アドルノの美学理論の誤謬――アドルノとフランクフルト学派批判 5

はじめに

一九六九年夏、かの「五月革命」を引き起こしたといってもよい「反権威主義」思想を提唱したアドルノが、学生たちに「権威」と見なされて攻撃され、心臓発作で倒れたことは前回述べた。六十五歳であったから、決してまだ亡くなる年齢ではなかった。その最後の仕事が「美の理論」であった。学生の叛乱から守るために、警察を導入したフランクフルト大学の社会研究所の「象牙の塔」の中にこもって書いていたものが、「政治」と関係のない「美」についての論文であったのだ。それは『美学理論』という書物に結晶化されることになる(一九七〇年に発刊を予定していた)。つまり、美は、彼を救済しなかったという皮肉な結果になったことになる。悲劇といえばそれが悲劇であったのだ。

私はこの論文は「政治」と関係がないと言ったが、アドルノの研究者の多くは、そうではない、と抗弁するだろう。マルクス主義やその政治的態度と、この『美学理論』とは密接に関係している、と。たしかに社会学者としてアドルノは政治の側から芸術を論じる態度を一貫させた。一九六〇年代では、アドルノの名声は、何よりもアウシュビッツを現出した社会の《全体は虚偽である》という「反体制的立場」にあったのである。「美学理論」もその影響を受けないはずはない。とくにドイツ社会に対する容赦することのない鋭い批評を加えることによって人気をえていた。いわゆるフランクフルト学派の理論的指導者としての立場で、学生たちの期待もそこにあったのだ。

しかし『美学理論』であつかう芸術作品は、理論的言語と対局的な、美的な芸術、音や形の世界であり、つまり概念として、言葉によって捉えられない、曰く言い難いものが対象であったのである。例え社会学者として「政治」的に書かれたとしても、「政治」の季節にはふさわしからぬ著述であったのである。

音楽はとくに言語的意味表現と最も遠い芸術表現である。言語による理論的表現をもっぱらとする哲学者、思想家ほど、音楽を理論化することは困難なことはない。トーマス・マンはアドルノについて《この注目すべき頭脳は、哲学と音楽とのいずれも職業として選ぶかの決断を、生涯、拒否し続けた》《アドルノにとってゆるがぬ確信は、自分は、二つの異なった領域において、もともと同一のものを追求しているのだということだった》と指摘していた(1)。

トーマスマンはアドルノのアメリカ亡命中に、同じロサンジェルスで知り合った。そして音楽をあつかった小説『ファウストス博士』のために、助言を求め、友人としてつきあっていた。確かに、マンの言うように、アドルノは哲学と音楽という領域において同一のものを追求していたのである。マンのいう「哲学」とはアドルノの政治思想であり、「音楽」が彼の芸術探求だとすると、この二つの追求を同一のものとして思考していた。『美学理論』はまさにその成果であったともいえる。

しかし私は美術史学者として、芸術と思想を論じること自体に、用心すべき境界線があることを、常に意識していた。アドルノが音楽を論じるときに、感じるのは、その境界線の逸脱である。それがこのエッセイの主題である。

よく知られているが、アドルノの母は歌手であった。アドルノ自身も音楽に慣れ親しみ。フランクフルトで作曲とピアノの教育を受けた。ウイーンでアルバン・ベルクとエドウアルト・シュトイエルマンのもとで作曲とピアノを習い、自ら弦楽四重奏や歌謡曲の作曲をしていた。また一九二八年から三一年まで、ウイーンの前衛音楽雑誌である『アンブルップ』の編集長を務めていた。彼がフランクフルト社会研究所に入り、哲学で教授資格をとった頃から、時間的にも、職業上でも諦めるべきだったのかもしれない。しかしこの領域の仕事もやめなかった。それが晩年の『美学理論』まで及ぶ仕事となる。

私も芸術や美学を大学で研究し、教えて来たので、この分野のアドルノの仕事に深い関心をもってきた。或いは、この領域を述べるために、これまで書いてきた、と言ってよいかもしれない。たしかに美術の領域と、音楽の領域は、これも異なるかもしれない。しかし私が芸術に対する態度と重ね合わせるとき、アドルノと私の相違がおのずから明らかにになるのである。

