はじめに
その容貌から運慶の『無着』像は、MOA美術館の『西行』像にきわめて類似していることは、すでに指摘したが(「勧進の聖たちと仏教の展開」『新日本学』平成二十三年秋、第二十二号)、『無着』像のモデルが西行だとすると、これには、あまり歌人らしい、繊細さ、神経質な様子がない。堂々とした品格さえ感じられる仏僧の姿だ。或いは思慮深い武士のような隙のない顔をしているのである。それは絵画の方の『西行』像もそうで、朴訥は武士のようで余り歌人のように思われない。
それに、およそ世捨て人、遁世者という顔ではない。インドの見知らぬ無着という法相宗の開祖の想像の姿をここにかぶせた、ということが出来るだろうが、しかしその写実的な個性表現から、これこそが運慶が見た西行の真の顔、真の姿であったという気がしてならない。このことをなぜか、と考えざるをえなかった。
一方、同じ運慶の『世親』像は、神護寺にある『文覚(もんがく)上人』像にそっくりだ、と言った(同右論文)。運慶がこの二人をじかに見ていたことは、十分に考えられるから、この同時代者の二人を、興福寺北円堂の無着、世親像のモデルにしたことは蓋然性がある。そうであるとこれは実に興味深いことである。
というのも、この二人は関係があるからだ。すでに述べたように、文覚(一一三九―一二〇三)は俗名を遠藤盛遠といい、鳥羽法皇の皇女上西門院の北面に仕えて十八歳の若さで遁世した経歴がある。この経歴は西行ときわめて類似している。遁世後、熊野、大峰、葛城をはじめ諸方の山中で修行にはげんでいたのも同じである。やがて、後白河院と源頼朝を後楯として、荒廃していた高尾の神護寺を復興させた。運慶は東大寺再興の勧進役の西行と、神護寺再興の文覚を、その両方の寺の仏像に関わっていた関係でよく知っていたのである。
南北朝時代の歌人、頓阿の『井蛙抄』によると、文覚は先輩の西行(一一一八―九〇)を次のように批判していたという。西行は仏道修行に専念せず、《数寄をたてて、ここかしこにうそぶき歩く》ものだと憎み、いづれか頭を割ってくれようと、弟子たちに語っていたというのだ。
ところが文覚が、ある日、高尾の法華会に参詣した初対面の西行に出会ったとき、かえって、ねんごろにもてなしたので、弟子たちがいぶかったという。すると《あら言いがひ無(な)の法師どもや。あれは文覚に打たれんずる者の面様(おもざま)か。文覚をこそ打たんずる者なれ》と言ったという。西行の堂々とした「面様(おもざま)」に感服してしまったのである。これはまさに運慶の『無着』の像を思わせるではないか。
この話は『古今著聞集』に書かれた《世を遁れ身を捨てたれども、心は猶昔に変わらず、たてだてし(意地のつよいこと)かりけるなり》という西行への評語とも合致するのである。それはまさしく、西行のあの女性的感受性ともいえる作品を生み出したものと異なって、実際は不敵な風貌、剛直な意志、縦横な行動力をそなえていた姿を彷彿させる。
そのことを理解するために、もう少し、西行の経歴を調べてみよう。
1 天皇に仕える武士
西行は元永元年(一一一八)に生まれているが、元服して義清(のりきよ)と名乗った十五歳のとき、天皇の警衛にあたる役割の「内舎人(うちとねり)」任官を申請している。しかしそれには失敗し、三年後の十八歳のときに、やはり内裏の警護役である「兵衛尉」任官を申請して認可を受けた。このとき息子の任官のために、父の佐藤康清は、鳥羽法皇に拠金している。法皇の御願による勝光明院の造営に資金を出したのである。その費用一万匹の巨額を工面したのは、皇室に対する敬愛が、佐藤氏に代々あったからであり、むろん荘園領主として豊かであったからである。
義清は弱冠二十歳のとき、鳥羽院がお忍びで鳥羽に赴いたとき、選ばれて供奉(ぐぶ)している。彼は御所の「北面」の武士となっており、御所の警備や御幸の供奉に当たっていたのである。この「北面」は白河上皇の時以来置かれた役割で、院みずから近臣の子弟などの中から選び、御所の「北面(きたおもて)」に伺候させていた。その主従関係は身分の差を越えて密接であったといわれる。院の寵愛を受ける位置で、容姿端麗はいうまでもなく、弓術、馬術にすぐれ、詩文、和歌、管弦、歌舞の心得もなければならなかった。貴族の地位上は下位の五位、六位でありながら、宮廷の花形という性格をもっていたのである。
騎馬・弓射は「北面」の武者にとって必須の武技である。
《伏見過ぎぬ 岡屋(おかのや)になほとどまらじ 日野までゆきて 駒こころみむ》(『山家集』)。
これは「駒試みむ」という題で、「北面」時代の、院へ献上された馬か、乗初めに日野まで行ったことを思っている、馬思いの歌であろう。このように率直な武士的面を西行はもっていた。
義清(のりきよ)は、文武両道に精進しただけでなく、「北面」の儀礼にも通暁していた。皇居の守りである「北面」について、『参軍要略抄』という故実を記した書物に、次のような話がみえる。
ある人が後白河院の天王寺御幸に供奉し、「青海波」という舞楽の中で、「垣代(かきしろ)」(庭上に列立して吹奏する楽人)を勤めた時、他の同僚が帯剣しなかったのに思う所あって独り帯剣した。これを耳にした老西行が、《それは帯剣すべきものだ》と、甥の左衛門尉能清に教えたというのである。この行幸は治承三年(一一七九)のことで、この年西行は六十二歳であった。歌人であっただけでなく、院の前での武士としてのたしなみを決して忘れかなったからこそ、文学一筋の文学者などには、到達できぬ公の感覚をもっていた、と考えられる。
