カラヴァッジオはジプシーの世界を描いた

 – 2016年の「カラヴァッジオ展」(西洋美術館)に寄せて

  1. 日伊修好一五〇周年
  2. カラヴァッジオが描いたもの
  3. ジプシーという存在
  4. 自分を描く
  5. 教会に拒否された絵
  6. 暗さが意味するもの―巧みな舞台設定
  7. カラヴァジェスキの画家たち
  8. なぜジプシーを描いたか
  9. ラ・トゥールが描いたジプシー
  10. 革新的な絵画を生み出した天才

1 日伊修好一五〇周年

二〇一六年は日本とイタリアの国交樹立一五〇周年にあたり、これを記念した美術展がいくつか開かれていますが、その目玉の一つとして東京・上野の国立西洋美術館では三月一日から六月一二日までのおよそ三か月半にわたり「カラヴァッジオ展―ルネサンスを超えた男。」が開催されました。

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(図1)「バッカス」

例えばこの絵はカラヴァッジオの若いときの代表作の一つですから、イタリア政府がこうしたものを出展してきたということは彼らがこの美術展にいかにいい作品を提供しようと力を注いだかがよく分かります。

この美術展の主催は読売新聞社とNHKですが、主催者が誰であるかに関係なくあくまで日本という国を相手に文化外交を行っているというのがイタリアの基本的な立場です。私たち日本人は美術展の主催者など資金拠出しているところだけを考えますがイタリアは違います。 イタリア文化省によると、日本に対して優れた美術を提供しているにもかかわらず日本はほとんど何も出してこないというのです。また、例えば北斎展などいい作品を集めた美術展を行った場合でもそれは文化庁自身が実施主体ではないので、イタリアから見れば日本が国として対応していないことになります。

日本の場合には文化庁すなわち日本政府ではなく民間主導の文化外交なのです。ですからイタリアで実施するものも、ミラノやローマあるいはフィレンツェで開催したいという要請が来ないとやりません。つまり文化庁が日本文化を外国に発信しようという意欲があまりないのです。しかし何かイベントがあればそれに参加することはあるわけで、私たちが今年八月に予定している「日本仏像展」もイタリアが要請しているという形にして出展対象を私が推薦したというのが実情です。

今回のカラヴァッジオ展では、いいものを積極的に出展するというイタリア側の姿勢に応じて日本側は文化庁ではなくNHKと読売新聞という民間機関が働きかけ、国立西洋美術館が具体的な取組を行うという形になっています。確かに国立西洋美術館が文化庁と言えなくもないのですが、今回の場合は日伊修好一五〇周年という国家間交流の記念すべき節目の年であるためイタリア側がいい作品を提供しているという事実を私たちはきちんと認識する必要があります。

先日、私もこの美術展を鑑賞しましたが、そこで気が付いたことについて以下に述べてみたいと思います。

2 カラヴァッジオが描いたもの

今でこそ芸術というものは国や美術館が保護していますが、もともと芸術それ自体はこうしたものとは無関係な存在であって、作品が生まれたときは個人が作って個人がそれを守ります。しかし残された芸術作品の文化的価値は誰かが守れねばならず、いずれは国家がそれを保護する必要があります。たとえばカラヴァッジオが生み出した作品は国家的遺産、世界の至宝、普遍的なものになるわけで国家がそれを守らねばならないのです。

芸術が生み出されるためには個人と公(共同体や国家)の両方が欠かせません。すなわち芸術というものは人間の苦悩や心の機微、内面を表現ものであり、そのためには「個」というものが表情に現れなければなりません。と同時に「公のために」という意識を持って描くことも必要です。個人と公とは互いに対立するものですが教会や宮廷などの絵の発注者も両者のバランスを求めます。簡単なことではありませんが個と公の結合によってこの矛盾を克服してはじめて芸術が生まれるのです。

カラヴァッジオの正式な名前はミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ(Michelangelo Merisi da Caravaggio)といいますが、その意味ではあの有名なミケランジェロ・ブオナローティ(Michelangelo Buonarroti)に続く「第二のミケランジェロ」といってもいい人物であると思います。

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(図2)「病めるバッカス」

カラヴァッジオは無頼漢のような顔をしています。この顔もよく自画像と言われます。カラヴァッジオは一五七一年にミラノに生まれ、亡くなったのは一六一〇年ですが、死後ちょうど四〇〇年たった二〇一〇年に非常に詳しい調査が行われ、ローマに来たのが一五九五~六年という遅い時期であるらしいことがほぼ分かってきました。しかし私たちは一五九〇年前後にすでにローマに来ているのではないかと推測していてそれとは少々矛盾しますが、初期の絵としてはこの(図2)「病めるバッカス」のようなものが多いのです。

ミラノに生まれたカラヴァッジオがなぜローマに来たのかという疑問があります。その時期が一五九六年ころとなると二五~六歳でローマに来たことになりますが、やはり二〇歳くらいの時に来たというほうがリアリティーがあります。

若い少年の裸身像はカラヴァッジオらしいというだけでそれ以上のことは考えないのが一般的な見方かもしれませんが、実はそれがこれまでのカラヴァッジオ研究に欠けていた点です。つまりこれはカラヴァッジオ独自のレオナルド的な感覚なのです。レオナルド・ダ・ヴィンチは男の子か女の子か分からないような絵を描きましたが、私は、カラヴァッジオがロンバルディア州(=Regione Lombardia イタリア北西部にある州で州都はミラノ)にあるレオナルドが残した「聖ヨハネ」のようなアンドロギュノス(両性具有)という男女両性的な少年像を理想化したという説を以前に出したことがあります。