たしかに『美学理論Aesthetisch Theorie』(2)は、アドルノの青年時代から情熱を傾けた音楽への領域を全面的に拡大した書物である。彼が自ら作曲家としても携わった現代音楽へ執着が、同時代の芸術家への共感となって、その論理を織りなすことになる。一方で、美学を論じるときに必須なカント、ヘーゲルを中心にした理論に対する哲学的思索が展開される。さらに「アウシュビッツ」のあとで、どのようなユートピアを希望できるかという切迫した問いかけをしながら、シェーンベルクやカフカ、ベケットなどを克明に語っていくのである。

ここでアドルノは、自分の属する「モダニズム」の芸術、或いはモダニズムの名のもとに評される芸術を、徹底的に擁護しようとしている。それは、同時に「モダニズム」にある不可能性を、芸術そのものがもつ不可能性として明らかにする行為でもあったと言える。それだけに『美学理論』のアドルノの「モダニスム」の芸術を、どのように評価するか、それが問題となるのだ。

1 ワーグナー音楽への誤解

芸術は、原始時代の土偶や洞窟画からはじまって、人類の歴史とともに造られ、今後とも未来永劫にわたって存在しつづけるはずだ、と一般の人々は思っている。しかしヘーゲルはそう考えてはいなかった。むろん「芸術的なもの」、「芸術と称する試み」がいっさい失われる、とまでは、考えていなかったかもしれない。しかしヘーゲルは、本質的な意味では芸術は「絶対精神の感覚的現われ」であり、そうした芸術は、すでに終焉した、と言うのである(3)。

ヘーゲルの「絶対精神」とは主観的精神や客観的精神を超えた絶対者、神を意味するものである。彼にとっては芸術、宗教、哲学の順で、この「絶対精神」を捉える段階を踏んでいた。芸術は絶対者を直接の対象において、直観するものであり、宗教は絶対者を帰依の念をもって内面的に表象するものであり、哲学は絶対者を自由な思惟の力により、概念的に把握するものであった。

このヘーゲルの芸術に対する診断は、彼の生きた時代が、すでにフランス革命以後の「市民主義」の時代に属し、キリスト教会を否定し、王制を廃して、「近代化」を目指す時代としようとしたことと対応している(実際はならなかったが)。社会とともに芸術が、これまでの秩序を否定したとき、「絶対精神」の終焉もまた表現されたのである。「自由・平等」の名のもとに、「市民」が宗教共同体、国王下の国家共同体を破壊したとき、社会は個々に分裂した「個人主義」精神が広がり、人々は孤独と疎外感が前面に出ることになった。それを描いた小説の世界も、絵画の世界も、ヘーゲルにとっては、すでに芸術ではない、と感じさせたことになる。

たしかに美術のジャンルは、十九世紀前半で終了している。ヘーゲルは印象派絵画の、絵画として衰弱を見ないで死んだが、それを予兆していた。音楽もたしかにヘーゲルの後に、ワグナーが出たとき、ヘーゲルはその内容を予想していたといえよう。しかし文学はヘーゲルの死後に、逆に優れた作品が書かれた。トルストイ、ドストエフスキーを知らないで、文学は終わったとは言えないだろう。さらにヘーゲルのあずかり知らぬ映画という芸術ジャンルは二十世紀に現われ、成熟し、六十年代にほぼ終焉したといってよい。その意味では、新しい表現ジャンルを見い出せない二十世紀後半こそが、芸術は廃れたということが可能である。

アドルノは、次のようにワグナーを批判するとき、その音楽史の様式の流れよりも、その音楽の思想を読み取ろうとした。『ワーグナー試論』(4)を読むと、アドルノが、その「社会的性格」と、「ブルジョワ社会」にあって最終的には「ファシズム」を培うことになる退行的諸勢力とを結びつけようとしたのである。アドルノはオペラに対しては、それが「非形象的な純粋音楽」に劣るものであり、それにそれが今では朽ち果ててしまった「アウラ」に寄りかかっているという理由で、ある不信感をもっていたが、ワーグナーに対するアドルノの憎悪に影響を及ぼしたのは、明らかに音楽以外の要因であった。このことは、ワグナーの音楽を、誤解するだけでなく、音楽そのものの芸術的理解を不可能にする原因となっている。ワグナーの音楽に、「古典」が終焉した後の、ある意味での「マニエリスム」や「バロック」的要素があることを注目すればいいのに、思想的な「反ユダヤ主義」や「ファシズム」の意味を見出しているのである。そうした音楽に対する誤認はベートーヴェンを、フランス革命の体現者と考えること同様、ユダヤ人特有の過度の思想性、政治性を感じさせる見解である。

