河内の古刹と遺跡を訪ねて

はじめに

昔から河内地方は、東の大和と隔てた生駒山地と、西の大阪湾の間の、重要な歴史的地域であった。山麓部から平野部にかけて、多くの日本の指導者たちの死後、墳墓がつくられ、その規模の大きさから、ここに「河内政権」がつくられていたと考える人もいるほどである。ここはまた難波から大和への交通路にあたっており、行きかう人々の中には住みつく氏族も多かった。物部氏をはじめとする有力氏族や帰化人たちはこの地に定着していたのである。物部氏の滅亡の後、蘇我氏が力をえて歴史の舞台となり、とくに聖徳太子の墳墓もつくられて、多くの神社仏閣が建てられた。この地域を語らずして、国史は語れない。

この地域は、この春、二度ほど訪ねる機会があった。私はこの旅で、この土地の歴史との再会を試みようとした。歴史を体感しようとしたのである。私はかって、二十代後半から四十五才ぐらいまで、フランスやイタリアの各地を見て廻りながら、それを行なってきた。そのことが比較的、容易たったのは、二十世紀までに確立していた西洋中心史観のお蔭で、歴史観は整理されており、あとは見るだけでよかった面があったからである。見る事によって、彼らのレトリックがどのようなものであったか、理解出来ると同時に、その虚構を見抜くことが出来ることにもなった。

しかし残念ながら、日本では、そうはいかない。このような歴史的な土地を廻りながら、見る事に専念するわけにはいかないのである。まだ歴史への見方が確立しているわけではないからである。日本史学の方法が確立していない。何度でも言うように、階級闘争や権力闘争のマルクス主義史観が、戦後跋扈してしまい、日本の歴史家の常識のようになってしまった。争いの歴史にしてしまったのである。そこに調和ある進展を見ようとしない。精緻な研究が、すべて闘争史観になってしまったから、日本の価値が、何ら考慮されなくなってしまったのである。マルクス主義的方法以外に、日本歴史の見方が出来ず、争いのの個別史に拘泥する、視野の狭い歴史になってしまったのである。実証主義と称する唯物史観の偏向である。日本に生まれた文化への価値への認識が失われているのである。

それだけではない。まだ重要な発掘が続いており、どう歴史事実を変えるかわからないことが、それに拍車をかけている。争いの歴史をそこに見ようとして裏切られているものだから、あらわれた歴史の価値を述べようとしない。

例えば大阪の難波宮跡の古層から、五世紀はじめの多くの建築群が出土した。六棟ずつ二列に並んでおり、十二棟の大型の建物があった。それは『日本書紀』などに「難波高津宮」と記されていたものである。仁徳天皇の王宮の跡ではないか、と推測されたのである。するとこれまで河内といえば、天皇陵ばかりでなく、王都もあったのではないか、と考えることも出来る。これまで大和の纏向遺跡の時代のような、都市があったと考えられるのではないか。しかし議論は発展していない。ここにこれ以上の文化があった、という想像力が働かないからである。あの巨大で、幾何学的な古墳をつくった時代がいかに文化的のも高い時代であったことを閑却したいがためである。闘争の跡がないと、彼らには歴史的価値がない。

私たちの歴史探訪は、そうした観念を打ち壊すのものでなければならない。新しい事実を確認しながら、同時に新たな歴史観による、歴史創造をしなければならない。この稿でも、そのような闘争の唯物論史観を排し、文化の価値を認識しながら、訪れたところを時代順に追って語ってゆこうと思う。

1 応神天皇陵について

 私が仁徳天皇陵に続いてこの二番目に巨大な、前円後方噴を前にして、語らざるをえなかったことは、こういう事であった。それはこの墳墓が、現在、あたかも小さな森林化していることを批判したものであった。小さな山にこんもりした森がある、こうした姿は、この歴史的な記念建造物を見る眼を失わせている、ということである。この古墳は、大規模な人工的構築物なのである。全長四二五メートルもあり、前円の部分は二百五十メートルの大きさに三十五メートルの高さの三段階のピラミッドであり、後方部分は三百メートルの幅に二十一,三メートルの高さをもっている堂々たる墳墓なのである。

この巨大な構築物であったのに、このような樹木がこんもり茂っている姿など、全く似かわしくないことなのだ。本来あるのはエジプトのピラミッドや、メキシコのマヤ遺跡に構築物と同じ、巨大な人工構築体なのである。濠を隔てた小さな森林であることは、この時代が、いかに建築の時代であったかを忘れさせる。空中写真も、まるで緑の島があり、単なる自然の聖域にしか見えない。人間が緑なしに造った幾何学的な祖霊空間であることを思い起こさなければならない。円の部分に天=祖魂が宿り、方の部分に大地があらわされ、それ自体が、日本の精神的空間の象徴なのである。人が死に、神となった空間をあらわすものなのだ。

こうして造られた前円後方墳は、日本中の精神的シンボルとなっている。それは神道そのものの図解であった。とくにこの時代は応神天皇陵とさらに大きい仁徳天皇陵があり、これらが世界最大の古墳だけに強調しておかなければならない。実際、神戸の五色塚古墳や、長野の将軍塚古墳のように、完全に再建された古墳を思い起こせばよい。いかにこれらの古墳が、建造物としての社会的な記念碑であることは、明らかなのだ。これらより、二倍も三倍もあるこれらの古墳のイメージこそ、この時代の統治者たちの力と大きさを示すものであるのだ。これらは復元されなければならないのである。それは原型を取り戻すことであり、あの時代の人々の創造物を復元することになる。祖先たちの意志を、復元することなのだ。それでなければ世界遺産になったとしても意味がない。