西行は晩年、鎌倉で、源頼朝と出会って話合っている。これについてはすでに引用しているが、源頼朝から「弓馬の事」についての教えを請われた時、西行は《弓馬の事は、在俗の当初、なまじ家風を伝ふと雖も、保延三年八月遁世の時、秀郷(ひでさと)朝臣以来九代の嫡家相承の兵法を焼失し、罪業の因たるに依りてその事かつて以て心底に残し留めず、皆忘却し了(おわ)んぬ》(『吾妻鏡』)と語っている。しかしその後、頼朝のたっての願いに応えて、徹夜で兵法を伝授しているのである。西行自身は、遁世の身であったから、《心底に残し留めず》と述べているが、秀郷流九代の武門の伝統への自負が根強くひそんでいたのだった。
この時の西行の語りには、たとえば、《馬上では弓を水平に持たず、拳で斜めに押ったてて、ただちに引けるように持つこと》といった実践的なもので、そばにいた鎌倉武士たちも感心したという。五十年ほど後に、ある老武者の回顧談を聴いた北条泰時のいたく感心し、以後弓の持ち方は西行の説を用いよと言ったと述べているのだ。
ところで西行の祖父、佐藤季清(すえきよ)は、十二世紀初頭の白河院政期に、都の取締役である検非違使として活躍していた。右大臣、藤原宗忠の日記、『中右記』によると、天仁元年(一一八〇)、平正盛(清盛の祖父)が、かねて出雲国で狼藉をはたらいていた流人、源義親(義家の父)の首級をひっさげて上洛した時、この季清が七条河原でこれを受け取り、大路を渡して西獄門の樹に懸けるという役を演じたという(『中右記』)。その時、京中の男女は群れをなして集まり、眼をこらして見物するのだから、検非違使はそれに対して秩序を守る役割となるのである。
また『清・眼抄』という書物には「左藤判官季清記」が書かれ、《季清、子孫に知らしめんがために記し置く所なり、敢て他見に及ぶべからず》とあって、季清が検非違使の故実に明るかったこと、子孫も代々検非違使に補任されることになっていたと記される。西行が最初は官人となったのも、この代々の役割であった。こうして故実に通暁していたのは、祖父から伝えられた庭訓(ていきん=おしえ)によるものであったのである。
こうした武士的な面が、西行の出発点であるとすれば、あの運慶の『無着=西行』像のにこめられている、あの男性的で剛直な面が理解できるのである。あの像が、歌人らしい女性的な西行像ではない、という否定的な見方は、これで解消することが出来るようだ。
一方の歌人として素質はどこから培われたのであろう。
《君がすむ 宿の壺をば 菊ぞかざる 仏(ひじり)の宮とや いふべかるらむ》。
この菊の詠進歌は、義清の「北面」時代の習作と考えられている。この歌合、物合(歌合に伴う菊合、貝合、絵合などに優劣を競う)などがしきりに催された「北面」生活の時代に、若き義清の歌道に魅せられたのである(目崎徳衛『西行』吉川弘文館)。
それは西行の母方からの遺伝にあったといえるであろう。『尊脈分・』(17p)によると、母は「監物源清経の女(むすめ)」と書かれている。監物とは役人の取締の役であるが、その清経の名が、後白河院がみずからの「今様狂い」の半生を回想した自伝『梁塵秘抄口伝集』に見出せるのである。
その記述によると、清経は「今様」の達人で、何かの所用で尾張国に下った時、美濃国の青墓にいた「今様」の名手・目井という遊女とその養女乙前(おとまえ)を都へともなったという。清経はこの目井と長年同棲したが、目井の老いさらばえた肉体が厭わしくなってもこらえて、青墓へ連れて行ったり迎えに行ったりして親切を尽し、目井が尼になって死ぬまでねんごろに世話した、と書かれている。養女の乙前はこの事を後白河に語って、《近ごろの人ときたら、愛情がさめたら、京の中でも連れて歩いてはくれまいに》と、清経の人柄を賞賛した。
この乙前は後白河院の「今様」の師匠である。その八十四歳の高齢で世を去る時、院がお忍びで枕頭を見舞い、『法華経』を読誦してやり、また「今様」を歌って聞かせた話も、『口伝集』が語っている。この乙前や・利、初声などという遊女は、みな清経に今様を教えられたのである。しかもその鍛え方は猛烈をきわめた、という。余りのつらさに乙前が不平をいうと、清経はこれを戒め、《若い時はともかく、老いて容色の衰えた時には、歌の心得があってこそ貴人の召しにも預かれるのだ》と、ねんごろに訓したという。
清経はまた粋人で、江口・神崎の遊里に案内役を買って出ている。このした記述を見ると、遊女が決して、蔑まれた存在でも、差別された存在でもないことに驚かされるが、「今様」という後白河院が好んだ歌の表現を通じて、皇室と一般人民が結びついていることに、これまでの「中世」の階級社会の歴史概念を訂正させる社会の交流を感じさせる。
また清経は、藤原頼輔の著した『蹴鞠口伝集』に、孫の西行とともに引用されているが、蹴鞠の名手であったというのも面白い。つまり、西行の蹴鞠の技術はこの清経によっててほどきを受けたといっていいだろう。西行の没後に書かれた版本『西行物語』では、義清が鳥羽院の恩寵を得て、《花の春の詩歌、紅葉の秋の月の宴、懸(かかり)の蹴鞠、南庭の御弓、四季に従ひての御遊びにも先ずこれを召され》たことを記しているのである。ここでも、西行が蹴鞠や弓射を身につけていたことを示している。貴族的な蹴鞠の遊びが、一般化していることがわかるし、この混乱していると思われた時代にあっても、人々は生活の楽しみを欠かすことはなかったのだ。
