なぜ卑弥呼神社がないのか

――日本のどこにも存在しない「邪馬台国」

田中英道

はじめに

戦後最大の未解決の歴史問題として、周知のように「邪馬台国」論争がある。『魏志』の「倭人伝」による「邪馬台国」が果たしてどこにあるか、当時の日本の 正しい姿を伝えているかどうか、すでに千冊以上の本が書かれている、という(1)。日本の歴史家、歴史好事家たちがこれほどのエネルギーを費やしてきたこ とが、果たしてそれだけの成果があったか。これまで何も結論が出ず、いたずらにマスコミの期待感だけを掻き立てているまま固まった状態になっている理由は 何か。西洋の歴史研究の経験の上に立って日本の歴史研究を始めた私のような一歴史家にとっては、この未解決の状態は、日本の歴史家の国際的な、学問的レベ ルの問題にも関わっているだけに、放置できない問題である。

かつて評論家梅原猛氏は「邪馬台国」論争と並んで、「写楽は誰 か」論争は、日本 の未解決な歴史論争の双璧である、と書いていた(2)。その後、前者の問題については、私は『写楽は北斎である』『写楽問題は終わっていない』(3)を著 したが、この問題の解決に一石を投じたと考えている。その後、これに対する反論は一切出ていない。それで、というわけでないが、第二の難問をとりかかるこ とにした。最近、一連の「古代史」といわれる領域に私の研究をシフトさせているからである(4)。

ところで『魏志倭人伝』を韓国の学者が読むと、≪百済が日本を建 てた≫ということになるらしい。ジャーナリストの室谷克実氏の紹介によると、パクソンスという高麗大学名誉教授は、次のように言っている、という。

≪日本古代史は中国の史書、「魏志」倭人伝に至って初めて出てく る。それを見れば、倭人がどこにいたのかというと、韓半島の「帯方郡」(今の黄海道)から南へ降りて行けば韓国があって・・。また降りながら海を東南側に 行けば狗邪韓国(くやかんこく)に出る。倭人はすぐにそちらに住む≫(5)。

つまり、韓半島南側に韓国があり、さらに海を渡って日本となる が、そこにもうひとつの韓国がある狗邪韓国がある、と解釈している。日本の倭人を支配しているのは、この狗邪韓国だ、というらしい。日本には百済の分国、 すなわち植民地があったという。>

同教授がいうには、日本列島に渡った韓国人は百済人ばかりでな く、伽耶(かや)、新羅(しらぎ)、高句麗(こうくり)に人々がいた。朝鮮の最古の歴史書『三国史記』(一一四五年成る)には、このことは書かかれていな いが、日本には遺跡、遺物が数多くあって、それを証明しているという。日本のあちこちに国を建てた人々は韓国人であって、日本人は野蛮人で国を建てる方法 もしらなかった、と述べている。やっと国が建ったのは七世紀に過ぎない。百済が六六〇年に、唐・新羅連合軍の攻撃に敗れ、国が滅んだとき、多くの百済の王 族が舟に乗って日本に渡って来たのも、すでに百済がそこにあったからだそうだ。

『魏志』「倭人伝」の前に、「韓伝」があって、「卑弥呼」と同時代の朝鮮半島南部の状況を伝えており、そこでは韓族が馬韓(ばかん)、辰韓(しんかん)、弁韓(べんかん)の三地域に分かれて住んでいたが、馬韓は五四の小国に分かれ、百済はその中のひとつに過ぎなかった。倭国はすでに邪馬台国で統一されていた、とされている。≪韓は帯方郡の南にあり、東西は海をもって限りとなし、南は倭と接すると書かれ、さらに弁韓、辰韓二四か国の一つである斯廬(しろ)国を挙げて≪倭と界を接するとし、朝鮮半島の南部は倭人の地である、と述べているのである。

「倭人伝」の方は、魏の直轄地である帯方郡から、倭国の中心に向かうルートとして≪海岸に従い水行し、韓国をへて、南し東し、その北岸狗邪国に至る。七千余里にしてはじめて一海を渡る。千余里にして対馬国に至る≫と記しているのである。

狗邪韓国は倭国の北岸にあたり、任那と同じ位置にあることになる。倭人も多かったであろう。「倭人伝」によると、倭国は列島だけでなく、朝鮮半島の南部にも広がっていたのである。「韓伝」で≪南は倭と接す≫と同じことを言っていることになる。

室谷氏は、韓国教授の誤読を難じているが、だいたい『魏志倭人伝』の記述は、もともとおかしいのである。これまでの日本の 『魏志倭人伝』論争を読んでも、どんな解読の仕方も可能な態をしていることを、考慮しなければならない。その読み方次第で、九州説、関西説がくりかえし論 じているのであるから、そのような「誇大妄想」の「古代史」を非難しても仕方がないのである。書かれた「距離」の想像性を見れば、最初からフィクションを 書くことを意図していた、と取らなければならない。中国では「歴史」がそのようなものだったのである。あくまで、それは多少の事実は書かれようとも、歴史 資料に値しなものであることを認識しなければならない。

実をいうと、それは『魏志倭人伝』だけではない。現在の歴史で あっても、同じことだ。自らの祖先たちの歴史を、「侵略」「虐殺」「奴隷化」などという言葉で、歴史の真意も事実も閑却し、また「終戦」を「敗戦」とわざ わざ変え、また「降伏」に「無条件」つけて絶対化し、「同盟」を「従属」か「植民地化」とするような、現在の日本の歴史家、評論家の自虐趣味、マゾヒズム は、やはり同じフィクションの類であって、そろそろそうした不自然な態度を改めなければならないのだ。

つまり、現今の中国、韓国のある種の政治的な「捏造」による「歴 史認識」問題の提起は、咋今にはじまったものではないのである。その根底には、隣国同士の「近親憎悪」の類があるものの、日本に対する批判や蔑視の言葉 に、日本自身に、他国に見られない感性があることに対する苛立ちがあることを知らなければならない。その日本の論理を、歴史の解釈にもちいるべきだと歴史 家が気づきはじめたとき、日本の歴史とは何かがわかるはずである。本拙論はそうした考察はそこから始まっている。

その隣国との歴史論争の根源に関わるものが、「邪馬台国」論争で ある。「邪馬台国」とか「卑弥呼」という蔑称が、いつの間にか、歴史用語になり、教科書にまで載せられるようになったこと自体が、日本の歴史家のレベルの 低さを示しているようである。単に言葉に鈍感だけでなく、歴史自体の取り組み方に対する鈍感さがあることは否めないのだ。歴史家も教育者もそれを受け入れ たことは、日本人の人の良さかもしれないがそれを歴史にまで及ばせる必要は全くないことである。

その証拠が「邪馬台国」がどこにあるか、という「所在地」論争が 未だ>に決着がつかないことである。著者は西晋陳寿で、3世紀末(280年(呉の滅亡)-297年(陳寿の没年)の間)に書かれているが、日本にやって来たわけでなく、伝聞で書いたものである (6)。何せ、『三国志』という膨大な歴史書のほんの一部としてかかれ、おそらく日本の記述などは、陳寿にとっては、正確に書くなどという意志は、ほとん どなかったことを認識しなければならない。その認識が欠けたのは、陳寿の死後、中国では正史として重んじられた結果、日本の学者は、これを金科玉条のよう に信じようとしてしまったことによる。魏帝の詔の類も、他の資料が残されていないことをいいことに、そのまま認めてしまったのである。長らくその認識が踏 襲されたから、それは確認されたことであろうと思ったのである。

現在も、古墳や遺跡が発見されるたびにそれが、「卑弥呼」のそれ だ、とか、九州が関西かわかったとか、学界もメデイアが騒ぎ立てる。しかしどの主張者も、具体的な証拠を示すことが出来ず、歴史を変えることにならずに立 ち消えとなっている。逆に、「卑弥呼」伝説なり、何か関連のある神社や仏閣を探すことからはじめて、この言説が、最初から間違っているのではないか、と疑 わなければならないのである。

戦後、この「邪馬台国」論争が活発になり、これだけの歴史家が 『魏志倭人伝』に執着しているのは、第一に日本の「万世一系」の天皇家の歴史への批判精神が流行し、第二に「社会主義」中国に対する偏愛が始まって「中国 文献」至上主義によるものと思わざるをえない。それもマルクス主義史観の跋扈のなせるわざで、日本の歴史を、否定的に見る態度が固定してしまったからであ る。

しかし咋今の中国「共産党」主導国家の「歴史認識」に、虚構や捏 造がなされていることに気づくと、中国人の歴史観は、「卑弥呼」の時代から変わらなかったのではないか、と考えることが出来る。時の政府の政治観が、その まま歴史観になっていき、事実の分析から生まれるものではない、ということなのだ。それがマルクス主義史観のある本質なのであり、伝統や文化を蔑視し、他 国を軽蔑する史観となるのである。そのような歴史家の「虚構」体質が中国の歴史家自体の体質に備わっているといってよいかもしれない。

すでに拙著『「やまとごころ」とは何か』(ミネルヴァ書房)で指 摘しているが、この論考で、詳しく述べてみよう。この無駄な議論が続く限り、『記紀』否定が一方で続き、日本の歴史の根幹である天皇中心の真実の歴史を、 無視するような「歴史認識」が続くことになる。つまり何世紀もかかった不毛な論争をこれ以上、繰り返すことは、日本の歴史家の不見識を、世界に示している ことになるのである。