こうした巨大な記念建造物の復元により、おおきみ、すめらみこと、と呼んだ時代のわれらの統治者の偉大さと、人々の敬愛の念を、実感することが出来るのである。こんなことは、ナショナリスムの発露でも、日本を誇る自慢話をつくりたいためではないことは、誰でもわかることである。歴史の正直な復元は、真実の日本文化をつきつける。

『古事記』を開くと、この応神天皇の《御陵は川内の恵賀の裳伏の岡にあり》と書かれているし(むろん川内は河内のことである)、『延喜式』をみると、《恵我藻伏御陵軽嶋明(かるしまのあきら)宮御宇応神天皇。河内国志紀郡に在り。兆域東西五町。陵戸二烟。守戸二烟》とあるので、この河内の御陵であることがわかる。後者の「河内国志紀郡」に「東西五朝、南北五朝」という規模であるからである。

ところがこの応神天皇の陵を疑う人々がいる。古墳から天皇の名を取ろうとする、実証主義を標榜する歴史家たちである。この古墳を「誉田御廟山古墳」と呼んだり、「誉田山古墳」と呼ぼうとする。

まず、この天皇陵から直接、応神天皇を示す証拠がない、というのである。しかしこの古墳が造られた時代は、文字を必要としなかった時代である。当時の文字記録がないのは当然である。人口の少ない信頼社会は、必ずしも文字を必要としない。当時の文字の記録以外に、それと実証するものがない、とすると、古墳のこと何も断定できない、ということになる。中国の史料にしか、頼る以外にない、というのが、彼らの発想なのである。また『日本書紀』に、応神陵について何も書いていない、という。

彼らは日本の最初の文字資料である『古事記』よりは、中国の文字資料を信用する。『宋書』の「倭国伝」が、より最も近い時期(四八八年完成)だから、という。そこでは「倭の五王」とあり、「讃、珍、済、興、武」と言う名を挙げる。日本では七代の天皇がおり、それに合わないし、『宋書』では、珍と済という王の間が、血縁が切れているから、日本の天皇の系譜の方がおかしいという。

この血縁が切れている、ということは、中国の著述が誤りなのに、なぜこちらの方を信用しようとするのか。それは中国の著者が、日本の「大王」の在り方を知らない、という事実を明らかにしているに過ぎないではないか。すでに埼玉県の稲荷山古墳から鉄剣が辛亥年(かのとい)(西暦四七一年)に雄略天皇の名(大長谷若建命)である「獲加多支鹵大王(わかたけるおおきみ)」の名で記されているように、雄略天皇の実在が、『記・紀』以外で文字で鉄剣に記されている以上、その実在は明白である。熊本県の江田船山古墳出土の鉄刀銘も同様である。『宋書』倭国伝において西暦四七八年に宋に使いを送ったと記しており、「武」が雄略天皇であることが年代的にも適合しているが、こうした事実は、『記・紀』の正しさを証明しているのである。この五世紀後半に活躍した雄略天皇の王宮跡ではないか、と推測される奈良県桜井市の脇本遺跡からは、直径二十五センチから三十センチもある柱で建てられた建物が出土した。これは王宮であろうが、雄略天皇の存在をさらにはっきり示すものである。

なぜ『宋書』の方が正しくて、日本の『記・紀』の方が誤っていると言うのであろう。

それは何度でもいうが、「古代史家」たちが、『記・紀』よりも『魏志倭人伝』の方を信じるという偏向と関連している。最近では箸墓古墳を、唯一の文字資料であるの卑弥呼の古墳だとするのも、その偏向の例だ。依然として、邪馬台国をどこか、卑弥呼が誰か、何ひとつ証拠がないのに、それを信じ、『記・紀』を否定する論者が多いのである。

中国の歴史書に倭国の五人の王が中国の宋朝(劉宋朝)などに使者を送ったことをつたえているが、この時代には、中国は北朝と南朝に分かれており、南朝こそが正統だとするために、そこに使者を送ってきたことを強調したかったと思われる。倭国が百済や新羅を支配することを正当化するための官職を南朝に求めた。しかし南朝には、日本の五人の倭王の前から、高句麗や百済から使者を送ってきていたので、大和朝廷が、この両国を支配することを許さなかったという。しかし広開王碑文でも明らかのように、大和朝廷は、すでに高句麗を攻撃していたのである。倭の五王の最後の一人であった倭王武から送った文章が伝えられており、日本が長期にわたって高句麗と争っていた、ことを認めている。

応神天皇の父は仲哀天皇であり、母は神宮皇后であった。『記・紀』によると、神宮皇后は三韓出兵物語の中心人物で、仲哀天皇の急死後、妊娠中でありながら武内宿禰とともに、朝鮮半島に出陣し、新羅を討ち、また百済、高句麗に入り帰服させたという。この記録こそ重視すべきであろう。これが広開王碑文の記述を対応するし、日本の朝鮮進出の事実を明らかにしているのである。応神天皇は、妊娠中の神功皇后が三韓遠征に出発し、凱旋帰国後、生まれたのである。

ごく最近では、平成二十三年二月二十日付けの『東京新聞』で、《「応神陵」二〇〇八年調査で証言・前方部に巨大土壇・血縁者も埋葬か》という記事があった。これは、宮内庁陵墓管理委員会が、平成二十年秋に整備計画検討のために応神天皇陵の墳丘内の調査をした際に、前方部に大きな土壇が確認されたというのだ。委員の河上邦彦(神戸山手大教授・考古学)氏によると、《前方部の先端寄りに土を盛って築いた壇があった、という。保存状態は極めて良く、未盗掘の可能性があるという》と書かれている。

