ローマと私 2

田中英道 ※平成29年10月24日掲載

はじめに
 一年以上前に「ローマと私」という題で、ホームページに予告したのに、まだ一回しか書いていないので、私がいい加減な書き手だと思われている方も多いに違いない。私が忙しいので、暇がないのだろうと、あきらめている方もいるかもしれない。
 しかしとにかく私にはその意欲はあることは内的に確かなことだ。ローマとは、フランスに仏・国費留学生として欧州滞在して、旅で訪れてから、五十年以上、イタリアの伊・国費留学生としては一年過ごしてから、四十五年以上のローマとの付き合いであるから、書くことも多い。しかし、何か、思い出の記を書く時期ではない、という思いもある。というのも、ローマとユダヤ、日本とユダヤの対象性を繰り込んだ形で、書く歴史の本はまだ書いていないから、ローマとの関係が、まだ深く認識していない。そのことが大きいかもしれない。エッセイというものは、学者にとって研究論文の後に、出来上がるものだからだ。
 しかし、ものを描く順序というものは、必ずしも人生の順序ではない。書きたいと思うときに書けばいい、という面は自然である。いずれにせよ、私は七十五才になった。思い出が多くあるのは当然である。
 すでに述べたが、私の留学先は、最初はフランスのパリであり、ストラスブールであった。そして次はフィレンツエであり、ローマの後はミュンヘン、ベルリンであった。また文科省の海外研究費で、五年以上、ヴァチカンのシステイナ礼拝堂天井画調査を行い、毎年3ヶ月のローマ滞在の便宜をえた。いちいち滞在の思い出は深い。國際美術史学会に、必ず発表することにしていたから、その滞在先は、ロシア、中国、メキシコ、ブラジル、メルボルンにまで及ぶ。その思い出を書くこともできるであろう。
 実をいうと、今これをローマで書いている。考えてみれば、私が「ローマと私」を書かなかったのは、日本にいて、ローマは、それほど緊迫した存在ではなかったからかもしれない。書店の注文で書く、という不純な動機は、私は好まないから、こうなってしまうのである。原稿料が出るから書く、というのは、私の流儀ではない。それでは、短いものは書いても、長い著述は出来ない。長いものは、書店に、必ず、私の方から、お願いすることが多かった。自費出版も往往にしてある。
 従ってローマで書くのが一番てっとり早いのかもれない。都市を目の当たりにして、緊迫感があるからである。ローマは毎年一度か、この頃は二、三度来るようになったが、それを思いつかなかったのは、例えば、このノートパソコンを持ち歩くことがなかったからかもしれない。今回はじめてこれを持って来た。こうしてどこでも書ける道具があると、手書きで小さなノートに書いていたときの、いい加減さが、反省される。手書きで書く手帳類は、かなりたまったはずだが、それらはこうしてまがりなりに、発表するように書けていない。あらたに書き直すことになる。
 私は日記というものを書いたことがない。日常的なことには、余り関心がないからかもしれないが、今回やって来て、歩くたびに日本人としての思い出が溢れ出て来て、書かざるを得ないと思うようになった。日常的なことではない。まさにローマという都市が、日本人の私に語りかけてくるものに対してである。
 大づかみで言えば、ローマについて書く気がするのは、その総合性である。他の都市は、愛着があるものの、みなキリスト教徒になったゲルマン民族がつくった都市であった。しかしローマは違う。この都市には「古代」のつくローマがあった。残念ながら遺跡でしか残されていないが、そこには異なる宗教があり、異なる民族がいた。そしてローマには、多くのユダヤ人もいた。ユダヤ人によってもたらされたキリスト教が、ここで育てられ、この都市で受け入れたのである。