田中英道 ※平成28年5月21日執筆
これから書く「ローマと私」では、必ずしも計画的に、ローマ論を展開するわけではない。歴史家としてさまざまな論文を書いていく合間に、ローマについて心や記憶の趣くままに書いていこうとするものである。だからといってセンチメンタル・ジャーニーの類にならないだろう。そうした段階は私には四十数年前に消えた。つまりそれはジャーニーでは無くなったからである。
ローマとの付き合いは、今年で五十年以上になる。最初に行ったのは一九六五年で、フランス留学のとき立ち寄った時だ。いよいよヨーロッパの古都を訪れた、という感激で、若い私はコロッセオの前で 立ちすくんだが、それは、旅行がアメリカ経由で始まったからだ、と思い返した。戦後の青年の例に洩れず、私はアメリカへの好奇心が一杯で、どんな活気に溢れる所であろうと思っていた。
しかしアメリカは私を絶望的にした。長い歴史が無い、というだけではない。そこには「世界がない」ということを感じたのだ。「世界がない」などというと奇妙に感じられようが、その場所から感じる「世界」がいかにも貧寒としている。自分の心を豊かにしてくれるような光景がなかったことである。至る所に新しい人工都市があった。それは意外な体験であった。
ローマにはその「世界」があった。つまり人間の根源の何かが感じられたのである。そこには歴史が生きていた。
ロ ーマに最初に私が住んだのは、一九七三年から一年間であった。
イタリア政府給費生としてローマ大学に登録し、キエザ・ノーヴァ通りの十二番地に住み込んだ。ナボナ広場も近かった。
そこの住まいのことから述べてみよう。コンドット通りのユダヤ人の不動産屋でさがして、チェントロ・ストリコ(歴史街)で、まさに一年過ごすのにふさわしい住居だと感じて選んだものだった。中二階だったので多少値段が安かったこともあっただろう。
ある日、語学の好きな家内(十数年前に亡くなった)が、階段で、そこをゆっくり上って来る一人のおばあさんに出会った。ラウラ・ポルトゲージという名前であった。最上階に住んでいるから、夫婦でいらっしゃい、といったという。私はまだ大学にも慣れず、語学学校にも通っていたので、近所づきあいをする余裕はなかったが、家内だけは勝手に上がり込んでいた。
私も言葉の練習だ、と考えて、ある日家内と、その老女の住居を訪れた。エレベーターも無く、最上階の五階までは結構な運動だった。よく彼女のように老いていても毎日、五階まで上れるな、と感心したが、扉の前にたどりつくと、そこには五つも鍵がついていた。ああそうか、最上階の方がそれでもいいのだ、と気づいた。私のところも、三つの鍵をかけるようになっていた。
ベルをならすと、五つの鍵を内から開けて、ポルトゲージお婆さんがにこにこして立っていた。彼女は小柄で、独り者のユダヤ人であった。そうしたことを、日本人の私たちに隠さなかった。最初から私たちを、家族であるかのようにあつかってくれたのである。さっそく食事に招かれたのだが、大歓迎と言われた割には、質素なものであった。しかし貧しい感じはなかった。またすぐに彼女が孤独な存在ではないこともわかった。
そこに足繁く通ってくる女性達が来たのである。彼女らは、ふつうの女性達ではなかった。国会会議場の宮殿が近いせいもあって女性議員が三人もいたのである。後でわかったことだが、みなキリスト教民主同盟の人達で、ファンファー二首相に近い存在だった。そして教育問題に熱心で、すべてが教師あがりの女性政治家であった。