私はこの報道に注目した。この土壇の主は誰であろうか、と。そのことはこの新聞記事にはのっていないが、『記・紀』の内容を知っているものにとっては、容易に判断出来ることではないか。それは応神天皇が、天下を治める心づもりでいた宇遅能和紀郎子(うじのわきいらつこ)ではないか。天皇は三人の皇子に、《大山守命(おおやまもりのみこと)は、山海の政(海部・山部・山守部などの部民を治めること)をしなさい。大雀命は食国の政治(食国おすくにの政・天下の政治)を執り報告しなさい。宇遅能和紀郎子は皇位を引き継ぐために、太子(ひつぎのみこ)になりなさい》と、『古事記』の中で語られている。しかし大山守命が、皇位を継ごうとしたため、大雀命は宇遅能和紀郎子に知らせ、殺してしまう。残った二人の皇子は、皇位を譲り合うが、宇遅能和紀郎子は早く薨去されてしまったので、大雀命が皇位につかれることになる。それが名高い仁徳天皇である。

従って応神天皇の前円後方墳の建立をしたのが、仁徳天皇であったから、当然、応神天皇の御意向を知っていたはずである。本来、皇位につかれるはずであった宇遅能和紀郎子をこうして大きな土壇で祀ることは、自然であるように思われる。

白石太一郎氏は、この応神天皇陵から出て来た須恵器の編年を重視し、初期の段階では五段階に分類される、という。応神陵から出土した須恵器は、その第二段階のTK73から第三段階のTK216に相当するという。円筒埴輪の年代比定をすると、五世紀の第一四半期ということになる。古墳は跡継ぎの首長が造るのが原則であるから、十年以上はかかるだろう。応神天皇は四一〇年までに亡くなったはずであるから、年代的にも適合する、と述べている。《以上の理由から、応神天皇は五世紀の第一四半期の人物です。誉田御廟山古墳を応神陵として疑うのは、非常に難しいことと考えざるを得ません》と述べている。《同様に、須恵器の編年では第三段階のTK216から少し後のON16の時期に相当します。円筒埴輪の分析から考えても、五世紀の前半で、誉田御廟山よりも少し新しい時期です。年代でいえば、五世紀の第二四半期で、仁徳天皇の年代に一致します。となれば、現在の仁徳陵の被葬者を疑う理由はなくなってしまうのです》(「誉田御廟山古墳(現応神陵)」『天皇陵古墳を考える』学生社、平成二十三年)と、これまでの応神天皇陵を否定しようとする研究者に対する強い反論を行っているのである。

《我が国の国家形成期には、大和盆地東南部に初期大和政権の最初の大王墳の箸墓古墳が築かれ、景行天皇陵へと六基が繋がる。それが不思議なことに、四世紀中葉から後半になると、大和盆地北部の平城(なら)山丘陵南斜面の左紀盾列(さきだてなみ)古墳群へと移動する。さらに、四世紀末葉から五世紀に入ると、大阪平野の古市と百舌鳥古墳群へと、また所を変える。もちろん、大和政権内部での最有力者が、「持ち回り」で、大王の座についた結果がこの古墳の分布状況を示しているという連合政権論に基づいて解釈する》。

《同じ緯度で約九キロ離れて位置する百舌鳥、古市の両古墳群全体を俯瞰すると、仲姫命陵―履中陵―応神陵ー仁徳陵―土師サンザイ古墳とこの二つの古墳群が交伍に築かれたことが明確に示されている。》白石太一郎氏(国立民俗博物館名誉教授)は《四世紀以降の朝鮮半島の情勢の大きな変化によって、外交、軍事の面を担当した河内の勢力が、大和の勢力に代わって大王権を掌握した結果だとおもいます》(同)と「連合政権論」を基に、古墳時代の国家像を分析している。《統一国家成立以前の日本には、畿内を中心として、吉備、出雲、筑紫、毛野(けの)などの地方にも有力な政権があった。畿内政権はそれらの地方政権と同盟関係を結びながら、次第に自己の傘下に組みこんでいった》(矢澤高太郎『天皇陵の謎』文春新書)。《その変質の過程の中に、いくつもの画期がある》と述べている。

これについては江戸時代の蒲生君平の説がある(『山陵志』より、現代語訳)。《神武天皇から孝元天皇(八代)までは、丘陵によって墳をつくる》《開化天皇(九代)以後に陵の制度ができ、垂仁天皇(第十一代)になってより整備された。その後敏達天皇(第三十代)までのおよそ二十三陵は制度はおおむね同じである。だいたい陵をつくるのに丘陵にによってその形状に従う。方向は一定ではない。大きいか小さいか高いか低いか長いか短いかについては不定である。その制度は宮車の形に似せ、前方後円とし三つの壇に造った上で、まわりに溝を回らせる》。《用明天皇(第三十一代)から文武天皇までのおよそ十陵は、特に天皇陵の制度が変わった。およそ円に造り、玄室をその内に穿って漆喰を塗り、これを巨石で覆った。石棺はその中にあり、南に向けられたのでその戸は南に向いている。そして石を累(かさ)ねて羨道とした。その制度はこのように厳密であった。そしてまわりに溝を造らなかった。聖徳太子が生前すでに(自らの墓を)河内の磯長に営んだのはこの制度に拠ったのである。当時聖徳太子は自身が総明でさまざまな方面に能力を発揮するという自覚もあり、そしてそれなりの立場にもあったので、かっての制度を変えることが多かった。天皇陵についてもそうであったのであろうか》。

このように蒲生君平は、天皇陵の変遷について分析した。この考え方は、今日まで原則と考えてよいものである。すなわち、三つの時代があり、初代から第八代が単純な陵、第 第九代から三十代まで前方後円墳、そして第三十一代から以降は円墳になったというのである。第三十一代以降は、仏教が移入されたため、墳墓に対する考え方が変化したものと考えられる。 いずれにせよ、すめらみことの陵は、土地の移動はあっても、人々の統治者に対する熱い敬愛の気持から発したものであり、応神天皇陵にいたっては、一日千人が当たっても、四年もかかる巨大さをもっているものであったからなお更である。全長四二五メートル、高さ三十五メートル、周濠を含めた総全長は六百五十メートルを超えている。墳丘の体積では仁徳陵の二万八千九十四立法メートルに対し、応神陵はそれを上回る百四十三万三千九百六十立方メートルと産出されている(梅原末治)。周囲には方墳と円墳の何基もの陪塚が築かれており、南西には全長二百二十五メートルの前方後円墳の墓山古墳が陪塚として指定されている。この規模の大きさは、世界第一の規模であることは繰り返すまでもない。これだけ残された部分が多いのなら、最初に述べたように、記念建造物として復元すべきものなのである。その貴重さは計り知れない。

