七月二十二日の参議院選挙は、去年暮れの衆議院、春の都議選に続いて、そこに絶対的な自民党勝利の結果を示した。それ以前の民主党のような相対的な圧勝なら、変わりうる可能性があるが、都議会は全員当選、参院では沖縄、岩手を除いて、すべての地方で、自民党議員が選出されたことは、その全体性から、何らかの重い共通意志を、国民全体がもった、と見なければならない。
国民の大多数が、一致して何かを政治に望んだのである。選挙は水物といわれ、よく変わる民意を小馬鹿にする風潮も一方にあったが、この半年余りの三度の選挙結果には、誰しもこれまでと違う、絶対的な多数意志が感じたのは、私だけではないであろう。それは戦後はじめてと思われるものである。その内容が何か、を見て取れないようでは、政治家失格である。
その徹底ぶりは、自民党の議員個人の善し悪しなどを、はるかに越えたものであった。従って、選ばれた議員は、個人では選ばれたわけではないことを、自覚しなければならない。全体意志が、個々の資質への疑問などはるかに上回ったのである。
そこに何を読み取れるか。まず民主党、社民党の決定的な没落は、これまで戦後、蔓延していた社会主義幻想、リベラリズム、多文化主義の類のまやかしに、国民が訣別の意を示したことである。緑の党、生活の党などの弱小政党が、ほとんど支持されなかったことは、権力批判、権威批判を旨とするリベラル、地球人間的発想が嫌悪されたことである。みんなの党、維新の会、共産党も、権力批判政党として、最低限の議員の数しか得られなかったのも、彼らの国家への批判が実行性を伴わない空論であることを、見抜かれた、といってよい。公明党は自民党との連立政党と見られ、全員当選したが、その数自身は限定されており、彼ら自身、もともと多数政党になれない。
それと共に注目すべきは、この選挙結果が、「保守権力批判」のイデオロギーを煽ってきた新聞、テレビの論調が、明らかに、その支持が少数であることを示したことである。左翼イデオロギーの既得権の上に乗った報道ぶりは、例え、それを毎日、喧伝しようと、国民から見離されてしまうことを意味したのだ。前回の拙論「歴史は変わった」で述べたように、これからは、その左翼リベラル論調は、支持されることはないであろう。彼らは、ほそぼそと残存する勢力に過ぎなくなった。これは新聞、放送のみならず出版界、言論界に影響を与えずにはいられない。
それは大政翼賛の戦前のような時代を思わせるかもしれない。しかしそれを、また戦後の風潮から非難してはならない。戦争への道だ、とか、国粋主義のはじまりだ、という批判は、誤りである。それは戦後の民主主義の経験を、国民がもった上での結果であるからだ。私はここに改めて、日本国民の思想の変化の内容を注視するべきだろうと思う。ナショナリズムの復活などというものではない。アベノミックスなどと喧伝された経済政策も、まだその結果はわからない。安倍政権の保守的な施策も、まだ憲法九十六条の改訂も、憲法改正の動きも、具体的ではない。それでもなぜ、これほど自民党が支持されたかといえば、一点しかない。
それは戦争が近づいた、という人々の予感である。戦争が間近だという感覚は、日本国民の大きな潜在力となって、人々をとらえていた。それは政治家たち、評論家たちが、考えている以上に国民に深刻化しているのである。日本国民は、内では戦争は避けるべきだという、「和」の民である。しかし、外に向かっては一致団結して守らなければならない、という当為をもっている国民であった。
それは尖閣列島の支那漁船の体当たり以後、民主党の無策ぶりだけでなく、自衛隊の防衛力にも疑念を抱き、それに対する早い対策を、人々が望んでいることを示している。自衛隊出身者が、高位で当選したのも、そのことを示唆しているようだ。
日本人は、その長い歴史で、常に外敵の支配を、恐れてきた。最初、日本が朝鮮半島で、百済の支援を行った「白村江の戦い」で敗北したあと、天武天皇から聖武天皇まで、国家を立て直し、大陸からの侵略に備えた。九州に防人たちが派遣された。そのための鎮護国家政策が取られたし、それがまた大陸文化と対抗する日本文化の構築につながった。そしてその安定の上に、三〇〇年余の平和な平安時代があったし、また国風文化の伸長があった。
次の大陸からの危険性は、やはり支那、朝鮮からであった。すなわち元と高麗の侵略である。十三世紀の弘安の役、文永の役に、備えた日本の強さは、神風が吹いただけではなかった。量的では圧倒されようとしても、その侵略を打ち倒す作戦を持てば勝てることを、学んだのである。また豊臣秀吉の大陸進出の試みがあった。文禄・慶長の役であるが、これを近代の歴史家たちは、無謀なものと片付けるが、これもスペインの侵略に備えて、大陸との連合体をつくろうとする試みであった、と取るべきである。すでにフィリッピンまで占領されていた、火急の事態であったのだから。
そして明治時代以降の、数々の戦争は、イギリス、フランス、ロシア、アメリカの侵略に対するやもうえない防戦がきっかけであった。そこには、一貫して、例え無勢でも、祖国を守るために戦わなくてはならない、という国民の共通意志を示していた。戦後の歴史家たちは、それを一部の軍部の先行のようにいうが、今回の選挙の意志表示と同じ、断固とした国民全体の意見であるのである。
その外敵からの戦争の予感は、実をいえば、あの東北大災害の津波の惨状の中で、国民は実感したものでもあった。その惨状が、戦争の記憶と結びついたのである。東北での自民党の圧倒的勝利は、例えば、仙台の戦後の伝統となっていた革新陣営の支配が、覆ったことでもわかる。東北では二万人の人々が、一度に死ぬことの恐ろしさを味わった。侵略されれば、このようになる、ということである。
ただ、この大災害は、別の大きな影響も与えた。神道の復活である。自然の力の大きさを、日本国民に実感させた。そうした実感は、自然信仰という、日本の伝統の神道というものを、生き返らせたのである。西洋思想、西洋宗教に相変わらず毒された、日本の伝統に鈍感な評論家、ジャーナリストが、捉えきれなかった日本の復活である(拙著『日本の文化 本当は何がすごいのか』育鵬社、参照)。東北の多くの神社が、津波から救われている、という事実は、自然と神道の調和を改めて感じさせたのである。
このことは、防衛へのあらたな日本の構想とともに、憲法に、戦後の宗教分離政策を払拭し、この神道を国民の共同宗教として、認知する必要性を感じさせている。改正憲法にも宗教条項を入れる必要性があるのだ。
こうして今回の選挙結果は、憲法における早急な国防軍の復活と、外敵に対する統一的な歴史観の形成が望まれたのである。支那だけでなく、北朝鮮、韓国の軍事力に対して、例え質的な力を述べても、その量的な力に、大きな差が出てきていることに、深刻な憂慮を示したといってよい。そこには明らかに核保有を含めた積極的な軍備保有の必要性を含んでいる。あれほど福島原発事故が、マスコミによって喧伝されたにも関わらず、原発容認の唯一の自民党が勝ったのも、こうした核の保有が、もっとも中国、朝鮮に対する必要な武器であることを、国民が秘かに支持した、と取らなければならない。
宗谷海峡を通過した中国艦船が、日本列島を一周する形で、航行したのは、選挙直前であった。その危険性をあらためて選挙の中で、国民は国会に警告したのである。