以下はこの結論を補強する調査結果である。

1 『魏志倭人伝』記述の不正確さ

「古代史」学者、上田正昭氏の「邪馬台国と纏向遺跡」という論文 で、この『魏志倭人伝』が三つのパートの分かれ、第一は誰でも疑う距離の記された土地名がどこであるか、の問題も解決しておらず、第二に風俗記事で、それ が≪有無するところ、儋耳・朱崖と同じ≫と書かれ、この二つの地名が海南島のものであることを指摘する。これは『漢書』の「地理志」の「儋耳・朱崖の条」 を引用したもので、著者の陳寿が、「倭国」の風俗を、海南島あたりと同じだ、と考えていただろうと推測している。また「倭国の大乱」ではなく、単に乱れた 後、部族たちが同盟して「一女」を立てたのではなく、嫡子の相続がないときに立てたという意味だ、と上田氏は述べている。「卑弥呼」が「鬼道に事(つか) えた」というが、この「鬼道」とは道教のことで、「卑弥呼」の「長大たるも」は年を取った女性ではなく、他の書の同語の解釈から、二十代後半から三十代の 女性だと述べる。第三の外交面では、三回の魏への派遣があり、魏や帯方郡からも「倭国」に三回も使節が来ていることを重視すべきだ、と述べている。『日本 書紀』では、日本側から行って使節があったことを記しているが、魏から日本のやって来た使節のことは何も記していないのである。ここにあるのは、陳寿の記 述がいかに不正確か、またいかなる解釈も可能になるか、ということである(7)。それより、重要なのは、「卑弥呼」伝説の日本に於ける存在の可否である。

私は『日本の宗教』(育鵬社)を書いていたときに、全国の神社を 調べていて「卑 弥呼」神社がないだけでなく、その異端の存在を示唆する土地の伝説がどこにもないことに気づいた(8)。平安時代の日本の神社を網羅した『延喜式』の神名帳を調べてみても、式内社で全国にまったく「卑弥呼」神 社の類がないのは当然であるにしても、式外社にさえ、ないのではないかと考えざるをえなかった。

最近、鎌田東二・京都大学教授らが共著で出した≪『記紀』に出て くる神々だけが神様ではない!≫と帯にうたった『日本のまつろわぬ神々 記紀が葬った異端の神々』(新人物往来社)を読んでも、一切、「卑弥呼」のことが 言及されていないのに驚いた。まさに「まつろわぬ」神の筆頭であるはずだが、言及されていないのである。『記紀』が葬った≪鬼道に事え、能く衆を惑わす≫ 「卑弥呼」は「異端」の神ではないのであろうか。民俗学方面の研究者には、最初から探す意図がないことがわかる。つまり「卑弥呼」神など存在しないことを 知っているのである。それなら、なぜそれを言わないのであろう(9)。

たしかに奈良時代の『記紀』や『延喜式』の時代に、そのことが記 されなくとも、今日、「邪馬台国」の信憑性が、学界でもマスコミでも確実だと思っているなら、その後の時代にもその伝承が残り、それを祀る神社や祠があっ ていいはずである。その面での追求を、最初から諦めていること、そのことが、この「邪馬台国」不在の証ではないのか。そんなに確信があるのなら、日本のど こかに、その伝説なり、神社なりを調査してもいいはずである。

「卑弥呼」神社でインターネットを開くと、鹿児島に、たったひと つの「卑弥呼」神社があることを示している。しかし、これが、なぜ無視されているのであろう。それは、この「神社」が、昭和五十七年に建てられた「捏造」 神社であるからである。かえって、いかに「卑弥呼」神話が最近の話であることを、証明しているようなものだ。神社脇に立っている「由緒」書きとやらを引用 しておこう。

曰く、≪中国の魏志倭人伝・古事記・日本書紀・延喜式等によれ ば、卑弥呼女王は日本建国最初の女王であったという。茲に有志相集まり卑弥呼女王の居城隼人・国分地区に神社が建設されたことに、誠に慶賀にたえない。天 照大神は卑弥呼女王がその原型といわれ、ローマ神話のヴィーナスでもある。私共は卑弥呼を縁結びの神としてあがめ日本国土の永久に安泰と発展を祈ってやま ない。昭和五十七年四月吉日、郷土史家 松下寒山兼知≫。

この郷土史家は、隼人に「卑弥呼」の居城があったと信じているら しい。多くの学者も、それぞれ主張しているが、さすがに神社までつくる自信がないのに、まさにこの郷土史家はそれを建ててしまったのである。何百年経て ば、これが証拠となる、とでも信じたのであろうか(10)。

この郷土史家の歴史の「捏造」は批判されなくてはならないとして も、昭和の最後に、はじめて「卑弥呼神社」がつくられたことに驚かなければならない。このことは、まさに、戦後の「邪馬台国」ブームとやらは、一般の日本 国民にとって、寝耳に水の話であったことなのである。全国に八万社以上ある神社にこれ以外に「卑弥呼」神社がないことを知らしめたといってよい。

日本の各地の伝説にも、土地の記憶に一切ないということは、この ことで、そのもともとの不在が問われなければならなかったはずである。古墳があらたに見つかるたびに、これではないか、あれではないか、とメデイアが騒ぐ が、すでにその不在説は定まっていたのだ。その都度、何の確たる証拠が出ないのも、肝心な土地の神社や遺跡、伝承の類を、誰も見出すことが出来ないからで ある。三角縁神獣鏡だけが証拠のようにいうが、それとて「卑弥呼」を想定できる直接の証拠は出てきてはいない。

2 「卑弥呼」の墓、銅鏡について

全国で数十万古墳が造られたとされるが、義江明子氏は『つくられた卑弥呼』で「古墳に眠る女性首長」という項目で、各地の女性首長と思われる古墳の例をあ げ、その可能性を探っているが、さまざまな首長墳があっても、卑弥呼のそれ、といえるものを指摘しえないでいる(11)。

まず、纏向遺跡は、邪馬台国の候補地として有力視されている、と言われてきた。果たしてそうだろうか。纏向遺跡には、何ひとつ「邪馬台国」と思わせるもの はない。たしかに纏向遺跡は三世紀段階という古墳時代草創期の日本最大の遺跡であった。そして地元の奈良盆地だけでなく、全国さまざまな地域せ生産された 土器が発見される一方、農耕具などの出土が少ないところから、ここが日本列島における「都市の出現」の起点となったことは確かなものとなっている。このこ とは、日本統一がなされて最初の都であったこととなる。その「最古の古墳」とされているのが、纏向石塚古墳や箸墓古墳である。しかし≪倭国が乱れ、相攻伐 すること年を歴。乃ち共に一女子を立てて王と為≫った、卑弥呼の存在を思わせる証拠が見出されていないのが現状だ。

魏から百枚下賜された「卑弥呼の鏡」といわれるものがある。それが「三角縁神獣鏡」だとされ、それが現在、約五百六十面あり、鏡径が二十二センチ前後で一 貫している大きさである。橿原考古学研究所研究員の水野敏典氏は、最新の研究成果として、次のように語っている。

≪製作地論争に結論を求めるには、他の中国鏡や倭の同時期の青銅 製品の製作技法、弥生時代の銅鐸など三角縁神獣鏡以外に視野を広げて、時間的、空間的な青銅器生産における三角縁神獣鏡の技術系譜から探る必要がある。

「邪馬台国」がどこまで『魏志』に記載されたとおりに実在したのか、下賜された「銅鏡百枚」と三角縁神獣鏡がどのようにかかわるのか、まだまだ不明であ る。しかし、ほぼ同時期の銅鏡であることから「邪馬台国」の時代に生きた人々の姿を写した銅鏡という言い方はできるかもしれない≫(12)。

くわしく銅鏡の分析をしても、『魏志』の「銅鏡百枚」との関係は不明だ、としている。魏から遣使二人に、下賜された他の金・銀印、紫綬・青綬などが残って いないばかりか、もっとも蓋然性があると考えられてきた「銅鏡」でさえ、不明なのである。このことは深刻な問題である。つまり正直に言った方がいい。この 『魏志』の「倭人伝」は何の、「倭国」のことを具体的なものでなく、若干の同一性を除くと、すべてフィクションであり、検討に値しない、ということであ る。極端なことをいうな、というかもれない。これから証拠が出てくるかもしれない、と抗弁されるかもしれない。しかし違う分野であるとはいえ歴史研究を50年以上やって来た私から言わせれば、絶対に出てこないし、こうした記録は、公式記録とはいえ、歴史という ものを、統治者の忠実に書紀として書かれたものではない、このような記録は信用するに値しないし、論争するのも無駄である、ということだ。

邪馬台国九州説を称える研究者の中には、纏向で出土した土器の年代を百年近くの新しくみるべきだ、と述べるものもいるが、土器は古墳自身よりも後の時代だ というが、纏向の土器の年代を変えることは、他の膨大な土器の編年を考えると、無理だと、桜井市纏向学研究センター主任研究員の橋本輝彦氏が述べている。 「邪馬台国の最有力候補地として注目を集める纏向遺跡。長年の現地発掘調査から見えてきた真実とは何か」と副題に掲げられた同氏とのインタビューで、≪冷 静に考古学的な観点から考えると、箸墓が発掘されただけで、教科書を塗り替えるような大きな発見や成果があるとは思えません。卑弥呼が中国からもらったと いう「親魏倭王」の金印でも出てくれば別でしょうが(笑)、そういう可能性は極めて低い・・ここ数十年、学問としての考古学はかなり研究水準が上がってき ました。ひとつの古墳の発掘によって、大きな歴史が塗り替わるほどの余地はないと、私は思っています。≫と箸墓古墳の発掘現場の主任研究員がはっきりと述 べているのである(13)。

3 「卑弥呼」という名前について

『魏志倭人伝』は、男子の王が七、八十年続いた後に、何年か乱れ た末に、≪乃ち共に一女子を立てて王と為す。名づけて卑弥呼を曰う。鬼道に事え、能く衆を惑わす≫と記している。ここで注目すべきは、≪一女子を立てて王 となす≫という表現の中に、あくまで男子と男子の戦いの後、卑弥呼が戦いに勝って王の地位についたわけではなく、その男子たちが「共立」して卑弥呼に 「王」を委ねた、という経緯があったことである。つまり戦争の勝利者よりも、巫女のような精神的な権威者を、世の中が必要とした、ということであろう(14)。

