今年は巳年です。蛇の年です。蛇は、十二支のひとつですが、こうした身近な動物を、十二年に一度、まわってくるようにして、名付けるというのも、本来、無機的な時の動きを、自然と関係をつけて有機的な親しいものにする、という祖先の知恵であったでしょう。人々はそんな動物名を呼んで、楽しんできたのです。
しかし今日では、蛇は、田舎でも余りお眼にかからなくなりました。私たちが小さい頃は、東京でも野っぱらに行くと、まだいたものです。
蛇がなんとなく、不気味だ、という考えは、戦後、欧米の考え方が入ってきたからでしょう。キリスト教、ユダヤ教、イスラム教などは『旧約聖書』の創世記の記述のように、蛇は悪魔の化身とか悪魔そのものとされています。
しかし蛇は、地から這いだしてくるように見え、古来、大地母神の象徴でした。山野に住み、ネズミなどの害獣を食べ、また脱皮を行う蛇は、豊穣と多産と永遠の生命力の象徴でもあったのです。日本においても蛇は昔から信仰を集めていました。豊穣神として、雨や雷を呼ぶ天候の神として、また光を照り返す鱗身や、閉じることのない目が鏡を連想させることから太陽信仰の対象ともなった、と言われています。日本の神話で、もっとも著名な蛇神は、頭が八つあるという八岐大蛇(ヤマタノオロチ)や、三輪山を御神体として大神(おおみわ)神社に祀られる大物主命(オオモノヌシノミコト)でしょう。今年正月は、私は巳の神社であるこの大神神社に初詣に行って来ました。
そんな蛇を頭につけた愛くるしい像が、興福寺にあります。八部衆のひとり『沙が羅』像です。よく見ると、眉を少し顰(ひそ)めているので、悲しげにも見えます。頭から胸にかけて蛇をまとっていることから、蛇神で、竜神でもあり、雨乞いの神でもあるのです。雨が降らないことを悲しんでいるのかもしれません。
蛇と幼児、という取り合わせは妙ですが、蛇は元来、生命力の象徴であったのです。
仏教の八部衆とは、釈迦を守る存在で、『法華経』には、《天、龍、夜叉、乾だつ婆、阿修羅、迦楼羅、緊那羅、摩ご羅伽》という名が列記されています。この最後の摩ご羅伽が、この沙が羅のことなのです。
摩ご羅伽とは、古代インドではマホーラガといい、マハーが大きい、ウラガが蛇のことで、ナーガと同じように、大蛇を意味しているそうです。インドに行きますと、蛇といえばコプラ型のナーガなのですが、日本のものは、蛇の姿をしています。
この沙が羅像が、あどけない幼児のような顔をしているのは、この像の作者である将軍万福が、注文者の意向を受けて、作ったからだと考えられています。というのも、この像は八部衆のひとつですが、それらは、聖武天皇の后の光明皇后が注文したものです。
光明皇后は、母の橘三千代が、天平五年(七三三)年、この世を去ったため、その菩提を弔うために、奈良の興福寺に西金堂を建立しました。その西金堂の中の仏像のために作られました。ご本尊の釈迦丈六像の他、脇侍菩薩二体、羅漢十体(十大弟子)、八部神王(八分衆像)などが、将軍万福に委託されたのです。
このあどけない顔の主が誰か、というと、その六年前にわずか一歳で病死された光明皇后と聖武天皇の息子、基皇子(もといおうじ)だ、と考えられています。皇子が生きていれば、このような顔になっただろうと彫刻家が想定したのです。
皆さんは、あの阿修羅像をご存知でしょう。あれもこの八部衆の一人として造られたのです。きりりとしていて気品があり、皇子の姿を想定していいかもしれません。しかしそれは少年の顔をしていますが、しかしこの像ほど、幼い、という感じではありません。六歳というのにふさわしいのがこの像の方なのです。
この西金堂の建立に関する正倉院文書があります。『造物所作物帳』というもので、創建当初の史料として貴重なものです。そこには造物所の長官が、当時、皇后宮大夫であった小野牛養(おののうしかい)、造仏にあたった仏師は将軍万福、色彩を施したのは画師、秦牛養(はたのうしかい)と書いてあります。作者がはっきり銘記されているのは、いかにこれらの作者たちが敬意を評されていたかがわかります。ただこの仏師の経歴は書いてはありません。
画師は秦とあるので、秦氏の一族でしょう。秦氏というのは、日本の帰化した一族です。秦の始皇帝の末裔という人もいますが、もともと中央アジアからやってきた一族で、大陸の知識をもたらしたことで日本に貢献しています(帰化より渡来人という人がいますが、日本に帰化したことには変わりありません)。
将軍万福も、帰化した一族の子孫であることは、前に『須菩提像』のところで述べましたが、しかし大陸にはなく、日本にしかこのような傑作が生まれていないところは、このような帰化人たちがいかに、日本でその才能を開花させたか、見ることができます。今でも、日本に来る外国人たちが、日本文化に触れて、大きな仕事をするかを、ときどき見ることができます。それだけ、日本というところは、文化創造にふさわしいところなのです。