反日意識をつくりだしている元凶―――実はハーヴァート大学の歴史学者

反日の基本には、「歴史認識」の違いがある。韓国、支那の政治家たちは(国連事務総長まで)あたかも確信ありげに「歴史認識」を語る。「南京虐殺」にしても、「従軍慰安婦」の問題にしても、あたかも、それが確実なものであるように述べている。たしかに河野談話、村山談話が出て、日本が謝罪をくりかえしたことによって、既成の事実のようになってしまったが、日本では否定的見解の方が強い。この問題は、安倍首相が述べていたように、議論はまだ歴史家の間で続いており、元来、政治家の問題ではないのである。

韓国、中国の政治家たちは、自国の歴史家の見解をとっているのだろうが、この両国には、近現代史の、外国の人々を説得しうる国際的レべルの歴史家は、存在しない。従って、日本人には、この両国では、政治家の意向で、歴史はいくらでも変えられると見ている。歴史家の考察よりも、政治家が都合のいい歴史を捏造して、国民に押し付けている、と考えられるのだ。彼らの全体主義的な国家、共産主義体制が歴史を捏造しているのだと思われているといってよい。よく言われるのは、内部の不満のはけ口を、反日運動に向けている、ということである。

しかし、そうではないのである。

とすると、一体、その歴史認識を与えているのは誰であろうか。

私は、歴史家として、近現代史の本も幅広く考察するようにしているが、こうした歴史を書いているのは、欧米のマルクス主義的歴史家たちであり、とくに影響力が強いのは、アメリカのハーヴァート大学の歴史観だ、と指摘せざるをえない。

ハーヴァート大学は、アメリカの多くの政治家も出たところであるし、そこの見解が、 政治にも、大きな影響を与えていることは、国務省の見解でもわかる。ハーヴァート大学の認識が、そこに学ぶ学生からも流布し、「権威」として、政治家に伝わっていくのである。

「権威」に弱い、日本の東大を中心にした歴史学界もそれに従うことになる。この大学の「権威」ある見解が、中国も韓国にも(国連事務総長にも)伝わっているのである。

現代、出されているハーヴァート大学の歴史学(近現代史)、アンドルー・ゴードン教授の『日本の200年 徳川時代から現代まで』(森谷文昭訳、上下、みすず書房、二〇一三年)の本を開いてみよう。現在の歴史認識の問題となっている「南京虐殺」について、どう論じているか。

《20世紀をつうじて世界にくり広げられた、ぞっとするような大量殺戮の歴史のなかでも最悪の部類に属する大虐殺が、南京で進行していた。1937年12月半ば、日本軍は南京に入城すると、一般市民と降伏した兵士を狩り集めにかかった。それ以後1月末までの7週間のあいだに、日本軍は、こうして狩り集めたうちの何万人もの人々を虐殺し、あらゆる年齢層にまたがる無数の女性を強姦した。南京大虐殺の規模が実際どの程度であったかについては、今日なお論争がつづいていること。一部の日本の歴史家たちは、虐殺の被害者数はおそらく4万人程度だと「低く」見積もっているが、中国政府は30万人が殺害されたと主張している。被害者の数字が、多くの人にとって妥当と思われる範囲に落ち着くことは決してありそうにないが、日本兵が残虐行為をはたらいたことは否定できない。

この大虐殺がなぜおきたのか。その原因を解明することは、被害者数について意見の一致をみるとおなじくらいむずかしい。前線の兵士たちが、苦しむ戦闘の果てに南京にたどり着くまでの過程で苦々しい思いをつのらせていたことは疑いない。日本兵は、中国兵と民間人の見分けがつかないことに苛立ち、ゲリラの攻撃を恐れていた。日本兵が服していた軍紀も残忍なものだった。世界各地の兵のような条件の下におかれた兵士が、自制心を失って激しい攻撃的・発作的な怒りを民間人や武装解除された敵兵にぶつけて発散させることがありうるということは、悲しいことであるが、驚くにはあたらない。近代の戦争の歴史をみれば、そのような例は幾多もある。

もっと大きな謎、そしてもっと大きな犯罪は、南京の日本軍の最高司令部が、何週間にもわたって一斉検挙、強姦、殺害を、つづくままに放置したことである。東京の当局者たちもおそらく状況については知っていたはずなのに、部隊を抑制するための断固とした措置を一切とらなかった。おそらく、南京の日本軍上層部も東京の上層部もともに、有利な条件での和平をとりまとめられないことに苛立って、このような虐殺を見せしめにすれば、中国側の抵抗の意欲を潰せる、と期待したのかもしれない。もしそうだとすれば、かれらは残虐だっただけでなく、はなはだしい見当違いもおかしていたことになる》。

