》の妨害も起きるだろう。今日、『毛沢東語録』を引用する以外ないような人々ほどは、アドルノはゲーテの語らないだろう。彼の弟子の司会者が、もし《わたしがアドルノの『ミニマ・モラリア』から一つの箴言を引くことが許されるものとしたら、それは、次の一句である》と述べたという。《おどかしても無駄だ。やり方を変える必要もない」》。しかし事はそれほど単純なものではない。
この講演会の終わりに、緑色のミニスカートのひとりの女子学生がアドルノに赤いテディベアを渡そうとしたことも、マスコミ種にされたという。このハプニングは、その講演のあと、同僚たちの話題のひとつであったという。のちにアドルノは、その《しつこいからみ》のことを《神経が参る》と述べていたらしい。しかしアドルノは、外面的にはその侮辱を落ち着いて受け取ろうとしていた、と伝記作者はいう。
《私は、心身に傷を負うことなく、その狼藉をまるごと克服しました。結局それは、今私を自分たちの陣営にひきずりこめるとひたすら思っている保守主義者たちが言いたてるほど、けっしてひどくなかったのです》と、左翼学生たちを弁護している。左翼の本質が、そうした破壊であり、それがたまたま(間違って?)自分に向けられたことに、ある種のあきらめが感じているのであろう。彼は、保守主義者よりも、破壊しようとする《抑圧状態のなかの人間性》に賭けているからである。しかし問題は、アドルノの「批判理論」「反権威主義」の理論そのものが、逆に《抑圧状態》そのものをつくり出そうとしており、そこからこうした「破壊」をもたらすように仕向けている点である。その理論自体が、虚構であることに、気づこうとしない点である。それがアドルノの特殊な体質である。
こうした左翼の暴力に寛容な態度は、その後、ドイツ社会主義学生同盟(SDS)の代表者と話し合いをしていることでもわかる。《それが友好的でさえあった》とアドルノは言っている。数週間の後、西ドイツのラジオの対談に出て「学生紛争」を支持する発言をしている。抗議行動がフランクフルト、ベルリン、パリ、ローマからサンフランシスコにまで至る国際的現象になっていることを喜んでいる具合だ。そして《我々の大学の体質に対する学生たちの批判》を肯定し、学生の改革要求を聞こうとした。しかしそれが学業を軽減して欲しいというだけで、アドルノの方の《大学の知的力を高めるのに貢献すべく全力をつくそう》という考えと合い反するものであった。
アドルノの《知的力》とは、マルクス主義と心理学、社会学、哲学、美学などをむすびつけた思想であったが、しかしそれが常に「アウシュビッツの怨念」に結びついたものであったために、徹底したペッシミスムとなっていた。それがこの「左翼ユダヤ人」の体質であることを、前号まで述べてきたが、しかし改めて。それが西ドイツやアメリカの、大学という知的「権威」の場所にいることで、多くの非ユダヤ人の学生にふりまくことが出来たのである。ユダヤ人に対して、という註釈ぬきで、一般の人々に、体制そのものが抑圧状態にある、という前提を与えることは、学生のような社会体験のないものだけに通じる見解である。ましてやそれは破壊という行動にしか結びつかないとすれば、まさに自分自身がその破壊の対象になったとしても、致し方ないことのである。その当人が「権威」の場所にいるからだ。
アドルノが大学の講義を挑発的に妨害することが、大学闘争の合法的な手段なのか、と質問したというが、抑圧状態にあると教えられた学生にとっては、それを解放する運動は、破壊しかないのである。こうして最終段階に至って、学生の攻撃によって、フランクフルト大学の社会研究所が占拠されてしまった。それまでの対話路線を打ち切られてしまった。
六九年一月、学生たちが同研究所を占拠した際、アドルノ教授らは警察に連絡し、学生を排除させた。同年四月には、その講義で女子学生たちの胸をさらけ出し、花とエロテイックな愛撫という挑発的行為によって教授を《攻撃した》という。ジェイの伝記によると、アドルノは《狼狽し、誇りを傷つけられ、「制度としてのアドルノは死んだ」とあざけって宣言する学生たちを後にのこして教室を出て行った》という(12)。
アドルノの授業が妨害される事件が起きたとき、アドルノは、「反権威主義」の対象が自分に向けられている、と思いたくなかった。それは《右翼であれ、左翼であれ、彼の敵対者たちのSchadentreude(他人の不幸を喜ぶ気持)はかなり強い》などと批判するだけだったことでもわかる(13)。肝心な大学教授としての「権威」の問題に触れずにいることでもわかる。
