高天原は関東にあったーー鹿島神宮とタケミカズチの神の研究

拙著『本当はすごい!東京の歴史』(ビジネス社)が発行されました。これはもともと関東に、高天原の勢力があったことからはじめて、その高天原が富士山を想定したもので、それに守られて東京の重要さを説いた、ユニークな東京物語です。すでに、「この本をよむことで、東京に誇りをもつことが出来ました」という手紙を頂いています。その基本となった論文をここに掲載します。「高天原は関東にあったーー鹿島神宮とタケミカズチの神の研究」(『日本国史学』3号、平成24年9月発行)です。

はじめに 『紀記』の記述と考古学

明神谷遺跡の三百五十八本の銅剣、加茂岩倉遺跡の三十九個の銅鐸の発見という、出雲地方における戦後最大の考古学的発見は、それが数の多さ、その遺跡の位置の明確さによって、出雲の「国譲り神話」という『記紀』に記された神話の記述を裏付ける意味をもっていたことが判明した。それはこれまで、天照大御神の国と大国主命の国、ヤマトと出雲、天津国と国津国の、「国譲り」の事実を、何らかの形で跡づけることになった。

また、出雲大社での新たな発見は、巨大な柱であった。平成十二年、出雲大社の本殿遺構の柱材として、杉の大材三本を合わせて一つの柱が見出されたのである。一本が百十センチもある柱が三本も束められており、それが三m以上の巨大な柱となる。

現在の出雲大社でも、本殿の高さが、二四、二メートル(八丈)あり、他の神社よりはるかに雄大な社殿であるが、柱が一丈あったという記録に合致するとなると、これが藤原時代、四八、五メートル(十六丈)あった記録を本当であったと思わせるし、大和朝時代には、九八メートル(三十二丈)あったかもしれないことを、推測させるのである。その社殿にのぼるため長い階段を数百段のぼらなければならなかったことになる。

しかし、五十メートルは信じられても、百メートルの社殿は想像をはるかに過ぎていることから、社殿背後の八雲山を神奈備(神の鎮まる森)として表現したのではないかという説もある。この五十メートルの社殿が、平安中期から鎌倉初期の約二百年間に、自らの重さに耐えかねて七回も倒壊している、という記録は、今度の発見がいかにリアリテイがあるかを、感じさせる。

いずれにせよ、この巨大柱の発見が、いかに重要であったかは、大国主命が、「国譲り」の代償に望んだところの神殿の実在性が、明確になったことである。「国譲り神話」が、歴史的事実であったことは、これまでの津田左右吉の『紀記』否定説が覆える有力な事実である。このことによって、考古学者、神話学者が共同して、日本の歴史を探りあてる前提が、出来たと言ってよい(1)。

そしてもう一つ、『古事記』に書かれていることが、現在の出雲大社の本殿に、あらわされていることが判明した。これまで本殿の神座が、なぜ西向きであることか、という謎が、わかったことてある。それは、鹿島神宮と出雲大社の神座の共通性が見出されたことによる。

鹿島神宮の参道が西から東に向かっているのに対して、その社殿が、なぜか北向きに建てられていることである。つまり、長く続く参道の中ほどに、本殿が横向きに建てられている。本殿前から奥宮につづく奥参道と、本殿までの表参道が西から東へ一本の直線となっているののに関わらず、である。この鹿島神宮について書かれた『当社例伝記』に、その北向きの御殿について書かれている。

《開かずの御殿と曰(い)うは、奉拝殿の傍に御座(ま)す、是則(すなわ)ち正御殿なり。北向に御座す、本朝の神社多しといえども、北方に向いて立ち給う社は稀なり、鬼門降伏、東征静謐の鎮守にや、当社御神殿の霊法かくの如く、社は北に向ける、其の御神躰は正しく東に向い安置奉る、内陣の例法なり》(2)。

社殿は北向き、神座(御神体)は東向きであり、しかも中央でなく南西の方に、おかれているのである。鹿島神宮の宮司であった東実氏は、この配置、内部構造は、出雲大社の内陣と共通するものだ、と述べる(3)。

たしかに出雲大社の御本殿では、御神座が建物正面の南向きではなく、東の方にあって西を向いている。西向きと東向きと異なるにせよ、御神座が、横向きであることは変わりはない。つまり、鹿島神宮の御神座は、太陽の出る東に向き、出雲大社の方は、鹿島神宮の位置の東から西を向いているのである。横向きに御神座が、この二つの神社の歴史的つながりにもとずく、という事が出来る。

これまで出雲大社の説明では、この横向きの御神座が、出雲大社が特殊である、と述べるにとどまり、これが鹿島神宮と対応させたものとは言わない。そして、この類似は、神話に即して述べれば、高天原から遣わされた天孫民族の使者が、出雲族の支配者である大国主命に、最後に「国譲り」を決意させ、その代償として高天原の宮殿である天日隅宮と対応させて同じように造ったとすると、腑に落ちるものがある。

この鹿島と出雲の共通の形式は、この二社が、神武天皇即位以前のこと神々を祀るものであり、しかも建御雷神みずから本源と定められた鹿島の地において、古儀として、数十度以上の造営および遷宮にも厳守されてきた内陣の作法として、つくってきたものである。そして、この住居の性格をもつ内陣の作法が、度重なる外形修理による変化にも関わらず二千余年厳守されてきたことが、出雲大社との類似でも、推測される事実なのである(4)。

このことに符号するのは『古事記』の記述である。そこには、大国主命の住む社は、高天原の宮殿である天日隅宮をそのままに、大きくおごそかに造り、さらにまた、橋や船なども造ろう、書いていることである。

現在の出雲大社は、杵築の宮と呼ばれ、その社殿は、大社造りとして、高天原の天日隅宮の面影を、はるかな神代の昔から現代まで伝えている、ということになる。この最初の社殿が建御雷神たちによって造られたのはいうまでもない。そして、その社殿内陣の模様が、鹿島に対応する形で、秘めやかに造られたことになる。

建御雷神(たけみかずちのかみ)の天日隅宮こそが、大国主命の出雲大社の原型となったということは、建御雷神が、この鹿島にいた時代においては、まだいわゆる天孫降臨と伝えられる前の時代に、この東国で、社殿形式の原型が、確立していたことを示している。それと同じ様式でつくる、という出雲大社の実在性とともに、この鹿島神宮の、それ以前の実在性を、明らかにするものである。つまり、建御雷神は、出雲大社創立の主宰者であった大国主命とともに、実在した人物を神話化した可能性が大変高くなった。

この鹿島神宮の神殿のつくりが、伊勢神宮に見られないことは、大和民族が、天孫降臨に農耕文化を身につけて、倉庫型式から発展させた唯一神明造り(伊勢神宮の社殿形式)を完成させた時代より、ずっと以前のことであることも、明らかにされた。

『鹿島神宮誌』のなかで、造営のところは、次のように書かれている。

《当神宮は神武天皇の御即位の年に創祀されているから、その時に社殿もできたと思われる。しかし、それ以前にも神子神孫が奉斎していたであろうから、社殿ももっと前からあったと思われる。しかし、いずれにせよ太古の家屋は簡素で久しくはもたなかったであろう》(5)

造営修理の記録としては、天智天皇の時代に始めて出てくる。『常陸国風土記』に、《淡海大津朝初遣使人造神之宮。自爾以来修理不絕》(淡海大津朝(天智天皇)がはじめて使いの者をつかわし神の宮を造った。これより絶えず修理している)と書かれている。ここに《初めて》とあるが、東氏は、始めて造営を行なったというのではなく、始めて使人を遣わしたということである、と述べる。太古の時代は交通も容易ではなく、従って造営もその土地の人に任せたのであろう。それを天智天皇の御代になり、始めて使人を遣はして造営せられたというのである(6)。

この絶えず修理している、という言葉に中に、出雲大社が六十年に一度、造替遷宮をすることや、現在伊勢神宮で、二十年に一度の遷宮が行われていることを、思い起こさせるものである。掘立柱、草(カヤ)葺屋根の限度が約二十年というところにも原因があるのだろうが、東国の鹿島神宮に、遠くの都から、修理の使いを送っているのである。この原初の鹿島神宮を思わせるのが、その鳥居である。

その鳥居は、材料が貫(ぬき)をのぞいては、表皮をむいただけの加工しておらず、笠木は太い方を左側(外側から見て)にする類例のない建て方で、表皮をむいただけの原始性から考えて、やはり最初の社殿(宮室)は表皮をむいただけのものであったかもしれない。

《真木柱(まきばしら)妻手に仕え奉りて神の社と・・》と述べられ、表皮をむいた柱を掘り立てて、という柱はじつは相当太いもので、社殿も豪壮なものとなるはずである。この鹿島神宮も、最初は大変、大きな神宮であった、と考えらるのだ。

出雲大社の方が、一mの柱を三本まとめて三メートルの柱を作り上げたことが、判明したが、さらに昔の、人為的に伐採されない弥生時代の自然林では、木の平均年数は驚くほど高く、おそらく、三mの直径の材木が、あったとのかもしれない。

以上のような考古学的発見と、建築上の類似は、『紀記』の記述の信憑性を、私たちに喚起するものである。ここで、もう一度、『紀記』を、歴史と合わせながら、再検討するべき時が来た、というべきであろう。

ところで、この『紀記』を読んで、三つの重大な欠落の意味を問わなければならない。その一つは、この『紀記』の、東国の記述の少なさである。例えば、神武天皇の東征、といっても、その東征は、九州からみた東、つまり奈良、大和までの統一が語られ、中部以東、関東、東北の、日本の三分の二の領域の統一のことが、まるで無視されている。これは東国が、蝦夷地であり、僻地として考えられ、後に、ヤマトタケルが東征して、この地をヤマト政権下においたことになっている。しかし、鹿島から出たタケミカスチの神の、大国主命に国を譲らせたことを考えると、神武以前は、東国の方が力が強かったことを思い起こさせるのである。

二番目に、『紀記』の記述に、東国が少ない上に、富士山が出てこないことである。ヤマトの存在、三輪山の信仰のことが述べられるが、東国の富士山については、記述がない。『万葉集』で詠われており、人々が知らないはずがないのだが、なぜか触れていない。このことから、神話には、東国のことを触れていないことと、富士を語らないことは、何か符号するものかもしれない。