アドルノはワーグナーの「反ユダヤ主義的・人種差別的」信念と、その「サド・マゾヒズム的・権威主義的」性格とを、彼の音楽との本質的連続性があると語っている。これは、ホルクハイマーが『エゴイズムと解放運動』において素描した初期ブルジョワ抵抗運動の「人間学」を論拠にしたものであると言われる。しかしそれもある意味で人種的、党派的見解であることは認めなければならない。アドルノも、彼以前のニーチェや彼以後の他の多くの人々と同様に、ワーグナーの思想上、或いは性格上の汚点からその音楽を切り離して免罪することを拒否しているのである。芸術を鑑賞することは、表現された作品と、その芸術家の思想、性格は別のものであることを区別することのはずだ。

アドルノは、たしかに次のように言っている。《音楽に内在する構造の中にこそ、矛盾した社会が全体として表現される。・・音楽の内部に現れる諸緊張関係は社会の諸緊張関係の無意識な現れである。・・この音楽の中には社会の傾向そのものが鳴り響くのであり、全体の利害と個人のそれとの調和を公のイデオロギーが教えている一方で、音楽は両者の相違・離反を告白している》(5)。これがワーグナーに「ファシズム」の予兆をみる根拠といっていいが、これは音楽の本質を見誤らせている言葉だ、と言わなければならない。むろん、聞き手がそのように感じるのは自由である。しかし作品自身にそれをあるかどうかは、別の問題なのだ。

アドルノのこうした分析の誤りは、ベートーヴェンに対しての次の言葉に典型的である。《ベートーヴェンの音楽は、市民階級の弁護を先取りするものであり、それと同様に市民階級の革命的な解放過程の一部である》《その交響楽には、フランス革命のこだまが鳴り響く》(6)などと言っているのだ。これは聞き手の臆断に過ぎず、ベートーヴェンの音楽そのものとは関係がない。フランス革命を肯定しているか否定しているか、ベートーヴェンの音楽からわからないし、フランス革命歌でも入っているならともかく、その調和的、人間的な音の世界は、あくまで言語による思想表現とは別個の感性的表現なのである。

この混同は、彼が自ら、作曲家として創造行為を体験したことが、かえって仇になっていると思われる。自らの言語的思想が、音楽表現になっているという当為は、自らはそうであっても、その音楽を聞いている側が同じように受け取るかは別問題である。アドルノの音楽から、彼のマルクス主義的な思想を聞き取る者はいないだろう。その音楽表現からは、現代音楽の混沌や衰弱を聞き取っても、彼の思想までに思いは及ばない。音はあくまで感じさせる感性的表現なのである。それは音楽史上の様式を感じるものでしかない。残念ながら、その意味では、アドルノの作曲はシェーンベルクに及ばない、音楽の衰弱を感じさせる代物でしかない。

アドルノの芸術論は、自らの体験を固執する余り、他人の芸術、とくに前の時代の芸術が見えなくなっている証拠とでもいうべきものだ。芸術家は総じて自己の作品の特徴や価値は、主観的にわかっているつもりになっているが、その実は、客観的な観察は不可能なのである。芸術家は自己中心とならざるをえない。そうでなければ作品は出来ないからであるが、しかし他人を自己自身の立場から判断するとき、往々にして錯誤をおかすのである。アドルノのように思想家でもあると、どんな音楽家でも同様な思想家だと思ってしまう。とくに時代を隔てた芸術家のことになると、歴史という別個の研究を必要とするのに、それを怠ってしまうのだ。例えば音楽界のベートーヴェンと同じほどの巨匠である、美術界のミケランジェロは、折からの「反宗教改革」の思想が反映していると思って彼の絵画を見ても、その証拠を形の中にほとんど見出せないのと同じである。

アドルノが、ワーグナーの音楽を後期ベートーヴェン以後の「ブルジョワ音楽」の自己意識の退行を濃縮されたかたちで典型的に示している、などということは出来ない。ワーグナーはベートーヴェンが交響曲において達成したものをオペラ劇場へ持ち込んだのだと見ることもできないが(7)、しかしアドルノのように、この二人の作曲家をまったく対極に立つものと考えるのもおかしい。むしろ、ワーグナーはベートーヴェンの古典性を、音声のバロック性に転化したものである、と言った方がよい。

