科学の限界と新たな思想 ―― 現代思想の創造のために

田中英道・著 / 2016年6月26日掲載

1 「科学信仰」の終焉

この稿の依頼を受けて、一応、現代の宗教の役割を、私がすでに出している『日本の宗教 本当は何がすごいのか』という小著で書いたことを再考しながら、草稿を書いておいたが、しかし締め切り近くになって、あの熊本大地震が起きた。私は現代の危機と宗教を考える上で、良い機会と考え、締め切りの期日を忘れる羽目になってしまった。四宮編集長には大変ご迷惑をおかけしたことをお詫びしたい。

東日本大震災のときもそうであったが、この大地震も、地震学者は一切予想がつかなかった。わかっていることは、東北地方の大地震が、海溝型の活断層の地震であったが、今回は内陸型の活断層から生じたものである、ということである。いつその活断層が、活動するのか何もわかっていない 。

確かに地震の予知という分野は、地球上という広い範囲で起こるものであるから、困難なものであることは承知している。しかし地震学というものは、人々の生死に関わるもので、「科学」の発達というものの判断に最も身近な指標となることは、致し方がないであろう。鹿島神宮には(大地を抑えるために、或いは鯰を封じるために)大きな石が埋まっていて、地震の多い日本人の安全への願いを象徴させていた。昔は地震が鯰によって起こる、と言われて、鯰の観察をしていたと言うが、「近代」人はそれを笑うのはもっともにしても、果たしてそれ以上の結果を生んでいるのだろうか。 電磁波の振れによる地震の予知はよく知られているが、しかし予知だけでは、結果論として当たるも八卦、あたらぬも八卦で、未だ何の進展もないようだ。私は敢えて、これを現代科学の象徴として取り上げたいと思う。

「科学」はこの自然の大惨事に、予測どころか、そのメカ二スムさえ説明しかねている。東日本大震災 以来、それが改められたかと期待を抱かされたが、原発事故ばかりを過大に取り上げ、肝心の地震と津波についての研究は何も進んではいなかったように見える。

今回の熊本大地震では、二日おいて二度目の「本震」が起こったことが知られている。それは日本の科学者が地震の観測を始めた明治十八年(一八八五)以降で始めてのことだと言う。東大の地震研究所の教授が最初にいうには、「活発な断層帯が隣り合う特別な条件下において一連の地震が発生した」と述べたが、その「特別な条件下」を説明していない。その限りでは、理解できるものではない。しかし次の説明では、「それぞれ独立した活動と見るべき」だと「隣り合う特別な条件下」を撤回した。

自然の中で起きることで、人間にとって最も影響の大きい災害となる大地震さえこのようなものであることに、人々は研究者に失望する以外にないではないか。すでに五十人以上もの尊い命が奪われたし、エクアドルでも同じ強度の地震でその十倍以上の人々が亡くなった。エクアドルへ地震・先進国の日本科学者も何も教示することがなかった。日本のことで手がいっぱいだからだろう。

これまで「自然」でわからぬことは、まだそれを「科学」が対象として捉えていないから、という論理を振りまくことによって、いずれは必ず「科学」がそれを捉えて、解明できる、と確信 の念を与えてきた。それで、錬金術から「科学」へと変貌をとげた「近代」が、まさに、すべて解明できる「理性」の時代になったと思わせたのである。 その「理性」の時代以来、二百年以上もたった現在、未だに大地震ひとつ、予知さえ出来ないことに、その失望が人々の間から起こるのは無理からぬことだろう。

