本年は、日本だけでなく世界が大きな転換を示す年になった。
周知のとおり、日本では、民主党政権が代わって、安倍晋三氏のひきいる自民党政権が勝利を得、アメリカではロムニー大統領候補が敗れて第二次オバマ政権となった。中国では、胡錦涛から習近平があらたに政権の座についた。
一見、みな政権が新しくなったか、引き継がれたに過ぎないように見えるが、大きな意味で20世紀の体制が、今、21世紀の体制に、現実的に、転換した、ということであるのだ。
20世紀は周知のとおり、社会主義イデオロギーの時代であった。一方で左翼ユダヤ人の陰謀によるソ連の社会主義国が勃興し東欧と中国を巻き込んだが、それがおよそ70年で崩壊した。「共産党」独裁の中国は、彼らが資本主義化を計り、そのイデオロギーの旗印を下ろさざるをえなくなった。習近平はその路線に従っている。
他方、資本主義国では「否定的弁証法」を標榜したフランクフルト学派が、資本主義内の左翼化、リベラル化をはかってきた。「共産主義」圏と同じ方針では、成り立たなかったからである。各地で一斉に起こった1968年の「5月革命」はその動きであった。その後も、常に中間層に「疎外」感を与え、「反権力」思想に導こうとしたのである。
日本の民主党は、まさにそのフランクフルト学派の社会主義イデオロギーのもと、OSSが創り出した「日本計画」(GHQに引き継がれた)の落し子であった。民主化ならぬ社会主義化で出発した戦後日本の、成れの果ての政党であったのだ。その中に、旧社会党、リベラルが入り込み、その党名のとおり、あたかも民主主義の思想があるかの如く、幻想を与えたのである。その思想が何の実績ももたらさず、現実を破壊するだけの素人政権にすぎなかったことは、彼らの戦後レジームの虚構性をますます明らかにした。それをやっと国民が、彼らに政権をもたせたことでわかったのである。
とくに選挙で、その左翼リベラル派がほとんどいなくなったことが、日本国民の成長を物語っている。元大臣であろうと、毎日、テレビで顔を出す官房長官であろうと、知名度に関係なくすべて落ちたのであった。かろうじて比例代表で残ったものもいるが、左翼リベラルの凋落は徹底していた。とくに自民党の政治家、加藤紘一の落選したことは同じ輩と思われたからであった。このことにより、憲法改正、保守の復興への舵取りは鮮明になった。後は安倍政権の実行力の問題である。
時代は「革命」よりも「伝統回帰」へ
私はこれが、戦後隠されていたOSSの「日本計画」の終焉と見ており、それを秘かに見守っていたアメリカ左翼ユダヤ知識人の、大きな転換点をもたらすことになる、と見ている。アメリカで日本の近現代史を書いていたのは、この派の学者である。
OSSを牛耳っていたフランクフルト学派は、戦後2年ほどの「冷戦」の中で「マッカーシズム」によって表面的に追い出されるが、アメリカ民主党政権や国連に入りこんだ。そして言論界、経済界のアメリカのリベラル化につとめた。メデイアを握り、「反権威主義」をあおり、文化の「多様化」主義から、「グローバリズム」まで提唱した。「ネオコン」にも入りこんだ。いずれも左翼ユダヤ人らしい、少数派がいかに多数派の顔をするか、謀略戦を行ってきたのである。
彼らは、最初の黒人大統領オバマを創り出したが、しかし彼らの大きな問題はイスラエルであった。大資金を必要とする国家イスラエルに金を供給するために、どうしてもイスラエル派の立場に立つアメリカ政権をつくる必要性があった。ロムニー候補は、その役割を負ったが、しかしそれに対して、アメリカ左翼ユダヤ人は、冷ややかだったのである。ユダヤ人たちは分裂せざるをえなかった。