ベートーヴェンの交響曲は、《力強い主観がおのれの主観性を客観的な形式のうちに現実化する緊密に全体化された作品の範例である》(8)ということはできよう。それに対してワーグナーのオペラには、真の主観性の展開という原理がおよそ欠いている、というのはおかしいのである。ワーグナーに、かの「無現旋律」への依存があるとすれば、それはかえって主観性に依拠する余り、音階が人工的になってしまっている、と指摘すればいいのだ。それはあくまで古典性を否定しようとするワグナーの試みなのである。《ヘーゲルの「無限」に似て、真の解決をまったく欠いた無方向な変化の果てしのない継起である》などと言うべきではない。ワーグナーのオペラは、《古典的ブルジョワ期の人間が、もはや自分でも制御しえなくなった物象化された諸力に降伏してしまったことをうかがわせる》(9)などというと、ワグナーの感性的表現を見損なうことになる。

アドルノの、このような、ワーグナーに対し根深い敵意こそ、主観的である。ワグナーが一八四八年の三月革命(ドレスデン蜂起)に加わったからといって、その音楽が「革命的」、「プロレタリアート」的などと言うのと同じである。それは欠点でも何でもなく、政治的態度は、その音楽批判の要素に入れるべきではないことなのだ。

アドルノは、彼の音楽にその欠点を埋め合わせるだけの何かがあることを認める、といっているように、その何かこそに注目すべきであったのだ。実際、アドルノは、ワーグナーが半音階音の支配的な作曲様式を使用したことによって不協和音の解放が準備されということを認めていた(10)。ワーグナーが、そうした不協和音によって表現される部分を、後期のベートーヴェンのように直視するのではなく、むしろ理想化しようとした、と言うのなら、そのような敵意をもつ必要はなかったのだ。彼が調性を希薄にしたことにもある進歩的な機能があった、という指摘の方が正しいのであり、様式の問題であったのである。かれのワグナーに対する敵意は、その音楽に対しては抑えなくてはならなかったのである。アドルノは音楽の退廃的気分と、ワグナーの思想を主観的に混同していたのである。

《ワーグナー作品のうちには、生産的精神がそこから生成してゆく諸契機を引き出しえないような退廃的契機は一つとして存在しなかった。・・してみれば、ワーグナーの作品は帝国主義と後期ブルジョワ的恐怖政治との嬉々とした予言者でもあればこそその勤勉な刑吏でもあるというにとどまらない。同時に彼は、おのれ自身の退廃を直視し、そうした食い入るような凝視に耐えうるような形象によって、その退廃を乗り越えようとする神経症患者の能力をも行使しうるのである。この点に関する最良の証拠は『トリスタンとイゾルデ』の第三幕に見られるような「陰鬱で険しく荒々しい音楽」――こうした音楽は、死による聖なるものへの変容というワーグナーの幻想を、その意に反して打ち壊してしまうものなのだが――のあの注目すべき楽節であろう》(11)。

『トリスタンとイゾルデ』の第三幕を《陰鬱で険しく荒々しい音楽》ということは出来る。しかしワーグナーの作品が、《帝国主義と後期ブルジョワ的恐怖政治との嬉々とした予言者でもあればこそ》などと言うことは説得力をもたないのである。さらに、《おのれ自身の退廃を直視し、そうした食い入るような凝視に耐えうるような形象によって、その退廃を乗り越えようとする神経症患者の能力をも行使しうるのである》(12)などという言葉は、ワグナーの音楽に、「バロック性」「装飾性」「人工性」などを感じる者にとっては、「退廃」をかんじるアドルノのそれは、彼の主観的な見解でしかない。

この「人工性」という評語は、技法に頼っていると言ってもいいが、それが《二〇世紀における文化産業を聴衆の退化とを先取りするかのように、ワーグナーはライトモチーフのようは技法に頼る》という言い方は出来ない。それはあくまで音楽史上の固有表現の発展史の中で、とらえるべきであるからだ。こうした傾向は、ワグナーだけでなく、ブルックナーや新古典派などにも見えるのであって、同時代以後の音楽家に共通する傾向であり、ワグナーだけが、《音楽において有機的全体化の力が衰弱しつあるのに対応している》のではない。こうしたライトモチーフのもの諸機能のうちには、《広告にも似たある種の商品的機能》さえ認められる、というが、それとは関係のないことだ。《その音楽は、のちに大衆文化において一般的になるように、覚えておかれることをねらいとし、あらかじめ忘れっぽい人向きに考案されているのだ》《これらのライトモチーフは、われわれの時代になると権威主義的パーソナリティ―というかたちをとることになる自我の虚弱さの音楽的等価物をつくる手助けをしているのである》とアドルノは書いている(13)。ワグナーを「権威主義的パーソナリテイ」として捉えるとき、それは二十世紀の社会心理学的な規定であって、ワグナーの人工的な荘厳さとは関係のないことである。