これまで宗教が説いていた「神のなせる業」以外の言葉を、「科学」が与えるだろうと期待されてきた。「科学」によって、自然という不可知の存在を分析の対象にしたとき、そこですべて解明できる、という保証を与えられたが、しかしそれは幻想に過ぎないことを、今度も目の当たりにしたといってよい。
「近代」科学の最高の権威とされる、アインシュタインのような物理学者は、次のようなことを言っていた。
「自分が生まれた自然界の偉大な神秘を前にし、永遠や生命、宇宙について思いを馳せるとき、誰もがそこに畏敬の念を抱かないではいられない。毎日、この神秘を少しずつ理解しようとするだけで、好奇心に満たされるのだ」と。
その「偉大な神秘」が人間の生命を奪うものだとなると「好奇心」などとは言って居られないはずである。そうした人間の生存に関することとなると、それさえ「理解」出来ない「科学」は、やはり人間はかっての宗教の段階と同じことになる、と言わざるを得なくなる。人は相対性の原理を発見した「科学者」アインシュタインのこの言葉の「神秘」を、宗教が「神の仕業」とみることと何が異なるのか、と問わざるを得ない。

トーキンズと言う動物行動研究の大家が『神は妄想である』という本を書いてアメリカでベスト・セラーになった。もともと「利己的遺伝子」という概念を出し、自然の自立性を述べていたはずの科学者が、やはり「科学」至上主義を繰り返し、宗教を否定したのである。しかし宗教の幻想性を否定したところで、もともと、自然の不可知論の上に成り立っているのだから、得意になって語ったとしても、説得力に欠ける。

アインシュタインが「もし私のなかで、宗教と呼べるものが在るとすれば、われわれの科学が解明できるかぎりにおいて、世界の構造に対する限りない賛美である」と言っているが、わかった限りの世界よりは、わからない世界のことをなぜ言わないのであろうか。「科学」が解明できる範囲は「自然」の中では限りがあることを認識していないことになる。そしてその認識できた範囲においても、自然は何と見事なものであるか、と謙虚に自然を讃歎することが宗教の発想源であると認識するなら、宗教を肯定すべきなのだ。その態度の方が謙虚ではないのか。アインシュタインは科学者であるから、まだその無力さを述べてはいないが、広大な自然などは解明できるものではない、という謙虚さが必要なのだ。

つまり、人間が自然に対してわかっている範囲が余りにも少ないところから、宗教が生まれた、と言って良いであろう。量的には多少違いがあれ、古生の人たちはそこから信仰を生み出したのである。 私は『日本の宗教』で、日本の神道は、「自然道」だと言った。自然のわかっている範囲で、それに従って行こうとするのが、日本人の態度である。そしてそのわかっていない範囲の大きさに驚き、そこに神々の存在を感じる。「近代」の「科学」が、切って捨てた巨大な空間を、神々の領域とするのである。 その広大な空間、未知の驚異を、ひたすら「限りない賛美」をするのが「神道」であると言ってよい。「お天道様」にはその意味がある。

一方のキリスト教を初めとする、ユダヤ教系統の信仰者は、「ヤーヴェー一神」信仰により、その広大さの恐怖を「神」の名で解消しようとした。 だから、この「一神教」には、自然信仰が存在しない。自然もまた神が造ったと言う仮説を最初から打ち出しているからだ。説明のつかないものに対する、口封じの意味での「一神」の存在の仮説をつくりあげたのである。考えてみれば、近代西洋人の「科学」信仰は、ちょうどその「一神」のところに「科学」という言葉を置き換えたに過ぎないのかもしれない。「科学」信仰と「一神教」は、同じ穴の狢でも在るようだ。

それに対し、日本における「神道」は、「自然道」として、まず最初に「自然」の存在を考える。それは『記紀』における、最初の神の誕生以前に記される、混沌とした「天地(あまつち)」の存在のことである。この混沌とした「天地」=自然、の存在という、日本神話の独自な言及は、神道が「自然道」であるという解釈を裏付けるのである。

私は神道というものは、三つの信仰で成り立っていると分析している。一つは自然信仰であり、他は御霊信仰、そして三つめに皇祖霊信仰である。自然信仰とは、その対象が山であり、海であり、樹木であり、動物であり、ありとあらゆる自然の内に、人々が驚異を感じたとき崇拝の対象となる。従って、地震そのものも、火山そのものも、それが神々の行為として感じられるのである。それが自然信仰である。