これは不気味な男の子か女の子か分からないような両性的な顔で確かにいやらしいという感じがして、いまどきの流行りのニューハーフのような印象を受けます。私はこれが何であるのかを考えてみました。その結果、これらがジプシー(gypsy)ではないかという考えに至りました。

ジプシーは私たち日本人にとってあまり馴染みのない存在ではありますが、ユダヤ人と同様ヨーロッパが抱える深刻な人種問題であり、この問題が分からないとヨーロッパは理解できません。そこで先ずジプシーとはどのようなものか述べてみたいと思います。

3 ジプシーという存在

ジプシーという言葉は日本語と英語(gypsy)だけで、イタリア語ではツィンガリ、フランス語ではジタン(Gitan)といいます。ちなみにフランスの有名な煙草のブランドに「ジタン」(Gitanes)というのがありますがこれは「スペインのジプシー女」を意味します。ドイツ語でジプシーはツィゴイナー(Zigeuner)といいますが、サラサーテ作曲のヴァイオリン曲のツィゴイネルワイゼン(Zigeunerweisen)は「ジプシーの旋律」という意味です。またビゼーが作曲したフランス語によるオペラ「カルメン(Carmen)」の登場人物のカルメンは煙草工場で働くジプシー女です。

一般にジプシーとはヨーロッパで生活する非定住型の民族をいいますが、ジプシーという言葉は「エジプトから来た人」という意味の「エジプシャン」から生じたものと言われます。二〇世紀に行われた、ジプシーが話す言葉に関する研究によって、彼らはインド・アーリア民族の一つで恐らく仏教を作ったかなり古い民族の言葉を使っていることがわかりました。つまりジプシーと言われる人たちはもともとインドからやって来たことになりますが、いつごろから移動を始めたのかはよく分かっていません。それが一五世紀になってヨーロッパに現れたわけです。

ヨーロッパにいるジプシーの多くはインド北部に起源を有するロマ(Roma)という民族でロマ語を話します。日本ではジプシーは差別用語とされ通常はロマという言い方をしますが、ジプシーの中にはロマ以外の民族もいますからこの用語が必ずしもジプシー全体を表しているわけではありません。彼らの宗教が何であるかはユダヤ人がユダヤ教を基盤としているのとは違ってはっきりとはしません。いろいろな土地に行ってそこの宗教に依拠してそれに同化してしまうことが多いのです。ヨーロッパに入って来る人たちは基本的にはキリスト教を宗教とするようになり、ローマ教皇の許可があると言って街に入ってきます。彼らは一五世紀前半頃までは歓迎されローマを訪れる巡礼者と認められたのです。

彼らは次第に定住するようになりますが安定した職業を持たず、またユダヤ人のように金貸しで儲けるといったように商売に勤しむこともなく、泥棒やスリ、詐欺など手っ取り早くおカネが手に入る犯罪に手を染めるようになって周囲から憎まれる存在となっていきます。一六世紀ころになるとその土地(都市)から排斥されるようになりました。

ジプシーを特徴付けるものとしてまず思い浮かぶものは音楽と踊りです。流れ者の彼らがどのようにして稼ぎ、日々の糧を得るのかといえば、いつも泥棒やかっぱらいをやっているわけではなく、例えば祭りともなると音楽を奏でて収入を得るのです。フェデリコ・フェリーニ(Federico Fellini)監督の戦後の作品に「道」という映画がありますが、あれもジプシーのようなものでアンソニー・クイーンがレスラーの格好をして強そうなところをみせるのですが、あのような流れ者、ボヘミアンの姿を見ればジプシー的なものが現代まで残っていることが分かります。ボヘミアン、ディアスポラ、あるいは逃散といった「逃げる人生」というのはジプシーの姿そのものです。

ユダヤ人はロスチャイルド系をはじめとして世界的な金融資本を握って支配的な地位を有していることもあって、彼らについてはいろいろな研究がなされています。特に日本ではユダヤ人問題に対する関心は高く、多くの本が出ておりこの問題に詳しい人もたくさんいます。しかしジプシーの問題となると私たちの意識から抜け落ちてしまっているのです。ジプシーはユダヤ人同様、第二次大戦でナチスによるホロコーストの対象になったにもかかわらず、戦後ユダヤ人虐殺だけが問題視されたのはどうしてでしょうか。

それは生き残ったユダヤ人が巨額の資金で銀行を作り、キリスト教やイスラム教が禁じた利子を取るなどして獲得した金融支配力を背景として全世界に対してホロコーストによるユダヤ人の被害を大々的に喧伝したからです。ユダヤ人は徹底的な批判を新聞、テレビなどのあらゆるマスコミ、本などの手段を駆使して展開してきたのです。

それに対してジプシーはユダヤ人と同じような被害に遭ったにもかかわらず、ドイツ人やその他のヨーロッパ人に対する闘いを何もやっていません。何もできないといったほうがいいかもしれません。せいぜい地下鉄の中でかっぱらいをやるぐらいのものです。いまは音楽を奏でる人も少なく、学生や若者がやっているのはジプシーの真似であって戦後の風俗に過ぎません。