具体的な事実認定の誤りを指摘する前に、ゴードン教授の論理の展開がおかしいことを述べておこう。まずのっけから《ぞっとするような大量殺戮の歴史のなかでも最悪の部類に属する大虐殺が、南京で進行していた》と述べる。読者を驚かす言い様であるが、彼は正直に、《この大虐殺がなぜおきたのか。その原因を解明することは、被害者数について意見の一致をみるとおなじくらいむずかしい》と、次の段落で述べている。松井石根大将がいかに、南京攻略にあたって、規律に気をつけたかも、知っているはずである。つまり、ゴードン教授はこの事件が、不可解であり、多くの否定論者のいることを知っているのである。それなら、その意見を、注意深く聞くべきなのに、それなしに、全面的に、事件があったことを事実のように述べる、元来の反日イデオロギーの持ち主なのである。

この事件が、四万人から三十万人の数が特定しないだけではない、事件があったかどうかさえ、特定されていない。この事件は、日本の当時の資料からは、一切、状況を伝える文書はない。もみ消したと彼らはいうだろうが、南京に入った新聞記者一二〇人や従軍文士たち(石川達三、大宅壮一、西条八十、林芙美子、小林秀雄、その他多くの文士がいたが、何も伝えてない。戦後、朝日新聞の本多勝一氏ら一九七〇年代になってこれを言いふらしたが、当時の朝日新聞の記者もまた、何も語っていなかった。《南京の事件ねえ。私は全然聞いていない。もしあれば、記者の間で話に出ているはずだ。記者は、少しでも話題になりそうなことは話をするし、それが仕事だからね。噂として聞いたこともない》と朝日の支局次長が述べていたのである。朝日の編集局長、細川隆元氏も、南京に特派した記者を集めて、虐殺の有無を聞いたところ、異口同音にそれを否定した、と戦後、回想している。

これを最初に報道したとされるのは、『マンチェスター・ガーディアン』の中国特派員ジョン・テインバリーであった。しかし彼が述べたものをまとめた『スマイス報告』でさえ、南京市内で人的被害が二四〇〇人である、と言っている。しかも、これらも「反日工作」の意図で書かれたものである。それも、軍服を脱いだ便衣隊を、摘発したことが、この「南京虐殺」の誤報のはじまり、と多くの日本の研究者は考えている。

事件が捏造されたのは、OSSの戦時敵対文書をまとめた『平和と戦争』(一九四三年発行)であった。これは戦時中の反日プロパガンダの文書であって、何の明らかな証拠があるわけではなかった。この文書によって、後の日本の戦争犯罪を成り立たせようとしたのである。有名な話に、毛沢東は、一切「南京虐殺」を知らなかった。事件がなかったのだから当然である。

こうしたことをゴードン教授が知らないというのは、おかしなことだ。この歴史家が、史料について、忠実に当たることを怠って、表面的な本だけを読んでいる証拠でもある。しかしこうしたある反日のイデオロギーを持ったハーヴァート大学の「権威」ある本が流布しているかぎり、世界の反日の歴史認識は改まらないであろう。

私たちは、昨年、国史学会を立ち上げた。こうした歴史認識に、学問的に論破するためである。既成の学会がやれないからである。同学の士を募っている(『日本国史学』第三号、九月末、竹田研究財団発行、参照)。

ゴードン氏の研究者としての怠惰ぶりを示すのは次の件である。《そしてもっと大きな犯罪は、南京の日本軍の最高司令部が、何週間にもわたって一斉検挙、強姦、殺害を、つづくままに放置したことである。東京の当局者たちもおそらく状況については知っていたはずなのに、部隊を抑制するための断固とした措置を一切とらなかった》などと書いている。

しかしこれも、松井石根大将がいかに、南京攻略にあたって、規律に気をつけたかを、全く無視しているのである。松井大将は、南京攻略に際し、次のような命令を出していたのである。

《(一)部隊の軍紀風紀ヲ特二厳粛二シ支那軍民ヲシテ皇軍ノ威武二敬仰帰服セシメ苟モ名誉ヲ毀損スルガ如キ行為ノ絶無ヲ期スルヲ要ス

(二)別二示ス要因二基キ外国権益特二外交機関二ハ絶対二接近セザルコト 外交団ガ設定ヲ定義シ我軍二拒否セラレタル中立地帯(引用者注、難民区のこと)二ハ必要ノ外立チ入リヲ禁ジ所要ノ地点二歩哨ヲ配置ス 又城外二於ケル中山陵其他革命志士ノ墓及明孝陵二ハ立入ルコトヲ禁ズ