今回の熊本大地震でも、やはり東日本大震災と同じように、人々は整然と行動した。そこには諦念と無常観がある、などという人がいたが、しかしそうした仏教的な言葉で認識するよりも、神道的な自然信仰がもともとあるのだ。すでに西洋的な意味での、人間より下に位置する自然の荒業にではなく、人間と一体となる自然への受け身の姿勢が在った、と言わなければならない。

というのもたまたま見ていたテレビの画像が、次のような物語を伝えていたからである。地震が起こり、村の係員が、家々を回り、早く家から退避を呼びかけていたとき、ある家で、八十四歳の男性が畳みの部屋に座っていた。早く出るように促したところ、もう動きたくないという。お助けします、と言っても、すでに高齢だから、避難する気力がない、動きたくない、という。係員や記者が、連れ出そうとしたが動かない。決して病で動けない訳でなかった。その横にやはり高齢の妻がいて、主人が残るというなら私も残ります、とけなげに言う。そして次の朝、二人は家屋に潰されて亡くなっていたという。妻の方は助けられたが、やはり亡くなった。明らかに覚悟の死であった。

偶然見ていた場面であったが、残ると言った老人の姿には平静さがあったと確信できる。そして夫に従うと述べた妻の表情にも、決して慌てた姿はなかった。係員に対して、抗弁するのではなく、さりとて、受動的ななげやりの態度でもなく、この家と心中する意志を淡々と伝えているように見えた。周りは、身近に置かれた日常品で溢れかえり、その中で生きることが、この老人にとって、もっとも心地よいことでもあったのであろう。

この二人に、ふと私は神々の姿を見たような気がした。

2 土地と「神話」の神々たち

神々を見た、というのも、決して奇を衒った表現ではない。かって人々はこの地方で、多くの神々を見ていたのだ。この九州というところは、もともと神話でも、高天原があったといわれる土地で、熊本もそこから遠いところに在るわけではない。

自分たちの神である氏神が、日本神話の神々となるのである。それが日本人の、神話によってすべての人々が結ばれている、という固い八紘一宇の精神があるからであろう。それは潜在的には今日でもあるはずである。皇祖神としてアマテラス大御神を、共通な祖先の神として祀ってきたのも、それが東から上る太陽神として、共通に仰ぐ「お天道様」として信仰されてきたからである。

阿蘇開拓の祖は、神武天皇の孫といわれる健磐龍命(たけいわたつのみこと)をはじめ、十二神といわれ、阿蘇神社に祀られている。この阿蘇神社も今回、被害も大きかったが、しかしこれらの神々こそが、昔だったら地震の主役であったのかもしれない。

日本全国に阿蘇神社は四百六十社もあり、二千年以上の歴史がある。阿蘇の火祭りは有名で、阿蘇神社では、あたかも火山の活動を象徴するかの如く、火降り神事が行われ、松明を振り回して火の渦をつくり出している。ここでもそれが阿蘇の火山活動に対して、地元の村が被害がないように、祈るのではなく、神の力を高め、祭場を清めるために行われるのである。死んだ老人夫婦もその祭りに参加したことが在ったかもしれない。今回の阿蘇の噴火も、地震の原因とされる、その活断層の変化に影響を与えたことであろう。

ところで、私がこの熊本の地震について語るのは、私の家がもともと九州の出身であったからかもしれない。私自身、父は佐賀、母は鹿児島出身であったので、九州には縁が深い。今年の正月も、九州旅行をして、宇佐神宮、宮崎神社、霧島神宮などで初詣の参拝し、同時に日本の神話と神社のつながりを調べて歩いた。この地方は、阿蘇山ばかりでなく、霧島山、桜島など活火山が多く、高天原のような平和で自然の豊かな高原を予想出来ない、と判断したが、それでもこれだけ各地に神話が隠されているのはなぜだろう、と考えていた。

