皇太子退位勧告論争の陥穽(かんせい)

山折哲雄氏の「皇太子殿下、ご退位なさいませ」という一文が『新潮45』に載り、その雑誌の次号で、竹田恒泰、佐伯啓思、二氏によるその論評を載せている。民間から皇室を云々することそのものに胡乱(うろん)なものを感じさせるし、一雑誌の、話題づくりの軽薄さも感じるが、戦後の皇室に関する、知識人の実態を垣間見ることが出来るので、伝統保守、歴史保守の立場からの批判は必要なことであろう。

山折氏の論は、皇太子の雅子妃への態度を、「近代家族」、「人間宣言」をされた「近代」人のそれと見て、そうした態度が天皇になられるにはふさわしくない、という点で、《ご退位なさいませ》を論じている。一方、竹田氏は、皇太子は、そうした立場を超えられて、天皇の国民を思う立場をすでにお持ちである、と主張し、《皇太子殿下の祈りは本物である》と反論している。次に佐伯氏が山折所論の「炙りだしたもの」と題して、問題は《戦後日本にあって、天皇制のもつ二重性が、かくも激しい亀裂を露呈してしまった、という点にあるのではないでしょうか。天皇制と戦後民主主義の問いには、どうにも調和しがたいものがあるのではないか、ということなのです》と論じている。

これらの議論のうちに、天皇のお立場に対する、「近代」主義者の見解が明確に出されていることを注目しなければならない。戦後、天皇が、戦前のような、神格化された天皇の立場を捨てられ、「聖性」を失われている、と指摘される。そしてマルクス主義者が言う言辞と同じように、《天皇の世襲原理も「国民の意志」によって左右されかねない。それどころか「国民の意志」によって天皇制を廃止することも可能なのです》(佐伯氏)とさえ、述べられている。無論、左翼のようにあからさまに言っていないので、山折、佐伯氏の見解は、「社会主義」者ではなく、「近代」主義の立場に立った「近代リベラル」の立場と言ってよい。この「近代リベラル」とは、前号で私が批判した、「権力」とか「権威」から「自由」な立場に立とうとする、相対的な態度である。

しかし私が指摘するのは、天皇の「無私」のお立場と、「戦後民主主義」の「国民」の立場が、対立するように言っていることである。そうだろうか。ここには「近代家族」や「近代主義」が「戦後民主主義」に根づいた、という前提をもっているように見える。それをあたかも常識であるかのように語っていることに、論者たちの無神経さ、あいまいさを感じざるをえない。

夏目漱石に「私の個人主義」というエッセイがあり、ロンドンで、西洋の「個人主義」のあり方を見据えてきた漱石が、日本人である自分の、それに対する懐疑を語っていた。そしてその後、漱石が「則天去私」に至ったことを、日本の知識人のあり方の典型として、我々は知っているはずである。その過程を見ると、「近代」の「個人主義」や「自由(リベラル)」など、それ自体、虚構ではなかったか、というのが本当ではなかろうか。

漱石の問題は、もう過去のことだ、といわんばかりの、これらの人たちの論調は、江藤淳氏の自死以後、思想界の退嬰をよく示しているように見える。江藤氏はその漱石論で語ってきたのは、漱石のこの問題であったのである。そして漱石論を中断したまま、その問題を解決せずに自決したのであった。その後、日本の「近代主義」「個人主義」の問題が、江藤氏のような文学者の不在で、真剣に考えられなくなったのである。

「個人主義」も「近代主義」も、「民主主義」でさえも、欧米から入ってきた概念で、その言葉は、日本人の実態から離れたものであった。家族のあり方が「前近代」とどう違うのか。さらにいえば、欧米自身においても、「近代」と実態は乖離しているのではないではないか。日本にはあてはまらないどころか、西洋の「近代」にさえもあてはまらないものでなかったか。欧米でもキリスト教は廃れていないし、共同体の必要性は益々、必要になっている。