しかしその「卑弥呼」の「宮室・楼観を、≪城柵をもて厳かに設 け、常に人有り、兵を持ちて守衛す≫と述べている。ここには決して「共立」されて、安定した生活を送ったわけではない状態があったということだ。つまり 「王」となった以上、防御が必要になった、ということかもしれない。いずれにせよ、この存在は、権威的存在であって、戦いを制することの出来る権力的な存 在ではないことである。これは一見、天皇の存在に似ている。一方で摂政・関白に藤原氏のような実際に政治を執り行う勢力があって、その上に立つ、霊的な権 威の存在であったことである。

しかしこの女王の国は、倭国のひとつ「邪馬台国」であって、「倭 国」の島々がさらに別にあったことを記している。つまり天皇のように、倭国すべてを統一した上の「権威」的存在ではない、ということである。すると、これ 自体、決して、卑弥呼が「倭国」の「王」的存在ではなく、地方政権のひとつであったことになる。

女王卑弥呼が死亡してから、≪更に男王を立てしも、国中服せず。 更々(こもごも)相誅殺し、当時千余人を殺す。復(ま)た卑弥呼の宗女壱与年十三なるを立てて王と為し、国中遂に定まる≫という記述も、この国において は、戦争で国を制するよりも、巫女の家系の子孫を人々が尊敬する、ということを述べていることになる。このような家系を奉るということ自体、『魏志倭人 伝』の作者が、日本の「天皇=スメラミコト」の存在を仄聞して、その精神的権威というものを、このような記述に変えた、と考えられるだろう。しかし、あく まで神武天皇以来の、「倭国」全体の権威を想定したわけではない。

私は学生であった頃、井上光貞東大教授の「国史」の授業を聞いた が、そのとき「卑弥呼」を「ひみこ」と呼ばす、「ひめこ」と呼ぶべきだ、ということを聞いた。氏の『日本国家の起源』にも、「ひめこ」というルビをふって いる(15)。しかしこの「ひめこ」と呼んだのは、江戸時代の九州邪馬台国説の始祖である本居宣長 である。そして井上教授の前の東大教授の坂本太郎氏が、「ひめこ」説を主張し、その根拠に、『元興寺縁起』や『上宮聖徳法王帝説』その他で、漢字仮名書き した人名や神名で「め」と発音すべきところに「弥」の字を使用されている例を数多く出しているからである。それに対し、原田大六氏は、これらの二つの文献 が、「め」という特別な読み方をすべき統一性をもっておらず、やはり「み」と読むべきことを主張している(16)。

いずれにせよ「卑弥呼=ひみこ」というもっともらしい名前から、 延々と論争がはじまったのである。そのもっともらしさとは、この名が「ひのみこ=日皇子」という『古事記』にも、『万葉集』にも出ている言葉と類似してい るからであろう。日皇子は、日の神の子孫であり、日のように輝く御子という意味で、天皇や皇太子、皇子の美称である。天照大御神の皇孫ニニギノミコトが高 天原から芦原中国に降臨した神話にもとづく表現である。≪高照らす 日の皇子は 飛ぶ鳥の 清御原の宮に 神ながら 太敷きまして≫(2一六七)と、地上 への降臨と統治を一連のものとしてとらえている。天皇の神聖性を神話の起源に立ち返って確認し賛美することは、あたかも「ひみこ」の正当性を示しているよ うに錯覚させたのであろう(17)。

『万葉集』では、誰をさすか明らかでない例がある他は、その対象 は天武天皇とその皇子、天武の皇后であった持統天皇に限られている。その意味で、天照大御神の皇祖神化、伊勢神宮の創建、国家神話の体系化などを、あたか も「ひみこ」という言葉が予知していたように、真実性がある、と日本学者が感じてしまったからであろう。この「卑弥呼」が「日の皇子」であることは、万世 一系の天皇家を、疑わせるに足る史料として、戦後の学者たちにその捏造性も疑わずに、考察されつづけたことである。ここではっきり言えることは「卑弥呼」 は、「日の御子」を軽蔑した言い方であり、その関連は偶然のことであることだ。

4 「徐福」にも神社がある

題名に掲げたように、日本の神社の分布を細かく調べてみても、 「卑弥呼」神社がどこにも、見出せないのに気づく。むろん「卑弥呼」が「鬼道」で人を「惑わす」巫女であるから、神道の神ではない、ということも出来る が、「魏志倭人伝」で語られるような、ある「国」の支配的な「首長」的存在であるならば、鎮魂の意味でも、そこの地元の人々が祀らないはずはないのであ る。『記紀』に出てこない、人々に恐れられた神々、竜神、雷神、閻魔大王、鬼子母神、あるいは鬼の類であろうと神社がつくられている。後に検討するが、民 俗信仰にぞくする山姥、オシラ様等々の女神の中にも、「卑弥呼」らしい存在は見出せない。やはり最初から神々ではない、聖徳太子、柿本人麿、菅原道真、平 将門、崇徳院、楠木正成、新田義貞などの存在であろうと、神社に祀られているのである。どのような「卑弥呼」であっても、一度「王」となった存在は、記憶 に残されないはずはないのである。どこかの場所で言及されないはずはない。しかし「卑弥呼」もしくは、それらしい存在の痕跡は、一切神社にも、またお寺に も(仏教は六世紀以降、日本に入って来たものだから、これは当然かもしれないが)、見出せない。それは一体なぜであろうか。とくに『万葉集』にそれを推測 させる歌が一切ない、というのも「卑弥呼」「王」の不在をよく感じさせる。

同じ中国の史書、司馬遷の『史記』の巻百十八「淮南衝山列 伝」に書かれた物語から発した徐福の伝説は、日本に数多くの地方に残されている。神道の神でも日本人でもない、「徐福」のような人物でさえ祀られ ているのである。「卑弥呼」よりもっと前、「弥生時代」に秦からやって来たとされる伝説上の人物にも、徐福神社が各地につくられているのだ。「徐福」は決 して神とは言えないにもかかわらず、である。名高いのは新宮市の阿須賀の神社で、そこには立派な鳥居と共に、この異郷の人物を、神社の祭神にしているので ある(18)。

徐福ほど有名でなくとも、例えば、滅んだ百済から逃れてきた王 族、禎­嘉王が宮崎県の美郷町南郷区に、その子の福智王が約九十キロ離­れた木城町に住んでいたと­され、死後それぞれが神として祀られるようになっている。むろんこの百済の王たちも神道には関係がない。それ にも関わらず、百済王一族を慰めるために、「師走祭り」という例大祭さえ、地元で行われているのだ。例祭当日、村民が参加して父を祀る神門 神社と子を祀る比木神社の間で親子の対面を再現するという。これであっても、ただの伝承からう まれた神社であり、それに基づく例大祭が行われているのである(19)。

百済からでなくとも、新羅や高麗など、朝鮮から来た人々を祀る神 社もあることも知られている。「卑弥呼」が、「倭の大乱」があったあと、それを平定するために、その首長の地位についた存在であれば、どこかに神社か、祠 にその存在が記されているはずなのに、それが存在しない。また「卑弥呼」の宗女の台与も「王」となっているが、こちらもどこにも祀られている形跡はない。 よほど日本各地の地元の人々に憎まれていたのであろうか。しかし憎悪も、鎮魂の意味で、神社か祠かが造られるものである。

では「卑弥呼」とかその娘の「台与」とかが、日本名ではないから、別の名前で、どこかに祀られているはずだ、という学者もいるかもしれない。この関連が もっとも取沙汰されているのは、一番時代的に近いとされる神功皇后の存在である。

4 「卑弥呼」は神功皇后、倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)であったか

『記紀』には、神功皇后は新羅征伐を率いた女傑、高度な霊威力を もった巫女の長、神の子応神天皇を生む母という姿から、≪鬼道に事(つか)え、能く衆を惑わす≫卑弥呼と重ね合されている。第十四代仲哀天皇の皇后であ り、応神天皇の母であることから、卑弥呼と匹敵する「王」の地位にあるのではないか、と。薬師寺の「巫女」王という姿から、邪馬台国の卑弥呼だといわれる こともある。

実際、『日本書紀』巻九の神功皇后三十九年、四十年、四十三年の 条の三カ所に「魏志倭人伝」から引用があり、六十六年には晋(しん)の『起居注』(皇帝の言行を記録した一種の日記)を引用して、皇后を「倭の女王」と記 している。三十九年の条の注には、≪魏志に云う。明帝景初三年(西暦二三九年)六月に、倭女王が大夫難斗米らを遣わして・・≫と書かれている(20)。

『古事記』には、仲哀天皇が熊襲を討つために神の託宣を受けたと き、≪天皇が琴弾き、大臣の武内宿祢が祭りの庭にいて神託をうかがった。すると皇后のオキナガタラシヒメ(神功皇后)に神懸りして託宣した≫と書かれてい る。『日本書紀』にも、≪皇后は吉日を選んで斎宮に入り、自ら神主となられた。武内宿祢に琴を弾かせ、中臣烏賊津使主(なかとみのいかつのおみ)を呼んで 審神者(きにわ)(神託を聞いて解釈する人)とした≫という。このような伝説から、神功皇后は、「邪馬台国」の巫女王の「卑弥呼」をモデルにして生み出さ れたとさえ言われる(21)。

神功皇后は「鎮懐石伝承」として語られる異常出産(神の子を産む 神話的な表現)を行ったことでも知られている。新羅遠征中に子が生まれそうになったため、夢のお告げにより、卵形の美しい小石を二個、腰のところに着けて 呪いとし、出産を遅らせることを願ったという。筑紫国に凱旋してから、無事に御子(ホムダワケ命)を生んだ、とされる。妊娠から出産まで十五月かかったと いう。この出産の伝承は九州地方に広がっていた土俗的な母子神信仰ではないか、と推測されている。母子神信仰とは霊的能力の高い女性(神に仕える巫女) が、処女受胎して神の子を産むという考え方に基づいている。しかし「卑弥呼」自身は、子はなく、独身であり、こうした神功皇后の出産と関連づけることは出 来ない。