この雑誌の読者ならご存知のように、『古事記』などの神話では、天孫降臨の舞台として高千穂の峯が、語られている。天照大神の孫である瓊瓊杵尊が地上に降りた場所が、高千穂ということになっているのである。しかしこの高千穂も、宮崎県の高千穂町と、霧島連山の高千穂峰が候補としてあげられており、どちらかまだ決定的なものはない。しかしそれだからといって、神話が単なる幻想である、と考えることにはならないことは、やはり長らく土地の記憶として語られてきたものだからである。その語り伝えが土地の記憶となり、御国自慢と結びついたといえるであろう。これは神話を語ることが、ご当地の場所の関連づける記憶方法を取ったから、ということも出来る。このことの九州だけでなく、日本全国で神社が、神話の神々と結びついているのももわかる。人の土地への信仰形態といってよいであろう。

日本の神道がその経典を欠いているが、この『記紀』が何よりも、神々の由来と精神を伝え、ある意味での教えを説いている。つまり、神話の神々が、どこの土地の神として特定できないような書き方をしているのは、まさにそうした神々が、どこにでも存在する、という日本の大八洲の共通性を語ったものだからだろう。宮崎の高千穂町には、瓊瓊杵尊など日向三代のゆかりの六柱の神々が祀られた高千穂神社がある。もとは土地の守り神であったのが、平安時代になって皇室の祖先を祀る神社として重んじられて、こうして祀るようになったという。また鹿児島の、高千穂峰のある霧島連山にある霧島神宮では、瓊瓊杵尊を主神として、日向三代のゆかりの神々と、神武天皇を相殿として祀っている。しかしここも、古くは霧島の山の神を祀っていたものであった。しかし今では、瓊瓊杵尊を主祭神に、木花咲耶姫尊など五柱が配祀されている。

最初は高千穂峰に近い脊門丘(せとお)に社殿があったが、霧島山の噴火によって遷座を繰り返し、現在の社殿は正徳五年(一七一五)に時の、島津藩主によって寄進、建立されたものである。年間百回以上の祭儀が行われることでも知られている。とくに天孫降臨の光景をあらわす霧島九面太鼓は、郷土芸能として定着している。

私はかって対馬に行ったことがある。国境の島として、韓国との関係が、取りざたされるが、この島こそ、純粋な日本の神話を、神社の姿で、残しているところはない、と思われた。二十七も神社があり、神話で語られている神々が、ほとんどみな祀られているのである。アマテル神社からワダツミ神社など、土地の人々が、あたかも『記紀』の神々を、土地の神社で再現しようとしているようであった。そして興味深いのは、ここには関東から防人としてやって来た人々が多い。千葉の阿比留氏がここの支配者になっていく歴史があるのである。国境の島が最も日本の伝統を残しているのを見て、ここは、決して朝鮮の影響を受けた島ではなく、逆に朝鮮に、日本の文化を伝える前線基地であったのだな、と思わざるをえなかった。

阿蘇山のような火山が多くある九州であるが、しかしあたかも、水の豊かな高天原の記憶を、そこに人々が刻みつけようとしているのも、日本人が神話によって、東北から九州まで結びつけようとする、人々の願いがあった、と思われる。私の日本の旅の経験からも、これは九州だけでなく、日本全土にその傾向がある、と言うことである。

九州に日向という土地があるのは、まさに九州が、東を向いているからであり、それは京都、奈良を超えて、さらに東を向いていたと考えられる。日向から東征に向かった神武天皇が、ヤマトに直接向かわずに、迂回して太陽の上る東を背にし、東の神々、関東、鹿島神宮の祭神、建御雷神(たけみかずちのかみ)の刀の助けを得て、ヤマトの地に入り、建国出来たのもまさに、高天原の勢力が、東にあったことを示している。ちょうど、大国主命の国譲りが、高天原勢力の、鹿島、香取の神々の力によって従わされた形で、行われたことに似ている。

その象徴的なのは鹿島と鹿児島の関係である。鹿児島が鹿島の「児」として、海で繫がっている、という解釈である。天孫降臨が、九州でなされたとするなら、それは天からではなく、海からであって、はるか昔は、同じ「あま」と読んで、天と海は、一体化しているものとしてとらえられていたと考えられたからである。それを思い出させるのは、あまふりかわ(天降川)という川がちょうど霧島地方に流れており、鹿島・香取からの船団が海から入って霧島に上っていったという想定が出来るのである。霧島の麓に鹿児島神宮が在る。私の祖先の一人が、鹿児島神宮の宮司のひとりだった、と聞かされているが、そこに船がついたという言い伝えがあると言っていたそうだ。むろん現在ではそこに親戚もいないから、確かめることは出来ないが。

