再考・戦後がどういう時代であったか――「OSS空間」からの脱却

「戦後レジームからの脱却」は、安倍政権の確立によって、加速している。

憲法はいまだ変わっていないが、しかしそれに対する見方は、変わって来ている。まず憲法が発布されたとき、それに対する批判は禁じられていたことが知られるようになった。第21条に「検閲はこれをしてはならない」と、憲法自身に書いてあることに気をとられて、その憲法自体への批判も可能であったかのように錯覚していた。しかし憲法批判に対し、絶対的検閲がほどこされていたのである。

まるでこの憲法に対して批判もなく、国民が、こぞってこの憲法を支持したかと思わせられてきた。新聞、ラジオ、その他の報道機関が、みな自主的に憲法を支持したようにされたのである。憲法発布の時期に、言論弾圧されていたのを知らず、子供を「憲一」などと名づけた親も多かった。日本人は、こうした言論操作にあまりに無防備であった。1942年に創設されたアメリカOSS(戦術局)の「日本計画」の成果であった(拙著『戦後日本を狂わせたOSS「日本計画」』展転社)。

またこの憲法の内容も、「民主主義」憲法ではなく、「社会主義」憲法であることも、批判されないように統制されていた。アメリカでさえなかった権利を、平気で日本国憲法では押し付けていた。22歳の左翼ユダヤ人女子学生が、日本国憲法の女性の権利の条項を書いていたのである。その成立過程からも、それをつくり出したやはり左翼ユダヤ人・ケーディスら民政局の動向からも、これが社会主義憲法であることは明らかである。それを「民主主義」と取ったのは、二段階革命路線の一段階目であったからである。あたかも、単に市民憲法であり、社会主義ではないかに見せていた(私がアメリカ人といわず、左翼ユダヤ人というのは、マルクスを初めとするユダヤ人の思考は、アメリカ人の思考とは異なる観点があるからである。人種差別からではまったくない)。

アメリカ政府が内部の左翼性に気づいたのは、2年後に民政局左翼の連中を追い出した時点であった。だが、それまでに5大改革がすべて実行され、日本人の分裂とモラルをうち壊す東京裁判も続けられた。すべて後の祭りであった。OSSは、CIAに変わったときは、すでに改革済みであったのだ。「OSS空間」がつくられていたのである。

<憲法批判派は「非国民」だった>

問題は、占領軍のその弾圧体制が解かれた後も、その体制を、日本人が自ら維持してしまったことである。それだけ体制変化を巧妙に行なれた。憲法制定だけでなく、財閥解体、農地解放、神道指令、公職追放、教育改革は、「民主化」以上で第一段階の「革命」を目指していた。その憲法を批判することは、あたかも戦後のレゾンデートルを批判することだ、と思わせた。利得者であった左翼は徹底的にそれを利用した。マスコミだけでなく、教育機関の左翼化が、日教組、大学の教員、多くの官僚に浸透し、その方向で動いたのは衆知のとおりである。

私は、戦後のこれを、保守が、日本の「左翼化」「朝日新聞化」と呼ぶよりは、「OSS空間化」と呼ぶことにする。つまりOSSの「日本計画」が、GHQの下で、日本を階級分裂させ、軍部批判を起こし、「社会主義化」させようとした最初の計画であったからである。

OSSは明らかに、共産党の野坂参三に、政権を取らせようと画策をした。一方で、OSSは中国で毛沢東を、政権につかせることに成功させた。一般にアメリカは蒋介石を支持したと言われるが、実はそうではないのである。この2人が、同じ延安にいたことは不思議は符号であった。

日本の戦後が、「社会主義」の国だ、と言われたことも、記憶にある方も多いであろう。ソ連や中共よりも、平等社会が徹底し、すべてが中間階級だ、と感じるようになった。冷戦体制下、アメリカの反共となり、「自由主義」へ方向転換したし、朝鮮戦争による特需景気によって、日本が経済的に復興した。しかしその憲法による思想的統制体制は続いたのである。憲法を少しでも批判すれば、マスコミにより非国民あつかいにされたのも記憶に新しい。

資本主義国に、社会主義憲法という不可思議な状態が、70年近くも続いたことになる。そうした齟齬の状況に耐えてきたのは、実をいえば日本人の、憲法の言葉への別の解釈を行なってきたから、と言わざるをえない。憲法を、あたかも戦後の理想のように思わせられたが、実は、人々の多くは、その条文の嘘を感じとっていたのである。つまり、言葉とは「ことの葉」「事の葉っぱ」であって、たとえもっともらしく書いてあっても、事実と乖離していれば、事実が優先する、という感覚である。日本人の、柔軟な言語観が、別の憲法解釈を可能にした、ということである。

<日本の左傾を食い止めた伝統精神の力>

例えば日本人は、憲法9条の軍隊を禁じた条文を、別様に解釈して自衛隊という軍隊をもった。条文には軍隊は「国際紛争を解決する手段としては、永久に放棄する」と書かれ、これは論理的文面からいえば、外国の侵略を防ぐことができないなら、一切の軍隊を持てないことになるが、「自衛のために」なら可能だ、と取って自衛隊をもった。

言葉は生き物で適宜、解釈し直せる、という日本人の言葉への柔軟性が、皮肉にも日本国憲法の改正という厄介な手続きを遅延させてきたという一面もある。それを無理して行う必要がない、という怠惰にもつながった。

しかし「OSS空間化」が続いたのは、マスコミや官僚によるものであったが、幸い、彼らは政権を取る力はなかったから、中国のような粛清や暗殺は行われなかったし、「自由」があったのである。最も重要なのは、国民の資質、国民の心性が、彼らのイデオロギーそのものを受け付けなかったことである。OSSの戦術、そこから生まれたGHQの改革にも関わらず、それで精神的に変革されるような日本人ではなかった。その伝統の力、柔軟性、勤勉さは、自然の道を尊ぶ日本の伝統の神道によるものだ、と私は分析している(拙著『日本の文化 本当は何がすごいのか』育鵬社、ほか)。

むろんこうした憲法のあり方から、これを廃棄することがよいに違いないが、それが簡単には出来なくても、今や衆参院両方で3分の2の多数を取って、改正することも可能になってきた。昨年から今年にかけての民主党政権崩壊に示される「社会主義」政党の、復元不可能なほどの少数政党への転落は、彼らの「社会主義」化の本質、「OSS空間化」の恐ろしさを、国民の圧倒的多数が理解し始めた結果であるといえよう。新しい日本国憲法の制定は、参院の次の選挙の半数改選で、決まるであろう。

これはたしかに中国の尖閣諸島の領有権主張のおかげであると言える。つまり、日本国民は、中国や北朝鮮による脅迫に対して、真面目に対処しようと決意し始めたのである。これまでの日本の秘かな「社会主義化」によって、ソ連や中共、北朝鮮の批判を恐れていたが、事態は変わった。直接、中共の侵略戦争の匂いを感じたのだ。

つまり、ソ連崩壊だけでなく、中共の腐敗、北朝鮮の拉致問題などと共に、新しい歴史教科書運動に端を発する、歴史認識が、この尖閣問題の中共の態度で、明確にされるようになった。「OSS空間」からの脱却である。イデオロギーの言葉に惑わされたことを悟った国民が多数を占めるようになり、それが3分の2にも達することは間違いない。