このような「卑弥呼」に近い存在として神功皇后の神話が書かれて いるにも関わらず、その鎮座地である香椎宮(福岡県東区香椎町)では、一切、「卑弥呼」も「邪馬台国」の存在も、その伝説にも、記録にも表れない。この香 椎宮が、もともと霊墓㙊神功皇后が新羅遠征をしたことにより、朝鮮や中国にある霊廟と して創建されたいう説もあるが、こうしたことも「魏志倭人伝」の様相を伝えるものは全くないのである。それはやはり神功皇后を祀った住吉大社や、石清水八 幡宮も同じである。神功皇后が「卑弥呼」を示唆する何も、その由来や祀られる神々の中にない。

明治時代に東京帝大の白鳥庫吉(一八六五-一九四二)が九州説を 唱え、京都帝大の内藤湖南(一八六六-一九三四)が畿内説を主張して、論争したことは、周知のことである。その内藤が、卑弥呼を、神を祀る役目を担った、 垂仁天皇皇女、倭姫命(やまとひめ)にあてはめたことがあった。しかしこの説も、伊勢に祀られた倭比売命を調べてみても、「卑弥呼」関係を思わせるもは何 もない。天照大神の鎮座地を探して、大和、近江、美濃を経て、最後に伊勢に入った経緯の中にも、その関係を示唆するものはない(22)。

ま た考古学者の笠井新也氏は、「魏志倭人伝」で「卑弥呼」の死に対して≪大いに 家(つか)を作る。径百余歩、殉葬する者、奴婢百余人≫と記されているのに対して、『日本書紀』が「崇神記」で、崇神天皇の叔母の倭迹迹日百襲姫(やまと ととひももそひめ)を葬った箸墓に関する≪日は人作り、夜は神作る・・大坂山の石を運びて造る≫という記述に着目し、箸墓の後円部の直径は百五十メートル で、魏の百四歩にあたり、箸墓の大きさと卑弥呼の墓とされる塚とほぼ一致する、という論を展開した。「魏志倭人伝」の「男弟あり。補佐して国を治める」の 「男弟」は、甥の崇神天皇である、と主張したのである(23)。

箸墓古墳がそれだ、という前に、この倭迹迹日百襲姫(やまととと ひももそひめ) という存在が、果たして「卑弥呼」と同一視できるかどうかについて、検討しておきたい。だが、この点については、すでに議論されていて、結論は否定的であ る。そのひとつ、原田大六氏のものを紹介しておこう。≪「魏志倭人伝」の卑弥呼に関する記事と、『日本書紀』の倭迹迹日百襲姫の記事を比較すると、その間 に共通する要素があるのを発見することができよう(24)。

(1) 邪馬台国の女王と倭の名称を持つ最高の姫。

(2) 鬼道に事える卑弥呼と天皇の請いで神憑りする姫。

(3) 奴婢百余人を殉葬した卑弥呼の墓と人と神でつくったという箸の墓。

しかし、以上のような共通点を指摘しても、なおしっくりしない。『日本書紀』には推古・皇極(斉明)両女帝の記述があり、神功皇后は天皇扱いで巻九に独立 させてある。卑弥呼は建国第一代の女王であったのだから、当然、倭迹迹日百襲姫女帝として出現しているべきであるのに、天皇の座についたという形跡は、 いっさい『日本書紀』には書いていないのである。この点に、「倭迹迹日百襲姫すなわち卑弥呼」という仮説を、承諾できない根元があるという。

また卑弥呼を日の御子とした場合には、倭迹迹姫も太陽の妻に近い太陽神祭祀に従事した女性として出てこなければならないのだが、彼女は出雲系の大物主の神 や倭国魂の神という話になってしまっていることである。これでは、日の御子という名の卑弥呼は倭迹迹姫ではないとさえいいたくなる。この倭迹迹姫の(1) 帝位についた形跡、(2)太陽祭祀の形跡、という二問題が解決されなければ、卑弥呼と倭迹迹姫との類似は、単にいくらか似ているというに過ぎなくなるおそ れが多分にある。

しかし原田氏は倭迹迹日百襲姫の名が、倭国の天界と地界を結ぶ、有翼の、たくさんの衣裳を持つ姫という意味であることから、『日本書紀』の中の存在では、 卑弥呼に一番近いと考えている。次の女王となった壱与についても考察を続けているが、それに近い存在として倭迹迹稚屋姫を挙げているものの、年齢の関係で 合わないので、その合一性の主張を断念している。

いずれにせよ、例え一番近い存在らしい、と考えられても、原田氏自身が投げかけた疑問を氷解させたわけではない。倭迹迹日百襲姫が、天皇でもないし、「卑 弥呼」が「日の御子」という太陽神信仰の持ち主であるという記述もない。二人は重ならないのである。

6 『風土記』の神々たちの中に「卑弥呼」の影を探す

「卑 弥呼」の存在は、中央の『記紀』の神々や家系に出てこないから、滅ぼされた地方の豪族にいたのかもしれない、と考えることが出来る。奈良時代には『記紀』 以外に各地の『風土記』が出されている。和銅六(七一三)年、朝廷は諸国の国司に、それぞれの土地の産物、肥沃度、山川原野の名前の由来、古老の伝える昔 の出来事などを記して、報告するように命じた。それが『風土記』であったから、「王」であった「卑弥呼」が、大和政権が列島各地に勢力を広めていく中で、 滅ぼされた土着の勢力の一人であったかもしれない。

そこで描かれている。代表的なものが「土蜘蛛」の名で伝えられる 部族たちである。「土蜘蛛」というのは、朝廷の側から見た蔑称であるが、その名の各地の首長の中に、何がしかの「卑弥呼」に関連するものがあってもおかし くない。とくに九州地方は、「卑弥呼」の存在が有力視されるだけに、そこになんらかの探す手立てがあるにちがいない。

豊後国(現在の大分県)の『風土記』には多くの「土蜘蛛」が登場 する。その名で呼ばれるのは五馬媛(いつまひめ)他七人、そのうち速津媛(はやつひめ)に密告されてほろばされた。≪此の村に女人あり、名を速津媛といい てその処の長たりき。即ち、天皇(すめらみこと)の行幸を聞きて、親自(みずか)ら迎え奉(まつり)て、奏言(もう)ししく、「此の山に大きなる磐窟(い わや)あり、名を鼠の磐窟といい、土蜘蛛二人住めり。その名を青・白という。また、直入(なおり)の郡(こおり)の禰疑野(ねぎの)に土蜘蛛三人あり、そ の名を打猨(うちさる)・八田(やた)・国摩呂という。この五人(いつたり)は、竝(ならび)に為人(ひととなり)、強暴(ちはや)び、衆類も亦多(また きわ)にあり。悉皆(みな)、謡(ことあげ)していえらく、「皇命(おおみこと)に従わじ」といえり。若し、強(あなが)ちに喚(め)さば、兵(いくさ) を興して距(ふせ)ぎまつらん」ともうしき。ここに、天皇(すめらみこと)、兵(いくさびと)を遣(や)りて、その要害(ぬみ)を遮(さ)えて、悉(こと ごと)に誅(つみな)い滅ぼしたまいき。斯(これ)に因りて、名を速津媛の国といいき。後の人、改めて速見の郡(こおり)という≫(25)。

これは景行天皇が熊襲征伐のために筑紫にやって来た時に、「処の 長」であった速見媛は、天皇を出迎えて、五人の土蜘蛛を滅ぼしてもらったことを述べている。速見媛という女性の「長」は、族長として「邪馬台国」の「長」 である「卑弥呼」に似ていないことはない。やはり戦いがあったのちに「長」となっている点である。しかし速見媛の場合、折から天皇の行幸に合わせて、争う 賊を殺してもらい、その国の「長」であることを確固たるものにした、という物語である。そして「卑弥呼」はあくまで、戦争のあと、「共立」されて権威者と して「王」になったのに対し、この速見媛は、権力者としての「長」としてふるまっている。『風土記』の「長」たちは、明らかに各国の権力者としての「長」 であるのである。

しかし「神」と化した「土蜘蛛」の例もある。景行天皇が熊襲征伐 から凱旋の途中で≪この郡(こおり)に幸でまししに、神あり、名を久津媛(ひさづひめ)という。人と化為(な)りて参迎(まいむか)え、国の消息(ありさ ま)を弁(わきまえ)申しき。斯(これ)に因りて久津媛の郡といいき。今、日田の郡(こおり)と謂うは、訛(よこなま)れるなり≫(26)。この女性首長は、人と化した「神」であるとされており、巫女的存在でもあったことを示唆している。

『風土記』の「土蜘蛛」の中に「卑弥呼」的存在と推し量れるもの が、見られないことはないが、しかしあくまで「すめらみこと=天皇」に従う形で語られる。みずから 「王」として独立的存在として語られることはない。このことは、播磨や出雲には「土蜘蛛」が一切語られていないことにより、そのような存在が近畿、中国地 方には存在しないことを物語っている。いずれにせよ、「土蜘蛛」の中には、「卑弥呼」的存在はない、と言ってよい。

その他に『風土記』には、『記紀』には存在しない数多くの女神が 登場する。女神が男の神と争い、勝つ話も多い。『播磨国風土記』では、讃容(さよ)の郡(こおり)の冒頭に、「妹背(夫婦)の神と田植え」の伝承に登場す るサヨツヒメ命(佐用都比売命)がいる。イワ大神(いわのおおかみ)とタマツヒメ命は、生きた鹿を捕らえてその腹を割き、吹き出た血を苗代として稲種をま いた、という。すると一夜のうちに苗が生えたので、すぐさまその苗をとって田に植えた。それを見て、夫の伊和大神は≪おまえは五月夜(さよ)に田植えをし まったのだな≫と、その奇跡的な田植えに驚き、土地争いをあきらめ去っていったという。土地の名前に、五月夜の郡とあり、鹿を切り裂いた山を鹿庭山とある のは、このせいである。この鹿庭山からは鉄が出て、人々は豊になったとされる(27)。