《この批判者たちは、だいたいはこの学派の生き残ったメンバーたちへの反感から、一九七〇年代のドイツのテロリストたちの出現を彼らの責任とみなしたのである》とジェイは述べているが、それは大学という「権威主義」に対する闘争の一環である、と解釈されなければならない。《制度としてのアドルノは死んだ》という言葉の中に、学生たちが大学「制度」という「権威」として語ることへの「批判」があったのだ。自分が「権威」の一端として教えていたアドルノの矛盾を鋭く批判したのである。しかしアドルノ自身はそう考えなかった。知識人として主観的には左翼を支持していたわけであるから、良心的な学生はわかってくれる、と信じ続けたのである。
もちろん、批判者の学生自身もまた、その大学「制度」の中に好んで「入学」していたわけだから同じ穴の狢(むじな)である。そうした安易な発想と批判が、学生というまだ思想的に自立できない若者の特権でもあった。彼らに自己批判などは、思い浮かぶはずもない。もともと無名性に依拠した無責任な立場をとっていたからである。
ともあれ、私はこうした安易な大学内の紛争と、アドルノのたどった皮肉な運命こそ、彼らの「反権威主義」理論の誤謬を語っている、と言わざるをえない。人間の共同社会があるかぎり、多かれ少なかれ「権力」と、それについて生まれる「権威」は当然存在し、それを「批判」し「攻撃」したところで、当然、その共同社会の中にいる批判者自身の「権力」「権威」も批判されなければならない。その共同社会の大小を問うものでもないのだ。社会に「権力」「権威」があり、大学にそれらがない、というのはないのだ。さらにそれが「反ユダヤ主義」を生むものでもない。このことと人種差別は関係しない。
基本的に父親の存在は誰にでもあるからである。エンゲルスが、いかに家族の「父権性」「家父長制」を非難したところで、父は母に代わりようがない。こうした理論自体そのものも問題なのだ。このような「批判」が無名性に依拠する学生により起こったのも、この理論の幼児性を示している、と言ってよい。子供だけが出来る無責任な理論であるのだ。
女子学生たちの胸をさらけ出すという挑発的行為によって、アドルノの授業が妨害された事件は、喜劇というより、彼の思想の悲劇と言ってもよい。これは日本の東大紛争で、丸山真男をはじめ、文系の「権威」をもつ「民主主義」を主張する教授たちが、授業が出来なくなっただけでなく、暴力行為にあったことの悲劇と同じである。「民主主義」というものの「平等」が強調されると、社会は解体する以外にないのである。
アドルノは学生からは、まさにみずからが「権威主義」的人間であることを糾弾されているのに、みずからは自覚出来ずに、ただ学生に同情していた。その態度ほど滑稽なものはない。学生からは教授という存在は、試験という制度によって、あきらかに「抑圧」し、「強制」する「権力」ともなる。ただ、教授というものは、その学問的探究によって、学生の知的能力を引き出し、それへの尊敬心に起こさせ、学ばせることが出来るのである。「権威」は結果から生まれるものである。それらがないところには教育は成り立つまい。それは実社会に出たときの、その準備として行われるものだ。
アドルノとフランクフルト学派がいう、その「抑圧状態」とやらが、いかにもっともらしい嘘の心理状態であったか。そのような意識は、人間の感情のひとつに過ぎないのであって、支配的なものではないことは、いかなる人間でも体験していることである。それを資本主義社会が必ず産み出すものだ、という決めつけが、虚構だ、と言わざるをえない。彼らの「批判理論」には、常に社会はこの「抑圧状態」にあるというが、それは「アウシュビッツ」が、この社会の必然的な結果だ、という誤った議論に基ずくものである。彼らの社会への不満を、憤懣としてまき散らすことを肯定する思想は、「アウシュビッツ」被害体験の過大解釈に過ぎないと言ってよい。
しかし、その資本主義社会に対する「批判理論」が、社会主義国家の崩壊後も、相変わらず、徹底的に批判されずに、インテリたちの頭脳に残されているのは、資本主義社会が少数派を「抑圧」する、という絶対的批判意識がマルクス主義によってつくられているからである、「抑圧」も「順応」も、資本主義社会でなくても昔から個人が共同体に依拠する限り、多かれ少なかれ生まれて来るものだ。フランクフルト学派のこれらの見解は、歴史の長い経験にもとづく思想を欠いていることから生まれる、と言ってよい。経験の思想は、そのような独断を許さないはずである。