金融の役割をユダヤ人に任せたことがユダヤ人を太らせる原因になったことは別の問題としてあるのですが、ジプシーが流浪の民となってユダヤ人同様にディアスポラとして迫害を受けてきた歴史はユダヤ人ほどには強調されず惨めな存在として今日に至っているのがこのジプシー問題なのです。

確かにジプシーは貧しい流れ者として軽蔑され、ユダヤ人と同じように差別の対象となっているのですが、一方では例えばフランスで出ている「ジプシーの謎」という本にはジプシーが非常に魅力的な顔で描かれており、彼らは流れ者に特有のある種のエキゾチシズム(exoticism)を体現する存在でもあるのです。

二〇年前くらいにローマに行けば日本人は必ずと言っていいほどジプシーの被害に遭いました。新聞紙を持った少年や少女たちに四~五人で囲まれると特に女性はなす術もなくやられてしまいます。最近では取締りが厳しくなりましたし、いまはイスラム問題の陰に隠れて一見目立たなくなってはいますが、ヨーロッパの放浪者であるこのジプシーの問題がいま象徴的な移民問題として各国に一割近くの人々が居座っている現状がクローズアップされています。ヨーロッパの焦眉の問題となっているこの人種問題はユダヤ人問題と並んで深刻かつ重要なものであることを忘れてはなりません。

現在注目されている米国大統領選で共和党候補となったドナルド・トランプは移民受け入れを拒否すると言っていますが、彼の娘もユダヤ人と結婚していますし、彼自身もユダヤ人との繋がりが深い人物なのです。人種差別のようなことを口にすれば自分にそのしっぺ返しが来るに決まっています。

私たち日本人には欧米諸国における人種問題を感知する敏感さがありません。そもそも日本にはジプシーが来たことがありませんからジプシーという概念そのものがないのです。日本人は人間は誰しもみな同じであると考えるのが常で日本に来る他の人種の人々をみな同化させてしまいますから、日本には深刻な人種問題というものはほとんどありません。

4 自分を描く

ジプシーを描いた絵の元祖が前掲の(図1)「バッカス」で、このことは私も今回のカラヴァッジオ展を見てはじめて気が付きました。カラヴァッジオ展の図録の表紙にもなっているこの有名な絵は今回の出展作品の目玉です。この人物は確かにカラヴァッジオ自身でしょう。

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(図3)「女占い師」

これは「女占い師」というタイトルで、占いをしている左の女性がジプシーです。これは明らかにカラヴァッジオがジプシーの世界を知っていた証拠です。この青年は聖書の「放蕩息子」の主題から来たものですが、こうしたジプシーが「放蕩息子」の愚かさを示すための悪役を演じています。しかしジプシーのことが旧約聖書に書いてあるわけではありません。当時の西洋でジプシーがそのような存在であったことをカラヴァッジオは知悉していたのです。

前掲の(図2)「病めるバッカス」はカラヴァッジオの若い時の自画像です。私は「画家と自画像」(講談社学術文庫)という本で西洋の自画像の歴史を書きましたが、カラヴァッジオは自分の絵の中にいくつも自画像を描いています。この絵をはじめとして一連のこうした像がすべて自画像であることが分かりますが、重要なことはカラヴァッジオがなぜこうしたものを自画像として描いたのかということです。

これまではカラヴァッジオ自身がホモセクシャルで少年愛の対象になるような人物であったためと言われてきましたが、本当にそれが理由であったのかどうかは分かりません。カラヴァッジオは未婚でしたし、ボヘミアンのように自由奔放な性格であったことは確かですが、彼は自分がホモセクシャルであることを隠してはいませんから、そういう人物であることがわかれば教会の法に触れるわけです。教会はホモセクシャルティーを禁じており、今でもカトリックではそういう面があります。しかし実際には本音と建前は違っていてホモセクシャルティーがカトリックの世界でも許されることが一方ではあるのです。

このことを絵の主題にしたのはカラヴァッジオがジプシーに対するある種のロマンチシズム(romanticism)の感情を抱いていたからでしょう。これまでカラヴァッジオについて書かれた本では彼が非常に民衆的な画家であると言われていますが、それが戦後カラヴァッジオが持て囃されている理由なのです。

戦後は社会主義思想や労働者運動が盛んで、それに呼応して芸術の世界でも「民衆的なのは誰か」などと言って日本では民芸運動が盛んでした。農民が作った土器や民具といった民芸品が流行って、日本の教科書はそればかりを中心に現代美術を語っていたのです。そしてヨーロッパではカラヴァッジオが民衆的であるというので非常に人気がありました。私が東北大学にいたときにも韓国の学生が民衆的で社会主義的であるという理由でカラヴァッジオの研究を始めましたが、困難なため途中で諦めて研究対象をドイツの表現派・社会主義派の画家に変更したことがありました。

このようにイデオロギーによって美術を見た結果カラヴァッジオの人気が高まったのです。しかしそのことによってカラヴァッジオの本質が分かったり、カラヴァッジオ研究が進んだりしたわけではありません。そもそもイデオロギーが文化を進めることはないのです。イデオロギーはある種の特定の領域の考え方に過ぎないのであって、やはりかえって土着の考え方や当時の人々のあり方にカラヴァッジオという芸術家が非常に関心を持っていたということなのです。先ほどの「女占い師」に対するのと同じ意識がカラヴァッジオのすべての絵画に影響を与えているのです。