この田植えの競争に勝ったサヨツヒメ命の勝利は、鹿の呪力(じゅ りょく)と霊性をみごとに使ったからである。≪鬼道に仕え能く衆を惑わす≫という批判の裏にはこのような具体性があったからかもしれない。鹿の霊性と呪力 を使い、大地の豊穣性を引き出したわけで、それは他国の人から見ると「鬼道」に値するかもしれない。サヨツヒメ命の別名は「玉津日女命(たまつひめのみこ と)」であるが、この名からも神霊が依りつく巫女を神格化したものである。それは「卑弥呼」のシャーマニスムと対応するだろう。『風土記』は、八世紀の記 述とはいえ、それまでの各地方の伝承を伝えているから、そうした伝説が中国まで伝わっている可能性がある。ただこのような伝承の中の女神でも、兵庫県の佐 用郡佐用町に、都比売神社に祀られている。「卑弥呼」にはそれが存在しないのである。

『風土記』には、「卑弥呼」のような「王」の家系は語られておら ず、各地の女神の話が多い。例えば、名高い橋姫の伝説も、そうした女神の物語である。名前のとおり橋のたもとに祀られている女神であるが、川の神として知 られている。『山城国風土記』の逸文に、橋姫が懐妊してつわりになり、ワカメを欲しがったため、海辺に取りに行った夫が笛を吹いていると、竜神に気に入ら れて婿にされてしまったという。橋姫は夫を探して海辺の老女の家を訪ねて聞くと、竜神にさらわれたことを知って、家に戻った。しかし夫は竜宮で煮炊きした 食べ物を口にしなかったため(イザナミが黄泉の国から戻れなかったのは、あの世の食物を食べてしまったからである。黄泉戸喫(よもつへぐい)、この世に戻 ることが出来た。そして橋姫と一緒に暮らしたという。こうした伝説上の女神でさえ、平安時代の『古今和歌集』には「千早ふる 宇治の橋姫 なれをしぞ あ はれと思ふ 年のへぬれば」と詠われる。一方、「卑弥呼」が「日の御子」であったとしても、その伝説の歌はどこにも伝わっていないのである(28)。

『風土記』にも「聖母神」がいる。例えば、三輪山の神婚譚と同 じ、努賀毘売(ぬかびめ)の物語である。『常陸国風土記』に出て来るもので、常陸の「哺時臥(くれふし)の山」の話で、「晡持(ほじ)」というのは、申の 刻(午後四時頃)で日暮を意味する。ヌカビコとヌカヒメの兄妹が済んでいて、その妹のところに、素性のわからぬ男が求婚をした。ヌカヒメがその男と夫婦に なると、一夜にして身ごもり、小さな蛇を生んだという。その小蛇は、明るい日中はただ黙するだけであったが、夜、母と会話をした。それを不思議に思ったヌ カヒコは、神の子と思い、坏(つき)(食器)に小蛇を入れて祭壇に安置した。すると一夜で成長し、坏に一杯になり、平か(皿)に入れ替え、その次に甕に入 れた。しかし異常に成長し、入れる容器もなくなったので、ヌカビメがその我が子に、もうこれ以上養育しきれないから、父神のところへ帰りなさいといった。 するとその子は、従者を一人つけてくれれば、母上の言葉に従いましょうといったという。兄妹二人しかいないので、それを断ったところ、怒りを爆発させ、雷 神の本性を露わにし、叔父のヌカビコを雷撃で殺して天に昇ろうとした。おどろいたヌカヒメは、我が子を養育した平かや甕を投げつけると霊力を失って、晡時 臥の山に残ることになった、という(29)。

「卑弥呼」はシャーマンであるが、何かの化身という示唆はない。 その精神的威力が、一体どこから来るか説明がないのである。しかし独身であることは、日本では女性の「王」が、あくまで男系の「王」の家系の中継ぎを意味 し、後の日本の女性天皇のような、存在に似てくる。無論、『魏志倭人伝』の時代には、そうした皇位継承の伝統がまだ知られていなかっただろうから、その説 明の配慮がないのも当然かもしれない。ただ、作者、陳寿が、倭国の実情をほとんど知らないで書いたものであることは、この『風土記』あるいは『日本霊異 記』にあるような、日本人と自然とむすびついた存在であることを、示唆するものがないことでもわかる。

7 「入れ墨」の記述について

『魏志』の「倭人伝」には、有名な「黥面・文身」(顔や体の刺青)についての記述がある。

≪男子は、大小に関わりなく、みな顔や身体に刺青をしている。昔から、その使者が、中国にやって来るときにみな自ら太夫と 称した。夏后少康の子が、会稽に封ぜられると、髪を切り、刺青をして魚、蛤を採っている。(その時に)刺青をして大魚や水禽を避けるのである。その後、し だいに飾りとするようになった。諸国では、身体に刺青をするのにそれぞれ差異がある。あるものは左、あるものは右、あるものは大きく、あるものは小さく、 その尊卑にもそれぞれ差がある≫。

日本人がこれを聞くと、「みな」入れ墨をしていると、と誰しも思わないであろう。しかし『魏志倭人伝』を支持する学者 は、これについて余り抗弁していない。『記紀』に記されていないからこそ、貴重といわんばかりである。たしかに縄文土偶の姿の中に、あたかも入れ墨をして いるかのような姿(例えば遮光器土偶)が見られるが、それらは決して皮膚に刺青を表現したものではない。表面に凹凸があり、顔はむくみ、もしくは異形の表 現であり、身体はあくまで衣服の表現でしかない。入れ墨と考えることが出来る形跡は存在しない、と言ってよいであろう。しかし『魏志倭人伝』に記された時 代は、古墳時代であるから、当然人物埴輪にその可能性をみることができようが、埴輪は文様をもたないし、色彩表現が消えており、その可能性を探ることは出 来ない。畿内地方のみにある人物埴輪にそれを見る研究者もいるが、その人物埴輪の場合は、畿内に来た外来者の像と考えるべきであろう。本来の埴輪のあどけ ない姿は、埋葬者の霊性、神性を象徴化している、と考えられるから、入れ墨があったとは考えにくい。

その頃の畿内地方には入れ墨の習 俗が存在せず、入れ墨の習俗を有する地域の人々は外来の者として認識されていた、と考える方が正しいのである。『古事記』の「神武天皇紀」に記された、伊 波礼彦尊(いわれひこのみこと)(後の神武天皇)から伊須気余理比売(いすけよりひめ)への求婚使者としてやって来た大久米命の「黥利目・さけるとめ」(目の周囲に施された入れ墨)を見て、伊須 気余理比売が驚いた記述があるからである。さらに、『日本書紀』には蝦夷が入墨をしているという記述があり、倭人の男性がすべて入れ墨をしていたということは、陳寿が「倭 人」を蔑視する材料に使っていると取るべきであろう。当時の中国では、入れ墨は刑罰の一種であったらしいからである(30)。こんな記述によっても、「邪馬台国」は本来の日本と異なる地域のことを言っていると考えるべきであろ う。要するに、この『三国志』の「倭人伝」は、陳寿のフィクションなのである。

8 民俗信仰、昔話の中に「卑弥呼」系があったか

たしかに『魏志倭人伝』では、山のことが書かれている。≪その 山には丹がある。その木にはクス、トチ、クスノキ、ボケ、クヌギ、スギ、カシ、ヤマグワ、カエデがある。その竹にはシノダケ、ヤダケ、カズラダケがある。 またショウガ、タチバナ、サンショウ、ミョウガがあるが、滋味があることを知らない。オオザル、クロキジがいる≫。丹というのは、山の赤土のことらしい。 またここに書かれたこれらの樹木、竹、猿は日本にあるから、あたかも日本の自然を述べているかに見える。しかし、もうひとつ踏み込んで、山に対する信仰が ある、ということは書かれていない。

日本の民俗神は多彩で、民俗信仰、民間伝承などで昔から伝わって いる女性神が多い。もし「卑弥呼」が、日本の歴史の中に残っているとすれば、その中に何らかの形であるはずである。とくに「卑弥呼」が「鬼道に事え、衆を 惑わす」「女王」の存在なら、言葉通り「鬼女」や「鬼婆」のイメージと一致するかもしれない。「女性の霊力」をまさに体現しているのなら、その女神信仰に 残るであろう。何せ、女性の「王」であるからだ。柳田国男が言うような、「妹の力」に似てくるかもしれない。姉妹が兄弟を目に見えない精神的な力で支配す ることをいうが、「卑弥呼」も弟がおり、統治を助けた、と述べている。二人の関係は、それと似ているからである(31)。

「霊性」と「魔性」を併せもつのであれば、「山姥」となるかもしれない。「山姥」は一方で「鬼婆」の名で呼ばれるのである。ただ「山」がついているから、 当然、山と関係した「山の神」となる。「邪馬台国」の「邪馬」も「山」と共通するであろう。そのような共通性からも、「卑弥呼」は「山姥」となってどこか に残されるかもしれない。深い山に住むのは、先祖の霊であり、神のはずである。そうした「山の神」は、里に降りてきて豊穣をもたらすという民間信仰になる 可能性もある。民俗学者の宮田登氏は、≪山の神は、女性神であり出産に関与する、多産の女神であるという民間伝承があり、山姥イメージがそうした山の神信 仰を背景にしていることは間違いない≫(32)。

しかし宮田登氏の研究にも、「卑弥呼」追求は見出せない。そのこ とは、「卑弥呼神話など、各地のどこにも見出せなかった結果であろう。氏ほど、各地を歩き調査した研究者であれば、何らかの「卑弥呼」神話を見出すことは 可能であったであろう。しかし氏程の民俗学者でも、それを見出してはいないのである。各地に伝わる一般的な山姥のイメージは、背が高く、白髪の長い髪で、 鋭く吊り上がった目、耳まで裂けた口の老女である。「卑弥呼」が本当に実在したら、そのようになった「山姥」がふさわしいかもしれない。「山姥」には人間 を食い殺す鬼婆という恐ろしい悪神的な一面があると同時に、幸運をもたらす善神(守護神)的な一面があるといわれる。山中他界に住む鬼女が登場する「山 姥」は、山中にさまよう女の怨念がこもって鬼女に化身するというものだが、「卑弥呼」の「鬼道」の中に、このような一面を想像しても的はずれではないかも しれない。日本各地の山中に住むというこのような「山姥」や「鬼女」「女怪」などには、「卑弥呼」がなってもいいであろう。しかし「山姥」になったかつて の女性の「王」はいないのである。