そのとき、講堂を立ち去ったアドルノは、ふたたび教壇に立つことなかった。六九年七月フランクフルトにおいて、親切にも騒擾罪の容疑で彼の弟子である大学院生の裁判に証言し、そしてスイスに休暇をとりに向かったが、そこでアドルノは倒れるのである。ふたたび大学に戻って来ることはなく、同年八月、心筋梗塞で死去した。まだ六十六歳であった。教壇左翼の悲しい結末であった(14)。
2 「反権威主義」理論の誤謬
だが、大学と学生の関係における「権威主義」「反権威主義」の問題は、単に茶番劇を生みだしただけかもしれない。もともと一九六八年の「五月革命」に思想的にもリードした「反権威主義」とは何であったか、ということを改めて問うてみる必要があろう。
一九四四年にアメリカ・ユダヤ人協会は、亡命していたフランクフルト大学社会研究所の所長であったM・ホルクハイマーに、協会内に新設された「科学調査局」の局長に採用した。彼の指導のもとに、この調査局は、まず『偏見に関する研究』という大部の叢書を発刊するようになった。そのシリーズの中で、もっとも重要なものが『権威主義的パーソナリティ』に関する広範な分析であった、と言われる。この分析は、単なるデータ収集のそれではなく、その結果を解釈するのに精神分析の方法を用いた研究であった。その際、研究所が以前、『権威と家庭に関する研究』をおこなった際のエーリッヒ・フロムの影響があったが、それは部分的なものであった。フロムと共同研究を行っていた同僚たちは、この間にすでに彼との関係を絶ってしまっており、ホルクハイマーの研究がここで独自なものとしてクローズ・アップされた(15)。
ヒットラーの「ファシズム」の勃興を目のあたりにしたホルクハイマーは、ドイツ国民のその「権威への従属」がなぜ生じたかについて考察せざるをえなかった。そこにマルクスの「階級論」やヴェーバーの「権威論」を交えつつ、「権威主義的性格」について検討したのである。一方では、マルクス主義者として「革命」運動についてのマルクスの想定が、事実上外れたことに対する疑問も持っていた。当時の左翼の政治家や知識人にとって、資本主義社会が、社会主義に移行する運動として、プロレタリアートの革命が想定されたが、ロシア革命を除くと(これも農民革命であった)、それがいずれも失敗した。《なぜ労働者階級はその歴史的役割に立ち上がらないのか》という問題が生じていた。
さらに、未来は、マルクスが考えたように、平等な社会、対等の権利で結びついた民衆によって成り立つはずなのに、現状が異なるというのはなぜか。マックス・ヴェ―バーも、近代の法社会において、法的権威こそが、伝統的権威にとってかわって重要な位置を占めるようになる、と述べている。人々が合法的権威のもとで、その体制を望んだのにも関わらず、ヴェーバーの考えと異なり、権威そのものを崇拝している実情を、ホルクハイマーは考察せざるをえなかったのである(16)。
「権威主義的性格」とはそこで提出された一つの社会学的概念であった。この概念は、史上最初の「民主主義」的な憲法を制定したといわれるドイツ、ワイマール共和国が、なぜ、「ナチズム」の支配下に陥ってしまったか、を解明する中で、生み出された概念なのである。民主主義国家のはずか、ヒットラーの独裁国家に移行してしまったのはなぜかを説明するのに用いられたものであった。
一九五〇年に出た『権威主義的パーソナリティ』の「はじめに」で、「権威主義的性格」を検討するに至った理由を次のように述べている。 《われわれの文明の過去一世紀半の経過を支配してきた個人主義かつ民主主義的な人間類型にとって代わって、権威主義的な人間類型が支配権を握りかねない事態を生みだしてきた社会―心理的な諸要因についての理解を発展させ、促進しようとする》(17)。
民主国家といわれる国の中に潜む、「反民主主義」の動きを、分析すると、この「権威主義」があったと言うのだ。要するに、「権威主義的性格」が運動として猛威をふるったのがナチズムだ、というのである。このように、ユダヤ人を弾圧したナチズムの心理を暴くことが、彼らにとって焦眉の問題となっていた。そこで問題にされたのが、本来の家族での父親の威厳、権威のことであり、その伝統こそが、ユダヤ人を殺戮する行動にむすびついた、と考えたのである。
ワイマール共和国では、伝統的な権威に束縛された個人が解放され、個人の自由が与えられた。しかし自由を与えられたはずの個人が、ナチスがつくり出した権威に対して進んで従属しようとする傾向がみられた。このような現象を、ホルクハイマーらは、「権威主義的性格」として、その観点から理論的、経験的に分析する必要があると考えたのである。