三番目に、『紀記』が、天皇の歴史を描いているにも関わらず、前方後円墳についての記述がないことである。三〇〇メートル以上の大型古墳が七基、一〇〇メートル以上の古墳が三〇二基もあるし、全国で二十万基とも言われる古墳の記述が欠けているのである。このことが、現在、天皇陵として認知されなくなった原因にもなっている。仁徳天皇陵などは延べ六百八十万人もの労働力を要したという現代の建設会社の概算もあるのに、それが国家的大事業ではないはずはないのに、その工事について触れていない。

時間的、空間的に、触れてよいはずの、事柄が、語られていないことは、逆にそれが意図的なものであると考えられる。私は、形で表現されているものは、日本人の習慣として、それを文字として残さない、と述べた(7)。また、その理由に、それが触れられることによって、神話的世界が、つまり、聖なる場所の崇高さを、壊される、という意味合いがあったのかもしれない。そうなると、関東を語らないことは、そこに聖なる場所があった、ということになる。富士山も、墳墓も、聖なる信仰の場所であったからである。、語ることは、ひとつの聖なる世界を穢される危険性を持っていることに、記述する忌避の念をもったとも考えられるのである。

私はそのことの意味を問いながら、『紀記』が沈黙した歴史的事実を、考察していこうと思う。

1 日本神話におけるタケミカズチの重要性

東国の記述が少ないことの中で、注目されるのは、鹿島神宮のタケミカズチ(これ以後、建御雷神)のことである。この神は、高天原の天照大御神の命で、大国主命の中津国に派遣されて、「国譲り」をさせる役割を見事に成功させた。ところがこの神について、その貢献の割には、その背景が余り語られていないのである。現在のさまざまな神話研究の中でも、東国を統一した神としてヤマトタケルの方が語られ、神武天皇以前の、日本の統一したこの、建御雷神が、なぜか無視されているのである。

また、十世紀の『延喜式』で、伊勢神宮と並んで、神宮と呼ばれるのは、鹿島神宮と香取神宮だけであり、その重要さが、全国的なものであるはずの、この東国の二神宮が、余り研究されることがない。基本研究としては、わずかに、すでに逝去された東実氏の『鹿島神宮』という本があるだけである。鹿島神宮累代の社家にあたる東実氏の著したこの『鹿島神宮』は、その意味でも、これまで歴史家、考古学者が、無視してきた、日本国史の欠落を、補う、極めて重要な研究といわなければならない。本研究でも、この本から多く引用させて頂く。 まだ、神武天皇が、国家統一をしていない時代、二大文化圏として栄えた高天原と出雲とを一体化させるの努力をしたのが、この建御雷神であった。建御雷神の前に遣わされた神々が失敗し、十年たってからのことであるから、なおのことであっただろう。

建御名方神との力わざにしても、武力ではないのは明らかで、いわば現代の相撲の始まりのような感じである。もし武力ならば出雲の勢力は、遣わされた建御雷神をはじめとする少数の神々を撃退するぐらいのことは出来たであろう。つまり、武力では何ともできず、圧力でもない。いわんや上すべりの弁舌でも、事はなしとげられない。ただ、真心と、道理と、勇気のみがこれをなしとげる力となるのである。

『日本書紀』はこのありさまを、次のように書いている。

《大国主神が、その子たちの言葉を伝えて二神にいうことは、「私が将来を託した子供は、すでに天神の言葉をかしこんでかくれました。この私もまたかくれましょう。けれども、もし、私があなたがたを防いだとしたなら、国の中の多くの神々もまた、かならずあなたがたに向って、私と同じように防いだことでしょう。いま私がこうしてかくれましたら、だれがあなたがたに向うでしょう。そのような者は一人としておりません。」

そういって、国をしたがえるときに使った広矛(ひろほこ)を二神に渡して、

「この矛は国をおさめるとき功労のあった矛です。もし天孫がこの矛を使って国を治めるならばかならず国がおだやかに幸せな国となるでしょう。」

この大国主命の言葉は、暗に武力ならば負けはしないという意味を含んでいるようである。すなわち武力では侵すことのできな一線を引いて国譲りをするのである。》(口語訳)(8)。ここで、建御雷神の背後にある、高天原の大きな力を恐れて、国を譲ったことにほかならない。その高天原の勢力が、大和に向うのである。

この大国主命の誠意に対して、高天原では次のように同じ誠意をもって応えている。『日本書紀』の一説を引用しておこう。

《「高皇産巣日尊(たかみむすびのみこと)は、経津主神と建御雷神のふたたび出雲の大国主神のところに派遣して、その言葉を伝えさせた。

《いま、あなたのいうことを聞いたが、ほんとうにその通りだと思う。そこでさらにくわしくいえば、あなたがいままで治めていたこの世のことは、私の子孫が引き継いで治めるかわり、あなたは神々の世界を治めていくように。また、あなたが住むことを希望している天日隅宮(あめのひすみのみや)は、いま造りはじめましょう。それは千尋(ちひろ)もの長い縄を使って百八十の紐に結び、その宮を造る規模は、柱は高く太く、板は広く厚く作りましょう。また供える食物を作る田も作り、あなたが海で遊ぶ用意に橋もいろいろ作り、鳥のように早く走る船も作り、高天原に通うため天安河にも打橋をかけましょう。またたくさんの縫い取りの白い楯も作らせましょう。そして、あなたをまつる宮への奉仕は天穂日命(あめのほひのみこと)という者にさせます。

この伝言を聞いて大国主神が答えた。

「天神のいわれたことは、非常にいきとどいて、もう何もいうことはありませんし、いわれるが通りにしましょう。私の治めていたこの世のことは皇孫におまかせして、私はもう引退して、あの世の神々のことを治めましょう。

そして、岐神(道しるべの神であり案内の神)を二神にすいせんした。

「この岐神が私にかわって、あなた方にしたがい、国々をご案内するでしょう」》(9)。

こうした話を通じて、平和に国を譲った大国主神に対して、いかに最大限の待遇をしたかがわかるであろう。この世は皇孫が治めるが、神々の世は大国主神にまかせるというのである。

このようにして、国譲りの大業は、相互に一人の殺された者もなく、理解と思いやりのうえて、無事に終わったことになる。

建御雷神は、単なる武力の強い神であるだけでなく、こうして大国主命と交渉に入る政治家でもあったことを示している。その使命は。日本国家の統一という、国という共同体を担っているのである。日本の確立はここに源を発しており、ここに神武天皇以前に、ひとりの重要な人物がいたことを示唆するのである。

この神は、さまざまな文献において、名前だけでも十近い数で書かれている。

まず『古事記』では、建御雷神、建御雷之男神、豊(とよ)布都神或いはであり、『日本書紀』では武甕槌神、武甕雷神と書かれ、『古語拾遺』では武甕槌神、『旧事本紀』では建甕槌之男神、建布都(たけふつの)神、豊(とよ)布都神ともされる。『続日本後紀』『春日祭祝詞』では建御賀豆智命と呼ばれる。『常陸国風土記』では 香嶋天之大神である。このように、さまさまな漢字の書き方があるが、元は『古事記』『日本書紀』のタケミカズチノカミの音から発生したものであろう。タケは、猛々しい意味で、それが建とも武とも書かれ、ミカズチは、雷の意味で、雷神のような自然神であったことを思い起させる。ここでは、『古事記』の漢字をとって建御雷神の名を使う(10)。

建御雷神は、どのような神であったか、ここで述べておこう。その誕生を神話は、次のように書いている。

イザナギ、イザナミの男女二人の祖神(おやがみ)が国々を生み、神々を生んだときに、火の神カグツチを生んだ。火の神であったため、イザナミの神が火傷(やけど)をして死んでしまった。怒ったイザナギの神が刀(名をイツノオハバリという)を抜いて火の神カグツチを斬り殺した。するとその血が湯津(ゆづ)石村(いわむら)というところになたれついて、そこに生まれた神々のうちの一人が建御雷神だった、という。

まず『古事記』では、次のように書かれる。

《かれその神避りたまひし伊耶那美の神は、出雲の国と伯伎の国との堺なる比婆の山に葬(おさ)めまつりき。ここに伊耶那岐の命、御佩(みはか)せる十拳(とつか)の剣を抜きて、その子迦具土(かぐつち)の神の頸(くび)そ斬りたまひき、ここにその御刀の前(さき)に著(つ)ける血、湯津石村(ゆついはむら)に走りつきて成りませる神の名は、石析斥(いはさく)の神。次に根析斥(ねさくの)神、次に石筒の男の神。次に御刀の本に著ける血も、湯津石村に走りつきて成りませる神の名は、甕速日(かめはやひ)の神。次に樋速日(ひはやひ)の神。次に建御雷(たけみかづち)の男(を)の神。またの名は建布都(たけふつ)の神、またの名は豊布都(とよふつ)の神。三神。》(12)。

『日本書紀』には次のように語られている。

《遂に所帯(はか)せる十握剣(とつかのつるぎ)を抜きて、(火の神)軻遇突智(カグツチ)を斬りて三段(みまた)に為す。此各(これおのおの)神と化成(な)る。復(また)剣の刃より垂(したた)る血、是(これ)、天安河辺(あまのやすのかはら)に所在(あ)る五百箇磐石(いほついはむら)と為る。即ち此経津主神(ふつぬしのかみ)の祖(おや)なり。復(また)剣の鐔(つみほ)より垂(したた)る血、激越(そそ)きて神と為る。号(なず)けて甕速日神(みかのはやひのかみ)と曰(まう)す。次に火速日神、其の甕速日神は、是武甕槌神の祖(おや)なり。亦曰はく、甕速日命。次に火速日命。次に武甕槌神。復剣の鋒(さき)より垂(したた)る血、激越(そそ)きて神と為(な)る。号(なず)けて磐裂神(いはさくのかみ)と曰(まう)す》(13)。

この両神話には、建御雷神が、イザナミから生まれたカクズチの血から生まれた、と書かれている。そして、火傷し死んでしまったイザナミは、《出雲の国と伯伎の国との堺なる比婆の山に葬(おさ)めまつりき》となった。イザナギは《美しい我が妻の命(みこと)よ。私はお前と作った国がまだ終わらないのが残念でしかたがない。ぜひ還ってくれないか》というが、イサナミは、黄泉の国の食事をしてしまったので、帰れないと応える。しかし他の神に相談すると述べたとき、《私を絶対に見ないで下さい》といった。しかしイザナギがその醜い姿を見てしまったので、追われ、やっと逃げ帰った後、禊をする。そのときに、アマテラスもスサノオもイザナギの顔の一部から生まれたのである。 このことは、建御雷神が、イザナギから生まれたアマテラスやスサノオよりも前の神で、先輩格の神であったことを意味する。大国主命はスサノオの後の世代であるから、さらに先輩格の存在であったと言ってよい。