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(図4)「カラヴァッジオの肖像画(オッタヴィオ・レオーニ作)」

これはカラヴァッジオ自身の自画像ではありませんが彼を描いたなかなかいい絵です。これを見る限りホモセクシャルであるような顔には見えません。元来はカラヴァッジオの絵を見ると男そのものという印象を受けますが、しかし同時に少年愛者である可能性も十分にあります。

カラヴァッジオは五歳のときにペストを避けるために家族とミラノを離れてカラヴァッジオ村に移りました。彼の名前に「カラヴァッジオ」とあるのは「カラヴァッジオ村の人」という意味です。その後カラヴァッジオは一三歳のときにミラノの後期マニエリズムの画家シモーネ・ペテルザーノ(= Simone Peterzano一五三五~一五九九年)の工房に徒弟として入りそこで四年間勉強しました。このあたりのことも含めカラヴァッジオについては私の「イタリア美術史」(岩崎美術社)にも詳述しました。カラヴァッジオの影響を受けた画家のひとりである一七世紀フランスのラ・トゥール(=Georges de La Tour 一五九三~一六五二年)の研究で私は博士論文を書きましたのでカラヴァッジオの作品はすべて見ているのです。

カラヴァッジオが民衆的になった、あるいは絵画に革新をもたらしたと言われるのはどうしてでしょうか。それまでの絵画はほとんどがアカデムズム、過去の神話や宗教、あらゆる伝統的な知識や人々の教養といったものを体現した上で、その画家の個性や彫刻家の技量などを発揮して描かれてきたのですが、カラヴァッジオの場合は「生の感じ」がするのです。何かを見て描いている、何かを観察して描いているからこそ「生の感じ」がするのだと思います。これまでの既存の概念、例えば天使やキューピッドといったある種の既成の型があってそれをもとに描くようなことはしていないのです。

前掲の(図1)「バッカス」にしても元来であればより可愛くそして高い宗教性を持った高貴な感じに描いたでしょう。しかしこの絵はどこか下衆で野卑な感じがします。

前掲の(図2)「病めるバッカス」にしても同様の感じがします。どう見ても素晴らしい芸術を生み出した人物には見えません。

カラヴァッジオは今でこそ国の宝などと言われますが、当時はラファエロやミケランジェロなどと同等に語られることはありませんでした。今日カラヴァッジオの評価が高いのは二〇世紀が社会主義の世紀であったためある意味当然なのですが、しかし現在の解釈では「民衆的」と言ってもそれは社会の下層の人々を重視したり同情を寄せたりして描いたということではないのです。カラヴァッジオ自身がそういう人物であったことがこの自画像を見ても分かります。絵の対象となる人々を自分と同じ庶民として描いたのですが、そこになにか聖なるものを感じてわざわざそれを描こうという気持ちになったのでしょう。

5 教会に拒否された絵

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(図5)「聖マタイと天使」(第一作)

この天使の顔がこれまでの天使の顔とは明らかに違います。そしてこの聖マタイの顔も教会の壁を飾るこれまでのような聖なる顔ではありません。この老人(聖マタイ)の粗野な顔はどう見ても高貴な顔には見えませんし、少なくとも聖なる僧侶として描かれているとは思えないのです。実はこの辺がカラヴァッジオの真骨頂ともいえるのですが、天使にしても高貴な顔ではなく官能的でセクシャルな顔をしています。女性が足を絡めているという感じで明らかにホモセクシャルの現場を描いているようなものです。この聖マタイというのはキリストの言葉に従って福音書を書くような人物ですから、本来であれば最も理想化されてキリストに近い聖人として描かれなくてはいけないわけです。

実はこの絵のモデルがジプシーなのです。モデルにジプシーを使うことはカラヴァッジオがはじめたといってもいいのです。先ほどの「女占い師」のように明らかにジプシーを描いた絵もありますが、今度はあらゆる顔にジプシーの顔を描いていくのです。

この絵は教会から拒否されてしまいましたが教会が顔をしかめるのも当然という絵です。なおこの絵はベルリンのプロイセン王室コレクションとなっていたため第二次世界大戦時の空襲で焼失してしまい現在は写真しか残っていません。

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(図6)「聖マタイと天使」(第二作)

カラヴァッジオは第一の絵が教会から拒否された後にこの第二の絵を描いています。この「聖マタイと天使」はローマにあるサン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会(San Luigi dei Francesi)・コンタレッリ礼拝堂にある有名ないわゆる「聖マタイの三部作」(=「聖マタイのお召し」「聖マタイの殉教」および「聖マタイと天使」)の一つでその中央に飾られる絵として描かれたものです。なお、この三部作は礼拝堂壁画で通常使われるフレスコ画ではなく油彩画で描かれました。明暗の微妙な調子はフレスコ画では表現できないからです。(「イタリア美術史」(田中英道)五〇九頁を参照・引用)

サン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会というのはナヴォーナ広場の近くにありますが、これは第七回十字軍を指揮したフランス王で聖人にもなったルイ九世(一二一四~一二七〇年)を祀る、ローマに住むフランス人のための国民教会です。