「権威と家族」では次のようなことが書かれる。父親の権威、そしてまた父親が唱える家族における伝統に従っていれば、十九世紀以前は、生存が脅かされることは少なかった。《家族内の近親者、非近親者に対する父親の権力、あるいは事業所、田畑における父親の権力は、社会での生活プロセスにとって、直接的服従が必要不可欠のものであるという事態に基ずいていた》(18)からである。ホルクハイマーの権威に関するこのような考えは、エンゲルスの『家族、私有財産および国家の起源』が根底にあるが、ヴェ―バ―の権威論がよく引用されている。ヴェ―バ―がいうように、《伝統的支配は、昔から存在する秩序と支配権力との神聖性、を信じる信念にもとづいており、その「最も純粋な型は家父長制的な支配》(19)なのであるという。
「現代における結婚と家族」という論文においては、家族の置かれた位置に絡めつつ、次のように述べられている。
《個人の権利というものは、過去の様々な権利に対して、人々が蜂起する際の聖なる目標であった。誰彼のべつなく人間は、少なくとも一般に考えられる普通人は、すべて同等の権利をもって法律に参与すべきであり、またその法律によって保護されるべきであった。戦いは封建的氏族、教会、民衆とは異質な専制領主による圧制に対してなされた。過去にヒエラルヒッシュな形態をとるもの、これに反して未来は対等な権利で結びついた人に依って成り立つものと考えられた。・・しかしながら、近代文明の誕生は、未来ひとりひとりの個人を解放したのでなく、ブルジョワ的家族を解放したのである。だが解放されたといいつつ、家族は当初から己れの中に深い矛盾を孕んでいた》(20)。そしてその矛盾の結果、《家族が危機に陥れば、・・物事に適応する精神とか権威主義的威丈高とかいったものが貫徹するこををうながすものとなる》(21)。
さらに「権威主義」的性格の特徴は次のようなものであるという。
「権威主義」的人間は、啓蒙されていながら、同時にさまざまな迷信につきまとわれている。ひとりの個人主義者であることを誇りとしながらも、すべての他者に一心同体化した存在でなくなることへの恒常的な恐怖にかられている。さらには、みずからの独立性をも疎ましく思い、力と権威に対してやみくもに従属していこうとするのだ、という。
そこでは、市民的思考は、伝統の権威に対する戦いとして始まり、その権威に、あらゆる個人の内にある理性を、法と真理の正当な源泉として対置しようとする。そしてそれは、単なる権威そのもの、特定の内容を欠く権威の熱烈な賛美に向かっていくのだ。「市民主義」そのものが「権威主義」を生みだすことになる、と分析する。(保坂32p)資本主義そのものが、ファッしスムの温床となっている、というテ―ゼが生まれる。
ところで、すでにソ連社会の崩壊を知っている、二十一世紀の我々は、あのスターリンの社会主義や毛沢東の共産党支配そのものが、この「権威主義」の典型のように思えてくるが、そこはホルクハイマーの視野にはなかった。
ホルクハイマーの『権威主義的国家』という論文(一九四三年)を読むと、そこにはフランス革命の分析は出てきても、ロシア革命のそれは書かれていない。スターリンの粛清と虐殺は、すでに明らかになっていた時点においても、ヒットラーのナチズムだけが恐怖であり、一切、ソ連の社会主義の全体主義を触れようとしない党派性、民族性がある。
《権威主義的国家への方向性は、ブルジョア時代におけるラデイカルな諸党派にとって、昔からありうべき方向性であった。例えばフランス革命のなかに、後年の歴史が圧縮されているように思われる。ロビスピエールは、公安委員会に権威を集中させ、そして、議会を法律登記所に貶めてしまった。彼は、管理と支配の諸機能を、ジャコバン党の指導のもとに集めたのであった。国家が経済を統制した。かくしてこの諸民族共和体たるフランスは、すべての生活形態を友愛と密告とで貫徹したのである。財産は、ほとんど非合法に追いやられてしまった。ロベスピエールと彼の同志たちもまた、国内の敵の財源を没収することを計画したのだが、そのさいの十分に操作された国民の怒りが、政治的機械の一部をなしたのである。フランス革命は、全体主義化への傾向をもっていた。教会に対する革命側の闘争は、宗教に対する反感に起因するものではなく、教会もまた愛国的秩序に組み込まれ、奉仕しなければならないという要請に起因していたのである。》(22)。