『古事記』には、主神・建御雷神(鹿島神宮祭神)、副神・天鳥船神、と書かれ、『日本書紀』では、主神・経津主神(ふづぬしのかみ)(香取神宮祭神)、副神・武甕槌神となっている。『古事記』には、経津主神については、何も書いていない。『日本書紀』では、天鳥船神が欠けている。しかし、両書を通じていることは、主神にせよ、副神にせよ、建御雷神が間違いなく出雲に派遣されたということである。さらに別名としてあげたタケフツ・トヨフツを考えれば、武甕槌神と経津主神が同一神である、と考えることも出来るようにも思われる(14)。

この出雲の功績だけでも、日本神話上の功績として偉大であるが、建御雷神の行動は決してこれだけのものではない。出雲をあとにした建御雷神はどんな役割を果たしたであろうか。『古事記』は簡単に触れて、《建御雷神は、高天原に戻って、葦原中国(あしはらなかつくに)を説得して平和にしたようすを報告した》、と結んでいるが、『日本書紀』では、前述のように、岐神を経津主神、武甕槌神を推薦している。

《「この岐神が私に代わって、あなた方に従い、国々をご案内するでしょう》。

さらに本文の注には、《「この二神がついに邪神やさまざまな者をいさめて、みなおだやかにしおわったが、星神香香背男だけ残っていたので、倭文神(織物の神)の建葉槌命を派遣した。そこで二神は高天原に帰った》とあり、出雲より葦原中国を廻って平定したと述べられてある。葦原中国というのはよくでてくるが、これは高天原側が自分たち以外の国をさしている。もちろん出雲も葦原中国に入るが、その他の葦原中国はどこを指すのであろうか。

『日本書紀』の一説に、《天神が、経津主神、武甕槌神を派遣して葦原中国を平定したとき、この二神がいうのには、「天に悪い神があってその名を天津甕星、別名を天香香背男(あめのかがせお)という者です。まずこの神を平定してから葦原中国を平らげましょう」》と述べている。

この天香香背男は、常陸の大甕(おおみか)(現在の日立市大甕)を根拠地にしていた。せ武甕槌神によって派遣された建葉槌神(たけはづちかみ)は、静(しず)(茨城県那珂郡瓜連町静)の地に陣を構えて大甕の香香背男を討伐したと伝え、その遺跡が残っている、という(15)。

2 高天原はどこにあったか

『古事記』に書かれている葦原中国は、時代で分けると、イザナギ・イザナミ時代は高天原と対比される下界を指し、出雲の「国譲り」のころは出雲を中心に、建御雷神が出た常陸を除く全国を示し、天孫降臨時にはほぼ九州の日向のことが示唆されている。さらに時代が降って、神武天皇東征の折には、熊野を中心とした地方を指している。葦原中国が、概念的には、日本民族が理想を抱いて統一しようとする地方を、葦原中国とたとえたと考えられる。イザナギ、イザナミ時代が、ほぼ全国をさしているのは、全国が統一されたころに、この創世期の神話が成立したことを示すものだからであろう。

大国主命が山陰地方のみならず、山陽、近畿の地方まで治めていたことは、大和の大神(おおみわ)神社の縁起によって知られているし、大国主命が自分の幸魂(さきたま)奇魂(きたま)をまつり、国を治めたという有名な神話がある。

これによって、九州に天降るのに必要なのは出雲の地ではなく、瀬戸内海を通行するのに山陽近畿を治める大国主命そのものの平定が必要だったとも考えられるであろう。常陸は高天原に近いことから常陸がその天降りの出発点にかなったために平定の必要があったとも考えられる。

ここで考慮されなければならないのは、大国主命が、単に出雲地方の領主ではなく、神武天皇以前の、葦原中国を平定していたのではないか、ということである。その仮定をすれば、各地の大国主命系の神社の存在が、それを証明しているようだ。奈良の三輪山の大神神社が、大物主命が祭司であり、四国の金毘羅宮も大国主命が祭司でもある。また武蔵国には大国魂神社がある。関東に多いのは、須佐之男命と大国主命を共に祀る氷川神社が多数ある。大国主命が、祭司となっている神社が、全国にわたっていることは、建御雷神によって高天原系の神々によって統治される前の日本を、大国主命を戴いて、統治されていた、と推測することが出来よう。

これに対して、建御雷神の司る、高天原とはどこであったのだろうか。それはイザナギ、イザナミがいた高天原はどこであったか、ということの問題となる。

ところで、今残されている『風土記』の中で、唯一、高天原からの降臨を伝える神話は、『常陸国風土記』に書かれている。

《八百万の神を高天原にお集めになったとき、祖先神がおっしゃったことには、「今、わが御孫の命が、お治めになろうとする豊葦原の水穂の国」とおっしゃった。高天原から下っておいでになった大神の名は香島天の大神と言う。天においては日香島の宮と名づけ、地においては、豊香嶋の宮と名づける。(土地では豊葦原水穂の国を委ね申し上げようとおっしゃったときに、荒ぶる神たちや、また、石根、木立、草の片葉までもが話をし、昼はうるさく、夜は怪しい火が輝く国であるこれを従わせ平定する大御神とおっしゃったので、天下りなさって(皇祖神に)お仕え申し上げたのである。》(16)。

まず、鹿島という地名の起りの説として、甕島説(みかしま)(甕山みかやまを起こりとする香島(かしま)の香が鹿に代わった)や、神島(かみしま)(神の鎮ります島)という説もある。この神島という名は、高天原に関係することはいうまでもない。天(あま)は、海(あま)と同一起源を持つと考えられるからである(17)。

『常陸国風土記』には《高天原より降ってこられた大神、名を香嶋天の大神と申される。天では名を香嶋の宮といい、地では豊香嶋の宮といった》(18)という記述が、あり、鹿島が、少なくとも、高天原から下りられた神の住むところである、という認識があったことがわかる。

『続日本紀』の養老七年のところにはじめて、鹿島の字があって、その頃、香島から鹿島に改められたと考えられるが、養老年間以前は、かしま、と呼ばれていた。それが、おそらく、中央政府からの要請で、鹿島に固定された可能性がある。香島を「かぐしま」と言っていた可能性もあり、それは、鹿島と鹿児島との関係を、示唆しているように見える。

というのも「天孫降臨」の出発の地、香島(かぐしま)と、天孫降臨の地(鹿児島)とは、ほぼ同じ名であることの重要性である。これはまるで地名の復唱と考えられる。香島の命名は、建御雷神の活躍された時代と考えられ、鹿によっての命名であっても、「かぐしま」または「かごしま」と呼ぶことは変わりはない。鹿の神を天迦久神(あめのかぐのかみ)と『古事記』はいい、「かご」は鹿の愛称である。そのころは香島を「かぐしま」と呼んでいたのと思われる。中央でも「かしま」と略していっていたのであろう(18)。

この名前の関連は、まさに、二つの土地のつながりを、想定させる。つまり、鹿島から鹿児島に、人々が、動いたこと、すなわち、船で向かったということである。

鹿島には御船祭という大規模な祭りが営まれる。七月上旬から中旬にかけて、聖代に行われるもので、この祭事には、鹿島本社、坂戸、沼尾の三社から、三艘の御船を、香取神宮に向かって出す形をとっている。鹿島神宮の『当社列伝記』に、《我が朝(ちょう)第一の祭例であって、三韓降伏天下泰平の大神事》と書かれ、《天地も動くばかりにきこゆるは あづまの宮の神のみいくさ 天下(あめがした)治(おさ)めし事は古りぬれど 昔を見する神の御軍》と書かれている(19)。ここで注目されるのは、天下(あめがした)を治める、という言葉である。これはまさに、神武天皇の天下を治めることと、同一の意味をもっており、鹿島神宮が、その中心的な役割を、この御船の出立と、関係しているように思われる。

「鹿島立ち」という言葉が残っている。常陸国の防人が、鹿島神宮に集合して、鹿島から九州方面に出発したことをいう。これは「祭頭祭(さいとうさい)」という祭りで、その「鹿島立ち」の様子を伝えている。三月九日に行われる大祭で、六尺の樫(かし)の棒を持って、祭頭歌をうたいながら、棒を組んだりほごしたりして市中を練り歩く。これは天武天皇の時代から始まったものだ、と言われている。防人の出立を祝う祭りであり、この防人の行き先は、「白村江の戦い」で敗れた日本軍が、大陸からの侵攻を恐れて、九州に弊を送ったことから組織されたものだ。関東から九州の遠路を、彼らは、果敢に、船で渡っていったことを意味する。しかしこれを、御船祭と関連づけられるとすれば、さらに遡って、同じ九州に向う、天孫降臨の、海からの神々の「鹿島立ち」と、関連づけると興味深い。

《霰降り 鹿島の神を 祈りつつ 皇御軍(すめらみく)に 我は来にしを 防人歌》

この鹿島の神とは武甕槌神のことに違いない。霰降りとはかしましい、ということから鹿島にかかる枕詞である(20)。「御船祭」の盛大な船の出立は、単に「鹿島立ち」の言葉に残る、関東から九州への防人の出立だけでなく、さらに歴史を遡って、鹿島から鹿児島に向う神々の船団のことを思い起こすのは、決して無理なことではあるまい。これが《神風》によって、向かったという記述も、単に、鹿島から香取への海路ではなく、もっと大規模は船の出立を、感じさせまいか。これが倭武天皇の御代のことと、『風土記』の記述から関係づけられるが、建御雷神の船による、行動として考えると、さらに《昔を見する神の御軍(みいくさ)》という言葉は、鹿島と鹿児島と結びつける、《神の御軍》にふさわしいと思われる。

それ故に、鹿島神宮の『当社列伝記』に、《大宮柱太敷立(ふとしきた)て始り給う事、時に神武天皇元年辛酉の歳なり》(21)とある記述に結びつく、と考えられる。神武天皇が、まさにこの鹿島から船出して、鹿児島に向かった船団によって、九州から西国を統一することが出来たことを、神武天皇元年に、宮柱を建てた、という神話に結びついたと考えられるのである

むろん、この香島天の大神は、建御雷神のことである。この神が、高天原から降ったのであるが、高天原においては、香島の宮があり、豊葦原の水穂の国では、豊香嶋の宮がある。同じ香島の宮であり、高天原が、鹿島地方の上の天にある、と思わせる。