八幡信仰といえば、応神天皇への信仰と言われる。八幡神と応神天皇と同一視する記述は、『記・紀』には見られない。するとそれは奈良時代の末期ごろからだ、といわれる。その意味でも、誉田(こんだ)八幡宮の由来について、この応神天皇陵を知る上でも書いておかねばならないだろう。

『誉田宗苗縁起』に、《天皇が崩御されたことを伝え聞いた人々は、鋤鍬を荷って雲霞のように集まって御陵と築いた。これが応神陵である》とある。この巨大な御陵をつくるのが鋤鍬を担いが農民たちで、彼らが雲霞の如く集まったというのも、こうした建設の模様を語っているのも興味深い。この縁起は足利義教が奉納した、というが、そのときに古縁起があり、そこに補遺して

新図を入れた、と述べられているから、この古縁起というものがあって、それから引いた言葉であろう。

この八幡宮は、すでに六世紀の欽明天皇の勅願によって建立された、と書かれ、全国の奉仕者が讃州して御陵を警護するようになったという。そのために社殿を建立し、八幡大菩薩を観請した、と述べ、そのとき参籠された天皇に、夜中に八幡大菩薩が出現し、さらに深く信仰されるようになった。その日が二月十五日で、歴代天皇は、一度は誉田八幡宮に行幸するように定められたという。

それで聖徳太子も参籠したのをはじめとして、弘法太子、菅原道真の参籠など記録されており、十一世紀の後冷泉天皇が社殿の改修の後、行幸されたが、社殿が鳴動し、光を発する異変があり、それ以来、朝廷では御占の神事が行われることになった、というのだ。

この十一世紀は武士の勃興の時代で、南河内で源氏による武士団が結成され、一〇五一年の「前九年の役」に源頼義、義家の父子は陸奥国に出兵するが、これと同じ年に「縁起」には、誉田社殿が移転改修され、後冷泉天皇の行幸が記されている。この八幡宮にも護国寺が建てられた。

御陵というものが、皇祖霊信仰における神道によるものであるが、この八幡宮が建てられると、八幡菩薩という仏教から来た守護された、という、神仏習合の顕著な例となっていることがわかる。これが日本の神仏の関係の典型的なひとつである。八幡大菩薩という仏教系の言葉は、欽明天皇の時代にはまだなかったが、おそらく、それと似た守護神を、想定していたであろう。これだけの御陵を守る衛兵を必要としただろうからである。それが後になって、河内の武士の発生とつながるというこの「縁起」の語るところは、武士と神道との結びつきを語っていて興味深い。

やがて源氏の氏神が八幡である、という信仰がひろまると、誉田八幡宮は将軍家をはじめ、源氏の名のる武士たちの信仰を受けるようになったという。源頼朝は建久七年、社殿、伽藍を修復し。神輿(国宝に指定されている)や、神馬、蔦松皮菱螺鈿鞍、同鉄蛭巻薙刀(重要文化財)などを寄進し、室町時代の六代将軍足利義教(1429-41)はこの『誉田宗苗縁起』や『神功皇后縁起』(重要文化財)を奉納した。

2 叡福寺と聖徳太子御廟

奈良から二上山を越えて河内に入ったところに叡福寺がある。ここには、聖徳太子が自ら選んだといわれる墓所、磯長廟(しながびょう)もある。太子が若いころこの地を訪れ、背後の五字ケ峰にのぼり、五色の瑞光が輝いているのをみてここを墓所に定めたという。推古天皇はこの地を太子に生前に与え、推古三十年(六二二)、太子の母、間人大后(はしひとおおきさき)と太子と妃の大郎女(おおいらつめ)を合葬した。霊廟を守るための墓守の家も十軒建てられ、香華寺としたといわれている。

御廟は丘陵を利用した円墳で、すでに壮大な墳墓の時代は過ぎていた。聖徳太子もすでにそうした大きなものは望んではいなかった。仏教は墳墓に代わる寺院の存在を教えていた。石室の中央正面に間人大后の石棺が安置され、その前面に太子、西側に大郎女の棺が並べられ、三骨一廟といわれた。それは阿弥陀三尊と対応してたのである。当時の人々にとって、この三人の霊があたかも三尊として考えられていたのである。母后が阿弥陀、太子は救世観音、妃を勢至菩薩となっていた。日本では仏教が人間の死後の世界をあつかうことになったのである。

奈良時代に入って、ここには聖徳太子を敬愛された聖武天皇の勅願によって、東西二院形式の七堂伽藍を建てられた。その寺域は、現在の太子町太子と、太子町春日の西半分にも及ぶ広いもので、東には転法輪寺、西に叡福寺があった。その頃、人々は聖徳太子を中国の天台宗の慧思禅師の生まれ変わりと考えられており、その太子を慕って鑑真が来日し、行信は法隆寺の夢殿を建てた。その後、平安時代に入って最澄も信仰し、比叡山は太子信仰の伝統を守り続けた。空海も、太子の生まれ変わりと言われたし、鎌倉時代には親鸞上人が太子を「和国の教主」と讃えている。太子を讃えた『聖徳太子伝暦』がつくられ、太子二歳像や孝養太子像なども、盛んに造られるようになった。太子信仰は、太子建立の法隆寺、四天王寺だけでなく、この「上の太子」とよばれたこの叡福寺、「下の太子」の大聖勝軍寺、「中の太子」の野中寺などが、その霊場としえ栄えたのである。