2 出家
『無着=西行』の顔に、非日常的な孤高な面があるとすれば、次のような遁世の際のエピソードが、思い起こされる。それはある意味で西行の酷薄な一面である。
西行は佐藤義清の名を捨てて、出家を二十三歳の若さで遂行し、はじめ円位を名乗った。その後、西行と称した。その仏教の道にはいる西行が、娘を足蹴にしたのである。
《この暮の出家さはりなく遂げさせ給へと、三宝に祈請(きしょう)申して、宿へ帰りゆくほどに、年ごろたえがたくいとをかしけりし四歳なる女子、縁に出迎ひて、父の来たるがうれしさよとて、袖に取りつきたるを、たぐひなくいとをしく、眼もくれて覚えけれどお、これこそは煩悩のきづなを切ると思ひて、縁より下へ蹴落したりければ、哭(な)き悲しみけれども、耳にも聞きいれずして中に入りぬ》(『西行物語絵巻』徳川美術館本)。
四歳の娘を足蹴りにしてしまう、というこの行為は、父であることを捨てたっ身勝手な行為でもある。これは「遁世」によって、それまでの家族関係の断絶の悲劇を、閑却にふす傾向があるが、西行にとって大きな傷となったことは、無視出来ないであろう。それだけでなく、このことは、一方で、仏教そのものに、ある種の非情性が、内包していることを物語るものではないか。
それは仏教が、個人のことのみを考える、ひとつの傾向である。仏教が、遁世、出家ということをある意味で理想の修行形態をもつとき、それは、同時に共同代を抜け出し、それを否定することにもなるのだ。仏教でも在家のそれは、そのようなことはないといっても、やはり釈迦にという個人帰依が優先される。
とくに西行のように、妻帯者が、独りで出家する、となると、これまで支えてきた家族のような共同体を破壊してしまうことになる。本来なら慈悲を旨とする仏教が、この残酷な一面をもつ、ということに、西行が、心を痛さなかったとは考えられぬ。出家することが、必づしも、仏にかなったことなのか、疑問さえ感じられたはずである。後に西行は「地獄絵を見て」という歌を詠むことになるが、幼い子供に対し、性的虐待を加えたものは、「衆合地獄」の中の小地獄「悪見処」に堕ちる、いう八大地獄のひとつとして、知らないはずうなないのである(源信『往生要集』九八五年)。彼の行為は「性的虐待」ではないにせよ、幼い子供に対する虐待にはかわりはない。
私がこのことをあえて取り上げるのは、日本人における仏教思想の認識の片寄りのことである。このことは後でも述べるが、西行が晩年、伊勢に住み、日本神道に心を開くこととの関係である。つまりそこには仏教の個人性に対しての疑問である。少なくとも仏教だけでは、日本においては不十分な思想である、という認識のことである。
西行は、娘の哭き声に耳に入れず、妻の決意を告げ、みずから髻(もとどり)を切って持仏堂に投げ入れた。そして旧知の聖(ひじり)のもとに走って素懐を遂げる、という経緯は一見、潔い行為に見られるかもしれないが、しかし人間としての西行の限界を示すことにもなるのだ。
《世を捨つる 人はまことに捨つるかは 捨てぬ人をぞ 捨つるとはいふ》。
この歌は、世を捨てた人は、まことに捨てきっているのだろうか、いや、むしろ捨ててない人のほうが世を捨てている、という意味であるが、彼自身、妻子を捨ててきたことに、深く反省する思いがあったに違いない。「述懐の心を」という題名がそれを感じさせる。
しかし彼の行為は、仏教の遁世とは本来、関係のなかったことかもしれない。このような俗界から離れようとする態度は、ある不自然さを伴う。しかし出家の行為は、ただ歌三昧の内に入るという芸術衝動をそこに秘めていた、と思われる。少なくとも西行にとって、それと、本来、相反するものではなかった。つまり出家の名を借りて、芸術の道に入りたかったのである。西行にとって、家族との日常性は、バナリテ(凡俗性)そのものであったのである。彼は家族のことを一切、歌おうとしていないのは、その日常性がたえられなかった、と思われる。
こうした西行遁世の場面は、『西行物語絵巻』(徳川黎明会)の詞書から由来するものであるが、絵巻でも幼児が倒されている場面は迫真力がある。この絵巻に従うと、遁世する時の西行には若妻と幼女がいたことになる。しかし『西行物語』の説話をそのまま信ずるわけにいかないとして、川田順氏(『西行』)などは、《西行に妻子のあったらしい感じのする歌は一首も半首もない》として、「西行独身論」を唱えた。私はこれには賛成しないが、しかし《一首も半首もない》という氏の発見に、かえってある種の恐ろしさを感じる。
西行は妻子に限らず、他の家族も祖先たちもまったく詠歌の対象としていない、という。つまり彼が佐藤義清と名乗ったときに世話になったはずの、祖父、佐藤季清も、父康清も、外祖父源清経もその女子なる西行母も弟の仲清も、和歌の詞書に、絶えてその名がないことになる。そのことは、遁世を徹底したことなのか、もしくは和歌の世界における主題にならない、と考えたのか、いずれにせよ、私はこれを偶然の結果とは考えない。数奇と遁世の境涯にとって、肉親・係累のごときものは無用の夾雑物に過ぎないという、一種のダンディズムが西行の胸中に領していたためとかんがえる人もいよう。しかし痛切に、この娘打擲を思い出としていたからこその沈黙があった、といわざるをえない。