「邪馬台国」の≪習俗では、行事や往来する際に、何かあれば、そ のたびに骨を焼いて占トをおこなって吉凶を判断し、あらかじめその結果を伝える。そのことばは、(中国の)命亀の法と同じである。ひびを視て、兆候を占う ≫とあるが、この占トは、日本でも亀や鹿の角で行うから共通しているといえるであろう。日本では中臣氏などの祖先は、占トを行って、吉凶を判断していたと いう。俗信では「オシラ様」が農業で、豊作を占う役割を演じていたことが知られている。東北地方の口寄せ巫女であるイタコが、その「オシラ様」を祀って祭 文を語り、人形神であるオシラ様を両手にもって空中に踊らせる所作をするのである。イタコは女性シャーマンで、「卑弥呼」と共通するが、「オシラ様」の由 来は、養蚕の神である。柳田国男の『遠野物語』の第六十九話で、長者の娘と馬のロマンチックな婚姻譚があるが、それは中国の『捜神記(そうしんき)』に由 来されるものという。しかし「卑弥呼」の記述には、彼女は人々の前には姿をあらわさない存在だし、養蚕神でもない。ともあれ『魏志倭人伝』の文章には現実 性がほとんど感じられない(33)。

女性神としては、航海の女神「オナリ神」が琉球王国に残ってお り、かっての琉球王国には、国王の姉妹か、王妃、叔母などが、最高の女神たる「聞得大君(聞こえおおきみ)となって、国王を守るオナリ神になったとう。 「卑弥呼」自身「王」となったから、この「オナリ神」とはならないが、しかし王妃がこのような存在となることは、女性が「霊力」が備わっている、と見なさ れたことでは共通している。女性が生まれながらにもっている神との感応する能力への崇拝があったことを示しているのである(34)。

琉球では姉妹のことをオナリ、もしくはウナリという。兄弟を守護 する「妹の力」を発揮しているのは、沖縄のオナリ神である。政務を司る弟がいる「卑弥呼」の存在は、オナリ神と同じ存在といえるかもしれない。ただ航海す る兄弟を守るオナリ神が多いから、そのような存在から「卑弥呼」の存在を想定したのかもしれないが、やはり「卑弥呼」はオナリ神とは言えない。

こうした霊力のある女神は「淡島様」と呼ばれる、女性の結婚、安 産、子育て、病気を治す神であったり、「瀬織津比売命(せおりつひめのみこと)」とよばれる穢れを払う水瀬の女神などがいる。しかし女性の安産の神「納戸 神」「産泰神」、子育ての「姥神」、豊漁を祈る「阿波様」、春の女神「佐保様」、秋の女神「龍田姫」などの存在が各地で記録されているが、しかしどの女神 も独身の子供もつくらなかった「卑弥呼」の存在を由来として予想できるものはない(35)。

最後に琉球の「キンマモン」という女神について考えてみたい。こ れは「君真物」と表記される女神で、海の彼方からやって来て、最高神である聞得大君(きこえおおきみ)に依り憑く神である、という。「君」は神女のことで あり、「真」は本当であり、「物」は霊であるという。つまり偉大な神霊という意味だとされる。柳田国男は「君」は巫女で、「真物」は真の巫女を表すものと して、それが神そのものの呼称となったという。折口信夫によると「君」は後にきて「真物」君であって、真の神女ということになる。いずれにせよ、琉球の最 高女神ということになる。

袋中上人の著した『琉球神道記』には≪昔、人間がまだいなかった ころ、男神シチリキュと女神アマミキュが天から降臨して国をつくった。つづいて国王の祖先、神女の祖先、農民の祖先を生んだ。そうして竜宮(ニライカナ イ=海上楽土)から火がもたらされ、国が成り、人間が作り出された。このときに人間を守護する神のキンマモンが現れた。この神は、海底を宮とし、毎月出現 して託宣し、あちこちの拝林(御嶽うたき)で休んだ≫と書かれている。海上楽土から、人間を守るために女神がやってくる、という話だが、やはり「卑弥呼」 のような巫女なのである。「卑弥呼」を人々がキンマモンのように思ったからこそ、世の中が平定したとも考えられる。陳寿は、このような琉球女神のことを仄 聞していたのかもしれない。しかし、ただ巫女だけの類似とすれば、「卑弥呼」がキンマモンである、とは言えない(36)。

私はここで、能楽の女神物について触れておきたい。世阿弥は少 なくとも、能楽の起源が、『記紀』にある、天鈿女命の天の岩戸の前の踊りをその起源と考えた。

世阿弥の『風姿花伝』の第四「神儀にいふ」は、能の起源を次のように言っている。
≪申楽神代のはじまりといふは、天照大神天の岩戸に籠り給ひし時、天下常闇になりし に・・・神楽を奏し細男をはじめ給ふ。なかにも天鈿女の御子すすみ出で給ひて榊の枝に幣をつけて声をあげ、・・・神かかりすと謡ひ舞ひかなで給ふ≫とし、 天照大神が岩戸を開けて国土がまた明るくなったという有名な『記紀』の物語りの場面を≪その時の御遊び、申楽のはじめといふ≫としている。「卑弥呼」が≪ 鬼道に事え衆を惑わす≫行為が、こうした申楽のはじまりと無関係ではないように見える。≪衆を惑わす≫そのことが、演劇の元でもあるからだ( 37)。

能に「鵜羽」という巫女・女神物がある。日向鵜戸の岩屋で参拝してきた廷臣の前に、土 地の海人に化身した豊玉姫命の霊が現れる話で、鵜羽神宮の祭神、鵜羽葺不合命(うのはふきあえずのみこと)の誕生譚を姫の霊が語り、海彦山彦神話に出てく る呪物の満珠をめでて舞い、海中に去っていく、という能である。豊玉姫命といえば、海彦の娘であり、妹は玉依姫命である。「玉」とは「魂」であり、偉大な 霊能力をもった巫女のことでもある。「卑弥呼」が霊能力をもっている巫女であったから、その点できょうつうしている。「卑弥呼」の方は、一切係累を記して いないのは、作者がそうした知識を持ち合わせていなかったことを示すが、しかし『記紀』のこのような巫女・女神の存在を聞き知っていたのであろう。国の場 所を距離関係でくわしく述べる割には、土地の情報を全く持っていなかったということになる。無論その距離も陳寿自体の想像に過ぎないが。豊玉姫命は鹿児島 神社というれっきとした神宮に祀られている。場所と「王」である巫女の関係が日本では重要であることを、著者は何も知らなかったことになる。

「卑弥呼」の墓が箸墓古墳ではないか、と述べる考古学者も多いが、それならその近辺に 「卑弥呼」の祠なり神社なり、その伝承があるのか、誰も調べようとしない。無論調べても無駄だという諦めが先にあるからだろう。能には「三輪」という能が ある。三輪山の玄賓僧都のもとに毎日樒(しきみ)を届ける女性が、ある日、杉の木の下で待て、という。それに従うと三輪明神が現れ、三輪山伝説を語り、神 遊びをして舞った。この三輪明神が、「卑弥呼」のことを語れば、真実性を帯びてくるだろう。しかしそれは全くないのだ。もしくは室町時代まで語り継がれて おらず、消えてしまったのであろうか。『魏志倭人伝』には、日本の伝統に触れる記述がないのである。

9 『魏志倭人伝』の各地の記述を検討する

ここで『魏志倭人伝』で、各地の風習や文化を記述した部分を取り上げて検討しておこ う。口語訳は『倭国伝』(38)によった。まず対馬についてであるが、≪土地は山がちで険しく、深 林が多い。道路は鳥や鹿のけもの道のようである。千余戸ある。良い耕地は無く、海産物を食べて生活している≫と書かれている。この記述を読む限り、土地の 情報をもって書いたという部分がほとんど見出せない。海産物を食べて生活していることは、島国では常識的な事柄である。

一大国とか、末廬国、伊都国、奴国、不弥国、投馬国など、どこを指すか、書かれた距 離が根拠を欠くために、九州だとか中国地方だとか、研究者によって分かれる。そのことは、記述自身に具体性を欠き、捏造という以外にない。さて邪馬台国に ついてからであるが、国の名前、戸数とか距離は、無視していいであろう。陳寿がどのような知識をもっていたか、だけの問題である。入れ墨のことはすでに述 べた。こうした習慣は東南アジアのことと考える以外にない。

≪その風俗は、乱れていない。男子は皆なかぶりものをつけず、木めんを頭にまいてい る。衣服は、横幅衣で、ただ結んで連続させているだけで、ほとんど縫っていない。婦人は髪を結っているが、露出させている。衣は夜具の布のようで、その中 央に穴をあけて、そこから顔を出して着る≫。この記述が、誤りなのは、同じ時代の人物埴輪から見ても明らかである。男子はかぶりものをしているものが多い し、木綿を頭にまいていると思われるものは少ない。挂甲で身をかためた男子像も多いし、武器をもっているものもある。当時の男性は、帽子が好きだったらし く、さまざまな帽子をつけ、それがお洒落であったと考えられる。帽子には大きなつばのついた丸帽で飾りや彩色をほどこしたものもあった。むろん、みな縫っ た衣服を着ている。女性も被り物をし、髪を露出させているものは少ない。布の中央に穴をあけてそこから顔を出すこともない。盛装の場合は、髪型も凝り、首 飾りをしている。ここの記述は、すべて嘘なのである。

≪稲や苧麻を植え、蚕のまゆをあつめて織り、細い麻糸・絹織物・綿織物を作っている。 その地には、牛、馬、虎、豹、羊、鵲(かささぎ)がいない。武器には矛、楯、木弓を用いる。木弓は下を短くし、上を長めにする。竹の矢がらに鉄のやじり、 または骨のやじり(を用いる)。・・倭の地は温暖で、冬・夏には、生野菜を食べる。みなはだしである。部屋はあるが、父母兄弟は寝るところが異なる。朱丹 をからだに塗っている。中国で粉を用いているようなものである。飲食には高坏を用い、手で食べる≫。