しかしここ、転法輪寺、叡福寺の両寺は天正二年(一五七四)に織田信長の兵火により全焼してしまった。今の叡福寺は豊臣秀頼により聖霊殿が再建されたあと、復興していったものである。

私は『「やまとごころ」とは何か』(ミネルヴァ書房)で、法隆寺の『釈迦三尊像』の台座裏に、《相見可陵 面示識 陵可時者》という墨書と鳥と魚の図が描かれていたことを取り上げた。この三尊像は、太子が崩御された後、その翌年に止利仏師に制作されたものである。「陵」が当然、聖徳太子の御陵を示すものとは推測出来る。

つまりこの墨書きは、日本で初めての文字で書かれた、御陵に対する記録と言ってよい。この文章を読むと、《相い見て陵を可(よし)とし、面を示して心を識り、陵を可として時を者す》(みなで御陵を見てよいものと思い、おたがいに面と向かってこころを通じあい、ご陵をよいとして時を過ごす)ということになる。これが仏像の台座にわざわざ書かれていることに注目すべきであろう。《この文章と鳳凰のような鳥と、嘴をもった魚の墨書きは、天上の鳥と、水中の魚で、御霊が天上に上っていくイメージを語っている。この二つの動物が同身異体で、南の鳥は無限の大きさをもち、北の魚もまた無限大の存在となっている。『荘子』に魚と鳥との寓話では、北漢に魚がいて、鳥と化して南漢に移るという。これらは四方がみな水で、四海であることを証拠立てている。それは無限大の天のことを指すであろうこれは老荘の世界であるが、仏教にも影響したものであろう。それは仏教用語を借りるならば「往き登る」ところの「浄土」であり、「天寿国繍帳」では「天寿国」となるのである。神道も道教も仏教も同じような死後の概念を、当時の人々は持っていたことになる》(同)。

「陵」に閉じ込められた御霊が、「御陵」から離れて、天に飛翔するということを図像化していることになる。私はこれを日本の御陵文化が、仏教文化へと変遷していくことを明確に伝えていると理解している。釈迦三尊像と御陵の関係は、まさにこれまで陵墓にいた崩御された三人が、その霊が独立して浄土に行く、という意味合いを示していることになるのである。この釈迦三尊像が完成したとき、すでにこの陵に太子は葬られている。『日本書紀』には、推古三年(六二三)に太子、母后、太子妃の薨去された同じ月に《太子(ひつぎのみこと)を磯長陵(しながのみささぎ)に葬った》と書かれている。

叡福寺の聖徳太子の御陵は、太子が御陵という神道における死者への信仰を体現していると同時に、仏教により、それまでの巨大な墳墓から、仏寺への移行を物語っていることになる。 この御陵では、母公の棺が中央に、皇太子は東方に、妃は西方に安置され、この《三骨一廟は三尊位、云々》と廟中の頌文にあり、これらが釈迦三尊と同じことを示している。この三尊こそ法隆寺金堂の『釈迦三尊像』と重なっているのである。

『聖徳太子伝暦』では次のように語られる。

《磯長の墓に運ばれた棺は、そのまま墓に安置され、南の隧道の門が閉じられた。天皇は大臣に勅して、磯長の墓を守ることを仕事とする十戸の墓守の設置を命じた。葬送のあと、諸国の百姓が、はるばる遠くからお参りに訪れた。墓の周囲を巡り、たがいに集まって叫哭する彼らの姿は、日夜絶えることはなかった。けれども、死者の魂が転生するまでの期間とされる四十九日の中有を終え、五十日過ぎると、ようやくその数も減った》(壙語訳)。

この『伝暦』が書かれた平安時代には、すでに《死者の魂が転生するまでの期間とされる四十九日》と、葬式というものが定式化されているのがわかる。ここに神道の死者をまつる儀式と、仏教の「転生」の観念が、混交し、神仏融合が行われていたことを示している。

この叡福寺には、諸像があるが、『聖徳太子二歳像』(★★★)が秀逸である。これは私の推測では、運慶が彫ったと考えられる飛鳥寺(法興寺)の同像を、模倣したと思われる。その他、『如意輪観音像』★★★も繊細に造られ、脇侍の『不動明王』や『愛染明王』も、丹念に造られているが、時代的にも鎌倉時代末か、南北朝の時代の作で、すでに技巧的になっている。

3 葛井(ふじい)寺『千手観音菩薩像』(★★★★★)

秘仏で、年や月に一度しか開帳してくれないとなると、それに合わせて行く以外にない。今年の四月は、十七、八日が歓心寺の『如意輪観音』、十八日は葛井(ふじい)寺の葛井寺の『千手観音菩薩』像、野中寺の『弥勒菩薩像』を、近藤さんが調べて下さっていたおかげで見ることが出来た。これらはそれぞれ、マニエリスムの典型、次は古典主義の代表例、そしてアルカイスムの例として、必見の像である。

むろんこうした秘仏にすることによって、よく保存される面があるが、仏はあくまで人々に「ほとけ」すなわち、「仏陀(ほと)の像(け)」として造られたものである以上、姿が見られることが原則なのである。よく寺のお坊さんが、仏像は拝むもので、鑑賞するものではない、というが、それは誤っている。日本の仏像は、はじめから、その形を見る事によって、その仏性を理解するように出来ている。観る事によって、仏教を感じることが出来るのである。