西行の妻子についての信ずべき史料は、鴨長明の『発心集』にある。その記事によれば、西行は出家の際、跡を、「弟なりける男」に譲り、《幼き女子の殊にかなしうしける》を、この弟に託した。その後、この女子は《九条の民部卿の御女に、冷泉殿(れいぜいどの)と聞こえける人》の養女となって、この上もなく愛されたので、西行も安心していた。ところが女子が十五、六歳になったとき、冷泉家の妹が「播磨三位家明」という男と結婚し、女子はその侍女にされてしまった。西行はこれを聞いて不本意に思い、ひそかに女子を連れ出し、《高野のふもとに天野と云ふ所》で尼となっていた旧妻の許に送り届け、母子はその後もろともに修行にはげんだ、というのである。この話は、西行がわが娘に愛情をもっていたことを表している。決して足蹴にしたままではなかったのである。
西行研究の目崎徳衛氏は、長明は西行と同時代人で、西行が晩年住んでいた伊勢の草庵を、その立ち去った直後に訪れなどしているから、かならずや西行の身辺について見聞する所があったに違いない、と述べて、この長明の語ることは正しいと考えている(前掲書)。
とくにこの《世を捨つる》の歌は、崇徳院の勅命によって西行三十四歳の仁平元年(一一三一)に奏覧された『詞花和歌集』(雑下)に、《「よみ人知らず」で「身を捨つる人はまことに 捨つるかは 捨てぬ人こそ 捨つるなりけれ》と少し詞を替えて収録されている。若き西行の名は、まだ知られていなかったから、「よみ人知らず」となったのであろうが、この《世を捨つる》の歌が、歌の修行のための遁世であって、仏教的な意味での、出家ではないことを、示唆しているように見える。
西行が、あたかも仏道修行のためのこの行為が、このような人間関係を絶って、進行させることに、仏教そのものへの、ある種の非人間性として認識したのは、やはり伊勢に至った晩年であろう。
目崎氏は《思うに、西行を敬慕していた芭蕉が、ある期間芭蕉庵に同棲していたらしい尼寿貞などを風雅の対象としなかったと同様な態度であるまいか》(前掲書45p)と述べているが、それとは異なる、と思う。西行の場合はわが娘のことであり、芭蕉の方は、同棲した女性で、同じに考えるべきではないのだ。西行は隠遁後も数多くの女性と愛の関係を結んでおり、それを歌に数多く詠っているのだ。
もし西行が、仏教をすでに深く体得していたとすれば、そのような出家に仕方をしなかっただろう。そして出家した僧侶として仏道に邁進したとすれば、その才能からして、彼は法然、親鸞、日蓮らと同じ位の、思想的立場を確立していったかもしれない。しかし、西行自身、教理の研究に没頭する学僧ではなく、あくまで自分の感性を、俗社会から離れて自然の中で磨く歌人であったのだ。
そこにあるのは、後でも述べるが、仏教の教理的な遁世の仕方ではなく、自然信仰に基づく、芸術への道の方である。その道にこそ、その行動の思想的根拠がある、と考えられる。その自然信仰は、仏教の顕密両教を超えており、山岳信仰や本地垂迹思想に近いものであった。彼は大峰という山臥(やまぶし)修行の場で、苦行を行なっている。それを『古今著聞集』が伝えており、西行は「大峰二度の行者」と言っている。
ここで思い出されるのは一世紀前の能因法師(九八八~?)のことである。三十歳ごろ卒然として遁世した能因の動機は、《けだし学びて尽くるなきは、本朝の俗、和歌の道のみ》(『能因法師集』であり、《和歌は昔より師無し、しかるに能因はじめて長能(藤原)を師となす》と同じ精神であっただろう。しかし西行には和歌が「俗」である意識も、「師」を仰ぐ意識もなかった。
《西行にとりては和歌は遊戯文学にあらず、さりとてまた門閥の下に屈従するに堪へず、望む ところは、擅(ほしいまま)に山川花月に対して、おのが感情を述べんとするにあり、平安の末造末だかくの如き歌人にあらず、社会の状態は未だこの種の文芸の士の存在をゆるさず、乃ち西行は最もこの生活を為すに近き法師の境界を選びしものにあらざるか。敢て意識して、これを選びしとはいはず。その天稟の傾向はおのずからここに至らしめたるなり》(藤岡作太郎「西行論」『異本山家集』付載)。
法師はあっても、文芸の士の存在はなかったというのか、この明治時代の研究家、藤岡氏の見解であるが、たしかにこの時代に職業としての歌人、作家の存在はなかっただろう。しかしそれにも関わらず、芸術家の自立性は、存在したのである。純粋歌人などというものは、例え経済的に成り立っても、その創造性は貧しければ、意味はないのであり、他の職業の生活者として生きることによって、文学を創造できるものなら、それが芸術家の自立性なのだ。書くだけの存在からは、人を打つ文学をつくれない、という文学の本質を知っていたのである。歌人としての道に入るためには、他の糊口の道に入っても、それが可能ならば、進むことが出来るという認識をもっていたのである。それは役人でも、僧侶でも、職人でもよかったのである。
若年の作とされる百首歌の「述懐十首」では、捨ててのちも、心のみは、世にある、という歌が何首か詠われている。彼が隠遁したのは、都から遠くはない東山・嵯峨辺であったからかもしれない。
《世の中を捨てて 捨てえぬ ここちして 都離れぬ 我が身なりけり》。
《捨てたれど かくれて住まぬ人になれば なほ世にあるに 似たるなりける》
捨てたはずの俗界にまだ未練を感じていることを承知で詠ったものである。