これだけフランス革命の「権威主義」を批判しながら、ロシア革命のそれをひとつの論じていないのも不思議である。左翼における「権威主義」が、かえって保守や伝統の中のそれより、人工的で冷酷なものとなる、という認識がない。それはスターリンの社会主義の全体主義性が、まだ彼らには認識されていなかったからだ、というより、この分析が、もともとナチズムが、こうしたブルジョワ革命によってつくられた社会だ、という彼ら特有な考えによるのである。別に資本主義社会が、すぐさま民主主義と結びつくわけではないが、社会主義体制の方が、「プロレタリア独裁」により、全体主義ファッシズムになることは明らかである。共産党独裁という少数者の権力は、独裁主義にならざるをえない。ナチのファッシズムは、国家社会主義と言われ、その変種であった。
アドルノも、アメリカで出版された『権威主義的性格の研究』(共著、一九五〇年)で、次のように言っている。「民主主義」社会自身の持つ両義性があり、それによれば、文化には内的矛盾があり、文化は一方で「非人間」的で「抑圧」的な社会形態を基盤としている。そこで文化は人間性の実現を約束しておきながら、「文化産業」としてそれ自身完全に商品生産の規則に従属していることが多い。その場合には、その約束を自ら否認するようになる、という。
その「権威主義」的な性格がまさしく民主主義の国において生まれており、それが分析の対象になるということは、単に歴史に制約された中で偶然に生じたことというわけではない。「民主主義」社会の自己「破壊」への傾向は、ファしスムの頭文字Fを取った「F尺度」によって解明されるという。この尺度で、初めて経験的社会心理学的分析に接近可能なものとなったと言われる。それが示したのは、どのように性格的素養を持つ場合に、諸個人は《反民主主義的プロパガンダに特に感応しやすいか》(AC.1)である、と述べている。(23)。
アドルノと共同研究者たちは、「F尺度」に要約されるような一連の指標を考案することによって、権威主義に向かう隠れた諸傾向を探りあてるための探知機にしようとした。入念に読み解かれたアンケートと、その被調査者のなかから選びだされた個人のインタヴューによって裏づけされ、そこで得られた結果をアドルノが分析するのである。他の文化現象や社会現象の分析を適用することによって、フランクフルト学派流の方法を躯使して解釈するのである。
かつてドイツの学校や家庭ではびこっていた「従順さ」への伝統的な強調は、ファシズムとホロコーストに道を開いた、とする。それは祖国の勝利のために、自己犠牲的に「従順」であることを強調することが伴なってあらわれたものである。少なくともそれらが改革の動きのターゲットであった、と分析した(24)。かつてナチズムを先導した元武装SS所属の人々の、その「権威主義的性格」を「F尺度」で計り、二十数項目の基準に合わせて表をつくった。彼のこの分折の指標として「保守主義」、「権威への従順さ」、「破壊衝動」、「冷笑的態度」といった言葉であげる。
これらは決して客観主義的は指標ではない。従ってこの研究はすぐさま激しい論争の的になったが、ひとつには、この研究が「権威主義」の主観的・心理的原因をいわば過度に強調しているという点であった。この分析おいては、たしかにそれ以前の業績ほどには研究所のマルクス主義的分析が表立ってはいない。左翼ユダヤ人にとっては、これらが「相関的特性群」であったかもしれないが、それを「反民主主義的性格構造」の徴候というのは、例え仮説であったとしても偏向している、見る以外はないようだ。なぜ「保守主義」が「破壊衝動」と相関するのであろうか。 アドルノ支持者は、彼が執筆した部分には、このプロジェクトが実際には主観的要因と同様に客観的要素がある、と弁護するのだが、アドルノを含めて著者たちがすべて左翼ユダヤ人であり、このプロジェクトそのものが、ユダヤ人団体の依頼によってつくられたという事実が、その偏向の原因であると言わなければならないだろう。アドルノの『ミニマ・モラリア』についてのエッセイでも、私は、この思想家が、基本には、このユダヤ人特有のコンプレックスによって、その思想が形成されていることを指摘した。この調査が、他のアドルノの業績の中で重要なものではない、といっても、この仕事には余りにもその偏向性が露呈していると言わなければならない(25)。
アドルノは、ファシスム支持者の「操作型性格」があるというが、それこそソ連の社会主義が求めた型の青少年たち、すなわちピオネールのそれであり、毛沢東が文化革命のときの江衛兵たちに求められたタイプであった。そのことは今日、誰しも思い浮かべる事である。しかしそのことを、ユダヤ人がナチに対して糾弾する以上に、執拗に行っている人々はいないだけのことである。