ところで、鹿島には、「高天原」という地名が残っている。この「高天原」は、鹿島神宮から約二キロ離れているところにあり、現在は、鹿島神宮の飛び地として境内になっている。東氏は次のように言っている。

《砂地ぎみのひろびろとした台地で、高天原には美しい松林が一面に生い茂っている。その東は、すぐ三百メートルほど下がって鹿島灘の海岸である。この高天原の東の隅には、鬼塚と呼ばれる全長八〇メートルほどの、大古墳があり、その上に立つと、太平洋は一望のもとにおさめられ、西北に筑波山をのぞむ絶景の地である。そして、その中央には、朱無川という水源地もわからなければ、下流がどこに消えるのかわからない不思議な川が流れている。鹿島神宮の祭神、武甕槌神は、高天原から派遣されて出雲に国譲りの交渉をしたが、この高天原が、神話のなかの高天原であったのだろうか。》(22)。

東氏は、さらに現実に茨城県には、高天原と呼んでいるところが三箇所あるという。

1、鹿島神宮の飛び地の境内地で、本宮から約三キロ東にいった鹿島灘に面した高台。
2、筑波山の中腹にあって、岩石が重なり合っているところで、やはり眺望の良い場所。
3 水戸市外にあり、新井白石の「古史通」に天御中主神が君として書かれている那珂国にあたり、田畑と住居地帯の入り混じったところ、などである(23)。

この三ヶ所は、いずれも祖神の旧知をしのんで後世に命名されたものと考えられ、それぞれが多少の類似点がある。1は、周囲が丘陵であって、その中に古墳の大丘陵が存在しており。2は、岩山がそびえ立つ、筑波山内にある。3は、平野にあるが、さほと遠くないところに那珂川が流れており、いずれも自然の起伏の中で、それと調和した場所であり、かつての高天原を想起させる場所である(24)。いずれにせよ、そこが高天原ではなく、その場景が、近くにあったことを思わせるものである。『紀記』には実際、高天原についてどのように書かれているのであろうか。

『古事記』には、《天地の初発のとき、高天原に成りませる神の名は、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)云々》(25)、『日本書紀』には、《一書に曰はく、天地の初めで判るるとき、始めて倶に生りいずる神有す。国常立尊(くにとこたちのみこと)と号(もう)す。つぎに国狭槌尊(くにのさづちのみこと)また曰はく、高天原に生れませる神の名を天御中主尊(あめのみなかぬしのかみ)と曰す》(26)、そこには両書にはじめて見える高天原という言葉で、ともに天御中主神誕生の場所として、宇宙の根本的な場所として書き出されている。

次に、天石屋戸に段においては、《故(か)れ是(ここ)に天照大御神見畏(かしこ)みて、天石屋戸をたてて、さしこもりましき、すなわち高天原皆暗く、葦原中国悉(ことごと)に暗し》(27)(『古事記』)と、必ずしも高天原が、特別な場所ではないように書かれている。『日本書紀』でも、《是の時に天照大神驚動(おどろ)きたまひて、梭(ひ)を以て身を傷ましむ。是によりて発かりまして、すなわち天石窟に入りまして、磐戸を閉(さ)して幽居(かく)りましぬ。故れ六合(くに)の内常闇にして、昼夜の相代わるまきも知らず》(28)とあり、高天原も葦原中国もすべて六合(くに)と書かれ、ふたつの世界が、別であるように書かれていない。

天孫降臨の場面では、《爾(ここ)に日子番能瓊瓊芸尊(ひこほのににぎのみこと)、天降りまさむとする時に、天之八衢(てんのやちまた)に居て、上は高天原に光(てら)し、下は葦原中国を光す神、是に有り》(29)と述べられ、《已にして降りまさむという間に、先駈者還りて白(もう)さく、「神有り、天八達之八衢(てんのやたつのやちまた)に居り」》(30)とあって、高天原が、あの天御中主神誕生の尊い場所と同一であるとはわからない表現となっている。『日本書紀』において、わずかに《降りまさむ》という言葉に高天原からであると思わせるのみである。

『古事記』に最後の出ている高天原は、《是に詔りたまはく、此地は韓(から)国に向い、笠沙之御前(かささのみさき)に真来(まき)通りて、朝日の直刺す国、夕日の照る国なり。故れ此地ぞ甚吉(いとよ)き地、と詔りたまいて、底津岩根(そこついわね)に宮柱ふとしり、高天原に氷ぎたかしりて坐しましき》(31)と書かれ、韓国(からくに)の名が見え、それが九州を思わせている。朝日が上り、夕日が照らす、いとよき地となって、高天原が、一般の土地とそれほど異なる印象を与えない。

『日本書紀』では、《高天原広野姫天皇(持統天皇)は、少名は讚野さら良皇女(うのさららのひめみこ)、天命開別天皇(天智天皇)の第二女なり》(32)(『日本書紀』)となって、持統天皇の名に、高天原という言葉をつけた理由は書かれていない。最初の天御中主神誕生の段では、高天原は幻想的な場所であって、現実離れしている場所に見える。最後の段については、紀記ともに、すでに、そこに特別な世界があったことを、さほど示唆せず、追憶の言葉となっている。

高天原は、最初は天高く、抽象的な幻想世界であったが、それが、天御中主神誕生以後、神々が住むようになって、段々と現実の地上における世界に下ってきており、最後は、すでに追憶の場所となった過程を示している。神話として完成される前に理想化された確率した世界であるとは思われない。ギリシャ神話の世界がそうであるように、神々の世界は、ギリシャ半島と島々を舞台と0しながら、しかしそこで幻想的な神話の物語を展開していた。その幻想の世界と、現実の世界が、編み出す世界は、現実界から自立していた。しかし日本神話は、最初の高天原から変化していくように見える。

折口信夫も、「異郷意識の進展」の中で、《さて高天原を考えた人民は、少なくとも高原に住んでいた人間であらねばならぬ。山地の人の常として、標山(しのやま)思想とを抱いて、神は天から降るものと考へていた。で、少なくとも宗教神と祖神との混同から、浄土と祖国とを一つにして、高天ヶ原という異郷を考へてゐたものと信じる》(33)と述べている。たしかに、人間は、高いところに憧れる性格をもっており、そこに高天原の由来があることは、自然な思いであろう。ことに日本は山に満ちており、山に囲まれた人々が、その高い山を仰いで、そこに霊魂が存在することを想像することは、容易いことである。日本人が「山人」民族である由縁である。

もし高天原という高い山を想像するとすれば、日本では富士山が第一である。

ここで、建御雷神の誕生の段をふりかえってみよう。そこには、山地における火山活動と高原の風景と関係していた。火の神カグツチを生んだというとき、それは火山のこととも推測できる。その火山を火で鍛えた刀で、罰したことにより、その血が湯津(ゆづ)石村(いわむら)というところになたれついて、そこに生まれた神々のうちの一人が建御雷神だった、という意味に解することが出来る。このことは、この神が火山活動によって生まれた神であることにもなる。東氏は、『古事記』の中の二十二もの神々が、イザナギの神が、火之迦具土神を生まれてから生まれた神々で、いわば火山活動のすさまじさを表現している、と述べている(34)。

そこで想定できるのは、富士山のことである。この偉大な火山は、十余回の噴火記録をもっており、噴煙が絶えなかったことは、歴史的な事実でもある。コノハナサクヤヒメが祀られているが、その理由も、コノハナサクヤヒメが、火中出産の説話から火の神とされ、各地の山を統括する神である父のオオヤマツミから、火山である日本一の秀峰「富士山」を譲られたということになった。祀られるようになり富士山に鎮座して東日本一帯を守護することになった。

富士山を取り巻く多くの神社の名は、いずれも浅間神社と呼ばれている。富士を冠せるのも冠せないものもあるが、すべて浅間神社といっている。「お浅間(せんげん)さん」という俗称があるが、富士を御神体と仰ぎ、祭神を木花咲耶姫としている。フジという名は、アイヌ語で火ノ山とか。もし蝦夷の南下がなかったら、これは間違いなく「浅間」でなくてはならない。この最古、最大の浅間山は、関東平野からならどこから見える名山であり、高天原に近いと考えられる常陸からも姿が見えるそう遠くない山である。

この富士山麓は、建御雷神の誕生地にふさわしいいろいろな条件をそなえている。建御雷神の誕生のころ、高天原は、背景として火山(迦具土神の誕生)、天安河(建御雷神の父天尾羽張神がせき止めた川)、天香山(泣沢女神が住むところ)などが存在したと思われる。これらは、火山活動のはげしい山岳地帯の高原で、川があり、しかもその川が急流のところがあり、山を崩すことによってせきとめられる可能性を持つ場所がある、と考えられる。東氏は、このような場所を探すと、ただ一ヶ所、山梨県側があげられるだけである、と指摘している。

そこは山梨県の、かっては、甲斐(峡)の国といわれ、四方を山に囲まれている。川はみな三峡を通って流れており、富士の溶岩流も多く、また高原地帯でもある。さらにまた、長野県の諏訪大社にいます建御名方神は、建御雷神との関係も深い。大国主命の子である建御名方神は、平和に出雲を譲ることを承知せず、争って、建御雷神に追われ、諏訪湖まで逃げてきたことは、『日本書紀』で語られている。長野県富士見町には、武甕槌神と建御名方神が対陣したと伝えられる地がある、と語っている(35)。

この指摘でもわかるように、高天原の形状が、この富士山麓に似たものがある、ということは、建御雷神の誕生の地とも、この神と争った建御名方神が、近くの諏訪神社にいたこととも関連し、富士山が、高天原の発想のひとつの候補地であることを、推測させるのである。

一方、『常陸国風土記』の信太郡の記述で、次のような一文がある。

《これより西の高来の里は、老人のいうのには、天地のはじまって間もなくのころで、まださまざまな者がはびこっていたときに、天から降りてきた普都(ふつ)の大神が葦原中国をめぐり歩いて、山や河べりに住むあらくれ者を平げられた》(36)と書かれ、ここからは、常陸国も葦原中国ということになる。

さらに『常陸国風土記』の行方郡の記述で、建借間(たけかしまの)命が天を仰いで、

《もし、天人の炊く煙ならば、ただよいきて私の上のこの空を覆うように。もし天人でない悪者の炊く煙ならば、向うの海の上になびけ》といっている(37)。常陸に天人が住んでいたことを示唆するもので、高天原から近いところにあり、そこから天人がやって来ていたことを、示している。