「捨ててのち」の「捨てて」、がすでに仏教的な生活に入るという意味であるのに、なお、未練を詠っている。それが和歌のリアリティになっているのだが、しかし仏教者からいえば、その不徹底性に首をかしげることになろう。それが山深く入った生活をおくったとしても、同じことであった。
《山深く心はかねて送りてき 身こそうき世を 出てやらねども》
《雲につきて 浮かれのみゆく 心をば 山にかけてを 止めむとぞ思ふ》
ここには、あくまで入山という意味が、山という仏寺という意味ではなく、山という本来の自然の意味に取られているように見える。
彼の遁世には、『源平盛衰記』(巻八讃岐院事)の次の説話がある。それは、より歌人的、芸術的である。
《さても西行発心のおこりを尋ぬれば、源は恋故とぞ承る。申すも恐れある上臈(じょうろう)女房を思いかれ進らせたりけるを、「あこぎの浦ぞ」といふ仰せを蒙りて思ひ切り、官位は春の夜見はてぬ夢と思ひなし、楽栄は秋の夜の月西へと准(なぞら)へて、有為の世の契りを遁れつつ、無為の道に入りにける。あこぎは歌の心なり。
伊勢の海 あこぎが浦に 引く網も 度重なれば 人もこそ知れ
といふ心は、かの阿漕(あこぎ)の浦には、神の誓にて年に一度の外は網を引かずとかや。この仰せを承って西行が詠みける、
思ひきや 富士の高嶺に 一夜ねて 雲の上なる月を見んとは
この歌の心を思ふには、一夜の御契りはありけるにや。重ねてきこしめす事のありければこそ、阿漕とは仰せけめ。情ながりける事どもなり》。
この説によれば、西行は身分の違う女性に恋をし、一度は逢う瀬を叶えられたのに、世に知られるのを怖れた女性から縁を切られ、そのために無念やる方なく出家したというのである。こうした話は、すでに触れた文覚が、恋人の寝首を掻く事件によって出家したという話(『源平盛衰記』巻十九文覚発心)と似ており、或いは、それに合わせた作り事かもしれない。しかし《思ひきや・・》の西行の歌が引用されているから、それは本当のことだったのかもしれない。この富士の歌は他に見られないが、しかし恋人を月に例える表現は『山家集』の「月に寄する恋」一連の中に数多く詠まれている。
他にも、『山家集』に収められた「恋百十首」「月に寄する恋」(三十六首)・「恋」(六十首)の三大歌群があり、さらには三百首あまりの恋歌をこの遁世者は詠んでいたのである(目崎、前掲書)。
たしかに女性関係が、彼の出家の原因だ、と思わせるものがある。ただ、それは女性関係を断つ意味ではなく、あらたに交流関係に入る、という意味合いがあるのが問題だ。
西行は遁世後、一体どのような女性と交遊していたのであろうか。言われているのは、その中心は、鳥羽天皇の皇后、待賢門院の女房たちである。『古今著聞集』(巻十五)によると、西行は待賢門院璋子の兄で、左大臣実能(さねよし)の「家人」(従者)であったから、当然、彼女らと接することになったのであろう。
崇徳天皇は鳥羽天皇と寵妃・待賢門院璋子の間に生まれたことになっているが、璋子が白河法皇の養女であったことにより、その子を宿し、それが崇徳天皇となったと言われている。鳥羽上皇は、名目上は崇徳天皇は、我が子だが、「叔父子(おじこ)」と呼んだ(『古事談』二)。その後、鳥羽上皇に疎まれた待賢門院は出家し、仁和寺法金剛院を建立してそこで落飾(髪をそりおとすこと)したが、その翌月に、西行はそこを訪れているのである。
そして待賢門院の死に対し、追慕の情をもって、
《色ふかき こずえを見ても しぐれつつ ふりにしことを かけぬ日ぞなき》と歌っている。
待賢門院の崩御の後は、お付きの女性たちは、遁世する者と女院所生の上西門院に仕える者とに分れたが、西行はそのどちらとも親交を結んでいたという(角田文衛『・庭秘抄』)5。そのとき詠われた和歌は、恋が主題であるのか、交わり自身が主題であったか、判断が分かれる。西行にとっては、恋の状態を歌の発想源にしていたことは、あれほどの恋歌の多さでも理解されるはずである。西行は「小倉百人一首」の院政時代の代表的女流歌人である待賢門院堀河とその妹兵衛をはじめ、村上源氏顕仲の一族と親しかったように、多くの女性との交流による色歌が必要であったと思われる。彼女らは西行より年上で、なまなましい恋愛感情は生まれそうもなかった。西行は彼女らの住む西山の草庵を訪れているが、それは恋愛のためでなく、恋愛感情を楽しむもののようであるのだ。遁世者が、三百首もの恋歌をつくることは、真実の愛からは考えられぬことである。
その交流は、待賢門院中納言との間で知ることが出来る。中納言は、高野山麓なる天野別所に移り住み、修行に入っていた。高野山に入っていた西行はこの別所をも訪ねているが、そこで交わされた会話は、自然と神への共感に満ちたものであった。都から訪れていた待賢門院帥の局を案内して粉河寺に参拝するとき、風光うつくしい吹上・和歌の浦を歩く会話が伝わっている。その折の逸話は次のようなものだ。
《道より大雨風吹きて興なくなりにけり。さりとては吹上に行き着きたれども、見所なきやうにて、社に輿(こし)かきすゑて、思ふにも似ざりけり。能因が「苗代水にせきくだせ」と詠みて言い伝へられたるものをと思ひて、社に書きつけける
あまくだる 名を吹上の神ならば 雲はれのきて光あらはせ
苗代に せきくだされし 天の川 とむるも 神の心なるべし
かく書きつけたりければ、やがて西の風も吹き変りて。たちまちに雲はれて、うらうらと日なりにけり。末の世なれど志いたりぬる事にはしるし新たなりけることを、人々申しつつ信おこして、吹上・和歌の浦思ふやうに見て帰られにけり》(『山家集』)。
