ハンナ・アーレント小論
–彼女こそ真の「ユダヤ人」であった
田中英道 ※平成28年5月22日執筆
ハンナ・アーレントこそ「ユダヤ人」であった。彼女を「アイヒマン擁護」を攻撃するユダヤ人は「ユダヤ人」ではない。
彼女が「ユダヤ人」であることを貫いた証は、人間が、個人としての存在だとのみ考えようとしたことである。そこには、いろいろ述べているが、人間は常に共同体とともにある、という認識を無視する、「ユダヤ人」の思考の欠点を承知の上の主張があったのだ。
周知のとおり、「ユダヤ人」は、長い間、デイアスポラの状態にあり、自らの国家をもたず、その共同体も強くなかった。彼らは各国にいて、それぞれの国に寄生していた人々であり、常に「個人」だけで生きる存在の「ユダヤ人」でなければならない運命を担っていたのである。アーレントは、その個人だけの存在を重視したために、アイヒマン擁護でナチ側についたとして、ユダヤ人から攻撃されたのであった。
それは、彼女の愛が、個人への愛だけであったことでもわかる。ドイツ人でナチ党員であったハイデガーへの愛も、ユダヤ人の夫に対しての愛も、イスラエルに移住した愛人にしても、個人として愛したのである。人間は個人として存在だけだ、という「ユダヤ人」的認識だけを持っていた。彼女が「ユダヤ民族を愛したことはない」、というのも当然であった。たしかに、戦後のイスラエル成立以前は、どこにも「ユダヤ民族」はなかったのである。
しかし、それを徹底させるあまり、ドイツ人親衛隊アイヒマン(注)まで個人の存在としてとらえた。確かに彼女の一貫性は見事だった。アイヒマンが、上からの命令に従う「凡庸な」人物で、彼・個人には責任がない、と述べることになったのである。しかし、彼女の思考の限界は、「ユダヤ人」以外の人々にとっては、個人だけでなく、共同体=国家が同じほど重要であることを認識しなかったことである。左翼ユダヤ人にとって、 国家は否定すべき、その権威も批難すべき存在であった。しかしアイヒマンは個人であるよりドイツ国家の一員であることの方が重要であったのだ。個人アイヒマンの存在は、ヒットラーに近い親衛隊員であり、個人の存在は全く影の薄い立場にあった。つまりアーレンとは別の、人間の前堤として共同体の存在を、絶対必要とするところに、彼の存在があったのである。
「凡庸な」アイヒマンは、ドイツ人共同体に結びついているドイツ人として「優秀な」ドイツ人でありえたのである。彼が命令に従っただけの「凡庸な」人間だと侮蔑しても、彼に対する 何の批判にならない。「ユダヤ人」以外はすべて、軍人は国家があっての「優秀な」、と判断される存在であるのだ。ニュールンベルク裁判で、ヒットラーが共同体の長として犯罪者となったからには、当然、その下にいた彼も犯罪者となったのだ。無論、ナチ党員でもあったハイデガーも犯罪者となる。
しかしその犯罪者あつかいは、それと戦った勝者のみの判断でよることだ。イスラエル・ユダヤ人たちは、勝者の連合軍の一員であるかにふるまい、その立場を、利用したに過ぎない。一体、数百万のユダヤ人を殺したというヒットラーと、数百万のパレステイナ人の土地を「帝国主義国」イギリスから受け継いだ初代首相ベン=グリオンとどちらが犯罪者か。一方だけを犯罪者とすることは出来ないはずである。またヒットラーを選んだドイツ人を犯罪者といえるか。それをいう権利は、誰もない。ただ戦勝国の人々が、感情的、恣意的に決めたことに過ぎない。
アーレントはイスラエルに住もうとはしなかった。イスラエル・ユダヤ人は「ユダヤ人」ではないことを知っていたからである。彼らはイスラエルという国家をつくり、それを絶対視する国民であって、他の国民と何ら変わりはない「凡庸な」人々である。彼らが決して優秀であると言えないのは、他の民族の住んでいた地域に、無理な国家を成立させ、永久に衝突を繰り返すことを選んだ人々だからである。
彼らは歴史的な意味での「ユダヤ人」と異なる、単なるシオニスト=ナショナリストに過ぎない。他国人にはその「シオにスム」は、彼らがどんなに正当性を主張したとしたところで、「架空のナショナリスム」と捉えられる。マルクス主義者にとって、イスラエル国は、第二次世界大戦後に成立した植民地国であり、パレステイナを占領した帝国主義国家である。その点では、占領されたパレステイナ人、イスラムの人々だけからではなく、非難され続けていることを知らなければならない。「ユダヤ人」のハンナ・アーレントに対する批判とは別の意味で。
(注)アドルフ・オットー・アイヒマンAdolf Otto Eichmann[1]、1906年3月19日 – 1962年6月1日)は、ドイツの親衛隊(SS)の隊員。最終階級は親衛隊中佐。ドイツのナチス政権による「ユダヤ人問題の最終的解決」(ホロコースト)に関与し、数百万の人々を強制収容所へ移送するにあたって指揮的役割を担った。
戦後はアルゼンチンで逃亡生活を送ったが、1960年にイスラエル諜報特務庁(モサド)によってイスラエルに連行された。1961年4月より人道に対する罪や戦争犯罪の責任などを問われて裁判にかけられ、同年12月に有罪・死刑判決が下された結果、翌年5月に絞首刑に処された。(Google「ウィキペデイア」より)。