また『伊勢国風土記』の逸文に、《天の方向に国があるから、その国を平定しなさい》と勅命が下って、その征伐のしるしとして、剣をいただいた。天日別命(あめのひのみこと)がその勅命に従って、東の方に数百里すすんだ、という。東氏は、この三つの引用文は、常陸国が天だ、と述べているが、それよりも、天の近くにおり、そこから下りてくる天神たちが記された、というべきであろう。少なくとも、伊勢より東に天があったことを断片的ではあるが証明している、と語っている(38)。《つまり、建借間命、天日別命の時代には、「天」はまだ実際の場所として、かすかに伝えられていたことを示すといえよう。そしてその天という場所が、従来の日本の歴史からは思いもよらない東国を示していることに注目しなければならない》と述べているのは、卓見というべきであろう。

さらに、この常陸国、そのものが、高天原でなくとも、かってそうであった、と思わせる文章が、『常陸国風土記』香島郡の条にある。

《(略)神の社(やしろ)の周囲(めぐり)は卜氏の居(す)む所なり。》に始まるこの文章を口語訳で、述べよう。《そこは、地形が高く東と西は海に臨んでいて、嶺と谷が犬の牙のように村里に交わっている。山の木と野の草が生い茂り、まるで、中庭の垣根を作っているようだ。潤い流れる崖下の泉は、朝夕の汲み水になる。台地の峰の頂きに住まいを構えれば、生い茂った松と竹とが、垣根の外を守ってくれる。谷の中腹に井戸を掘れば、生命力旺盛な蔦の葉が、井戸の壁面を覆い隠す。

春、その村を歩けば、様々な草花が咲き乱れ、かぐわしい香りを放っている。秋、その道を過ぎ行けば、数多くの木々に、錦織りなす木の葉が美しい。ここは、まさに、神と千人が隠れ住んでいるようなところだ。奇しき力を持つ何かが生まれ出する土地だ。その佳麗な不思議さは、とても書き表すことが出来ない。

その天の大神の社の南の郡役所があり、北に沼尾の池がある。土地の古老の話では、沼尾の池は、神代のむかしに天から流れてきた水沼だという。なるほど、池に生える蓮根は、比べる産地がないほど味わいを異にして、大変美味いとしかいいようがない。そればかりか、病に苦し者は、この沼の蓮を食えば、たちどころに治るという。この池には、鮒や鯉も多く生息している。この地には、以前に郡役所が置かれた所で、たくさんの橘を植えていてその実も美味い》(39)。

これを読むと、あたかも、神と人とが同居する空間として描かれ、神の恵みを享受するこの時代の人々の喜びと生き方が感じられる。神を祀り、神と共に日常をおくっている香島の人々は、常世の国、常陸の中でも特別な氏族として描かれているのである。

4 建御雷神が、鎮座する場所

次に、高天原から送られた建御雷神が、どのように、この鹿島にやって来たか、という問題を検討してみよう。

鹿島神宮の鎮座地は、茨城県鹿嶋市大字宮中字鹿島山で、鹿島地方のほぼ中央にある。この地帯は、石器時代のころは、銚子を含むいまの海上郡(うなかみぐん)(千葉県)一帯が独立した島のようであったと言われる。つまり鹿島は、銚子の方から見て独立した島のように見えたため、島とつけれらたのであろう。利根川は、江戸時代より前は、東京湾に注いでいたのである。『常陸国風土記』には《東は大海、南は下総と常陸との堺なる安是(あぜ)の湖、西は流海(ながれうみ)、北は那賀と香島との堺なる阿多可奈の湖なり》とあり、昔は島と認められてたので、香島というようになっていた(40)。

香島が鹿島になったのは、養老七年(七二三年)のことで、それ以前は香島であった。この香島に建御雷神が降りられたのは、香島から約七十キロ北の大甕(現在の日立市大甕)に住む香香背男(かがせお)を討伐するためであったとされる(その征伐にあたっては、『社伝』では、建御雷神は、《見目浦(みるめのうら)の磐座(いわくら)にましまして、建葉槌神をつかわして討たしむ》と書かれている。つまり直接に手を下したのではないことになる。

建葉槌神は、命令によって北に進み、大甕の香香背男(かがせお)と対峙するために瓜連(うりづら)に陣をかまえた。そして香香背男を倒し、そのまま瓜連に止どまり、静神社としてまつられたという。いま鹿島神社の拝殿前に摂社高房神社があって、建葉槌神をまつり、本宮に参拝する前に参拝するのが古例であり、この先陣を果たしたことに由来するものという(41)。

建御雷神が、香島に入った経路は明かではないが、東氏は、行方郡を通ったらしいという。いまの潮来町大生原(おおうばら)に大生(おう)神社があり、『社伝』には香島より早く建御雷神が見えたとあるからである。そして、《流海に出られ、船で流海を下り、大海(太平洋)に出て、明石の浜に上陸され、沼尾を経て香島に至ったのであろう》と述べている。現在でも明石の海岸には鳥居が太平洋に向かって立てられ、この事実を示しているようである(42)。

建御雷神はそのあと、鹿島に鎮座された。建御雷神の鎮座年代を『社伝』の社例伝記では《大宮柱太敷(ふとしき)立て始り給ふ事、時に神武天皇元年辛酉の歳なり》とあり、また、古文書の応永三十二年三月の目安にも同じように神武天皇元年に宮柱を建てた旨が記され、その他の書も同様である。その住居が建御雷神が1「神上られた」(死亡された)後に、そのまま社殿として残り、神武天皇が勅祭されたことになる(43)。

こうして建御雷神は鹿島を本源とされ、しかも天日隅宮の作法をもって祀られたのである。その創祀を神武天皇紀元元年と伝えられているが、日本最古の神社の一となっている。  『常陸国風土記』では、崇神天皇の御代におびただしい量の弊物を鹿島神宮に奉納されたことが記されている。またすでに述べたように、『延喜式』神名帳にあっては、伊勢の神宮に次いで「神宮」号をもっていたのは、鹿島、香取の神宮だけであった。この崇神天皇の時代に、伊勢神宮がつくられた、と言われるから、それより古いことになる。

周囲の海は、見目浦と呼ばれるが、それは、海菜(みも)(わかめなど)の豊富な海岸で、鹿島の台地から一目で見渡せる浦である。末社湖(いた)社を別名で、見目明神といっているが、海岸までの距離がだいぶあり、東氏の家に伝わる、「鹿島御ものいみ由来」には見目浦神野郷に云々とあって、神野の高台から見渡す内海をいうように書かれている(東70p)。したがって見目浦とは、広くは鹿島をとりまく海に冠せられた別名と考えられ、最初の殿地は間違いなく鹿島であったことが知られる(44)。

このことは、見目浦の磐座には、現在も要石が残されていることからも確認出来る。要石は、本宮より約三〇〇メートルの東南東に位置し、奥宮の後方五十メートルほどのところにある。この要石は、「石の御座(みまし)」「山の宮」ともいわれており、見目浦の磐座の条件にあてはまる。まさにそこから、鹿島の海を眺めることが出来るのである。

建御雷神が鹿島を本源としたのはなぜか、なぜ鹿島、香取の両神宮が利根川をはさんで、この時代に大和から離れた関東に、祀られなければならなかったか。

すでに述べたように、鹿島は四面すべて水に囲まれほとんど孤立した島のようであった。現在でも潮来町を中心とする水郷地帯が、「日本水郷」として、「国定公園」に指定され、その豊富な水が観光資源になっている。ここに水田が耕作されるようになるのは、この地の利に基づくと言ってよい。ここには広々として霞ヶ浦と北利根川があり、筑波山の二峯がそこに影を映している。

この筑波山は、約二千年前に筑波とは呼ばれなかった。『常陸国風土記』に、《古老の曰へらく、筑波の県(あがた)は、古(いにしえ)、紀の国と謂ひき。美麻貴の天皇の世に、采女臣(うねべのおみ)の友属筑バ(ともがらつくば)の命を、紀の国の国造に遣わしし時、筑バの命の曰ひしく、「身が名をば国に著けて、後の世に流伝へまく欲ふ」と曰いて、すなわち本の号を改めて、更に筑波と称ふといへり》(45)とあるように、その昔は「紀の国」といっていた。では筑波山を「紀の山」といったかというろ、そうではなく、「二神山」あるいは「二上山」といったという。

『万葉集』に、《鷄(とり)が鳴く 東国(あづまのくに)に 高山は さほにあれども 朋神(ふたかみ)の 貴き山の ナみ立ちの 見が欲し山と 神代より 人の言ひ継ぎ 国見する 筑羽の山を 冬ごもり 時じく時と 見ずて往かば 益して恋しみ 雪消(ゆきげ)する 山道すらを なづみぞ吾が来し》(46)とある。この歌では朋神(ふたかみ)の貴き山とあり、二神山ではない。これは筑波山と命名されてから七百年も後の世の歌であり、旧名で偲んでいるのだが、その二峰相並ぶ二神山、二上山の名は、忘れることが出来なかったからであろう。

『万葉集』で、検税使大伴郷は、《衣手 常陸国の、ふたなみの筑波の山を》(47)と歌った。この朋神、ふたなみが、ふたがみーー二神山――二上山と通ずるであろう。現在、筑波山神社は祭神が筑波男神と筑波女神とするが、『詞林采葉抄』『筑波山縁起』は伊弉諾、伊佐冊(いざなみ)二神としている。その二神の山という意味ともなっている(48)。

或いは山名、神名ともに逸失していたのかもしれない。『香取群書集成』二巻、神田耕式の田植歌に、《あれみなさい、つくばの山のよこくも ホーイホイヤァホイ よこくものしたこそ わらかおやくに》と歌われている。東氏は、この歌詞は関東東部に広く流布していたが、筑波山の付近をわれらの祖国(おやぐに)といっており、そこが、日本の「おやくに」であることを示唆している可能性もある、という(49)。

もしイザナギ、イザナミ両神が、高天原に住まれるのではなく、この二神山である筑波山に住んでいたとしたら、この田植え歌は、そのことを意味している、といわなければならない。

そして、『日本書紀』には、二神が地上にあったことを物語る一文があってそれを立証するのである。すなわち、大日メ(おおひるめ)(天照大神)誕生の段に、

《故、この神、喜びてのりたまはく、「吾が息多なれども、いまだかく霊異なる児はあらず。久しくこの国に留めべからず。おのづからに早く天に送りて天上の事を授けむ」とのりたまふ》(50)。

前に述べたように、常陸を天と説く伝えがあり、少なくとも高天原に近い場所であることを指摘した。ただ。常陸からみれば高天原はさらに天であり天上だ、ということは、あくまでそれと似た所を、高天原と述べる必要があったからであろう。