戦後、資金を必要としたイスラエルはユダヤ人がウォール街を握ることによって維持された、と言ってよい。しかしペンタゴンを中心とするアメリカの「ワスプ」は、もうユダヤ人たちの棟梁を許さない段階にきたと考えた。戦後、ユダヤ勢力によってつくられた国際金融の変動が、さすがに「リーマン・ショック」以後、ひどすぎると思い始めたからである。オバマの脱イスラエル路線は始まっている。クリントン国務長官の辞任は、その表れといってよい。
戦後の資本主義国家の中にあって、フランクフルト学派的な社会主義イデオロギーの影響、つまり「権力否定」、「国家否定」、「伝統否定」の「批判理論」が流布された。この宣伝が人々の精神を荒廃させたのである。学界もジャーナリスムも政界のそれに染まった。それこそ、彼らのねらったことであったから、成功したことになる。しかし失敗も明らかであった。彼らは、その行く末に「革命」を夢見たのだが、実現しようもなかったからである。人心「荒廃」によって到達するのは「革命」ではなく「伝統回帰」「歴史の掘り起こし」という逆の方向であるのだ。今いたるところで「伝統文化」の復活が叫ばれ始めている。
左翼の導いた「20世紀」の終焉
しかし20世紀の「共産主義」「社会主義」「民主主義」が次々と死語化していくなかで、日本でも左翼の最後の砦は、「リベラリズム」となっている。ところが、この「リベラリスム」も又左翼ユダヤ人の思想である。
「国家」や「権力」に媚びない、自由な見解をもつことが、あたかも「リベラリスム」の主旨のように見えるが、それは、逆に「国家」や「権力」をもてない、アメリカの少数派ユダヤ人の自己防衛の見解であったことを見抜かなければならない。アメリカのユダヤ人の大多数にとって「リベラリスム」は政治信条以上のものとなっているのは、そうした理由があるからだ。「リベラリスム」を支持する日本の知識人は多いが、この思想のからくりを知れば、少しは恥じ入ることであろう。
あるアメリカ人は言っている。
「リベラリズム」はそれ自身がユダヤ主義を超える実用上の目的と化し、自分たちの権利を守る宗教となった。そして、かれらの祖先がヘブライ語の聖書に捧げた確固たる献身と同じものを、いまその宗教の教義と戒律に対して捧げているのである。かれらが右側に動こうとするときは、祖先たちがキリスト教徒に改宗するときと同じ恐怖を感ずるに違いない。
ノーマン・ポドレッツ
戦後、ユダヤ人たちは、イスラエルの建国を始めた。これ自身、イギリスから譲られた最後の植民地主義の継続であったが、彼らはそのまま60年以上パレスティナ地域の占領を続けている。しかしこのイスラエル建国を支えているのは、ユダヤ人の「ナショナリズム」以外の何ものでもない。2000年前のイスラエル建国を理由に、それをこの占領を肯定とするなどというのは、一方的な「ナショナリズム」以外にないではないか。「リベラリスト」のアメリカ・ユダヤ人が、イスラエルを支持するとすれば、イスラエルのナショナリストとなり、矛盾せざるをえない。
現在、世界のユダヤ人たちが分裂しているのは、それゆえである。その分裂を、決してメデイアは伝えない。メデイアを握っている彼らは、自分たちの混乱を、わざわざ伝えたがらないからである。しかしその矛盾は誰の目にも明らかであるのだ。
左翼ユダヤ人が導いた20世紀は終わった。マルクスからサルトル、そして現在のフランクフルト学派の流れを継ぐ、ユダヤ人たちの思想は、彼らがイスラエルを守ることで、同じようなナショナルな見解に戻らざるをえない時点で終わったのである。これ以上、「社会主義」だけでなく「リベラリズム」も成り立たない。それぞれの国、民族の伝統に回帰することによって、相互で自由な対話を行っていく時代になったのだ。それが、世界の常識となる時代が来たのである。我々もその方向で努力しなければならない。
(参考文献・拙著『戦後日本を狂わせたOSS「日本計画」』展転社刊