6《暗さが意味するもの―巧みな舞台設定》

[図7] 「聖マタイの殉教」
(図7)「聖マタイの殉教」

これは有名な「聖マタイの殉教」という絵です。前出の「聖マタイの三部作」のひとつで先ほどの「聖マタイと天使」の右側にある大作です。この絵はマタイが殺される場面を描いたものですが、マタイの周囲にいる人たちはみなジプシーだと思われます。マタイを捕まえる人物がもしもローマ兵士であるとしたら裸のローマ兵士などいるでしょうか。きちんとした兵士の格好をしている者は見あたりません。後方の人物の中に兵士らしき格好をした人はいますが、そのほかの人はどう見てもみな無頼漢にしか見えません。

この子供にしてもおかしな子のような感じがします。知恵遅れというか、ストレートに表現すれば差別用語となる言葉で形容されるような子供です。こうして街にいる子供たちは保護されることもありませんでした。昔でも通常の場合は孤児院に収容されたのですが、それでも施設に収容されない子供たち、子供を孤児院に預けることができない人たちとは誰かということです。それはジプシーあるいは今でいえば東欧や中東などから来る移民です。そこに居住権を持たない人、国籍さえないような人が放置されていたのです。もっとも自発的にそうした生活を送ることもジプシーなりの一つの生き方なのです。この絵(図7)を見るとセムシの人もイザリで足が悪い人もいます。無理をしている様子で決してまともな状態ではないようです。この病気がどのようなものであるかは外科の専門家に聞けば分かるかもしれません。

こうした人たちが実際に周囲にいたのでしょうが、場所としては地下室のような感じで描かれています。マタイというのは収税吏で一応まともな生活をしていた人物ですが、そのマタイが生きていたような場所にはとても見えません。しかしカラヴァッジオが絵を見た者に「面白いな」、「こんなところがあるのか」と思わせるところがこの絵が傑作と言われる所以です。私たちは絵を写真のような感覚で見て、当時実際にそういう場所があったと思っていますがそうではありません。そこにはカラヴァッジオの巧妙な舞台設定があるのです。

この絵をもう少し詳しく見てみましょう。この絵の登場人物がなぜ裸かといえばジプシーだからで、ジプシーがなぜ裸かといえば前にも述べたようにホモセクシャルが多いからです。ジプシーには同族婚が多いので少年愛の対象になりやすく、常に固まって一緒に生活していれば当然男女間の関係が乱れて異常な性的関係が生じてきます。

同族婚のためではないかと思われますがこの人は痴呆症のような顔をしています。一方まともな人は離れたところから見ています。そしてここにはカラヴァッジオ自身が描かれています。この顔は先ほどの顔(カラヴァッジオの肖像画の顔)とそっくりですから本人であることが分かります。

カラヴァッジオは自分自身がこうした異常な世界にいることをこの絵を通じて表現しているのです。この絵は無頼漢の少年が一人の倒れた男(マタイ)を棒で打とうとしている場面です。そしてそれを誰も助けようとしないのですが、上のほうから棕櫚の枝を差し出す天使がいて、あと少しでそれに届くところに倒れた男(マタイ)が手を伸ばしている様子が描かれています。

実はこのことを誰も説明していないのですが、倒れた男(マタイ)に対する救済の棕櫚の枝を天使が差し出しているところがこの絵では非常に重要です。つまりこの棕櫚の枝がなければこの絵は単なる悲惨でサディスティックな絵になってしまいます。さらに注目すべきことはこの裸の無頼漢の少年がホモセクシャルで少年愛の対象になっていることで、それがジプシーのひとつの属性だということです。この少年や先ほど説明したバッカスはみな明らかにジプシーだということが分かります。

カラヴァッジオはジプシーを主題として絵を描きました。彼はミラノで恐らく殺人を犯したのではないかという感じがしますし、先ほどの肖像画の顔を見ても非常に荒っぽく苛立ちやすい性格のように思われます。しかし絵を描くときはそれに集中して物凄い天才ぶりを発揮し実に細かいところまで何事も揺るがせにしない画家だったのです。

[図8] 「聖マタイのお召し」
(図8)「聖マタイのお召し」

これは「聖マタイのお召し」というタイトルで、先ほどから述べている「聖マタイの三部作」のひとつとしてコンタレッリ礼拝堂の壁に向かって左側にある絵です。

これ(中央の指をさす髭の男)が聖マタイです。これ(左端のうなだれる人物)は聖マタイではありません。カネ勘定をしているこの人物は収税吏ですから税金を取るのが仕事です。ここには兵士がいて税を払わない者は捕まえるというので剣を持っているのですが、この顔も、この顔も、この絵では大体がまともな人物として描かれています。ここ(画面右端)にキリストがいて、キリストが「マタイ!」と言うと、「私ですか?」というマタイを自分の弟子として連れて行こうとする場面が描かれています。

こうしてカラヴァッジオは巧みな舞台設定により精彩を放つピトレスクな作品を多く生み出しました。カラヴァッジオの作品に対するNHKの説明では白黒の陰影法が素晴らしいなどと言っています。確かに表面的にはそう言えるでしょう。しかし問題は陰影法における暗さというのは何なのかということです。それは貴族や普通の一般市民たちの社会に外の世界から入って来たジプシーというディアスポラの民たちの陰影(暗さ)であり、その対照的な姿がカラヴァッジオの絵には表現されているのです。