ここでは稲作が行われ、麻、絹、綿の織物の技術が発達していることが述べられている。 ただ虎、豹はいないにせよ、牛、馬はいたし、乗馬の風習はとくに関東を中心に一般化されていたことがわかっている。武器には、甲冑に太刀、靭(ゆぎ)を背 負い弓を持つ姿が埴輪にある。温暖な地であることは確かだし、生野菜をたべていたが、はだしではなかったことは、埴輪でもわかるし、朱丹で体を塗ること入 れ墨同様、多くあなかったことだろう。

≪死んだときには、棺はあるが、槨はない。土を積み上げて家(つか)を作る。はじめ死 んだときに、十余日間、もがりをする。そのときには肉を食べない。喪主は大声で泣き、他の人たちは、行って歌い舞い、飲酒する。葬りおわると、家中総出 で、水中に行って洗い清め、練沐(れんもく)のようにする≫。棺はあったが、槨がなかったということはない。石槨が存在しているし、土を積み上げるが、墳 丘墓の規模は、箸墓古墳など、すでに巨大であった。大声で泣いたり、歌い舞うことは、日本の葬式では一般的ではない。葬儀後、洗い清めるのはいいとしても 水中に入ることはない。こうした風習は暑い東南アジアでは考えられることである。ここでも当時の「倭国」を考えても、現実的ではない。

海を渡って中国に行くとき、「持衰」(じさい)といって、≪髪をとかず、しらみをしり ぞけず、衣服が垢で汚れる、ままにし、肉を食べず、婦人に近づけず、喪に服している人のようにしておく≫ことが記されている。≪もし行く者が安全であれ ば、持衰に生口(奴婢)や財宝を贈る。もし病気になったり、暴風の害にあったならば、すぐにそれを殺そうとする。その持衰が謹まなかったためだと思うから である≫。この持衰という習俗は残酷な人質と思えるが、しかし当時の海上旅行の危険性を考えれば、ありうることであろう。『日本書紀』によると、ヤマトタ ケルが東征をしたとき、関東の走水の海(現在の浦賀水道)に至ったとき、海が荒れ狂い先に進めなくなったので、海の神の怒りを解くために、弟橘姫が、≪私 は夫である皇子の身に代わって海に入水します≫と念じながら、浪上に萱、皮、絁の畳それぞれ八枚を重ねた上に座り、入水した。すると波は穏やかになり、船 をすすめることが出来た、と伝えている。これと同じ役割を、航海する主人のために、家人の代わりに生口に依頼したのであろうし、品物を献じたのであろう。 ただこのような風習は、日本だけでなく、中国自身に存在した風習でもあっただろう。確かなのは陳寿が、持衰という漢語を使っているからである。

≪習慣として、身分の高い人はみな四、五人の妻をもっており、しもじもの家でも、ある 者は二、三人の妻をもっている。女性はつるましやかで、やきもちを焼かない。追剥やコソ泥がなく、争いごとも少ない。法を犯した者は、罪の軽い場合はその 者の妻子を没収し、重い場合は家族やその一族まで殺す。上下関係がはっきりしていて、目上の者は、目下の者を服従させるのに充分なだけ威厳がある。租税の とりたて制度がある。立派な家もある。国ごとに市場があり、物々交換をして有無あい通じ、これを大官に監督させている≫。

「倭国」には秩序がある社会である、という情報が入っている。やさしい女性の態度や、盗みや争いが少ない社会である ことや、目上の者は、目下の者を服従させるのに充分なだけ威厳がある、と書いているのは、他国の記述にない「倭国」の特色をとらえているといっていいだろ う。租税のとりたて制度があり、立派な家もあることは、安定した社会で、とくに国ごとに市場があり、物々交換をして、これを大官が監督しているという指摘 は、その当時の日本社会を知る上でおおまかなものであれ、貴重なものである。このことから窺えるのは、陳寿の類推は、日本に来たことはないが、多少の情報 はある、という提度であるということだ。

≪ 下戸が道路で大人と逢ったときには、後ずさりをして草の中に入る。言葉を伝えたり説明するときには、うづくまったり、ひざまずいたりして、両手は地面につ いて、キ恭敬の意を示す。答えるときには「噫(あい)」という。中国で「黙諾」(わかりました)というのと同じである≫。この礼儀の観察は、多少の誇張は あっても、間違えではないところを見ると、陳寿は、やって来た倭人の態度を見て感じたことを書いたように見える。

ともかく陳寿が倭国を想像しているだけの証拠としてこのような言葉を吐いている ことだ。≪倭の地理を参問するに、絶えて、海中、州島の上に在り。或いは絶え、或は連なり、周旋、五千余里可(ばか)りなり≫。つまりすべて「参問」 (人々に合わせ問う)しただけで、直接行って調べたわけでない。すなわち自分の想像だ、ということなのだ。

≪景初二年六月、倭の女王、大夫難升米等(たいふなとめ)等を遣わして(帯方) 郡に詣(いた)らしめ、天子(のもと)に詣(いた)りて朝献せんことを求む≫と書かれている。その後、この『魏志倭人伝』が示す、日本と関係する唯一の公 式文書が、魏の皇帝から「卑弥呼」に与えた詔書である。

詔書を読んでみよう。大夫の正使、難升米、副使の都市牛利らが、献上品の男奴隷 六人、女奴隷六人、斑織りの布二匹二丈を以て到着したことは書いてあるが、どうやら会っていないようなのだ。到着した二人の使者と十二人の奴隷自体の様子 を書いておらず、ただ「卑弥呼」に向けて、≪汝の住むところは、海山を請えて遠く、それでも使いをよこして貢献しようというのは、汝の真心であり、余は非 常に健気に思う。さて汝を親魏倭王として、金印・紫綬を与えよう。封印して、帯方郡の太守にことづけ汝に授ける。土地の者をなつけて、余に孝順をつくせ。 汝のよこした使い、難升米(なとめ)、都市牛利(としごり)は、遠いところを苦労して来たので、今、難升米を率善中(そつぜんちゅう)、都市牛利を率善校 尉(そつぜんこうい)とし、銀印・青綬を与え、余が直接あってねぎらい、賜り物を与えて送りかえす。そして、深紅の地の交竜の模様の錦五匹、同じく深紅の 地のちぢみの毛織十枚、茜色の絹五十匹、紺青の絹五十四で、汝の献じて来た貢物にむくいる。また、その他に、特に汝の紺の地の小紋の錦三匹と、こまかい花 模様の毛織物五枚、白絹五十四、金八両、五尺の刀二振り、銅鏡百枚、真珠・鉛丹をおのおの五十斤、みな封印して、難升米、都市牛利に持たせるので、着いた ら受け取るように。その賜り物をみな汝の国の人に見せ、魏の国が、汝をいつくしんで、わざわざ汝によい物を賜ったことを知らせよ≫。

次いで、≪正始元年(二百四十年)、帯方郡の太守、弓遵は、建中校尉梯儁(けん ちゅうこうていしゅん)らを遣わして、詔と印綬を倭の国にもって行かせ、倭王に任命した。そして、詔と一緒に、黄金・白絹・錦・毛織物・刀・鏡、その他の 賜り物を渡した。そこで倭王は、使いに託して上奏文を奉り、お礼を言って詔に答えた≫。

こ れまで長く、日本のことを長く「参問」して書いてきたなら、陳寿自身も、この洛陽までやって来た倭人使節について、あるいは献じられた倭人奴隷への関心 を、記してもいいはずなのである。次の倭人使節についても、≪正始四年(二四三年)、倭王はまた、大夫の伊声耆(いとぎ)・や邪狗ら八人を使いとして、奴 隷・倭の錦、赤・青の絹、綿入れ、白絹・丹木・木の小太鼓・短い弓と矢を献上した。夜邪狗ら八人とも、率善中郎将の印綬をもらった≫だけ書かれている。こ の二人の「倭人」の名前も蔑称として書かれている。≪正始六年(二四五年)、詔を発して、倭の難升米に、黄色い垂れ旗を、帯方郡の太守の手を通して与えた ≫。『日本書紀』の著者は、中国の正史『三国志』に書かれているから、とそれを記したが、「倭国」側で、詔書も印綬も何の関心をもっていないことは何を意 味するのであろうか。それは倭の女王、「卑弥呼」に、日本人が何の関心もはらっていないことと関連するのではないか。

難升米、都市牛利という名の人物は、本当に倭からやって来た使節なのであろう か。正式使節の名をこのような蔑称で書く必要があっただろうか。たしかに『日本書紀』の神功皇后の条に使節のことを注で記しているが、そこでは、朝廷が 送った使節として書かれておらず、『魏志倭人伝』に書かれた使節として、他人事のように記しているに過ぎない。魏の皇帝の詔書は、この『倭人伝』で読んで いるはずなのに、一切触れていないのである。『日本書紀』の著作者は、その魏の皇帝の詔書を完全に無視したことになる。このことは、日本の朝廷が、この使 節を送ったものではないことを示していないか。『三国志』の「倭人伝」に残されている詔書を、信用していいのであろうか。陳寿の「倭国」への記述の流れの 中で、書かれたもので、それ自体、創作ではなかったのか。公式文書に、捏造の詔書などありえない、と日本の研究者は考えるに違いない。しかし陳寿の『三国 志』は少なくとも「倭人伝」に限っていえば、歴史記述ではなく、「倭国」を海南島方面を想像しながら書いた記述であり、そこには日本の歴史に、通底するも のはない、と言ってよいのである。