(三)掠奪行為ヲナシ又不注意ト雖モ火ヲ失スルモノハ厳罰二処ス 軍隊ト同時二多数ノ憲兵、補助憲兵ヲ入城セシメ不法行為ヲ摘発セシム》(「南京城攻略要領」)。

つまり殺人行為、掠奪行為など、禁を犯した者は厳罰に処す、と書いてあるのである。無論、ゴードン氏は、こうした規律が守られなかった、といいたいのであろう。それなら、その事実があったということを、当時の史料から証明してみるべきであろう。しかしそうした一次史料にあたるという気配は全くない。

日本側が、東京裁判の判決文を認めたから、と言うなら、それは占領下の強制であり、それは何ら弁論が認められない不当な裁判だった、という他はない。一方的な勝者の捏造事件である、いう他はないのである。そうした状況を理解出来ないような、このジャポノロジストは、日本の史料をあつかう能力のない研究者ということになる。

又、ゴードン氏は、朝鮮女性の強制連行について、次のように言っている。

《何千もの若い朝鮮人女性が、アジア全域に送りこまれて日本人兵士への性的奉仕を強制された》(四五三頁)。つまり強制連行があったことを、何ら注釈なしに認めているのである。強制ではなく、志願だった、ということは、台湾人の男性にたいしてだけだった、という。

いわゆる「従軍慰安婦」問題を、ここで肯定しているのだが、さすがに「二十万人この従軍慰安婦」という非難は、戦後の捏造であることに気がついているらしく、使っていない。それなら、強制連行ではないことも認めるべきであろう。徴用はあったが、強制連行ではないのである。その言葉の違いさえわからないのなら、この研究者は、日本語がわからない、ということになる。

《1945年にアメリカは、日本を非軍事化してその指導者たちを罰するだけにとどまらず、もっと多くのことをなしとげようと狙っていた。アメリカは、日本もふくめて全世界を、みずからの姿に似せてつくり変えようとしていた。この精神に立って、GHQは1945年秋から46年にかけて、一連の改革を矢つぎ早に打ち出した。それらの基礎にあったのは、つぎのような単純な論理だった。独占と、圧制と、貧困が、軍国主義を生んだ温床だ。したがって、平和で非軍事的な日本を建設するためには、軍隊を解散させるだけでは不十分である。権威主義的な政治支配を打破し、政治的権利、そしてさらには富を平等化し、価値観を変換するための広範な改革を必要である、と》四九〇頁。

ここでアメリカによって、日本の戦後改革が行われたことが書かれている。これが、アメリカが《みずからの姿に似せてつくり変えようとしていた》と述べられているが、はたしてそうであろうか。当時のアメリカは、決して戦後の自由主義のアメリカではない。

それはルーズベルトが、ソ連を擁護し、その政府の中に、多くのソ連スパイを擁していたばかりか、その政策も、社会主義的なものであったことを、無視しているのである。《独占と、圧制と、貧困が、軍国主義を生んだ温床だ》などという《単純な論理》は、まさにハーバート・ノーマンなどの共産主義者(後でマッカーシーに告発される)の日本社会分析によるものであって、単に民主主義化するとか、近代化するような論理ではなかったのである。

ゴードン氏は、天皇の処遇に関して、《占領を開始した時点では、天皇の処遇をどうするかまだはっきり決まっていなかった》と言っているが、少なくとも、先ほど触れたOSS文書で、すでに一九四二年に段階で、決められていたのである。この文書は、ここ二十年の日本の近現代史研究に欠かせない重要記録である。このOSS(Office of Strategic Services)の文書の発見を、全く無視しているのは、いかにこの学者が、不勉強であり、客観性を欠いた視点で語っているかを示している。

一九四二年六月の段階で、すでに天皇を、戦争責任で、断罪しないことを決め、すでにマッカーサーにも通達していたのである。この諜報組織(戦後はCIAに変わった)は、そこに多くの社会主義者を擁し、そこにソ連派だけでなく、ドイツから亡命のフランクフルト学派、社会変革の論者を含んでいた。日本の戦争遂行を、軍部の独走として、国民と切り離し、責任をすべて軍国主義に帰して、かれらの孤立化をねらったことが、OSSの文書で明らかになっている。その論理が、民政局の憲法草案の際に、重要視され、憲法そのものも、ケーデイス、ラウエルらによって、日本の福本イズムの信奉者鈴木安藏などの二段階革命論の草案を取り上げ、そこに盛り込んだのである。