《思慮分別なく集団に順応する人々は、自分自身を物質のようなものに変えてしまい、自律的存在としての自己を抹消しています。これに適合しているのが、進んで他者をかたちのない塊として扱う態度です。私は『権威主義的パーソナリティ』の中で、そうした振舞いをする人たちを「操作型性格」を呼びました。しかもその当時はまだ、ヘスの日記とかアイヒマンの覚書などが、まったく公表されていませんでした。「操作型性格」についての私の記述は、第二次世界大戦末期の数年間にまでさかのぼります。時として社会の心理学や社会学が、後になってようやく正しいことが経験的に証明される概念を作り出せることがあります。「操作型性格」は、自由に閲覧できる例のナチ指導者たちに関する資料にあたれば誰でもこれを確かめられますが、組織に凝り固まり、そもそも直接的な人間らしい経験に欠け、一種の情緒欠如であり、現実主義が異常に重視されている、といった特徴があります。このタイプの人間は、現実政策と称してはいるものの、実際は妄想じみたことを、どんな犠牲を払っても行おうとします。一秒たりとも、今とは違う世界を考えたり、臨んだりすることなく、doing thingsつまり物事を行う意欲に取りつかれたり、その行事の中身に対しては無関心なのです。活動、活発さ、いわゆる効率それ自体を崇拝しており、それは活発な人たちを推賞するところにそれとなく感じられます。こうしたタイプの人間は(第二次大戦末期から)現在までの間に、私の観察が間違っておらず、少なからぬ社会学的調査によってその一般化が可能だとするならば、想像をはるかに超えて広がっています》(26)。
このように、思慮分別なく集団に順応する人々が、ファッしスムの温床となる、と語っているが、かれらが自律的存在としての自己を抹消しているわけではない。ファッシズムでさえ、自律的存在の存在によって支持されるのである。また良き社会そのものが、人々の順応ということを必要とする。そしてそのような考え方が、思慮分別があることにもなるのである。アドルノたちのように「操作型性格」を否定することが、習慣や経験を重んじることへの否定にもなるとすれば、それはかえって思慮分別を否定することになりかねない。事は「操作型性格」の人間の責任ではなく、現実政策をいかに状況に対して的確に対処していくかを知る指導者の問題である。
むろんそれは個人の努力だけの問題ではない。しかしマルクス主義者の言うような、人間はただ「下部構造」に規定されるのではない。人々の責任を社会の責任に転化する、社会主義者の理論は誤りである。要はいかに最大数の最大幸福を作り上げていく指導者をつくっていくか、その思慮分別の問題である。
3 おわりに 未だ続く左翼幻想
このホルクハイマーやアドルノの「権威主義」研究によって、その後のマルクス主義運動の力点が変わったことを、あの「五月革命」の例をあげて述べたが、その「反権威主義」が、この二人の思想であり、フランクフルト大学社会研究所のそれであった。しかしこの社会研究所が学生に占拠され、アドルノ自身が彼らによって辱めを受けたことは、大学という甘い保護された空間であったことの皮肉な結果だけではない。このような悲喜劇は、大学の左翼学者の間でも、左翼論壇でも、すぐに話題にされなくなったことが問題なのである。かれらは話題にもしたくないに違いないのはわかるが、そこに「反権威主義」そのもの、ひいては「左翼」の本質そのものが隠されていたのである。
一九六八年以降の世界の大学紛争で、アドルノ同様に、世界の左翼教授が、学生によって攻撃され、脅迫されたが、これを学生の左翼小児病ととることは、問題を隠すことになる。それが左翼全体の本質なのである。保守体制を否定することは、「革新」の自らの体制を強要することであり、それが全体主義という体制にしかならないことなのだ。それを無名性の中の学生に指弾されたのだ。その「革新」が伝統と文化を否定する思想であるなら、いかにそれが人工的な体質を作り上げるか。その全体主義が、ナチズムやソ連の実態、中国共産党の現実をみればよくわかることである。保守社会の秩序を否定することを、二十世紀は当然のものとして考えてきた。しかしそれ以上の社会をどの国の誰も構築することが出来なかったのだ。