アドルノによれば、ワーグナーの音楽にあたかも全体性を実現しているかのような見せかけが外から押し付けられ、この見せかけにGesamtkustwerk(総合的芸術作品)という概念によってイデオロギー的正当化が与えられる、という。果たしてそうであろうか。《イデオロギー的正当化》などを、音楽に聞き取ることは、主観的なことであって、音楽の本質とは関係のないことである。たしかに総合的芸術作品であることを志向しているが、それ自体、イデオロギーではないのだ。その表面は、ワーグナーのモチーフが断片化され発展性を失った、と取るのは自由であるが、その裏面が、それだというのは、楽曲の不完全性をいえばすむ問題である。

《ワーグナー的形式は、ジェスチャー的契機と感情表出的契機と構造的契機とのはっきりしない混同によって身を養っているのだが、こうした混同のうちに、内向的なものと外向的なものとの完全で完結した全体性、叙事詩にも似た全体性らしきものが現れてくるように仕向けられているのである。ワ―グナ―の音楽は、内的なものと外的なもの、主観と客観との統一を捏造するだけで、両者の断絶に形を与えようとはしない。こうしてイデオロギーがその楽劇に文字どおりに持ちこまれるのを待つまでもなく、作曲の手法そのものからしてすでに、イデオロギーの代理人になっているのである》(14)。

「捏造」と述べているが、それは私の言葉では「人工性」のことである。あるいは「マニエリスム」的、と言ってもいよい。しかしそれはあくまで「様式」のことをいうのであって、思想のことをいうのではない。《内的なものと外的なもの、主観と客観との統一を捏造するだけで、両者の断絶に形を与えようとはしない》というのも、音楽史の中で、すでにその「人工性」「マニエリスム」風で、音を構成することに追い込まれた作曲家の「新しさ」であって、その「新しさ」が、「退廃的」に聞こえようが、「明るく」きこえようが、その音楽に、思想を読み取ることは出来ないのだ。それは音の印象であって、そこにイデオロギーは表現されていない。つまり、ワグナーやストラヴィンスキーに権威主義を見たとしても、それは印象批評に過ぎないのである(15)。

2 「芸術の終焉」について

芸術表現に関しては、芸術家は常に新しいもの(noveauté)を追求する精神がある。これがある限り、最後は過去の否定だけが、「新しさ」となり、現代絵画のような衰弱を来すことになる。「芸術は終わった」という時、「絶対精神の感覚的現われ」が不可能になったことを意味するが、それは芸術の中に、神の主題、キリスト教や神話主題の表現が、もはや不可能になったことを意味する。その意味でいえば、ドストエフスキーは、遅ればせの最後の「絶対精神」の追求に主題があった、といえるであろう。

日本では「明治維新」以後、西洋のこうした動きを、知識人たちが、追従したから、同じような現象が起きた。しかし西洋のようなラディカルではなく、一方では伝統と文化は残されていった。それはコジェーヴが言ったとおりである(16)。「芸術の終焉」現象が、起こったのは、社会が原因というより、各ジャンルの発展史によるものである。美術は「浮世絵」が西洋の手法を真似し、文学は江戸のロマン主義から、翻訳小説を模倣した自然主義文学がはやると、同じような現象が起きた。「新しさ」(nouveaté)を追うことが芸術の慣行となると、「新しさ」が過去の様式を破壊するだけのことになる。その認識が、芸術家を、自己崩壊させていくのである。

へーゲルは『美学講義』の中で、芸術の時代はもはや過去のものになったと語っている。「芸術は終わった」、という言葉を、日本では余り問題にしない。それはヘーゲルというドイツの哲学者のたわごとのようにしか考えていない。近代「市民社会」の成立とともに、「歴史が終わった」という言葉の方が、よく理解されており、それの付随現象である、と考えられているようだ。いずれにせよ西欧社会で起こった対岸の火事だと思っている。

アドルノはヘーゲルの芸術の終焉説を支持している。しかしそれを、芸術がおしなべて「文化産業」の「商品」と化した状況とらえ、同調しているのである。たしかに、芸術の現状は、ヘーゲルの断定から百数十年をへて、ヘーゲルの命題の正しさを確証しているのではないか、と考えている。しかしそうであるとは言え、アドルノは、自己が現代音楽の作曲家の立場に立って、このヘーゲルの「予言」を反駁することを試みたのが、この『美学理論』を書く動機となっている。