待賢門院帥の局を案内しながら、吹上の天気の推移を歌にしており、末の世の仏法より、神道的な自然信仰の中に生きる西行の姿がある。恋愛よりも女性とその自然な交わりを共有しようとする姿である。何気ないこのような自然との交流こそが、仏教的な厭世観よりも先立っており、それが、男女の交わりそのものを自然なものとしているように見えるのだ。高野山という山に住み、吹上・和歌の浦で自然と交わり、そこに神を感じているのである。ここに神が出てくるのも、その仏よりも、自然神の存在を感じている、ととれる。
別の女性との交わりを示す歌がある。この二つの歌には、「神」の受け入れる「やまとごころ」が感じられる。
《天王寺へ参りけるに、雨の降りければ、江口と申す所に宿借りけるに、貸さざりければ、
世の中を厭ふまでこそ 難からめ 仮りの宿りを 惜しむ君かな
返し 遊女 妙
家を出づる 人とし聞けば 仮りの宿に 心留むなと思ふばかりぞ》(『山家集』)。
遁世者が、女性と交遊しようとするのは、これも外祖父の血を引いて「数寄者」と呼ばれるのが常である。しかし、この色好みの西行のことを「数寄者」と呼ぶことを、私が好まないのは、西行はあくまで歌が主であるからだ。応える遊女、妙の歌も、西行自身がつくったと考えられるからである。
3 仏教か神道か
西行は、陸奥の旅の後、久安年間、三十歳前後で真言霊場の高野山に入山し、草庵を結んだ。その生活はその後、三十年続くことになる。
《高野にこもりたるころ、草のいほりに花の散りければ
散る花の いほりの上を 吹くならば 風入るまじく めぐりかこはむ》。
ここで示されるのは、仏教の話ではなく、花の散る情景なのだ。西行にとっては、高野山という地名の他は、ここが仏教の聖地である、というより、自然の聖地といった方がいいと思われる。つまり仏教修行に入るというより、自然の中に入り込むという要素の方が大きいのだ。
仏教的主題を詠った次の三首でさえ、歌う内容は自然そのものである。
『大日経疏』の文「心自悟心自証心」と題して
《迷いきて 悟りうべくもなかりつる 心を知るは 心なりけり》
と詠み、「論の三種の菩提心のこころ」と題して、
《勝義心
いかでわれ 谷の岩根の つゆけきに 雲ふむ山の嶺にのぼらむ
行願心
思はずば 信夫の奥へ来ましやは 越えがたかりし 白河の関
三摩地
惜しみおきし かかる御法(みのり)は聞かざりき 鷲の高嶺の月は見しかど》
とあるように、『菩提心論』の説く、「三種の菩提心」を詠うのに、山に分け入る旅の僧を回想しているのである。むろんそれは、遠国への「修行」の体験に引き寄せて詠っていると解釈され、「雲踏む山」を高野山、「鷲の高嶺」を法華信仰を寓意にしている、と言われる。が、それは「三種の菩提心」をこめるには、迂遠な述べ方と言った方がよい。和歌が漢語と違って、仏教の教理を述べるのに、ふさわしくない表現形態だから、といえばそれまでであるが、その「勝義心」「行願心」「三摩地」を表すには、仏教性が希薄なようだ。それよりも遠国の山行きは、仏教の「御法」に従うというより、山岳信仰を中心とする神道にその起源が求められるのではないか。顕教よりも密教を尊ぶ志向の反映だと言えるだろうが、それはまさしく山岳修行の神道的なものである。
《観心
闇はれて心の空に澄む月は 西の山べや 近くなるらむ》
この歌も、仏教的に解釈すれば、「心の月」が、覚・の著書『心月輪秘釈』に詳説された「月輪観」(阿字観)を踏まえていると考えられ、「月」を女人の面輪にたくわえる所から進んで、真如の象徴と観ずるに至った、とされる(荻原昌好『和歌と中世文学』所収)。しかし「心の空に澄む月」はやはり、月の動きという自然の場景を詠っている。これはもともと自然信仰をもとにしている。顕密両教よりも。山岳信仰や本地垂迹思想をもとに従っており、大峰という山臥(やまぶし)修行の場、神道の自然信仰のあらわれと考えられる(『古今著聞集』に西行は「大峰二度の行者」と伝えられる)のである。112p。『山家集』には、大峰山中で詠んだ作品が十八首あるが、いずれも山岳信仰が詠われ、仏教的な境地は強いわけではない。
山里に庵を結び、その心の中には、安らかさと孤独の感情であり、自然の中に溶け込む感性がある。多くの評者も、四季折々の自然の風物にふれ、「あはれ」や「さびしさ」の情趣にひたる心境がうたわれている、と指摘する。
《山ふかみ 霞こめたる 柴の庵に 言問ふものは 鶯の声
谷の間に ひとりぞ 松も立てりける われのみ友は なきかと思えば
水の音は さびしき庵の友なれや 峯の嵐の 絶え間絶え間に》89p。
このような自然との融合が尊ばれ、西行はしばしば自然を「友」と呼び、親しみをこめてこれらを問いかけるのである(目崎、前掲書)。89p。
私は、「自然」と言う言葉を、そのまま使ってきたが、この言葉は、意味としては、近代のNatureの訳語である。これは近代の包括的な概念として使われなかった当時の山、谷、松、風といった個々の自然の要素を、包含するものである。それは神の観念まで含むアニミスムの意味もあり、それは一種の宗教的感覚さえ包含するものなのである。それは、もともと日本人の宗教であった神道の根本にあるものなのだ。「山」という言葉が、総本山のように仏寺の用語に使われるようになった後、「山」は、その神道的な意味合いが忘れさられたように見えるが、それは仏教の神道化を意味するものと考えなければならない。「山」や「水」を詠む歌が、圧倒的に多い西行には、神道の歌人というのがふさわしいのである。『山家集』という名前も、「山」を「家」とすることを示している。