秩序の上から、秩序否定の精神を教えようとする大学教授の矛盾は、いかに理論的に制序されたような論理をつくろうと(中には「非体制順応的知識人」と言ったりする。滑稽なことだ)、悲・喜劇の素人俳優になる以外にない。日本でも、あの大学紛争が忘れ去られ、「一九六八年」「五月革命」が、綺麗ごとで書かれるようになったが、あのとき学生に罵声を浴びせられ、馬乗りになられた教授たちは、沈黙のまま消えていこうとしている。そしてその後、大学の多くの先生たちあたかもその悲喜劇がなかったように、この「権威主義」批判のフランクフルト学派の動きを維持し、論壇でも姿を変え、大学でも名前を変えて続いているのである。彼らはいつか来るはずの新「社会主義革命」を夢見ている。
現在でさえ「F尺度」と称して、「権威主義的性格」を二十数項目の基準に合わせて、推し量った表がつくり、そうした調査を、彼らにならって続けている研究者もいる。高い得点をとれば「権威主義」的で、低いと「反権威主義」といえるというのである。権威主義的見方、体制順応、従順、不寛容、狭量、厳格さ、場合によっては潜在的敵意など、こうした傾向が、若者にあるかぎり、戦争はまた起こる、などと言っている。たしかに世界では、戦争は未だ起こっているのである。自由意志の志願や徴募になってなお、青少年には、これらの典型的な特徴が存在するという(27)。しかしそれは決して現代の「ファッシズム」によるものではなく、社会秩序がつくるのであって、決して「権威主義」のなせる技ではない。
ソ連の崩壊後であるのに、あの時代の社会主義圏の左翼「権威主義」もまさに痛烈に批判されるべきであるのに、これらの研究者は応えていない。彼らと、資本主義国家の方のそれとは区別すべきだ、などと述べている。まさにその崩壊の原因が、彼らのイデオロギーそのものであることを忘れようとしているかのようだ。まだ、それが聖域のように対象から外そうとしているのも滑稽だ。また、それをつくり出したマルクス主義そのものへの批判もない。ホルクハイマーの意見にまだ追従しているのである。
《もし慣習主義、権威主義的攻撃が権威主義的性格の中心的な要素であるとしたならば、西側の民主主義で共産主義者と左翼の人々は必然的に権威主義的ではない。その者たちはたいてい、定義上は慣習的でない。既存の権威に服従的ではないし、自由な討論、政治的な不同意の権利、そして他の諸権利の擁護しそうである。しかしながら共産主義がそれ自身慣習であるところのソビエトにおいては、権威主義は共産主義、内集団(たとえば共産主義者)の権威に対する権威主義的従属、および慣習的でない集団に対する抑圧的態度を支持することを「含んでいる」》(28)。やっとこのようなソビエトを生んだ、その左翼理論と、その「権威主義」を、批判対象から外すべきではない。それこそ「批判理論」の対象にすべきなのだ。
吉川徹氏によると、日本でも両親の権威主義的性格や学校教育の管理性が、青少年に権威主義的性格を付与しているという。日本における権威主義的性格の形成に関する研究は、これまで日本では学校と、結婚後の「同居」の観点からなされてきたそうだ(29)。。
その調査における日本における「権威主義的伝統主義尺度」の項目とは、質問に六題ある。(1)権威ある人々には常に敬意を払わねばならない(2)以前からなされたやり方を守ることが、最上の結果を生む。(3)子供のしつけで一番大切なことは、両親に対する絶対服従である。(4)目上の人には、たとえ正しくないと思っても従わなければならない。(5)伝統や慣習に従ったやり方に疑問をもつ人は、結局は問題を引き起こすことになる。(6)この複雑な世の中で、何をなすべきかを唯一の方法は、指導者や専門家に頼ることである。そして答えは、「そう思う」「どちらかといえばそう思う」「どちらでもない」「どちらかといえばそう思わない」「そう思わない」の五分位だという。(吉川(保坂、99p)。
この吉川の分析では、「どちらでもない」の解答が一番多かったが、学生や一般人の調査では、「そう思わない」が多かったという。いずれにせよ、この調査そのものが、「権威」というものを破壊する方向で行われており、若者たちが、「権威主義」の否定が正しいとする意識が与えられることになる。このような調査が、どれほど効力があるかわからないにせよ、研究者たちが、いかに戦後日本が、「権威」のない父親像を、青年たちに望んでいることが明らかになる。