《芸術は死滅するかもしれないというヘーゲルの見通しは、芸術が今日たどりついた結果と一致している。彼が芸術を過ぎ去るものと考え、それにもかかわらず芸術を絶対精神に帰属させたことは、彼の体系の二重特性と調和しているものの、それによって彼は、彼ならけっして引き出すはずがないような結論へと導かれることになる。つまり芸術の内容は彼の考えによるなら芸術にとって絶対的なものであるため、芸術の生死の次元に解消されることはないという結論へと。芸術は自己自身の儚さを内容としているのかもしれない》(17)。

アドルノ自身、ヘーゲルの「芸術が終焉した」という認識を認めている。しかしそれは芸術をヘーゲルの「絶対精神」のあらわれ、としたがゆえにそうであるのであって、もともと芸術は「儚さ」を内容にしていたものかもしれない、と開き直ったのである。

《偉大な音楽は、――後年のものであるが――人類の限られた一時期においてのみ可能であったとうことは十分想像出来るし、またそれは単に抽象的なものにすぎないような可能性でもない。芸術の反撃は「客観性を目指す姿勢」、つまり歴史的世界を目指す姿勢を目標としていたが、こうした反逆は今日では芸術に対する反逆へと変わってしまった。芸術がこのような事態を超えて生き延びるかどうかについて、予言することは徒労に過ぎない。かつて反動的な文化厭世主義によってののしられた事態は、一五〇年前にヘーゲルが考察したような、芸術は没落の時代に足を踏み入れたのかもしれないといった文化批判によっては食い止めようがない。ランボーの不気味な言葉がすでに百年前に新しい芸術の歴史を先取りする形で究極のところまでたどっていたように、彼の沈黙、つまり彼のサラリーマン生活への順応は、同様にこの傾向を先取りするものであった。今日の美学が芸術への哀悼の辞となるのかどうか、その点について決着をつけようにも、今日の美学はそのための力をもたない。しかも弔辞を述べることすら、今日の美学は許されていない。許されているのは、一般的に終末を確認すること、過去の芸術によって元気を回復すること、どのような課題をかかげるかは問わず文化に背を向けて文化よりすぐれたものではない野蛮の側へ寝返ること、つまり文化が文化と呼ばれるに値しない野蛮なものとなったため、それに対する報復として身につけたところの野蛮の側へ寝返ることに過ぎない》(18)。

ここにはヘーゲルの「芸術終焉論」に対する、共感さえ感じられる。そして解決作として過去の芸術によって元気を回復することか、あるいは文化以下のものになったものを、その野蛮に身をおいてしまうか、と語っているのだ。大衆化、俗悪化がそれを意味するものであるが、二十世紀後半は、そうした状況になっている。アドルノのいう「文化産業」がそれに拍車をかけた。無知な若者文化を創り出したのもこのおかげである。おそらく、この二つの方法が、実際にとることが出来る、現代の芸術の創造のあり方である。後者の野蛮に帰ることは、論外として(実際、このような動きが、二十世紀後半には起こったが)、芸術が、すでに破壊の方向で、「新しさ」を追いはじめたヘーゲルの時代、十九世紀前半から、美術館の時代になったのである。

まさにルーヴル美術館が生まれたのが、この時代であった。世界でも一斉にこの時代以降、美術館、博物館が創立された。今日では、ルーヴル美術館ひとつとっても、年間、1千万人近くが過去の美術作品を見に訪れている。それは現在の芸術が終焉した時点で、十分に過去の美術作品を鑑賞することにより、人々の芸術に対する愛は、満たされるのである。これは文学でも、演劇でも音楽でも同じことである。古典を読んだり、演じたり、演奏したりすることで、芸術鑑賞は十分出来る。新しいものを追うのは、野蛮を追おうとする過去の芸術を知らない素人芸術家ばかりということになる。

しかしアドルノにとっては、そのような「元気の回復すること」は、理論的に許されなかった。それでは『美学理論』を書く必要はなかったのである。それは彼自身の、創作体験の、理論化によって、それに対抗しようとしたのだ。それは、具体的な作品行為の場面にそくした、理論的な考察から始まっている。作品行為とは、作家の主体と客体との関係を構築することだ、と彼はいう。

その『否定弁証法』とは、「客観(現実)の優位」を基軸に据えて、新たな唯物論的な経験の概念、「現実」と「思想」が「非同一的なもの」であり、それを「経験」しうるような概念を探求しようとした。この「非同一的なもの」とは、人間が《思考の力で現実全体を捉えようとするのは幻想だ》とする立場から、現実世界と思考世界との間には止揚し得ない矛盾が介在する、と考え、両者の間の「非同一」を意識しようとするものである。