もし、それらがあったとするなら「近代」以前から存在する、彼らの伝統的な生き方に依拠するものであって、「近代」に限ったことではない。こうした心性の問題は、「古代」も「近代」もないはずである。つまりヘーゲル流「歴史哲学」の、勝手に作り上げた「近代」を絶対化したことから来たものに過ぎない。ましてや「戦後民主主義」の「個人主義」なども、権利主義、エゴイズム以上に実態があるわけではない。

ところで、歴史に国家観を忘れた歴史学界を批判する意味で、去年日本国史学会が立ち上げられた。学会主催で、明治天皇についてのシンポジウムが開かれ、竹田恒泰氏も発表されたが、そこで、明治天皇の「無私」の精神が、主題にのぼった(『日本國史學、第二号』参照)。明治天皇の「無私」の精神は、漱石と同じ、明治という「近代」で一貫していたものであった。その十万近くにものぼる和歌の御製に、その「公」の立場がつらぬかれたことを、どう理解するか、という問題だったのである。その閉会の辞を託されたとき、私は次の例を出した。

それは奈良時代に、聖武天皇が、東大寺の大仏建立の際に、出されている詔の言葉である。それは次のような詔だった。

《朕は徳の薄い身でありながら、かたじけなくも天皇の位を受け継きました。
朕の志は広く人民を救うことであり、努めて人々を慈しんできた。国土の果てまで思いやりと情け深い恩恵を受けているはずであるが、天下のもの一切がすべて仏の恩恵に浴しているとはいえない。そこで三宝(仏・法・僧)の威光と霊力に頼って、天地ともに安泰となり、よろずの代までの幸せを願う事業を行って、生きとし生けるものことごとく栄えることを望むものである。・・・
天下の富を所有する者は朕である。天下の権勢を所持す者は朕である。この富と権勢をもってこの尊像をつくるのは、ことはなりやすいが、この願いを成就することは難しい。ただいたずらに人々を苦労させることがあっては、この仕事の神聖な意義を感じることができなくなり、あるいはそしりを生じて、かえって罪におちいることを恐れる。・・・国、郡などの役人はこの造仏のために、人民の暮らしを侵したり、乱したり、無理の物資を取り立てたりすることがあってはならぬ。国内の遠近にかかわらず、あまねくこの詔を布告して、朕の意向を知らしめよ》(『続日本紀』口語訳)。

この詔の、天皇の国家の所有の感覚こそ、自己を無にすることが出来る基本なのだ、と思われる。それが人民を我が子と考えることが出来る感情の基礎になるものなのだ。それは聖武天皇の時代も明治天皇の時代でも一貫した感覚である。「古代」も「近代」もないものである。それは別に天皇の「神格化」とも関係はない。聖武天皇ご自身が、《徳の薄い身でありながら、かたじけなくも天皇の位を受け継きました》と言われているのである。

そのような天皇であってこそ、国土の果てまで思いやりと情けをかける、父親の感覚になれるのである。これがこの感覚の不在の民間出身の方が、皇室に入るときの困難さともなろう。美智子皇后陛下は見事にその感覚を身につけられたと拝察出来る。しかしまだ天皇に御成りになっていない皇太子、その御妃である雅子殿下は、まだしっかりとその感覚になられておられない様子である。とくに雅子妃の「適応障害」は、そのことを示すように見られる。しかしこれは無理からぬことだ。いずれ皇太子と共にその感覚を共有されるであろう。民間からこれみよがしに、それを言い募る必要もない。

ただ皇太子殿下が、今年の記者会見で、戦後憲法の、天皇が「国民統合の象徴」であることにこだわっておられるようだが、憲法そのものがもともと、社会主義を目指した作為的なものであり、皇室の伝統的なあり方の方が重要であることはいうまでもない。現憲法を廃棄した上の新憲法は、そうしたあいまいな規定を改正しているはずである。

「文志」9号掲載