7 カラヴァジェスキの画家たち

[図9] 「法悦のマグダラのマリア」
(図9)「法悦のマグダラのマリア」

今回はこの有名な「法悦のマグダラのマリア」が展示されていますがこの色をよく見て下さい。これは恍惚の表情を表現していますから青ざめた色で描かれるのは当然ですが、これはカラヴァッジオ本人の作ではないと思います。カラヴァッジオにしては単純過ぎて色が非常に少ないように感じます。またカラヴァッジオ本人が描いたものであれば表情にもっと微妙な表現や精細さがあってしかるべきです。

カラヴァッジオの絵は一見すると粗野に見えますが、それは描かれた人物が粗野なのであって表現力それ自体は念が入っていて非常に細かいのです。ところがそれがこの絵には見られません。「マグダラのマリア」に関連する絵は全部で九点くらいありますからそれらを一点一点検証するのもいいでしょう。なお一連の「マグダラのマリア」の絵には画家の署名があると言われますがそのようなものは後になって付け加えられるのです。

カラヴァッジオの表現力を考えてみてもこの絵にはその繊細さが見られません。確かに襞の表現は細かいのですがそれだけでは彼自身が描いた証拠にはなりません。というのはこれだけの技量を持った人物は直弟子も含めて周りにたくさんいたからです。カラヴァッジオの周辺にはサラチェーニ(=Carlo Saraceni 一五七九~?)やジェンティレスキ(=Orazio Lomi Gentileschi 一五六三~一六三九年)のようにカラヴァッジオに触発され大きな影響を受けたカラヴァッジェスキ(またはカラヴァジェスティ)と言われる人たちがたくさんいて非常に精細(精彩?)な絵をたくさん描いています。この人たちの技量は非常に優れていました。

カラヴァジェスキの作品をカラヴァッジオ自身のものと間違えてしまうことも多いのです。カラヴァッジオ本人の絵であれば値段は桁違いですから二流の美術史家はすぐに飛びついてしまいます。その場合は「カラヴァジェスキ」(あるいは「スクール・オブ・カラヴァッジオ」)と言えば問題ないのですが、その「スクール・オブ」が消えてしまうのです。カラヴァッジオの絵を新たに発見すれば大きな手柄になりその絵を売るときには何パーセントかのマージンが入るのでしょう。美術史家はその発見を自分の手柄にしたいのでそのように言うのですが、のちにカラヴァッジオ本人の絵ではないことが判明するケースがほとんどです。先日のレオナルド・ダ・ヴィンチ展(江戸東京博物館)についても同じことが言えます。

一流の画家というのはどのようなものでも決して揺るがせにしないのです。少々足りないと思うときに付け加えていく能力を持つ者だけが天才といえるのです。その意味でここまで見てきたカラヴァッジオの絵にはまったく揺るぎがないことが分かります。

8 なぜジプシーを描いたか

[図10] 「エマオの晩餐」(1600年の作)
(図10)「エマオの晩餐(1600年)」

[図11] 「エマオの晩餐」(1606年の作)
(図11)「エマオの晩餐(1606年)」

「エマオの晩餐」には今回出展されたこの絵(一六〇六年作)のほかにもう一つ同タイトルの絵(一六〇〇年作)があります。この二つの絵の相異がカラヴァッジオのこの時代の心境をよく示していて、一六〇六年の絵を一六〇〇年の絵と比較すればすべてがより現実的かつ内向的になっていることが分かります(「イタリア美術史」(田中英道)五一五頁を参照・引用)。

一六〇〇年の絵に描かれているのは明らかに一般の農民です。ところが一六〇六年の絵を見ると確かに貧しい農民という感じもするのですが、その風俗を見るとジプシーのように思われます。当時のジプシーの実際の風俗などから考えてその姿が一般の農民と変わらないからといって、それだけでここに描かれた人物がジプシーであることの証拠にならないのは確かですが、やはりこの絵の人物は一般の農民の顔には見えません。一般の農民にしては元気がないように思えるのです。またここに描かれているのは「晩餐」に登場する農民の家ですからそれなりに裕福な家であると考えるのが自然ですが、この絵の人物を見るとどこか貧しさを感じさせます。

カラヴァッジオはよく民衆画家だといわれますが、ジプシーという人々の描写に特化することによってはじめてカラヴァッジオ的なある種のポエジー、つまり前に述べたツィゴイネルワイゼンではありませんがそこにある種のメロディーが出てくるのです。

イタリアで最初にジプシーが北イタリアのミラノに現れたのが一五世紀でその後徐々に南下していくのですが、それからすでに一世紀以上がたっています。カラヴァッジオ自身もジプシーの血を引いているのではないかという感じもします。顔も生き方もそうなのです。彼がローマに出てきたのは一五九一年あるいは一五九五~六年と言われていますが、恐らく一五九一年ころだと私は思います。そのときからいろいろな所に住み込んで、やがて(公爵?)シピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿(=Scipione Borghese一五七六~一六三三年)やデル・モンテ枢機卿など何人かの公爵や枢機卿の有力な後ろ盾を得て絵を描くようになりました。

彼が暮らしていたのはおもにローマのナヴォーナ広場(Piazza Navona)周辺でそこはかなり民衆的な場所です。今でもそうですが広場にジプシーが集まって来て踊ったり音楽を奏でたりします。売春や占いで稼ぎながら典型的なジプシーの生活を送りますが、宗教的にはキリスト教徒でありそこがユダヤ人とは違いますから周囲の一般市民の中に溶け込んでしまうこともあるのです。