西行には、晩年、自らの歌を撰んて、藤原俊成に送った『山家心中集』がある。その巻頭に、「花」と「月」の詠各三十六首を配列している。俊成は当時の歌壇の巨匠であり、西行の最も近しい知己でもあった。この表題の脇に《花月集ともふべし》と書かれているように、その主題は、花の歌・月の歌であった。晩年の自作の粋を編んだとされる二部の歌合(『御裳濯河歌合』『宮河歌合』)も、「花」の歌と「月」の歌で構成されていた。このうち「花」は愛してやまなかった自然の象徴であるとすれば、「月」が秘められた恋人の面影とみられる。
この自然への愛に惑溺し、西行は年ごとに吉野の山中深く踏み分けて「花」を探ねた。吉野の地名を織り込んだ約六十首の「花」の歌は圧巻である。ただ「月」といい、「花」といったとき、単に歌の主題として考えるが、それはまさに自然の象徴であり、それが自然崇拝としての神道に根本にあると考えた方がよい。
《春ごとに 花に心をなぐさめて 六十(むそじ)あまりの 年を経にける
吉野山 花の散りにし 木の下に とめし心は われを待つらむ》西行の「花」の憧れは美的な意味での愛情ではなく、そこに信仰があつかったと考えるべきなのだ。
《吉野山梢の花を見し日より 心は身にもそはずなりにき》
《聞きもせず 束稲(たばしね)山の 桜花 吉野のほかに かかるべしとは》などの名句も、旅をして、それを楽しむという以上の、「山」と「花」への神道の自然信仰を感じざるをえない。この傾向を西行が数寄者だから、というが、この数寄とは美学用語であり、その真摯さはそれ以上の信仰があると言わなければならない。つまり数寄、趣味を越えた思慕心があるのである。
《願はくは 花の下にて 春死なむ そのきさらぎの 望月のころ》
あまりにも有名なこの歌が、それをよく詠っている。これまで、ここに風流とか、数奇とか、或いは、歌狂といったその歌人の生涯にふさわしいものとして考える評者が多い。近代流の、「美的趣味」者である。「神道」という言葉が、当時、慣用語でなかったというなら、私はそれを「やまとごごろ」と置き換えてもよい、と考えている(拙著『「やまとごころ」とは何か』ミネルヴァ書房、平成二十二年)。
通釈では、願わくは、桜の花の咲く下で、春に死のう、釈迦入滅のその時節、二月の満月の頃に、と解される。つまり仏教主題の歌としてである。「その」如月の、「その」は「如月の望月の頃」が、ほかならぬ釈迦入滅の時節であるからである。そのことにより、仏教と数寄の融合の歌である、と。
しかし釈迦入滅の日とはいえ、「花」の下に死なむ、ということは矛盾している。仏教でいえば、それは「花」への「執着」であるからだ。するとそれは、釈迦の言葉に反するもののはずである。宗教は数寄を許さない。仏教上、出家した西行がそれを知らないはずはない。
西行の入寂は文治六年(1190)二月十六日であった。我が国の陰暦二月中旬は恰も桜の盛りの季節であり、しかも十六日がまさに満月に当たった。西行往生の報を聞いた都の歌人たちは、この歌を思い合わせて一層感動を深めた、と伝えられる(藤原定家『拾遺愚草』)。
なおこの《花の下にて》は《花のもとにて》で流布し、『古今著聞集』『西行物語』などでもこの形で伝わっている。私はこの「もとにて」が、自然の「元」の大地に帰る、という意味で、自然信仰としての神道の歌にふさわしい、と考える。「花のしたにて」では、風流であることの方が強くなる。その意味で「もとにて」が真意のように感じる。いずれにせよ「春死なむ」の願望は、自然信仰の果てであり、もしそれが釈迦入滅の日だとすれば、日本仏教の神道化を示すものに他ならない。
これがいつの作とも知れないという。『西行物語』などは晩年東山の双林寺に庵していた時の作としているが、或いは、もっと前に、まだ十分に、仏教の「執着」否定の精神を知らぬ時期であったかもしれない。
西行が神道の歌人だとする根拠は、とくに伊勢で晩年を過ごしたことによる。それは勧進としての活動や、讃岐での修行などの末に行き着いたところと言ってよい。
《伊勢にまかりたるけるに、大神宮にまゐりてよみける
さかき葉に 心かけむ ゆふしでて 思へば神もほとけなりけり
高野の山を住みうかれて後、伊勢国二見浦の山寺に侍りけるに、太神宮の御山をば神路山と申す、大日如来の御垂迹を思ひてよみ侍りける
深く入りて 神路の奥を 尋ぬれば 又うへもなく 峯の松風》。
西行はこの伊勢に入ることによって、大日如来の御垂迹を、大神宮の御山に見るようになったのである。大日如来が神路山となっているのだ。山そのものへの自然信仰が、仏に成り代わっている。このことは神道の徒としての西行の重要性が帯びてくることになるのである。僧徒の神官参詣ということだけでなく、天照大神を、密教の本尊大日如来の垂迹とする観念において、彼は本地垂迹説ではなく、本地神道説なのである(目崎徳衛氏はその本地垂迹説において、「西行は時代の先駆をなしたのである」と述べている。前掲書142p)。しかしそれ以上に、自然信仰という神道の基本が、その皇祖霊信仰の前にあったことを忘れてはならない。
《伊勢にまかりたるけるに、三津と申す所にて、海辺の春の暮といふ事を神主ともよみけるに