『千手観音菩薩』像について述べてみよう(国中連公麻呂作。脱乾漆造、総高二四六・〇センチ、像高 一四四・二センチ)。

葛井寺は、大阪府藤井寺市の古刹である。寺伝によれば、神亀二年(七二五)に、聖武天皇の勅願によって稽文會(けもんえ)・稽主勲(けしゅくん)の父子が制作し、行基が開眼した、と書かれている。この寺伝は、永正七年(一五一〇)の地震の被害を受けた後の史料というから、後世のもので、この父子が、どのような仏師であったかわからないが、まさに同じ聖武天皇が建立された東大寺の大仏や諸仏を思い起こすと、その御本尊が、天平時代の古典主義の傑作であろう、と思わざるをえない。この二つの寺院の仏像は、同じ天平の仏像として、共通性をもっていることは明らかである。

これは拙著『天平のミケランジェロ』(弓立社)でも触れたことだが、この葛井寺の像は、同じ天平のミケランジェロの作ではないか、と思わざるをえない。奈良の大仏は、国中連公麻呂が制作した。またすでにこの連載で語ってきたように、法華堂(三月堂)の不空羂索観音や、日光、月光菩薩は、この大仏師の作品といってよい。これに大変近い。この千手観音と、日光・月光菩薩の顔の造作、とくに額の大きさ、眉、鼻、唇の均整のとれたつくりは、別の作家とは思われない。

私のこうした作家同定に試みは、他の本にはどこにも出ていないので、公認された意見ではない、と言われることがある。資料のみに頼る美術史家は、私の見解を無視するものが多い。しかし、様式の観察によって、決してこのような見解が間違っていないことは断言出来るのである。

例えば、この葛井寺の仏像をちょうど、十七年前に大阪市立美術館で開いたとき、その館員であった藤岡穣氏の解説が、いみじくも私の判断が孤立したものではないことがわかった。私と同じ観察であることが、そのカタログで語っている。氏は次のように書いている。

《その端厳とした顔つき、のびやかな肢体、そして何よりも千臂という超人的な姿を自然な調和をもってあらわした像容には、およそ天平年間(七二九~七四九)後半期の造像ともくされる東大寺法華堂の諸像を典型とする、天平時代のもっとも完成された彫刻様式をみることができる。たとえば、頬のふくらんだまるい顔立ち、鼻や口唇の先をとがらせた抑揚のあるプロフィールは日光・月光菩薩像を思わせる。細くしなやかな体躯、並行に流れる衣文は、梵天・帝釈天とつうじ、唐草の展開する華麗な胸飾りは不空羂索観音像のそれにもっとも近い。本像は、こうした法華堂諸像との関係から、八世紀中頃、造東大寺司系の工人によって造立されたものと考えられる》(『国宝 葛井寺千手観音』(大阪市立美術館、一九九五年)。

それもこの『千手観音像』の頭部と、『日光菩薩像』のそれとを写真で並べて、その類似を語っているのである。それは私の指摘と同じである。質感の類似と共に、私は「気韻生動」の同一性と言っているが、その観察は、同一作家の決め手となるものである。藤岡氏もここまで共通性を語るのなら、「工人」などと言わず、一人の仏師を想定しなければならないはずである。それが美術史家としての原則である。しかし日本ではなぜか、これ以上のことは言わない。サインがない、とか、胎内に署名入りの書きものがないから、と言うのである。むろんそれはあった方がいいが、しかしその基本となるのは、この表現様式である。

この葛井氏は百済の王族の遺児の子孫が、養老四年(七二〇)に葛井連(ふじいむらじ)と改称した氏族である。この一族の出身である人々が、造東大寺の要職についており、彼らが、造仏活動を行っていた氏族で、技術的な官僚を輩出していたことがわかっている。この間連からも、同じ東大寺で諸仏を制作をしていた帰化人系の国中連公麻呂が、ここで仕事をした、と考えても、無理はない。

ふつう千手と言っても、四十二本ぐらいしか造らないのであるが、これは千本を忠実につくり、その厚みは肉体以上になっていて、きわめて豪華に見える。菩薩の姿の清楚さに比べて、この千本の手の異常さが、この像の否日常性を強め、その威力を感じさせるのである。

そして頭上の十一面もまた、決して手を抜いていない。人々のどんな悩みをも救うという、十一面の顔はそれぞれ、おだやかで柔和な表情から、激しい怒り、また笑う顔までうまく表現し分けている。十一面の造形は、正面に寂静菩薩面(慈悲の相)、左側が瞋怒面(怒りの相)、右側に狗牙上(くげじょう)出面(牙を出して頬笑む相)、後ろの一面は暴悪大笑面(邪を笑う相)とされている。それらが丹念につくられていて、それがこの万葉の時代の、日本人のゆたかで静かな表情のように造られている。

すでに取り上げた向源寺の十一面観音像の頭上の十一面よりも、静かなしかし味わい深い顔をしており、古典的な天平仏と、マニエリスムの表現主義との違いを感じさせる。

4 観心寺の如意輪観音像(★★★★)

 観心寺という名前は、心を観る、という意味であろうが、当初、雲心寺と称したと言われている。伝承では、大宝元年(七〇一年)、役小角(えんのおづぬ、役行者)が開創した、というから、山岳宗教の寺としてこの雲の心という名が選ばれていたのだろう。寺には奈良時代にさかのぼる金銅仏四体が伝来することから、奈良時代草創されたことは否定はできない。その後、大同三年(八〇八年)、空海がこの地を訪れ、北斗七星を勧請(かんじょう)したという。これにちなむ七つの「星塚」が現在も境内に残されているのも面白い。北斗七星を祭る寺は日本では観心寺が唯一であるという。

今日、日本で使われている七つの曜日は、空海がもたらした『宿曜経』が基になっているという。『観心寺縁起資材帳』(国宝)などによると天長四年(八二七年)、実恵の意を受け、弟子の真紹(しんじょう)が造営を始めていたという(天長二年(八二五年)とする異説もある)。