[図12] 「ロレートの聖母」(巡礼者の聖母)
(図12)「ロレートの聖母(巡礼者の聖母)」

ここに貝殻があるのは巡礼者のしるしで、有名なサンティアゴ・デ・コンポステラとに行く巡礼者は必ず貝殻を携行しています。これは巡礼者のふりをしているジプシーではないかと思います。ローマを訪れ教皇に会うためにバチカンに巡礼に来たというわけです。キリスト教徒であれば巡礼をするのは当然のことですが、そうした巡礼者を装ったジプシーたちの姿を描いたものだと思います。

着ている服が破けていてどことなく人物が胡散臭い感じがます。しかもその打ちひしがれ度も尋常ではないように思います。そのことが絵を劇的なものにしており単なる平凡な農民や一般の民衆ではないのです。もしもそれらをそのまま平凡に描いたなら二流の画家になってしまいますから、少し味を付けたりより極端にすることによって、このキリストの聖なる顔と対照的にドラマチックな表情や姿に描くわけです。こうした才能がカラヴァッジオの実に凄いところなのです。

これも有名な話ですがカラヴァッジオは一六〇六年にローマでテニスをしていて自分が負けた相手を殺してしまいます。それまでにも下宿屋の女将を脅したり、ヴァリオーニの画家と喧嘩して名誉棄損などで訴えられていて何度も警察沙汰になっています。

カラヴァッジオがローマにいたころにそのような生活をしているのも、どこかジプシー的な性格、枠に収まり切れない性格であったからでしょう。ジプシーはいつも逃げる生活、同じ場所に留まらない生活をしています。もともとその土地に定着して大画家になろうとか、そこでひと儲けしようなどと考えている人はおかしなことや諍いごとを起こしたりはしません。その点、同じディアスポラでもユダヤ人であれば得意の金貸しでもやるところですが、独特の性格を持つジプシーの場合はそうしたことはせず、苛立った生活、ケチ臭い生活を送ることになります。

テニスで負けたくらいで人を殺すなど普通はしないわけです。適当なところで収めておけばよいわけですが、カラヴァッジオの場合は殺人を犯してしまったために警察に追われる身となりました。ただ捕えられたとしてもこの段階ではすでに有力なパトロンがいましたから恐らく助けを期待できたとは思いますが、最悪は死刑の可能性もあるわけで逃げざるを得なかったのでしょう。彼はナポリ、シチリア、そしてマルタまで逃げました。

逃げる生活というのは極めてジプシー的なもので実際ジプシーも犯罪を犯しては街から逃げていく、泥棒した翌日にはその街にいないといった生活です。そのような生活を自分自身がはじめるあたりいかにもカラヴァッジオらしいといえます。

こうなるとこれまでのカラヴァッジオ観が変わってきます。反抗者としてのカラヴァッジオなどといって逃げ回る者を左翼学者たちが喜んで取り上げました。革命家ではないのですが戦後のディアスポラ的な感覚もあってノーマッド(=nomad:「放浪者」「流浪者」)などと持ち上げて、逃散者、逃げ回る人々のような人格を持つ人物としてのカラヴァッジオを称賛したのです。しかしジプシーという存在にある種の憧れの感情を抱いたカラヴァッジオがそのジプシーをモデルとして絵を描いたということであれば話は違ってきます。

[図13] 「慈悲の七つの行い」
(図13)「慈悲の七つの行い」

この(図13)に出てくるのは、いつも座っていて立てない人、ビッコというと差別用語になりますが、ある種の病弱者、服も持たず裸でいる人たちです。何となくまともではない、教育も受けていない、といった顔がたくさんでてきます。むろんそうした人物だけではなくまともな人たちも出てきます。

これは「慈悲の七つの行い」という絵で、マタイ福音書の七つの慈悲の行為を一つの画面に表現したものです(「イタリア美術史」(田中英道)五一七頁を参照・引用)。具体的には「死者の埋葬」「囚人の慰問、食物の施与」「衣服の施与」「病気の治療」「巡礼者の歓待」「飲物の施与」で構成されています(「カラヴァッジオ ー 主要作品の解説と画像・壁紙」(Salvastyle.com)を参照・引用)。この絵にはカラヴァッジオが異郷の地ナポリで出会った人々の「慈悲」が描かれているのかもしれせん(「イタリア美術史」(田中英道)五一八頁を参照・引用)。

この物語は古代ローマの話ですからローマ兵が出てきます。また、囚人となっている父親が牢獄から首を出して娘の乳を飲んで栄養を得るという父子の愛情の深さをよく表しています。父親に栄養を与えているのですが、カラヴァッジオがナポリあたりで出会ったジプシーたちがこうしたことを行っていたのかもしれません。実際、ローマでジプシーに会うと女性が出てきて乳房を出すことがよくあって、関心を惹きつけている隙に彼らは物を盗むのです。

これも非常にジプシー的な絵といえます。カラヴァッジオは自身もジプシーと似たような生き方をしつつジプシーを対象とした絵を描いた「ジプシーの画家」です。カラヴァッジオにとってジプシーは単に貧しく惨めな放浪者ではなく、街から街へと移動しながら自由気ままに生きるある種神秘的ともいえる存在で、それに高い関心を寄せていたのです。彼自身ジプシーに憧れてその生き方を真似ていたフシもありますから、そのカラヴァッジオがジプシーをモデルとして多くの絵を描いたとしても不思議ではありません。