アドルノとホルクハイマーの共著『啓蒙の弁証法』では、資本主義世界のうちの民主主義的だと称される国家においては、その敵対者である「権威主義」国家においてよりもいっそう巧妙はやり方で人々はそれに支配されている、という。ファッシズム国家と同じだ、というのである。その結果は、負けず劣らず、痛ましいものになっているという。大衆の意識が、彼らの言う「文化産業」によって操作され、ゆがめられ、批判的思考は絶滅の脅威さえ感じるようになる、と言っている。もしホルクハイマーとアドルノが、その《大衆娯楽がその消費者たちの品位を傷つけ、欺く狡猾なやり口》を告発するのなら、それは「批判的」思考が絶滅の脅威にあるのではなく、伝統と文化が、その実態を失っている、ということを指摘しなければならない。それをつくり出したのが、「反権威主義」であるからだ。それをしないことは、彼ら自身こそ、批判的思考を失っていることになる。彼らの批判の原点は、我々の伝統的な人間生活ではない、という誤りに基づいているのである。
註
(1)西川長夫「『パリ五月革命私論』平凡社新書、二〇一一年。
(2)私は東西の比較文化史研究とともに、『新しい日本史観の確立』という「歴史観」の本を準備していた.マルクス主義歴史観研究の一環として、ルカーチからのフランクフルト学派の検討をせざるをえなかった。
(3)Ruth Dutsche,Jeder hat sein Leben ganz zu leben,Korn, 2003.ルディ・ドゥチュケ他『学生の反乱』船戸満之訳、合同出版、一九六八年。
(4)井関正久『ドイツを変えた68年運動』白水社、二〇〇五年
(5)ヘルベルト・マルクーゼ他『ユートピアの終焉』清水多吉訳、合同出版、一九六八年。
(6)「一九六八年」とか「五月革命」の名がついた本は、日本でも多数出版されているが、こうした左派ユダヤ人のフランクフルト学派の思想を中心に語ったものは皆無といってよいだろう。そのほとんどが、多様なモチーフを上げて、まるで「革命ごっこ」のように表面的に語っているに過ぎない。
(7)Dutsche,op.cit. 井関、前掲書。
(8)井関、前掲書。
(9)Jurgen Habermas,Die nacholende Revolution,Frankfurt am Main,1990.
ハーバーマス『遅ればせの革命』三島憲一訳、岩波書店、一九九一年。
(10)シュテファン・ミラン・ドーム『アドルノ伝』徳永恂監訳、作品社、二〇〇七年。
(11)ドーム、前掲書。
(12)マーテイン・ジェイ『アドルノ』木田元、村岡晋一訳、岩波書店、一九九二年
(13)ジェイ、前掲書。
(14)ドーム、前掲書。
(15)M.Horkheimer, Autoritr?l und Familie,1936, ‘Studien ?ber Auroritir?l und Familie,=Kritisch Theorie, Bd.I,II,Fischer Verlag,, 『権威と家族』イザラ書房、一九七〇年、『批判的社会理論』森田数実編訳、恒星社厚生閣、一九九四。保坂稔『現代社会と権威主義 フランクフルト学派権威論の再構成』東信堂、二〇〇三年、参照。
(16)W.Schchter, Die Entwicklung des okzidentalen Ratuibakusmus, J.C.B.Mohr,1979. シュルフタ―『近代合理主義の成立』嘉目克彦訳、未来社、一九八七.
(17)Th.Adorno, The Autoritarian Personality, Harper and Brothers, 1950.『権威主義的パーソナリティー』田中義久他訳、青木書店、一九八〇年。
(18)M.Horkheimer, Autrhoritarianism and the Family Today,1949.ホルクハイマー「現代における結婚と家族」『道具的理性批判Ⅱ』清水多吉編訳、ィザラ書房、一九七〇年。
(19)M・ヴェーバー『支配の社会学 I』、世良晃志郎訳、創文社、一九六〇年。
(20)「現代における結婚と家族」前掲書。
(21)「現代における結婚と家族」前掲書。
(22)ホルクハイマー『権威主義的国家』紀伊国屋書店、一九七五年。
(23)シュべッペンホイサ―『アドルノ』徳永、山口訳、作品社、二〇〇〇年。
(24)G.Lederer,Autohoritarianism in German Adolescents;Trends and Cross,CultrralComparisons,1993.
(25)ジェイ、前掲書。
(26)アドルノ『自律への教育』中央公論新社、二〇一一年、136p)
(27)保坂稔、前掲書。
(28)マックファーランド、一九九三。(保坂、前掲書より引用)。
(29)吉川徹『階層・教育と社会意識の形成』ミネルヴァ書房、一九九八年。(保180p