3 現代の危機と日本の宗教

私は熊本の地震からはじめて、神話の新解釈を語ってきた。すなわち、関東と九州の結びつきである。しかし主題の宗教の問題に戻らねばならない。

地震という人間にとってもっとも身近な自然現象への対峙の機会こそ、同じ自然とはいえ、遠い宇宙の起源探しや、クローン人間をつくるための細胞研究よりも、「科学」の重要性のバロメーターとして、人々の大きな指標となる。「近代」の「科学」の成果が最も問われる分野と言ってよいのである。たしかに未だに、宇宙の起源がビッグ・バン現象という仮説以上のものが出ず、細胞に関しても、そのひとつでも造ることが出来ない。しかし、それは日常性とは関係ないから「科学」の問題としてどうでも良いことである。そうしたことで、「科学」の限界を云々するのは過酷かもしれない。

しかし十八世紀に起きたリスボンの大地震で、多くの死者を出したことにより、キリスト教の「神」の存在が疑われ、ひいては「近代」の「科学」への期待が、そこで始まったとすれば、今やそれから二百年以上も経って、依然として、同じ状況であることに、何らかの疑問を抱かないわけにいかないではないか。

一方では、ダイナマイトで財をなした人物によりノーベル賞が、毎年、自然科学者たちに、にぎにぎしく表彰されて、マスコミが時の英雄のように報道しているのを見ると、地震や津波で死んだ人々はどうなるのだ、とも言いたくなる。私は現代の危機を、あの熊本や東北の地震で見られた「科学」の偏りと驕りにあると見ている一人である。彼らがつくり出した「科学」の最大の成果は、ダイナマイトの延長の原爆や水爆といった核兵器ではないか、と批判したくなるのである。

それが健全な宗教の復活の大きな要因になるのではないか。その背景には、現代人が忘れた、自然の恩恵に対する感謝の念と、その圧倒的な力に対する我々の畏怖の念が、過大な「科学」や「唯物論」への信頼と期待に変えて、宗教心をもつことによって、自然自身、人間自身への深い信頼と洞察の念が生まれるはずである。またそれによって、かえって地震だけでなく自然が起こす災害の恐怖から逃れることが出来る。物理的な打撃を恐れて、不安におののく人間の精神の不幸を改めてくれるはずである。この中途半端な地震学の現状は、実際、日本人の精神に自然への不信感を与え、日本の歴史にある神々の世界を忘れさせるのである。

その古いわれわれの自然との交じり合いの中に、地震も津波もまた台風といった災害をともなう過酷な自然との交流があり、一方のおだやかな自然の恵みを、おろそかに考えてはならない、と反省させるはずである。

興味深いことに、自然神との交流が神社の神々の祭祀で伝えられているのと平行して、仏寺もまた各地に同じように建てられていることである。

九州の宇佐神宮が早い時期から、仏教の要素を取り入れ、神仏習合によって大きく発展していった。宇佐神宮は、はじめから八幡信仰を取り入れ、仏法の守り神として位置づけていた。

聖武天皇の時代、あの奈良の大仏鋳造の折りに、八幡神の神託として、大仏の建立に協力することを受け、宇佐神宮の巫女がそれを伝えた、と言う。その後、大仏の塗金に必要な黄金が不足したときに、陸奥の国から発見の報を受け、見事に大仏が完成した、という。仏教の大仏鋳造の成功が、八幡神のおかげである、とされ、仏教と神道の融合が語られたのである。

私は神道が共同宗教で、個人宗教の仏教と共存するからこそ、日本人の精神は安定しているのだ、と述べている。まさに仏像により、人間の煩悩に対する悟りの必要性を感じると共に、そのお寺を守る神社の存在が、その共同体を守る礎なのだ、という認識が必要なのだ。お寺で個人の葬式をするということもそれ故なのである。