このあとの時代のジプシーを主題とするヨーロッパ絵画においてもジプシーをある種理想化し、バガボンド(=vagabond 「放浪者」の意)のように街から街へと現れては消えていく人たちの詩的な姿を主題にしたがる傾向がありましたし、文学にすることが流行ったのです。

9 ラ・トゥールが描いたジプシー

ここで私が最初の論文のテーマとした一七世紀フランスの画家であるラ・トゥール(Georges de La Tour 一五九三~一六五二年)の絵をいくつか見てみましょう。

[図14] 「帽子のあるヴィエル弾き」
(図14)ラ・トゥール「帽子のあるヴィエル弾き」

これは盲目の音楽師ですが街から街へと歩きながら音楽を奏でるジプシーなのです。

スペインのフラメンコはジプシーが発祥だと言われます。スペイン人はそれが自分たち以外のところに由来するとは言いたがらず、フランドル(オランダ・ベルギー・フランスにまたがる歴史的地域)地方の音楽ということでフラメンコと言ったりします。それをジプシーとは言いたがらないのですが、どう見てもジプシーで、踊り、音楽、売春、かっぱらいというように良いことも悪いことも手段として日銭を稼ぎながら生る人たちです。

[図15] 「辻音楽師の喧嘩」
(図15)ラ・トゥール「辻音楽師の喧嘩」

ラ・トゥールはこのようにジプシーを描いています。これはRixe de musiciens(「辻音楽師の喧嘩」(一六二五―三〇年頃))というタイトルで音楽師が喧嘩している様子を描いた絵です。音楽師が喧嘩するなどというのは今日的な感覚からすれば違和感のある光景です。今の音楽家はみな音楽大学を出て教養があるような顔をしていますが、放浪の音楽師というのは教養がなくても楽器だけ弾いていればよかったわけで見方によっては下品な顔をしていますが、そういう連中が喧嘩しているのです。今でこそ音楽家は上品な職業でみな芸術家顔をしていますが、元来はジプシーの辻音楽師と同じようなものだったのです。

今は芸術家があまりにも大きな顔をし過ぎています。世間が芸術家をもてはやすわけですが、これはディアスポラであるユダヤ人が二〇世紀になって、流れ者の音楽師たちは偉い存在でそれが芸術家だと思わせたわけですが飛んでもない話です。

宮廷にいたりその土地にしっかりと根付いて活動する人が本当の芸術家といえるのです。逃げ回っていたり、ディアスポラで放浪するのが詩人だなどというのはユダヤ人によって作られた観念です。流浪して酒に酔っては喧嘩したり刀を振り回しているのがジプシーの実態であるという側面も忘れてはなりません。

ラ・トゥールはそのことをよく知っています。同時にジプシーは夢を持っていて、少なくても無知な農民や村民にとってジプシーは自分たちの村にやって来た夢を持った天使のように見えるのです。昔はある村に生まれれば一生その村から動かない人が多いわけで、他の村に行けば収奪されることも多く、また女性も普通は街にしかいませんでした。そういう時代に外からきた人はたとえ盲目の乞食のような人でも夢を与える存在だったのです。また同じ音楽でも異国の音楽を聞けばそれなりに人々は感動するものです。

[図16] 「豆を食べる人々」
(図16)ラ・トゥール「豆を食べる農民の夫婦」

ラ・トゥールの絵も普通の農民の姿を描いたものではないと思います。この絵の人物もやや地味ですし、あてがわれた豆を食べているような貧しい人たちで、普通はこれを貧しき農民と見てしまうのですが私はジプシーを描いたものだと思います。実際にジプシーが目の前に現れた時に画家の絵心も生まれるということでしょう。

[図17] 「聖トマス」
(図17)ラ・トゥール「聖トマス」

今回のカラヴァッジオ展にはラ・トゥールの絵(西洋美術館所蔵)が一点展示されていました。この絵も粗野な顔から判断してジプシーをモデルに聖人を描いたものだと思います。この時代のジプシー、ツィンガリ、ジタン、あるいはジタニズムと言ってもいいと思いますが、そういうものに憧れるある種の感情があったからこそ粗野な人間が主題になり得たのです。普通に考えれば周囲に粗野な人間がそんなにいるはずはありませんし、逆に画家が普通の人を粗野に描くこともあまり考えられません。やはりそこに具体的なモデルがいてそれがジプシーだったのだと思います。

10 革新的な絵画を生み出した天才

[図18] 「ホロフェルネスの首を斬るユディト」
(図18)「ホロフェルネスの首を斬るユディト」

これは「ホロフェルネスを殺すユディト」という古代の一場面ですがここに描かれている「ユディト」と女衒のモデルはジプシーでしょう。女衒は娼婦と客の間に立ってカネを取ります。娼婦が相手をした客の男が裸になっており、ここに女がいて女衒がいますから、この絵は娼婦がお客として来た男を殺してしまう場面を描いているとしか考えられません。

そういう場面を「ユディトとホロフェルネス」という有名な古代のキリスト教的な、旧約聖書の場面をジプシーというモデルを通じて描くことでカラヴァッジオは物凄い革新的な絵画を生み出したのです。それがこの講義を私がしたいと思った理由です。

(終わり)

註記:このエッセイは二〇一六年五月二〇日、千葉、朝日カルチャー・センターでの講演録音を、聴講者の春藤和生氏が稿に起こしたものである。春藤氏のご厚意に感謝する。