「主権回復の日」とNHKの左翼性

四月二十八日は、天皇、皇后陛下のご臨席のもと、政府主催で「主権回復の日」の式典が催されたことは、喜ばしいことであった。これが初めて政府主催で行われたことは、これまでの政府が、戦後一九五二年までのこの七年間の占領期間に否定的ではなかったことを意味する。逆に「戦後民主主義」が打ち立てられたと、肯定的に考えてきた人々によって政治を牛耳られてきたことを意味している。つまり「主権が失われてきた」占領期間に施行された憲法を始めとする諸改革を肯定してきたのだ。

憲法改正を目指していたはずの自民党政権が、この式典を政府で行わなかったことは、多くの自民党関係者でさえ、その「戦後民主主義」が何かを強く疑わなかった、ということであったのだ。占領下の「戦後民主主義」改革が、社会党、共産党によって熱心に支持されてきたことの意味を、深く問うことがなかったのである。

私は一昨年、『戦後日本を狂わせた「日本計画」』(展転社)という本を出した。それはこの占領期間が、ある謀略計画の実現として出発したものであることを指摘したものである。「戦後民主主義」などと言われた改革が、実をいえば、、アメリカ左翼によって意図された社会主義政策であったという指摘である。ここ二十年に解禁されたアメリカ国立文書館の、OSS(Office of Strategic Serevices戦術局)の「日本計画」文書から分析したものである。幸い、渡部昇一、小堀桂一郎、中西輝政諸先生の推薦文とともに、出版されて四刷も重ねた。それが「民主主義」ではなく、二段階革命の一段階目の「社会主義」であったために、人々に余り気がつかなかったものだったのだ。

まだ日本は、「封建主義」の段階で、それを「市民主義」によって、払拭する段階であったから、そこでつくられた憲法も、農地解放、財閥解体、教育改革も、いすれも「民主主義」「市民主義」に見えたのである。そこに「社会主義」革命の匂いを、嗅ぎとろうとしなかったのである。それを良しとする当時の社会党、共産党が、この憲法や諸改革を支持する態度を糾弾することもなかった。曖昧な態度のまま、「民主主義」にごまかされていたのである。次の段階では、革命であることを、意図するものであったことを強く意識しなかった。その経緯を詳述することはこの本に委ねるが、この日本国憲法に「奴隷的拘束」が日本にあった、などという記述(第十八条)が、まさにそのことを示していた。

そしてここで問題にするのは、保守が、その後の左翼が、「戦後民主主義」や「平和主義」を、労働運動から方向転換し、文化運動に切り替えていたことを察知出来なかったことである。労働階級の運動よりも、「市民階級」の左傾化に重点をおき、メデイアや学界を通じてそれを展開させたのであった。つまり「文化」活動全般を通じて、階級意識、差別意識をつくりだす心理的、精神的な運動をめざしたのである。それが、戦後のグラムシでいえば社会の「へゲモニー」理論であり、フランクフルト学派の「批判理論」の考え方であった。

現在は歴史から忘れられた組織、OSSは、戦時中に様々なプロパガンダを行っており、戦争末期にはサイパンに放送局を設け「新国民放送局」として、日本の軍部批判や敗戦必至を訴えた戦局情報を日本に流していた。このようなプロパガンダが日本人にほとんど効果を上げたとは思われないが、このプロパガンダが、戦後に生まれ代わったのが、NHKをはじめとする放送局だった、と言ってよいであろう。それが戦後の占領体制の基本情報になったのである。

占領期間中の「ウオー・ギルド・インフォメーション」は、新聞に『太平洋戦争史』が連載され、戦争そのものが、日本の「軍国主義」によって煽動されたものだ、という宣伝によって始まった。この戦争史によって、大東亜戦争は、太平洋戦争となり、南京「虐殺」も捏造されたのである。これはあくまで軍部と国民の分裂を工作するというOSSの方針であった。

NHKはそれに呼応して『真相はこうだ』というラジオ番組を組み、満州事変から終戦までの日本軍国主義の犯罪的行為を、「真相」として国民に宣伝した。それを担当したのは、OSSの流れを汲むGHQ情報局のアメリカ人であった。あたかもそれが国民が知らされなかった情報を「事実」として、ドキュメンタリー風のドラマに仕立て上げた日本国民洗脳プロパガンダを行なった。具体的な軍部否定の宣伝だけでなく、「社会主義」をあたかも「民主主義」の行き着くところのように情報を仕立て上げていったのである。

東条首相は悪鬼の権化のようになったし、いわゆるA級戦犯となった人々はその軍国主義の責任をとらされた。それを批判することも、対抗する情報も流す自由が統制されていたから(それが圧殺されていることさえ、知らされなかった)、多くの国民はそれを信じることになった。

この時期に行われた公職追放によって、戦時中の多くの有能な人々が公職から追われ、それに代わって、いわゆる戦後利得者が、公職につき、左翼的な言辞をふりまいた。

占領下のこのような左翼的な偏向は、戦後の二年間ほどであったが、その間に、てっとり早く諸改革がなされた。それは、すでに戦争開始の時からOSSが、戦後改革を「日本計画」として立案していたからである。戦後すぐOSSは解散したが、その下で働いていた人々はGHQに流れ込んだ。それもレッドパージにより、その力は数年で失われたが、その二年ほどで、憲法から公職者まで、変えてしまったのである。

NHKもまた、それで完全に左翼化したことは、一九四六年十月五日の「放送スト」にまで発展したことでもわかる。あわてたGHQが、NHK職員の大量にレッド・パージをしたのだが、それは遅すぎたのである。新たな「放送法」をつくり、民間放送の設立を認めたとき、ファイスナーという担当官が《NHK職員には共産主義者が多く、放送ストをする者もいた。また朝鮮戦争のときにパージされた者も多かった》からだ、と述べた。民間放送の認可は、NHKそのものの左翼化を、変えられなかったことによるものだ、と語っていたことになる。NHKに公共放送を独占され、その独占状態を、民間放送を作らせることにより、左翼化をふせごうとした経緯があったのだ。それはアメリカが、ちょうど左翼的なOSSから、冷戦に対処するCIAに、戦術を転換するときにあたっていた。

しかしその後続々と出来る民間の放送局も、別に保守的な報道をするわけでもなく、NHKの左翼性、リベラル性を超えるものではなかった。放送界、メデイア界に入る人々の意識は、「戦後民主主義」に染まり、あたかも客観的報道と称して、人々を「社会主義」支持の方向に導いていったのである。その「文化運動」の先頭に立ったのが、放送の方ではNHKであり、新聞では朝日新聞だったのだ。

むろん社会主義国の崩壊、北朝鮮の拉致問題などが、その態度を変えさせた面もある。しかし内実は、リベラルな態度にシフトしただけであった。リベラルとは、「権力」、「権威」から独立した自由な態度、という曖昧なものだが、「権力批判」、「権威批判」の名のもとに、人々を混乱に導いたのである。フランクフルト学派に由来するこの「権威主義」批判は、文化面においては、素人的な「凡庸主義」を導くことになる。「凡庸化」が、あたかも新しい文化のような装いを取るようになる。識見のある「権威」を否定し、専門家よりも、素人を多用するNHKの放送体質は、その理論によるものと思われる。

それはむろんNHKにとどまらない。現在の日本の文化面を覆っている素人化、凡庸化の現象は、「素人」で「凡庸」であることを、ある意味で「文化破壊」であり、伝統と文化の断絶を意図したものであることを隠しているのだ。現代の日本の文壇も論壇もおおっている停滞は、その顕著な傾向によるものだ。