《同一性はイデオロギーの原形式》(19)とのべ、「非同一」こそが真理である、としたことは、ヘーゲルやマルクスなどの思想そのものも、じつをいえば、現実の構造と同一のものとは捉えていない、ということである。現実は総体として無矛盾であるはずはなく、それを思想が、同一のものとして捉えるなら、それは「仮象」でしかない。それを破るのも思想で、それをヘーゲルの「否定の否定」の弁証法だというのが、アドルノの見解である。その否定のままに立ち止まるべきだというのだ。彼の「否定的弁証法」は、そのような意味である。アドルノの『美学理論』は、この「否定的弁証法」と表裏をなしている。常に彼の『否定的弁証法』と二重映しでこの『美学理論』を読むことが出来るし、またその読み方が要求されるのである。

アドルノは、思想(主体)と現実(客体)のユートピア的な関係がモダニスム芸術が志向している、と考える。その志向のうちに、積極的に探索されたものが、モダニスム芸術だという。そもそも「芸術」とは、主体の意図を越えたものを主体をとおして表現にいたらしめる、情熱的で逆説的な努力にほかならない、と述べる。個々の作品、とりわけ「真正」な自律的作品は、「自己保存」の要求をまぬかれた主体と客体の関係を具体的に示すものである、というのである。そしてその関係は、芸術の内部でのみならず、芸術外的な現実において実現されることを、絶えず求めてやまない、と述べる。

いったいこのような理論を実践している芸術作品はどんなものであるだろうか。

モダニズムの芸術はアドルノにとって、たんにさまざまな芸術流派のうちの一つではなく、彼自身、そこに参加して創造しようとする態度と関わっているのである。現在において、芸術にむかう人間の態度の可能性と不可能性を本質的に体現することになるのである。モダニスムを問うということは、芸術や美そのものの越し方と行く末を根底的に問い直すことにほかならなかった。

《シェーンベルクは『月に浮かれたピエロ』における『月の斑点』について、これは厳しい楽節規則にそった仕事であり、あらかじめ準備したのは音だけであって、協和音の拍子の合わない部分が利用されているに過ぎないと皮肉な調子で語っているが、この言葉は彼の無調性時代の初期における言葉であった。現実の自然支配が前進しているに従って、芸術の必然的な進歩を芸術そのものによって告白するということは、芸術にとってますます手に負えないこととなる。芸術は調和の理想のうちに、管理された世界に取り入ろうとしているものをかぎつけるが、しかし他方、管理された世界に対する芸術の抵抗は、自律性を高めながら自然支配を継続する。自然支配は芸術に反するものであると同時に、芸術自体の核心でもある》(20)。

シェーンベルクの曲をこのように創造のプロセスをたどりながら、モダニスム芸術のあり方を検討しているのだが、しかしこれ自体、音楽史の自立的な発展によって、ここまで追い込まれた作曲活動である、という認識を欠いているために、シェーンベルクの持っている現代音楽の不自然さが指摘出来ないでいる。それはアドルノのいう「自然支配」と重なり合う言葉であるが、しかし無調性そのものが、ベートーヴェンやモーツアルトの「調和」を破壊する行為としての「新しさ」の主張であるとすれば、それはすでに芸術自体の本来性を破壊するものであることを指摘しておかねばならない。

《伝統美学はヘーゲルを含めて、自然美における調和を称えることが出来たが、それは支配による自己満足を支配されるものの上に投影したに過ぎなかった》(21)と言っているが、アドルノがヘーゲルの思想がベートーヴェンの音楽に対応すると語っているとおり、ベートーヴェンが、「支配」による自己満足の投影であっても、それ自体、音楽としての「調和」があるならば、それの方が音楽的なのである。ベートーヴェンとシェーンベルクを比較して、後者の方を評価するとすれば、ただ同時代者の作曲家にたいする共感であって、音楽自体の調和は前者にあることは誰しも認めることなのだ。ここにアドルノの偏見がある。

《シェーンベルクやアルパン・ベルクの作品には、紙のうえで数式を計算するようにして曲をつくる、という非難がしばしば浴びせられてきた。霊感に不意打ちされて創造する天才というイメージは、あまりにロマン主義的である。偶然的な「霊感」めいたものにさえ身を開きながらも、芸術家はたんに無防備であるわけにいかない。芸術家はむしろ、そのような霊感めいた契機すら、合理的な作品行為のうちに統合しえなければならない》(22)。