観心寺は楠木氏の菩提寺であり、楠木正成および南朝ゆかりの寺としても知られている。正平十四年(一三五九年)にはこの寺が南朝の後村上天皇後の行在所となっている。境内には後村上天皇桧尾陵があるのはそれを物語る。境内には「建掛塔(たてかけとう)」と呼ばれる仏堂があるが、これは三重塔の一重目だけが建てられた未完成の建築なのである。伝承によれば、楠木正成は、「建武の新政」の成功を祈願して三重塔の建立を発願したが、造営なかばで「湊川の戦い」で討ち死にしたため、建築が中断され、そのままになってしまったという。首塚もあって、討ち死にした正成の首がここに祀られている。

弘仁六年(八一五年年)、空海は再度この地を訪れ、自ら如意輪観音像を刻んで安置し、この「観心寺」の寺号を与えたという。「空海が自ら刻んで」云々の話は疑わしいにしても彼は仏像を重要視し、現在金堂本尊として安置される『如意輪観音』像なども、彼の依頼で造られたといってよい。

しかしこの『如意輪観音』像は、官能的である。日本の菩薩像の中で、もっとも官能的なひとつといってもよいであろう。その六臂が、動いている柔和な女性の腕のようで、その顔の含んだような笑みと共に、その官能性を増しているのである。その片膝を立てて座る姿も乱れているようで色っぽい。如意輪観音の「如意」とは如意宝珠(チンターマニ)、「輪」とは法輪(チャクラ)の略で、如意宝珠の三昧(定)に住して意のままに説法し、六道の衆生の苦を抜き、世間・出世間の利益を与えることを本意とする、と寺の説明には書いている。如意宝珠とは全ての願いを叶えるものであり、法輪は元来古代インドの武器であったチャクラムが転じて、煩悩を破壊する仏法の象徴となったものだという。六観音の役割では天上界を摂化するのだ。しかし像そのものは、この説明とは別に性的に見え、魅力的な美術作品となっている。

日本における如意輪観音の作例のうち、この観心寺本尊像は六臂像の代表作である。六本の手のうち、右第一手は頬に当てて思惟相を示し、右第二手は胸前で如意宝珠、右第三手は外方に垂らして数珠を持つ。一方、左第一手は掌を広げて地に触れ、左第二手は未開敷蓮華(ハスのつぼみ)、左第三手は指先で法輪を支える。兵庫・神呪寺像、西国札所の園城寺(三井寺)の観音堂本尊像も、奈良・室生寺の本堂像、京都・醍醐寺像などはいずれも観心寺像と同様の六臂像である。

これ以後、如意輪観音像は六臂の像が多いが、これとは像容の異なる二臂の半跏像もある。六臂像は六本の手のうちの二本に、尊名の由来である如意宝珠と法輪とを持っているのである。今回の旅でも観た叡福寺の『如意輪観音』像(鎌倉時代)もこの像容である。

著名なものは、滋賀・石山寺の秘仏本尊像があり、飛鳥の岡寺の本尊像も二臂である。

しかし像容はそうであっても、形態的にこの像と似ているのは、法華寺の『十一面観音像』である。これは立像だが、その大きめな顔と、切れ長の目、眉の長さなど、共通しているし、何よりもその官能性を秘めた身体の女性的な姿がある。この作風は、肉感的で、その他にも、渡岸寺の『十一面観音像』にも伺われるし、神護寺の『虚空菩薩像』、東寺の『金剛法菩薩像』など、この平安時代初期のマニエリスムの傾向と一致している。

私はこの五点は、同じ作家ではないか、と見ている。時代もほぼ同じであるし、一人の作家が工房とともに、さまざまなお寺で仕事をしていてもおかしくはない。まだこの作家の名前を同定できないでいるが、この平安時代の新しい様式をもつ、作家として、神護寺の有名な『薬師如来像』を造った流派から出た仏師であろう、と推測している。

5 菅原道真と道明寺について

私はかねて、学者であり政治家でもあった菅原道真が、なぜ至るところの天満宮で祀られているのか訝しく思っていた。いくら、宇多天皇に重用されて「寛平の治」を支えた一人であり、醍醐天皇の下では右大臣にまで昇った優秀な人物であっても、左遷させられ、大宰府で憤死して、復讐の鬼となり天変地異が起こさせた、といって、そのようなことで同情を引いて鎮魂するための神社をつくる、というのもおおげさ過ぎる。その怨みは、果してそんなに大きなものであったか、ということである。彼はそんなに思われることは、本意ではなかったろうに、ということだ。この人物を祀る天神信仰の神社が、八幡、伊勢信仰に続いて三番目に多い、ということは、ふつうではない。

左大臣の藤原時平に《止足の分を知らず、専権の心がある。宇多法皇を欺き、醍醐天皇と仲違いさせ、さらに天皇と皇弟(斉世ときよ親王)の間を割こうとしている》と、讒訴(ざんそ)され、大宰府へ権帥として左遷されたという。しかしこのこと自体は、時の不利というもので、同情はされても、人物信仰の対象にまで至らないであろう。転勤の経験のある人なら、左遷とて、不遇な状態ではない、と判断するであろう。地方に飛ばされたといっても、僻地ではあるまいし、九州の大宰府である。大陸人との折衝にあたる重要な役割のある地である、日本の政治の要地でもあるのだ。都に帰ることなく、その地で没したにせよ、その恨みの雷神となったというのもおおげさな気がする。朝廷に祟りをなしたとされ、天満天神として信仰の対象となる、という経緯は、余り説得的ではないではないか。

道真は幼少より詩歌に秀でており、十八才で文章生(もんじょうせい)となったり、その文章生のうち二名が選ばれる文章得業生となり、若くして正六位下に叙せられ、下野権少掾となった、などということも、いつの時代でも、秀才はいるものだ、ということにすぎない。方略試にも、中の上で合格し、規定によれば三階位を進めるべきところ、それでは五位に達してしまうというので一階のみ増して正六位上に叙せられた、というが、これとて特別、抜群のものではない。