『常陸国風土記』には次のように書かれている。

《昔、祖の神の尊が諸神の処を巡り歩き、駿河の福慈の神に一夜の宿を断わられ、筑波の山に宿をとられて、そのよろこびを、愛しきかも、我が胤(みこ)巍(たか)きかも 神宮(かむみや) 天地(あめつち)の竝斎(むた) 日月の共同 人民集ひ賀(ことほ)ぎ 飲食富豊(みけみきゆたか)に 代のことごと 日に日に弥栄えむ 千秋万歳に 遊楽(たのしみ)窮(きわ)らじ》(51)

とあり、そこが、関東にあって理想郷ともいえる土地であった、と考える傾向があったのである。建御雷神は、このように、紀記その他の文献によって、天孫降臨に先だって、葦原中国を平定し、天孫降臨の前提になる日本を準備したのである。

ここで、重要なのは、このことの意味することである。すなわち、神武天皇が、日本を統一する前に、天照大神がいられる高天原から、建御雷神がおりて、東国を平定していた、ということである。

天(あま)と海(あま)は、言葉の音では同一で、同じように神聖視されていた、と考えられる。つまり同じ言葉で発音されるその根拠は、二つが、同一視された名残りである、と思われるからである。海辺に行って水平線を望めば、空と海とは一線上に合体して見え、天と海を同一視する、という感覚をもつことは自然であるからだ。だからここでは天降りを、海降りと置き換えることも可能になってくる。海に近い、関東平野の特有の感覚かもしれない。

海と天の関係について、鹿島に関する記述を追ってみよう。

『日本書紀』巻の第三の最初に、《ここに火の瓊瓊杵尊、天の関を闢(ひら)き、雲披(おしひら)き、仙蹕(せんひつ)を馳せて戻止(いた)りたまひき》と書かれている。この天の関を、いわくら、と読んでいるが、これは天の関であり、その注として「高天原」の入口に門戸がありとなす。その戸を開いて、》と書かれていることは、天孫降臨に際し、天の関をひらいて送られたと解釈できよう。この天の関は、実をいえば、鹿島、香取間の水道のことのはずである(52)。香取神宮には、天降(あまくだり)神社という末社があり、祭神を伊岐志邇保命(いきしにほのみこと)カキ守神としている。この神社は、正に関守の神であり、遠い神代から、伝えられてきた言われを守り、参拝する人もいるのである。この小社に、ひそやかに尊い証拠が残されていることになる。

神社というものは、祖先たちが伝統をもとにして、神の加護を願い、神の降臨を願って建てられたものであり、その存在そのものが、大きな意味がもっていることを忘れてはならない。この天降神社は、その名前からして、海からやって来た神が祀られ、その関守の神ということは、それが、高天原の関の位置にあったことを示すものであろう。

『中臣(なかとみの)寿詞(よごと)』という祝詞がある。この祝詞は、神に向かって奏上するのではなく、朝賀のさいに中臣氏の代表者が、天皇に申し上げる賀詞であるが、その中に、

《天降し坐ししのちに、中臣の遠(とお)つ祖(おや)天児屋根命(あめのこやねのみこと)、皇御孫尊(すめみまのみこと)の御前に、仕え奉りて、天忍雲根神(あめのおしくもねのかみ)を天の二上に上せ奉りて、神漏岐神漏美命(かむろぎかむろみのみこと)の前に受け給り申すに、皇御孫尊の御膳(みけ)都水は、宇都志国(その下った地)の水に、天都水を加えて奉らむと申せと、事教え給いしに依りて、天忍雲根神、天の浮雲に乗りて。天の二上り坐して・・・》(この寿詞にある「天の二上」が、筑波山をさすかどうか、と東氏は述べている(53)。

大意は、高天原にとどまられた祖神の御命令で天降ったが、宇都志国(その降りた土地)の水が悪いので、天児屋根命が皇御孫尊の御前に仕えていて、天押雲根神を天の二上においでになる祖神様に、どうしたらよいのでしょうと伺わせると、宇都志国の水に、天上の水を加えて奉れば良いと教えられました。そこでいただいてきた天の玉串を良さそうなところに刺し立てて、夕日が落ちてから朝日の輝く朝まで一心に天都詔戸(あまつのりと)の太詔力言(ふとのりとごと)を告りましたら、蒜(ひる)や篁(たかむら)の下より天上の水と変わりない水が出ました、というものである。この天と地上の水が、相通じたということは、天と地がつながったということであり、天と地、海とのつながりを示唆する記述であろう。 鹿島、香取両神宮に津の宮がある。『常陸国風土記』には、

《古老の曰えらく、倭武(やまとたける)の天皇の世、天の大神中臣(なかとみ)臣狭山(おみさやま)の命に宣り給いて、“四字欠”と宣り給いき。臣狭山の命、答えて申しけらく、「慎みて大き命を承りぬ。敢えて辞む所なし」と申しき、天の大神、昧爽(あくるあした)復宣り給ひしく、「汝が舟は海の中に置きつ」と宣り給ひしかば、舟の主、仍(よ)りて見るに岡の上にありき、又宣り給いしく、「汝が舟は岡の上に置きつ」と宣り給いしかば、舟の主困りて求むるに、更海の中にありき。かくの如き事、巳く二三のみにあらざりき。爰(ここ)に慴(おそ)りカシコみ、新に舟三隻、各長さ二丈余なるを造らしめて、初めて献りき」とあって、その前に天智天皇の御代のこととして、「年別の七月、舟を造りて、津の宮に納め奉る》と書かれている。初めて献りきとあるが、新たに舟三隻という意味に解され、それまでにも神の舟があったと考えることが出来るのである(54)。

鹿島、香取、両神宮の神たちが、舟で海路はるかに漕ぎ出す瓊瓊杵尊の御一行を見送っている姿を、ここに想像できるのであり、このことは、鹿島と鹿児島の結びつきを、想定するのに、ふさわしいものとなっている。

東氏は次のように結論づける。建御雷神は、要約すれば、日本の基礎を築かれた神であり、同時に日本の発展を見守られた神である。《出雲平定は日本の平定であり、常陸平定は天孫降臨に際してその大移動を護るという重大任務を果たされたことである。そして香取神宮の祭神である経津主神とともに、この東国の果ての鎮座は、そのまま祖神の国を守るという使命のままであった。だからこそ、北から降る蝦夷(えみし)に備えて、鹿島神宮の御分社は、東北に扇状に分布し、香取神宮の御分社は、下総を中心として関東一円に点在しているのである。さらに考察すれば、霞ヶ浦、北浦べりに、水辺を護って点在する両神宮の御分社は、そのまま天孫降臨の発祥地を護る神軍の分布ということができよう》(55)この結論は、これまでの考察からも蓋然性をもっており、建御雷神の役割は、まさに関東地方に想像された高天原の日本支配を、現実化する役割をもっていたのである。

5 鹿島地方の考古学的裏付け

鹿島地方には、そうした神話の記述を、裏づけるような遺跡が数々存在する。最も古いと推定されるものに、ほぼ六、七千年前、縄文前期の生活の遺物がある。この時代の、土器、石器が、鹿島神宮内の御手洗池に向う坂の途中で、数個発見されている。

さらに、ほぼ五千年前の縄文中期の遺跡が、田野辺貝塚、木滝貝塚など鹿島神宮のまわりに多く見られ、生活も向上して、人々は海川の幸、野山の幸を求めて集落を営んでおり、ゆたかな縄文時代の遺跡を見せていることがわかる。貝塚の数もさらに増えている。そして縄文晩期になると、貝塚は、台地の地の利を占め、しかも一ヶ所に大規模な貝塚を現出している。約三千年前ころには、神野(かの)遺跡、片岡遺跡などと、鹿島神宮に関係の深い場所に、生活の跡が見られる。

また神野遺跡があり、そこは、鹿島神宮の南西にあたり、字の示すとおり、神の野であった。すでに述べた北浦の南、神宮橋や見目浦(みめのうら)を見下ろす台地にあり、香取神宮と向い合っているところである。建御雷神が鎮座された場所とも考えられるから、この神野の貝塚群は、古代鹿島を考える上でも、もっとも重要な貝塚であることになる。この貝塚群からは、鹿の骨などで作った針、浮き袋の口、モリ、勾玉など多数が出土し、鹿のすんでいたことと生活の向上していたことなどが証明されている(56)。

このような活発な生活を営んだ縄文時代の遺跡が多いが、その後に来る弥生時代のものも、数カ所見出されている。弥生式文化は水田の文化である、と規定すると、鹿島自身は台地上なので水田が必ずしも多くないが、それは水田が行われなかったことではない。とくに北方は湖沼地帯で、そこには水田がつくられたから、遺跡は縄文よりむしろ、ただちに、土師、須恵器の古墳時代へと推移していても、弥生時代がないということではない。鹿島においては、縄文時代と弥生時代と重なっており、そのまま古墳時代へと移り代わっていくものと見られる。

縄文前、中、後期の貝塚などは、主として鹿島神宮の南東北部にあり、入江と野山などを生活の基盤とした生活であったと考えられる。東氏は、縄文晩期には、建御雷神の一行が、《この地に住むようになり、周囲の土着の人々の生活も、よりやすらぎを得て、それから長い間、鹿島の神を中心に生活が営まれたため、生活様式も順調にすすみ、やがて大和地方との交流もさかんになるにつれて、はなやかな古墳時代を迎えた》のではないか、と語っているが、首肯できよう(57)。

鹿島は、北方を除いて、独立した半島であり、しかも北に湖沼があって他から侵略されにくい土地で、護りやすい土地であるから、このような進展も成り立つわけで、文化、経済も向上し、時代の進歩につれてはなやかな文化が展開したのであろう。

これから述べるのは、この地方の多くの古墳群についてであるが、主に古墳が作られはじめられたのは、天孫降臨の後、神武天皇の大和を統一し、その墳墓が、畝傍山の中程に造られ、その後のことである。大和、河内を中心に、各代の天皇の前方後円墳が次々と造られていったが、その中央政権を送り出した、関東にも、多くの古墳が造られたのである。

鹿島神宮の西北約一キロのほどの所に、宮中野(きゅうちゅうの)と言われる原野があり、その名からいって、天皇に関係していると考えられてきた土地だが、畑と山林が大半をしめる標高三十メートルほどの岡に、円墳七八基、前方後円墳八基など総数一一三基の古墳群が存在するのである。代表的なものとして「夫婦塚 長さ 一〇〇m(前方後円墳)、勅使塚 直径七五m(帆立貝式円墳)」などがあり、茨城県内の古墳は総数三一一一基あるが、鹿島郡にはそのうち五五九基もあって、第一位を占め、鹿島地方が古墳時代にいかに重要な文化地域であったかがわかるのである。