すぐる春 しほんみつより 舟出して 波の花をや先にたづらむ》136p。
海辺の春の暮れを、土地の神主とともにこの歌を詠った。海という自然を詠み込むことにより、伊勢は神の国として西行の現れてきたのである。
《伊勢にて菩提山上人、対月、述懐し侍りしに
めぐりあはで 雲居のよそには なりぬとも 月になれゆく むつび忘るな》。
この歌にもあるように、「月」は西行の自然と人との結びを強めるものであった。それもまた、神道の基礎となる自然信仰を深く内包している。「やまとごころ」とは、「山」の「人」である。まさに西行は「やまと」であったのだ(拙著『「やまとごころ」とは何か』前掲書)。
隠遁者の身であることを自覚しながら、禁忌のきびしい神宮に参詣したのである。つまり伊勢に参ることは、この時代の仏教者としてもっと意図的なものと考えなければならない。
《内宮に詣でて月をみてよめる
神路山 月さやかなる誓ひありて 天が下をばてらすなりけり
内宮に詣でて侍りけるに、桜の宮を見てよみ侍りけり
神風に 心やすくぞ まかせつる 桜の宮の 花のさかりを」
ここには、天照大神の内宮に詣でる心境がかたられ、それが自然信仰と一体となっていく姿が読み取れる。
西行が神道の歌人だとする根拠は、とくに伊勢で晩年を過ごしたことによる。それは勧進としての活動や、讃岐での修行などの末に行き着いたところと言ってよい。
西行の伊勢の生活を支えたのは、内宮の神主荒木田氏であったといわれる。代々、神官として荒木田氏は外宮の度会(わたらい)氏とともに、その伊勢の職分を維持してきた。都から交代に派遣される斎王・斎宮寮官人および太神宮司・祭主の下で、禰宜・大内人・物忌以下の下部祭祀を司っていたのである。
古くから国家の崇敬を受けていた伊勢神宮が、平安末期、奉斎・造営に困難になってきても、荒木田、度会両氏の禰宜・権禰宜(ごんのねぎ)らは、東海道や坂東の在地領主に勧めて所領を神宮に寄進させ、多くの「御厨(みくりや)」(神宮領荘園)をつくりだしていた。これによって神宮の経済基盤を充実させると共に、みずからも「口入神主」として一定の得分をもつ「給主職」を維持してきたのである、その伊勢信仰は地方にひろがっていった。
荒木田氏は、西行の佐藤氏と共通して、官人にして荘園領主であり、同様な自立した経済基盤をもっていたことになる。その余裕ある生活の中で彼らは伊勢神宮をささえ、また歌道を盛んに行っていたのである。後の鎌倉中期には、荒木田氏は寂延法師が編んだ『御裳濯(みもすそ)和歌集』(残欠本)の中に二十余名の在地の歌人がおり、この人々の大部分は年代的に見て西行と交わりがあったと考えられている。とくに入道して蓮阿と称した荒木田満良は、「西行上人の和歌の弟子」と自任し、先師の歌話を筆録して、『西行上人談抄』という書物をのこしている。
そこでは、最初に、彼は西行の草庵のさまを次のように記している。
《西行上人二見浦に草庵結びて、浜荻を折り敷きたる様にて哀れなる住まひ、見るもいと心澄むさま、大精進菩薩の草を座とし給へりけるもかくやとおぼしき。硯は石の、わざとにはあらず、もとより水入るる所くぼみたるを置かれたり。和歌の文台は、花かたみ、扇やうに物を用ゐき。歌のことを談ずるとても、その隙(ひま)には、あああ「一生幾ばくもならず、来世近きあり」といふ文を、口ずさみにいはれし、哀れに貴くておぼえし。今も面影たえぬ道忘れがたし》。
神仏習合の思想を語っていることは、荒木田氏の神道の性格を示しているが、死期を感じた西行が、和歌という表現によって、その神道の心情を吐露していることを、共感をもって語っているのである。
「西行」という言葉は、「西に行く」ことで、「西方浄土」に向う、という意味である。まさに仏教者の言葉であるが、太陽は東から昇り、西に沈む。東は「生」の方位であり、西は「死」の方位なのである。しかし西行は「花」に執着し、「生」を詠った。それによって、逆に「神道」の徒であることを示していたのである。「花のもとにて春死なん」というのは、まさに「生きて死ぬ」ことではないか。
鴨長明は西行が文治二年(一一八〇)の草庵を立ち去った直後に訪れており、 《西行に住み侍りける安養山といふ所に、人歌よみ連歌などし侍りし時、海辺落葉と云ふことをよめる 秋をゆく神嶋山は色消えて 嵐の末に あまのもしほ火》と詠んでいる。
これによれば草庵は、海上はるかに伊勢湾の島々を望む、風光絶佳の場所であったことがわかる。西行がいかに、「東」の海に面して、この伊勢の庵を過ごしていたことがわかるのである。「西」へ向う人が、「東」の「生」をたのしんでいた。
《何事の おはしますをば 知らねども かたじけなさの 涙こぼるる》
この歌は、延宝二年(一六七四)に刊行された木版本によっており、専門家はこの歌を西行の作から外しているものが多いが、西行の心中をすなおに表現するば正にこのとおりであっただろう。
これこそ神道の真髄なのだ。仏教には言葉が必要だが、神道には言葉がなくてもよい。自然そのものも、御霊そのものも、皇祖霊そのものも、それは言葉にならない精神の動きである。人々は共同して、《かたじけなさ》を感じればいいのだ。《何事の おはしますをば 知らねども》と言いながら、西行は、その言葉にならぬ信仰を熟知しながら、詠ったのである。その意味で、彼こそ、日本人の「やまとごころ」の代表的歌人なのだ。
(東北大学名誉教授、皇学館大学講師)