ゴードン氏はまた、東京裁判が、決してニュルンベルク裁判とおなじ「人道に対する罪」がなかったことに、触れていない。東京裁判は、ユダヤ人の殲滅をねらった「人道に対する罪」は日本軍部に対して存在せず、ただ戦争を遂行した「平和に対する罪」と、戦時中の「殺人・虐待などの戦争犯罪」に対して下された、勝者の裁判であったのだ。多くの歴史家たち(その多くはユダヤ人歴史家たち)は、日本が、日独伊三国同盟を結び、反ユダヤのナチ・ドイツに加担したといって、日本を同罪としたがっているが、日本にはユダヤ人殺害の「人道に対する罪」がなかったのである。「南京事件」はそれに値しない、事件に過ぎなかったことも無視している。

この学者が、ユダヤ人であるかどうか、筆者は知ろうとも思わない。しかしハーヴァート大学の六割はユダヤ人学者であることは知られている。ユダヤ人の連帯の思想をもたなければ、この大学で教えることが出来ないとさえ言われる。彼らが、近現代史を、反ナチ主義で徹底させ、ナチ・ドイツに組した国家、思想を糾弾することを一貫させている。そうしなければ、歴史修正主義として非難する。

ドイツと同盟した日本は、ドイツ同様に非難し続けなければならない。彼らと同罪であることを、繰り返し主張する。「南京虐殺」とか「従軍慰安婦」は、その材料になる。『ニューヨーク・タイムズ』などのジャーナリストと連動して、それを宣伝してきた。反日の白人至上主義者、キリスト教至上主義者の保守的歴史家もまた、それに呼応している。アメリカに、歴史的に捏造しようとする歴史家が多数生まれることになる。まさに彼らこそ歴史改竄主義者たちであることは、このゴードン氏の論調でもわかることである。

著者アンドルー・ゴードン氏は、で、近年、この本は日本近現代史の代表的書物と評価されているものである(この本は二〇〇二年初版)。この新版が、二〇一三年に出版されたので、この書評欄で取り上げるにふさわしいであろう。例え学者の意志が「権威主義」批判となっているとはいえ、この学者のこの本が、近現代史の「権威」となっていることは、皮肉な事態といっていい。左翼学者のいつもの矛盾を体現しているような本であるというべきだ。ハーヴァート大学に、多くのアジアの学生も学び、その教授が「歴史認識」の「権威」となって、世界における歴史認識になってしまうことは、学問が一見、中立を装っているだけに、厄介なことである。

この歴史家は、日本を他の国と同じように見ることを心がけている。

《「日本的伝統」は、ときには進歩の前にたちはだかる障害とみなされたこともあれば、ときには、世界にむけて見習うべき模範として提示されたこともあった。しかしアメリカ人が特殊「アメリカ的な生き方」と定義し守ろうとしてきた(そして現在もそうしつづけている)とおなじように、そしてまたフランスであれ、中国であれ、あるいは地球上でどんな場所であれ、そこに住む人々がそれぞれの「独自の」特徴を主張し守ってきたのとおなじように「日本らしさ」や「日本的なもの」を特定し守ろうとする強い関心も、日本における近現代史をつうじて存在しつづけてきたのである》xxix頁。

一見、客観的な視野に立っていることは、こうした序文の書き方でもわかる。日本の独自性などというものも、アメリカ、フランス、中国など、各国が、それぞれ「独自」の特徴を主張するものと同じなので、取り立てて主張すべきではない、というのだ。何も「日本らしさ」や「日本的なもの」をとりあげる必要がない、という態度である。著者は、学界の風潮の「多文化主義」に立とうとするジャパノロジストということになる。

しかし筆者がいうのは、ジャポノロジストであるかぎり、こうした態度は、不正直だということである。つまり学者として、研究対象を、日本の歴史としたときに、その学者が、日本のどこに注目したか、なぜそれを選んだか、が問題とされなければならない。学者によって日本の歴史のどこに評価がなされたか、ということである。評価もせずに、すべて否定的にしか日本に関心をもたない、というなら、何のための研究なのか。そんな対象ならやらない方がいい。つまり外側からではなく、踏み込んで内側から肯定的に見る目をもっているのが、専門家というものである。

よく欧米の学者に、一流の学者が、欧米史をやるので、ただ大学教授になりたい者にとって、優秀なものがやらない日本学を対象にする、といった例を幾度も聞いている。英訳のある日本の学者の本を適当に翻案して本を出すような二流学者が多いことは、知られていることだ。日本学は凡庸な学者のたまり場所のひとつとなるのである。しかしハーヴァート大学ぐらいになると、そうはいかないだろう。日本のどこに欧米史と異なる魅力があるか、を語らなければ、ジャポノロジストの意味がないであろう。「多文化主義」では、その特色が打ち消されてしまう、凡庸な議論とならざるをえない。