つまり、この人物は、「学問の神様」と呼ばれているが、それ自体、復讐の神が宿るなとということはない。どこでも学問は出来るはずである。学問そのものに、秀でた業績をつくることは場所の云々ではない。

よく知られていることは、道真には、寛平六年(八九四年)遣唐使に選ばれながら、奏状を書き、もはや往復の危険を犯してまで唐から請来すべきものはなくなった、とする文面が思いだされることである。日本の学問の自立をいみじくも主張していることになる。その自立した学問とは何であっただろう。

菅公といわれた道真の学者としての仕事に、『三代実録』と『類聚国史』というものがある。

この『三代実録』の方は全五十巻あって、『記・紀』から続く、六国史の最終巻である。清和、陽成、光孝の三代の天皇の事績を編年体で記録したものである。道真の学殖を認められた宇多天皇は、編集委員に藤原時平らと共に選んだ。天皇の譲位によって一時は中断されたが、次の醍醐天皇もあらためて編集を命じ、それも完成に近づいたときに、時平の讒訴(ざんそ)があった。その原因は《学者の身から大臣に栄達された例は、吉備真備の他に例がない。どうか足るを知って余生を安穏に送られるように》という前年の文章博士の三善清行からの書信に記されている。こうした国史編集という国家の仕事の中枢に、代台の藤原家以外の学者がいることは、藤原家としても許せなかったのであろう。この『三代実録』は、『記・紀』以来の『六国史』の中ではもっとも優れている、と定評がある。

『類聚国史』の方は、宇多天皇の命により菅公が編集をしたもので、全二百巻もあって(現存するものは六十二巻)、これも国家的な仕事であった。従来の官撰の歴史書はすべて編年体であったが、菅公はこれを、神祇部、帝王部、後宮部、人部、歳時部、音楽部、政理部、刑法部、仏道部、風俗部などの項目ごとに分類して編集したのである。

道真の書で、『書斎部』という本があるが、そこには、《学問の道は抄出を宗とす》とあるように、短札(カード)を用いて分類していった。その整理の方法に独創性があったといわれる。その抄出に当たって、厳密な原本主義によったので、今日『六国史』の中で散逸しているものも、この『類聚国史』により復元することが出来る。その点同じ『六国史』を抄出した『日本記略』の方は、原本を省略しているために完全に復元することが不可能である。こちらの方は、著者は不詳である。

菅公は学問の方法を知っていたのである。また歴史という学問は、国家の学問の中心でをなすものであった。この『類聚国史』は、学問的に貴重な資料というだけでなく、後世の国家運営のために奮迅する役人たちの必携の書となったことも、それ故である。

私は次第に、全国で四千近くある天満宮というものが、単に、不運な政治家の鎮魂のためではなく、日本人が庶民に至るまで代々、学問というものの重要さを認識し、歴史を尊ぶ、というその気持を代弁してきたのではないか、と考えるようになった。学問に対する尊敬である。「受験の神様」と親しまれるのも故なきことではない。学問を社会批判の学として押し曲げてしまった現代の大学の学者や評論家への反省を強いるものだ。

菅公のこの歴史の仕事は、天皇のもとで、学問としてまとめることが第一であった。その仕事から離れざるをえない、という痛恨のきわみが、そこにあったのだ。彼が大宰府に行ってからは、歌しか他にすることはなかった。膨大な資料を駆して学問をすることを旨とした道真にとって、それは苦しさ以外ではないだろう。人々は、その学問半ばで、左遷させられたその業績を惜しんで、天満宮をつくった、と言っても間違いではあるまい。

彼の歴史はあくまで天皇の歴史である。それが日本の歴史である、と信じて疑わなかった。

《去年の今夜清涼に侍す
愁思の詩篇 独り腸を断つ
恩賜の御衣は今此に在り
捧げ持ちて日毎に余香を排す》

(現代語訳:去年の今夜は宮中の清涼殿で帝にお仕えしていた。腸を断つような悲痛な思いをこめて「秋の思い」という題の詩を詠んだのだった。帝からそのとき頂いた御衣は、いまこの適所にある。天顔を拝する思いで御衣にまつわるのこりの香をかいでいる)。

延喜元年(九〇一年)左遷される道真が大宰府へ向かう淀川を下る船の中で、《世につれて 浪速入江も にごるなり、道明らけき 寺ぞこひしき》詠じている。道真の死後、寺名は道明寺と改められるが、これは道真の号である「道明」に由来するというが、この歌がその元にあったのだ。

《心なる 真の道に たがひなば 祈らずとても 神や守らむ》。

道真の有名なこの歌は、まさに日本人の基本思想を語っているのである。これこそ、神道の思想である。「心なる真の道」とは、日本人の自ずから生まれる良心というもので、それは共同体の正義に基づいていた、と言ってよいであろう。神はそれを自然に守る、という理なのである。それはまさに神仏融合の思想になってゆくのである。

一夜の暇を許され、この寺にいた叔母の覚寿尼を訪ね、《鳴けばこそ 別れも憂けれ 鶏の音の なからん里の暁もかな》と詠み、別れを惜しんだと伝えられる。

この故事は、後に人形浄瑠璃や歌舞伎『菅原伝授手習鑑』の「道明寺」の場にも描かれていることはよく知られている。

道明寺周辺は、菅原道真の祖先にあたる豪族、土師(はじ)氏の根拠地であった。道明寺は土師氏の氏寺土師寺として建立され、今の道明寺天満宮の前にあった。当時は七堂伽藍や五重塔のある大規模なものであったという。

天正三年(一五七五年)には、兵火で天満宮を含む寺の大部分が焼失するが、後に再興され、明治五年(一八七二年年)の神仏分離により道明寺は、天満宮境内から現在地に移転したのである。