アドルノは『美学理論』の中で、モダニスムとは、モデルネ(近代)と区別せず、共に《新しいものに定位した心情》という意味である。そしてこれらは、同時に十九世紀後半から二十世紀前半までの芸術運動もしくは「美的モデルネ」を指す場合がある。モデルネを絶えず前進して自己自身の現在を否定する「アヴァンギャルド」と見るが、その「神話」は、常に人間を抑圧する暗い力が原動力となっている、というのだ。

百数十年前、市民社会の勃興期に紡ぎ出された彼らの理論は、アドルノにとって、むしろモダニズムの志向に直接かかわるかけがえのない試みなのである。あるいは、かれらの理論以降、暗黒そのもののような現実のなかで芸術が達成した「成果」を踏まえて、かれらの理論にあらためて向き合うこと、と言ってよい。

アドルノが、芸術の現状を、ヘーゲルの断定から百数十年をへて、その命題の正しさを確証していると考えるのなら、それを、芸術が「文化産業」の「商品」と化した状況という社会学的な認識でとらえるのでなく、自分をふくめた「モダニスム」自身を否定すべきではなかったのか。アドルノは、自己が現代音楽の作曲家の立場に立って、芸術を絶対精神の現われとするこのヘーゲルの「予言」を反駁することを試みるが、それが、「文化産業」の「商品」化、また「儚さ」だけでなく、芸術の諸ジャンルの成熟と終焉を、人間史のプラスの要因ととらえ、芸術が死滅するのではなく、過去の芸術の永遠性を評価すべきなのだ。

過去に創造された芸術は、現存しており、それは常に新たな思想賦与を待っている。それらの芸術は過ぎ去ったものではなく、あらたに開示しているのである。システイナ礼拝堂のミケランジェロの天井壁画が修復されて最近、鮮やかに蘇ったように、過去があらたに復元されて、我々は新たな発見をするのである。今日、世界遺産が、観光の原点になっているように、現在の画一性に対して、まさに多様性として、過去が我々の前に開示されているのである。ベートーヴェンもモーツアルトも、今日演奏され続け、シェークスピアもダンテも演じ、読まれ続けている。ワーグナーもアドルノが語るのと異なった解釈がされて、演奏され演出されている。その重要性は、芸術が死滅していないことを示すものである。「新しさ」が「野蛮」にいきついてはならない、とアドルノ自身が指摘しているよにに、また《アウシュビッツの後に詩を書くことは野蛮である》というなら、その前の詩を読み続ければいいことである。ヘーゲルが芸術の終焉を言ったとき、それは新たな創造が、繰り返しになることを、諌めたととることが出来る。ヘーゲルは、芸術の創造の歴史を語ったのであって、芸術自身の永遠性を否定したわけではないのである。芸術が自己自身の「儚さ」を内容にしたとき、過去の芸術によって《元気づけ》られることは、決して現代人の恥とはならないのである。


(1)トーマス・マン『「ファウスト博士」の成立』新潮社。
(2)テオドール・w・アドルノ『美学理論』(『美の理論』)大久保健治訳、河出書房新社、一九八五年。
(3)ヘーゲル『美学講義』一八一七~二九年。
(4)テオドール・w・アドルノ『ヴァーグなー試論』高橋順一訳、作品社、二〇一二年)
(5)アドルノ『新音楽の哲学』龍村あや子訳、平凡社、
(6)『美学理論』前掲書。
(7)当時の批評家ジョセフ・カ―マンの見解。マーテイン・ジェイ『アドルノ』木田元、村岡晋一訳、岩波書店、一九九二年。
(8)『ワグナー試論』前掲書。 (9)同右。
(10)ジェイ『アドルノ』前掲書。
(11)同右。
(12)『美学理論』前掲書。
(13)同右。
(14)ジェイ『アドルノ』前掲書。
(15)同右。
(16)アレクサンドル・コジェーヴ(一九〇二―六八)。ロシア生、フランスで活躍。一九五九年に日本を訪問し、そこに、「歴史の終焉」後の人間の存在様式のある形を見いだしたことは知られている。
(17)アドルノ『美学理論』前掲書。
(18)同右。
(19)アドルノ『否定弁証法』木田元、徳永恂他訳、作品社、一九九六年。
(20)アドルノ「一致と意味」『美学理論』前掲書。
(21)同右。
(22)同右。