この宮中野古墳が、建御雷神一族末裔の墓と考えられるかもしれない。これらの古墳群は鹿島神宮に関係はあるものであるからだが、丁寧な発掘が待たれることである。勅使塚とつけられた名の墳墓があるが、これなどは、たまたま参向した勅使がなくなったので、埋葬したのではないか、と思われる。その他の古墳も、鹿島神宮関係者の奥都城(墓)であるらしく、鹿島工業地帯開発に関係して、発掘された古墳の遺体は、みな頭部を東南(鹿島神宮の方向)に向けていた。

鹿島神宮の東三キロの高天原と名付けられた墳円の土地には、全長八五メートルの鬼塚とよばれる古墳らしきものがある。東氏は、この鹿島地方に住んだ人々が、『常陸国風土記』にあるように、中臣氏や卜部氏が多く、後に常陸大掾家の方から平氏が移ってきたものもいる。大部分は鹿島神宮関係の人々で、現在の鹿嶋市宮中の成立が、神宮の屋敷割に源を発していることからも明瞭である、と述べている(58)。

ここで、その神剣について述べてみよう。

鹿島神宮の宝物館に、茨城県唯一の国宝「直刀」がある。普通の刀剣の約三倍の全長、二.七一メートルもある。制作年代は、一二〇〇年から一三〇〇年前と言われ、平安時代のものと推定されている。この刀は、「韴霊剣(ふつのみたまのつるぎ)」と名付けられているが、これが、建御雷神の神剣であることを示している。俗に「平国(くにむけ)の剣」と呼ばれ、一閃すればたちどころに国が平和になる、という意味である。刀を一閃すれば、ふっと音がするが、その音に、刀の霊魂が働き、すべての紛争が、戦わずして解決する、その威力が示される、という。

この神剣には二振りある。どちらも「韴霊剣(ふつのみたまのつるぎ)」というが、現存するものは、二番目のものであり、実際に建御雷神が使ったものは、石上神宮の御祭神となっているものという。いまは石上神宮には本殿があるが、昔は拝殿だけしかなく、拝殿の後には、何人も立ち入れない「禁足地」があった。その地を発掘したところ、ひとふりの太刀が出てきたという。ここは古代から天皇家、或いは物部氏の武器庫として重視されてきたところである。この御神体が(まだ禁足地の中に埋め戻された)「布留御魂(ふるのみたまの剣)」という。『延喜式』には、石上坐布留御魂神社と書かれ、石上振神宮と呼ばれる。「布留御魂」はまた布都御魂(ふつみたま)、また甕布都(みかふつ)神と呼ばれている(59)。

神武天皇が紀伊国熊野に幸して荒神をしたがわせた時、建御雷神が前に使った布都御魂剣を使って荒ぶる神を切り倒されたといい、天皇が橿原に都されると布都御魂剣を殿内に斎い奉った。その後、崇神天皇の御代に、はじめて建布都大神社を大和国石上(いそのかみ)邑(むら)に移した、という。

神武天皇が大和入国をめざして、熊野に上陸されたとき、悪神の毒気によって全軍が病にかかり心気もうろうとなった。心配された天照大御神と高木神(高皇産霊神)が建御雷神に向かって、葦原中国は国譲りもすんでいるのにまだ騒いでいるようだから、行っておだやかにしてあげるように、と申されると、建御雷神は、私が参らずとも前におだやかにする時使った神剣を下しましょうと高倉下(人の名前)にその剣を授けられた。高倉下は、そう神々にもうされることを夢に見て、倉を見たところが現に剣があったので、神武天皇に差し上げたということである。そして力を得た神武天皇は、熊野、吉野の連山を越えて大和に入国され、長髄彦を討って建国創業の第一声をあげたのであった。

ここであらたに、建御雷神の神威が、発揮されたのであり、武神として長い歴史を崇められてきた由縁である。戦わずして勝った、出雲平定もこの戦いも、この神剣韴霊(ふつのみたま)の霊力の強さによるものということができる。「武」神とはその字のとおり、この世から「戈(ほこ)」を「止」めさせる霊力を持つことであって、決して蛮勇を振う神のことをいうのではない。この「武力」にふさわしい力をもっているのが、建御雷神=武甕槌神なのである。

橿原の地で即位された神武天皇は、その年はるばると鹿島に使を遣わして建御雷神を祀っている。皇天(あまつかみ)の援助のもとに大和入国をはたした感謝の意を表したのであって、遣わされたのは、天多禰伎命(あまのたねきのみこと)(天種子命で天忍雲根神の子)と伝えられている(62)。

神剣を神武天皇に献った高倉下(たかくらじ)は、北陸につかわされた天香山命がその人ではないかと言われている。現在、新潟県の弥彦神社の祭神として北陸地方の人々から崇敬されているのがこの神である。天具山命は、瓊瓊杵尊の天降りより先に天下ったニギハヤヒの命の三十二従神の一人であって、大和に降られたのであったから、大和三山の一つ天香具山の名は、この天具山命の名から取ったものと考えられている。そうすると、奈良を神武天皇が治められた時から、天具山命は、その後に追ったつたことになる。それ以前は、まだその名がなかったのであろう。

南北朝時代の、北畠親房が著した『神皇正統紀』では、《天皇甚ホメマシマシテ天ヨリ降レル神剣ヲ授ケテ、其大勲二答フトゾノ給ハセケル。此剣ヲハ豊布郡ノ神ト号ス。始ハ大和ノ石の上二マシマシキ。後二ハ、常陸ノ鹿島ノ神宮二マシマス》と語られる(60)。そうであると、神剣が石上から鹿島に還ったようにも取れる。また石上の神剣が韴大神となり、二代目の神剣を韴大神となられたところから、二代目の神剣を韴霊に疑しているように受け取れる。いずれにせよ、親房卿の時代にはすでに、「直刀」を韴霊剣といっていたのである。 『常陸国風土記』に、《慶雲(きょううん)の元年、国司ウネ女朝臣(くにのつかさうねべのあそん)、卜(うら)へて、鍛治佐備大麻呂等を率(ひきい)て、若松の浜の鉄を採りて剣を造りき。これより南、軽野の里と若松の浜とに至る間、三十余里ばかり、此は皆松山にして、伏ホドと伏神とを産し、年毎にこれを掘る。その若松の浦は、やがて常陸と下総との二つの国の堺なり。安是の湖に有る砂鉄は、剣を造るに大きに利し、然れども香島の神山たれば、たやすく入りて松を伐り鉄を穿(ほ)ることを得ざるなり》(61)。

ここに書かれているように、慶雲の元年は千二百六十数年前に当り、「直刀」の製作年代とほぼ一致する。国司が神卜によって剣を造ったことからも、さらにまた、神山なればたやすく入れずと言っていることからも、この三ヶ所の背景には、神剣誕生にふさわしい環境があったということがわかる。このことは、この地域が、砂鉄から剣をつくる地方であったことが理解される。この風土記の一文と、「直刀」に触れていないが、このような背景の下に、「直刀」が製作されたということを推測出来るのである。東氏は、それに加えて、鹿島神宮の東南約三キロの地、鹿嶋市木滝の本郷に、こうした製鉄遺跡があって、鉄を流した残滓が地表を覆っているほか、火口(ほぐち)まで発見されたことを報告している。その他の隣接地域でも火口が数個出土し、製鉄業がさかんであったという。

このようなことから、神剣韴霊剣が石上神宮にまつられ、鹿島にもどることが望めないので、奈良時代後期に二代目の神剣を造って、武甕槌神を祀る鹿島神宮に納めた、ということになる。二代目の神剣は韴霊剣の名のみを襲名し、形態、寸法にはこだわらなかったものであろう。

こうした歴史的背景は、建御雷神の国、鹿島が、もともと、砂鉄が取れ、それによって剣がさかんに造られた地方である、ということが、この神の神話の背景にある、ということである。それは関東が、そのような意味でも、強力は武器の供給地であり、そのために、この国の基礎をつくったということが出来る。

『日本書紀』に、崇神天皇の時代、神聞勝命の名が出てくるが、それは、道根命であると考えられる。この道根命が鹿島出身で、大和で仕事をし、大鹿島命と呼ばれている。『日本書紀』に垂仁天皇二十五年のこととして、阿部臣(あべのおみ)、和にの臣、物部連、大伴連の遠祖達とともに、中臣連の遠祖大鹿嶋が五太夫の一人として、伊勢の神宮の創建にあずかり、しかも初代の大宮司として奉仕していることからも窺われる。これは鹿島と、伊勢、そして奈良の関係を語るのに、ふさわしい資料となっている。東氏はこれらの資料を引いて、《いかに大和朝が鹿島を重要視したかがわかる》と述べている(62)。

『常陸国風土記』にどこに主要な神がいるか、書かれている。

《はじめて国を治められた美麻貴(みまき)(崇神天皇)の天皇の御代に、鹿島神宮に献られた弊物は、太刀十口、鉾二枚、鉄(まがね)の矢二具、許呂(ころ)四口、枚鉄(ひらのまがね)一連、練鉄(ねりのまがね)一連、馬一匹、鞍一具、八咫の鏡二面、五色のあしぎぬ一連です。

伝えられているところをいうと、美麻貴の天皇(崇神天皇)の御代に、大坂山(生駒山系のうち)に、白妙の立派な服を着られ、手に白い桙(ほこ)を杖にされた神様が現れて教えるのには、自分のいるところを治め、また祭るなら、あなたが治める国をおだやかにし、大きな国を小さな国もすべてあなたの思うままにしましょう、ということでした。そこで天皇は、人々を集めて、そう申された方がどなたであるか人々にお聞きになりました。すると、大中臣神聞勝(かむきかつ)命が進み出て答えることには、大八洲国は天皇が治められる国ですと言葉を向けられましたのは、香島の国に坐していらっしゃる天の大御神様の教えられることですと申し上げました。天皇はそれを聞かれて驚かれるとともに申されることを受けられて、前に書いたように幣グラ(みてぐら)を、神の宮に奉納されました》(63)。