しかしこうした陳 寿の『三国志』の評価は、日本人が問題にしなければならないのは、まず≪中原に鹿を逐う≫精神が作りだした中国人中心の「歴史物語」であることだ。中原と は黄河の中下流域の平原をいい、周の王都がこの中心に位置していたことから、ここを取れば天下を手に入れることが出来ると彼らは考えた。それは同時に、彼 らのひとりよがりの世界観ともなり、中華意識となったことである。『三国志』に貫くのは、この中原を目指した三国の物語であったことである。そこには隣国 の日本の存在はその貢国のそれでしかなかったのである。周辺は朝貢国であり、蔑称であつかうべき取るに足りないのである。それは「邪馬台国」が、隣の狗奴 国とが仲が悪く、この時も魏が仲裁に入ったなどという記述にもよく出ている。日本人学者は、この二国がどんなものであるかも判断できないでいる。「邪馬台 国」の存在は、朝貢してきただけの存在であり、後は伝聞したわずかな知識によって組み立てればよかったのである。

(1)『古代史研究の最前線 邪馬台国』洋泉社、二〇一五年。

(2)梅原猛『写楽 仮面の悲劇』新潮社、一九八七年。

(3)拙著『写楽は北斎である』祥伝社、二〇〇一年

拙 著『写楽問題は終わっていない』祥伝社新書、二〇一一年

(4)拙著『「やまとごころ」とは何か』ミネルヴァ書房、二〇一 〇年

拙著『天平「古典」文化とその時代』ミネルヴァ書房、二〇 一五年(予定)

(5)室谷克実氏の訳。『日朝古代史 嘘の起源』室谷克実監修、 宝島社、二〇一五年。

(6)陳 寿が一切、二三九年からの「邪馬台国」からの使節を知る立場になかったことは次の経歴からもわかる。その生年が二三三年であるからだが、しかし特別、「倭 国」を知る立場でもなかったことは、その経歴からもわかる。福井 重雅編 『中国古代の歴史家たち 司馬遷・班固・范曄・陳寿の列伝訳注』から簡単にたどっておこう。

陳寿(二三三~二九七年)は、「魏」の明帝青龍元(二三三)年に「蜀」の巴西郡の安漢県に生まれ、字を承祚と云った。「晋書陳寿伝」によると、 若くして学を好み、同郡の先輩で「春秋公羊学」の大家しょう周に師事した。師からもその資質を称賛されたという。長ずるに及び「蜀」の朝廷に仕え、歴史編 纂の官吏である観閣令史(宮中図書係)に登 用された。「宦人の黄皓、專ら威權を弄し、大臣皆な意を曲げて之に附するも、壽(陳寿)は獨り之が爲に屈せず、是に由りて屡々譴黜せらる」と言われたとい う。
二六三年に「蜀」が「魏」に併合されたことにより、 陳寿は三一才の時に「魏」の首都洛陽へと移り住み、魏朝の文官となった。2年後、「魏」は「晋」に替わり、「晋」の皇帝の重臣として司空という土地.民事 を司る最高官の職にあるとともに大詩人でもあった張華によって引き立てられ、任官した。そして著作郎に登用されることとなった。この官職は、「魏」が初め て置いたもので、中書に隷属したが、晋朝では秘書に属し、国史を司るのが役目の職であった。
陳寿は、政敵「蜀」の名将諸曷亮の著作全集の執筆に取組みこれを上宰したが、その書において概ね諸曷亮を称賛する立場でこれを著述した 為、「魏」より発した「晋」王朝の史官としての御用性不忠が問われるところとなったという。こうして、陳寿を廻っての評価は二分されたものの、陳寿の史家 としての厳正な態度を証左しているものとして逆に名声を高める結果に帰着することとなったとされる。
こうしたときに、陳寿は「三国志」の作成を命じられることとなった。この時、官修の史書として魏には王沈(おうちん)の魏書、呉には韋昭 (いしょう)の呉書があり、私家の史書として魚豢の魏略があった。「三国志」は全部で六六五巻より成り、太康年間 (二 八〇~二八九年)にかけて完成された。その出来栄えは当時から高く評価されており、「敍事に善く、 良史の才有り」との評価を得ている。この当時魏の名将であった夏侯堪(二四三-九一)も同じく同時代史「魏書」を書きあげていたが、≪陳寿の作る所を見、すなわち己が書をこぼちて罷む≫と述懐し たと云われているほどに、追随を許さぬ名著と評価されたという。陳寿の官界における庇護者とでもいうべき張華も正史として偶されるに値するとの評価を与え ている。 こうして「三国志」は不朽の名著として後世に書き継がれていくこととなった。このような経緯からいっても、日本の中国崇拝学者が、その記述を信頼に値する と思い込んだのは無理からぬことである。
陳寿の晩年は、宮廷の派閥抗争に巻き込まれ、失意の中で「晋」の惠帝元康七(二九七)年に六五才でその生涯を閉じた。
陳寿の没後、梁州の人事院長官で皇帝政務秘書の范きん等の働きかけにより、『三国志』は晋王朝の公認の史書として正史の地位を得ることと なった。その上表文には、≪辭に勸誡多く得失は明らかにして風化に益有り。文艷は相如(司馬相如)にしかずといえども、質直は之に過ぐ≫という最大級の賛辞が書かれている。(福 井重雅編 『中国古代の歴史家たち 司馬遷・班固・范曄・陳寿の列伝訳注』早稲田大学出版部 二〇 〇六年。『正史 三国 志』 筑摩書房ちくま学芸文庫全八巻、一九九二~九三年)

(7)上田正昭『「大和魂」の再発見 日本とアジアの共生』藤原書店、二〇一五年。

(8)『日本の宗教』育鵬社、二〇一五年

(9) 鎌田東二他『日本のまつろわぬ神々 記紀が葬った異端の神々』新人物往来社、二〇一五年。

(10) ≪ 昭和五十七年四月吉日、郷土史家 松下寒山兼知≫と書かれている。

(11) 義江明子『つくられた卑弥呼 女の創出と国家』ちくま新書、二〇〇五年

(12) 水野敏典「三角神獣鏡を科学する」『古代史研究の最前線 邪馬台国』洋泉社、二〇一五年。

(13) 桜井市纏向学研究センター主任研究員、橋本輝彦氏のインタヴュー、遠山光都男監修『日本の古代遺跡』宝島社。

(14) 『倭国伝 中国正史に描かれた日本』全訳注・藤堂明保・竹田晃・影山輝国、講談社学術文庫、二〇一〇年。拙論の「倭人伝」の口語訳は本書によった。

(15) 井上光貞『日本国家の起源』岩波新書、一九六〇年。

(16) 原田大六『邪馬台国論争』三一書房、一九六九年。

(17) 「ひのみこ」『万葉ことば事典』大和書房、二〇〇一年。

(18)始皇帝に、「東方の三神山に長生不 老(不老不死)の霊薬がある」と具申し、始皇帝の 命を受け、三千人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、五穀の種を持って、東方に船出 し、「平原広沢(広い平野と湿地)」を得て、王となり戻らなかったとの記述があることから、日本に来たと人々は信じたのである。

(19)朝 鮮の『三国史記』によると、七五六年は統一新羅・景徳王の時代で、この前後 に災害が続き民が飢えたことが記されている。また日本側の記録『続日本紀』によると、天平宝字三年九 月四日(七五九年)条に、以下のように記さ れている。≪近年、新羅の人々が帰化を望んで来日し、その船の絶えることがない。彼らは租税や労役の苦し みを逃れるため、遠く墳墓の地を離れてやってきている。その心中を推し量ると、どうして故郷を思わないことがあろうか。それらの人々に再三質問して、帰国 したいと思う人があれば、食料を与えて帰らせるように≫。こうした帰化人たちも、神社に祀られたのである。

(20)『日本書紀』巻九。神功皇后三十九年、四十年、四十三年の条の三 カ所に「魏志倭人伝」から引用。六十六年には晋(しん)の『起居注』を引用。皇后を「倭の女王」と記している。三十九年の条の注には、≪魏志に云う。明帝 景初三年(西暦二三九年)六月に、倭女王が大夫難斗米らを遣わして・・≫とあるが、すべて「魏」や「晋」の文献からの引用で、『日本書紀』には神功皇后と の関連を思わせる記述は一切ない。

(21) 確かに『日本書紀』の著者は、「魏志倭人伝」を知っていたが、その記述から、神功皇后の祭祀王としての行状を考え出したとは思えない。あくまで、別個の人 物としか考えられない。

(22) 内藤虎次郎「卑弥呼考」『芸文』一ノ二~四、明治四十三年。原田大六、既出。

(23) 笠井新也「卑弥呼の家墓と箸墓」一九四二年。

(24)原田大六「卑弥呼とは誰か」『邪馬台国論争』既出。

(25) 『豊後国風土記』速見郡条。

(26)『豊後国風土記』日田郡条。

(27)『播磨国風土記』讃容郡条。

(28)『山城国風土記』逸文。

(29)『常陸国風土記』哺時臥山条。

(30)設 楽博巳編『三国志がみた倭人たち魏志倭人伝の考古学』山川出版社、二〇〇一

(31)柳田国男『妹の力』角川文庫、一九七四年。

(32)宮田登「日本の「魔女」考」『日本を語るII 女の民俗学』吉川弘文館、二〇〇六年

(33)柳 田国男『遠野物語 名著複刻全集』(日本近代文学館監修、発売・ほるぷ、新版1984年)原著は一九一一年。『遠野物語 増補版』郷土研究社、一 九三五年。

(34) 谷川健一『日本の神々』岩波書店, 1999年。

(35)戸部民夫 『日本の神々 多彩な民俗神たち』新紀元社。『神道大辞典』平凡社、昭和12年。縮刷復刻版、臨川書店、昭和44年

(36)丸中良定 著 明治聖徳記念学会 編 『琉球神道記』 明世堂書店、一九四三年。- 巻末 に袋中良定上人伝を掲載。伊波普猷・東恩納寛惇・横山重編 『琉球史料叢書 第1』 井上書房〈琉球史料叢書〉、一九六二年。

(37)世阿弥の 『風姿花伝』第四「神儀にいふ」。

(38)『倭国伝』講談社学術文庫版、二〇一〇年、原本・学習研究社、一九八五年。