天皇のこの奉幣の記録からも、鹿島の国の重要性が語られている。『常陸国風土記』のこのような記録は、鹿島神宮が、その歴史性の大きさを、大和朝廷の前進基地くらいにしか見られなかった、これまでの歴史家たちの認識を、否定するものである。この奉幣のような事実があったからこそ、建御雷神の事績が、後代にまで、強く認識されていたことが、理解出来るのである。日本武尊(やまとたける)とその父景行天皇の東征の記述も、それを証明しているようだ。

『記紀』で知られているように、日本武尊は、父景行天皇の命を受けて、景行天皇治世四十年冬に出発され、東海道を東へ進み、翌年秋に鹿島とは北浦をへだてた対岸の、行方郡の相鹿(逢賀)の仮宮に着き冬を過ごされた。この間に鹿島と何か交渉があったことは推察されるが、現存するものは倭武天皇の御代に鹿島神宮に神示により舟が捧げられたという記録がある。このことは、鹿島の北二十八キロの造谷で、鹿島の神を祀られていることに、呼応している。

日本武尊の東征の理由は、おそらくはこの東国に大和の文化をもたらすことだけでなく、東国の神々に奉幣することであったに違いない。巡路をみれば、東夷平定という目的ではなく、別の意図があったと考えられる(67)。『日本書紀』では《是の月、乗興(すめらみこと)、伊勢に幸して、転りて東海(うみつみち)に入ります。冬十月、上総国に至る。海路(うみつじ)より、淡水門(あわのみなと)に渡りたまう》(68)と述べられているのである。ここには、伊勢とも関係した、ひとつの宗教的な巡幸の意味があったのである。伊勢が天照大御神が祭神であるが、鹿島の神も、またそれに似た、神の存在を、そこにみていたということである。

天孫降臨のとき、天照大神が神勅を下されるように、大嘗祭において、天孫瓊瓊杵尊が稲を作り、その新穀を食べて、稲に憑いて、神霊を身に受けられることにはじまっている。御一世御一度、天皇が即位のとき、稲を拝し、ご自分を拝されて天皇霊を身につけるのが、この大嘗祭である。すると、この大和武尊の東征は、東国において、天皇宣言をされるためであった、ということが出来るのではないか。

よく知られているように、春日大社の本殿では、御祭神が四人おられるが、主要な第一殿は、鹿島神宮の祭神、建御雷神であり、第二殿は香取神宮の祭神、経津主命である。この大和における最大の神社が、御祭神として東国の鹿島神宮の祭神をおいていることは、単に、藤原氏の祭神だから、というだけでなく、天皇の為政において、建御雷神の守護がいかに重要かを示している。

鹿島にある、鎌足神社は、藤原鎌足が生まれたところと伝えられ、その当時は、海(霞ヶ浦の北浦)に面していたと考えられる。鎌足という名は、かなり年をとってからの名で、幼名は鎌子であり、藤原という姓は、大化改新の後、天皇より頂いたもので、前は中臣という姓である。中臣とは、神と人の中をとり持つことを意味すると同時に、数ある臣(おみ)のなかでも中心的な部族を意味している。単に、氏族の家柄という程度のものではないのである。

その祖は津速魂神(つはやたまのかみ)三世の孫、天児屋根命(あめのこやねのみこと)である。津速魂神は中臣系譜に見える神であって、あるいは高皇産霊(たかみむすびの)神の子と伝えられるという。天児屋根命は、天照大御神が、天岩戸に篭ったとき、岩戸の前で神楽を奏し、布刀詔戸言(ふとのりとごと)を奏上した神である。天孫降臨に際して、降臨に従っている。このことは、先に述べた、天孫降臨が「鹿島立ち」から始まり、鹿島から鹿児島への海からの降臨であった御船祭によって、象徴されると述べたが、そのとき、この神も、そこにも加わって、瓊瓊杵尊を助けたと考えられる。

《その系譜については、崇神天皇の御代には中臣神聞勝命が奉幣して鹿島に居住したのが、鹿島の中臣氏のはじめであろうと、東氏は考える。そのこの前後にわたって、東国に大和から遣わされた多くの人々が東国に居住し、大和と東国を結ぶ絆となるのであり、中臣氏も同様に、武甕槌神と神系と婚姻し、やがて何かのきっかけで神主、大宮司と進んだと述べている(64)。とするが、もっと前であろう。

『常陸国風土記』で坂戸神社は、坂戸の社、と書かれ、天の大神の社(建御雷神)、坂戸の社(天児屋根命)、沼尾の社(経津主神)合わせて三つの社を、香島の大社と呼んでいるのである。この三社が、御船を出し、天孫降臨に向うのであろう。

関東の神社は、日本の東端であり、太陽が上るところ、日立=常陸がそこにあたる。そして、重要なのは、日の出日没の東西ラインを守る神々といってよい。中でも鹿島神宮、香取神宮と、富士山を結ぶラインが重要である、ということになる。鹿島の祭神である建御雷神は、『紀記』などに書かれているように、神武天皇の前に、国の統一をした神であり、そこに高天原があったと考えることは、考えてみれば、自然なことである。

こう考えると、鹿島を中心にした東国は、高天原の威光を体現した、重要な地域であり、歴史上に大きな役割を演じたといわなければならない。重要なのは、『記紀』で書かれなかった関東の役割を、ここで明確に、大きな役割として、強調しなければならなくなったということである。そしてその基本に、富士山を仰ぎ見る、関東の鹿島を中心に、高天原としての重要な地域だった、ということである。平野には水の豊かな水田はあったし、砂鉄からは農具だけでなく、武具が造られ、ここの鉄剣は、出雲のそれを凌ぐものであった。「国譲り」を、実際に戦わぬまま、実現させるだけの圧倒的な威力をもっていたのである。《『延喜式』神名帳に、天神地祇三千一百三二座のうち、神宮号をもつ神社は、伊勢神宮をのぞいて鹿島と香取の二社以外にない、という高い評価は、鹿島神宮と建御雷神の想定される大いなる業績によって、古くから認識されていたものと考えられる。

(1) 拙論「国譲り神話」と出雲の銅剣、銅矛、銅鐸」『日本國史學』第二号、日本國史學会、平成二十五年三月二十五日発行。
(2) 原文は漢文。『当社列伝記』(東実『鹿島神宮』学生社、二〇〇〇年、改訂版、二〇一二年、二六‐七頁)
(3) 東・前掲書二七頁。
(4) 東・前掲書三十頁。
(5) 『鹿島神宮誌』東・前掲書三三頁。
(6) 東・前掲書三三頁。
(7) 拙著「文字より「形」の日本文化」『美しい形の日本』ビジネス社、平成二五年、十~三十頁。
(8) 『日本書紀』巻第二 神代 下(坂本・家永・井上・大野・校注『日本書紀』(一)岩波書店、平成五年。
(9) 『日本書紀』巻第二 神代 下
(10)  東・前掲書三七~三八頁。
(11) 『古事記』上つ巻。
(12) 『古事記』上つ巻。
(13) 『日本書紀』巻第一 神代 上
(14)  東・前掲書四八頁。
(15) 東・前掲書六十頁。
(16) 『常陸風土記』香島の郡。(『風土記』古賀裕訳、平凡社、二〇〇〇年、三六頁。橋本雅之「古風土記の世界観と「天」」『風土記研究の最前線』新人物往来社、二〇一三年・参照)。
(17) 鹿島の由来について、 東・前掲書、八九頁。
(18) 東・前掲書八九~九〇頁
(19) 『当社列伝記』東・前掲書・九〇頁。
(20) 防人歌『万葉集』巻二十、四三七〇。
(21) 『当社列伝記』
(22) 東・前掲書九二頁。
(23) 新井白石「高天原の本義解釈」では、高天原の「高」は、『常陸国風土記』の「多珂」のことで、「天」は「阿麻」と『古事記』では注記されている。「阿麻」は「海」(あま)のことであり、「原」は、「播羅」のことで、上古のならわしにおいてこれは「上」(ほとり)のことである、と述べている。つまり「多珂阿麻播羅」のことで、「多珂の海のほとりの地」という意味である、という。(「古史通」『新井白石』中央公論社、一九八三年発行、二六八頁。
(24) 東・前掲書九八頁。
(25) 『古事記』上つ巻。高天原
(26) 『日本書紀』巻第二 神代 下
(27) 『古事記』上つ巻。
(28) 『日本書紀』巻第二 神代 下
(29) 『古事記』上つ巻。
(30) 『日本書紀』巻第二 神代 下
(31) 『古事記』上つ巻。)
(32) 『日本書紀』巻第二 神代 下
(33) 折口信夫「異郷意識の進展」東・前掲書九八頁。
(34) 東・前掲書九九頁。
(35) 東・前掲書一〇二頁。
(36) 東・前掲書五九頁。
(37) 『常陸国風土記』信太の郡、『風土記』前掲書、口語訳、二十三頁。
(38) 『伊勢国風土記』逸文、東・前掲書六一頁。
(39) 『常陸国風土記』香島の郡、『風土記』前掲書、口語訳(『鹿島の歴史』平成十八年、104p)
(40) 『常陸国風土記』行方の郡、『風土記』前掲書、口語訳、二七頁。
(41) 東・前掲書六六頁。
(42) 東・前掲書六四頁。
(43) 東・前掲書六六頁。
(44) 東・前掲書七十頁。
(45) 『常陸国風土記』筑波の郡。『風土記』前掲書、口語訳、十九頁。
(46) 『万葉集』巻三、三八五
(47) 『万葉集』巻九、一七五七。
(48) 東・前掲書七二頁。
(49) 東・前掲書七二頁。
(50) 『日本書紀』巻第一、神代 上
(51) 『常陸国風土記』筑波の郡。『風土記』前掲書、口語訳、十九頁。
(52) 『日本書紀』巻第二、神代 下。東・前掲書八〇頁。
(53) 『中臣(なかとみの)寿詞(よごと)』祝詞、東・前掲書七八頁。
(54) 『常陸国風土記』香島の郡、『風土記』前掲書、三七頁。
(55) 東・前掲書八三頁。
(56) 東・前掲書八五~八六頁。
(57) 東・前掲書八六頁
(58) 東・前掲書八七頁。
(59) 東・前掲書一一二頁
(60) 北畠親房『神皇正統紀』(山田孝雄校訂、一穂社刊、四八頁)。
(61) 『常陸国風土記』香島の郡、『風土記』前掲書、三六頁。東・前掲書一一四頁。
(62) 『日本書紀』巻第五、東・前掲書、一二八頁。
(63) 『常陸国風土記』香島の郡、『風土記』前掲書、三六頁
(64) 東・前掲書一三九頁