ある雑誌から短いエッセイを書いてくれと依頼されて、最近本屋で眼にした内田樹氏による『日本辺境論』(新潮新書)を取り上げた。 これが新書でもあり、短い書評で足りる、と思って書き始めたのだが、書き終わって、舌足らずの感を持たずにはいられなかった。 というのも彼の日本「辺境」論の前提になっている論について、書く紙幅がなかったからである。 ここで改めて取り上げたい。
著者は私と同じ仏文科の出身で文学研究を専門にしていた人である。 私も東北大学で美術史学に研究生活をする以前は、フランス文学研究なり日本の文芸評論の世界に足を入れようとしていた時期があった。 しかし文学研究では言葉の問題が、文芸評論の分野では、書評の対象になる現代文学作品の貧しさに辟易して放棄してしまった。 この内田氏も文学研究者を辞めてエッセイストになったらしい。 この本は別に学問的でも、文芸評論的でもないが、日本文化がいかに「辺境」なのか、 日本文化に現在取り組んでいる者として、関心をもたざるをえなかった。
内田氏はのっけから日本は「辺境」であり、日本人の思考や行動はその「辺境性」にある、という結論から始めている。 この論は丸山真男の「辺境人の性格論」他いくつかの「辺境論」からの「受け売り」と述べている。 「受け売り」だと言っているのに、「はじめに」で氏は持論に対して批判は受けつけない、と言っているので、 きっとそれ以上に新たな発見によって、この論に大いに自信を持ったのだろうと思われた。
しかし残念ながら、そうではなかった。 全体が「辺境」論の前提しており、それにすべてを収斂させてしまうために、展開がないのだ。 せっかくオバマ大統領の演説のことを語っても、武道のことを語っても、それらが「辺境」の結論に導こうとするために、 それを否定する材料には眼をつぶってしまっているからである。
それよりも丸山真男の説がまた現れたことに、このエッセイストの基本的態度が覗われ、戦後世代の限界をまた感じざるをえなかった。 氏は丸山真男の「超国家主義の論理と心理」という論考を引いて、丸山がさきの戦争について、 これを主導した日本人指導者に「世界観的体系」や「公権的基礎づけ」がないと言ったことに賛同している。 ドイツ・ナチスの指導者は「今次の戦争について、その起因はともあれ、開戦への決断に関する明白な意識を持っているにちがいない。 然るに我が国の場合はこれだけの大戦争を起こしながら、我こそ戦争を起したという意識が・・どこにも見当たらないのである」(丸山)という一文を取り上げている。
丸山がナチスの指導者たちの「善悪の別を知り」「十分知悉しながら自ら選択し」「数百万の人類に死と障害を」「破壊と憎悪を齎した戦争への途を辿るべく選択した」ことに、 筋目だけは通っているとして一定の評価を与えたことに感心しているのだ。 ヒットラーがポーランド侵攻に対し、「戦争を遂行するに当っては正義などは問題ではなく、要や勝利にあるのである」という言葉に丸山が「何と仮借のない断定だろう」と驚きをもって迎えたことを述べ、 「こうしたつきつめた言葉はこの国のどんなミリタリストも敢えて口にしなかった。 “勝てば官軍“という考え方がどんなに内心を占めていても、それを公然と自己の決断として表白する勇気がない」と言っている。 これは「辺境人」には出来ないことだ、と。
私はこの丸山の考え方が日本人の思想の在り方を閑却している、といつも感じていた。 ドイツ・ナチスの「開戦への決断に関する明白な意識を持っているにちがいない。然る我が国の場合は」という発想そのものに、 丸山が日本人の思想の在り方が理解出来ず、西洋人の理想化のパターンを繰り返しているのだ。 ドイツ・ナチスの「明白な意識」の内容がどうあろうと、それ自体を持つことがいいことだ、という文面ほど、丸山の西洋偏重の考え方を示しているものはない。 彼はナチスの意図を肯定しているのであろうか。 その内容を吟味しないまま、ナチス・ドイツが発言したから偉いが、「然るに我が国は」それさえ語っていない、と言う発想自体がおかしい、というのは常識であろう。
内田氏は「丸山がこの文章を書いてから六十年以上が経過しましたが、これらの指摘はすべて今でも十分に妥当します」と書いている。 そして次のような奇妙なことを述べている。 「“大東亜戦争”を肯定する、ありとあらゆる論拠が示されるにもかかわらず、強靭な思想性と明確な世界戦略に誰もが、私たちは戦争以外の選択肢がないところにまで追い詰められた、という受動的な構文でしか戦争について語らない」と述べて、日本人を非難するのである。 果して西洋にえらい軍事指導者がいて「思想と戦略がまずあって、それが戦争を領導する」のであろうか。 「思想と戦略」など実際の戦争では役に立たないことを指導者は知っている、と請け合ってもいい。 日本の軍部が「被害者意識」しか語らないと言って、西洋の指導者が優っているなどとは到底思えない。
要するにナチ・ドイツの指導者の発言内容がどうであろうと、とにかく発言し、その言葉が「加害者」であることを明らかにしている、ということが、主体的なのだ、と言っているに過ぎない。 内容が無くとも主張すれば、「辺境者」ではなく、そこにあたかも主体があると見る、というのは、歴史の真実ではない。
丸山には「軍国支配者の精神形態」という論文がある。 東京裁判での日本人被告の「矮小性」をナチ戦犯の「明快さ」と対比的に論じているものである。 「空気」で行動する日本人が、自分の主体的な「責任」が取れない、ということを論難しているのである。 そして戦争における蛮行を日本人だけ非難する。 丸山の「悔恨の共同体」とはまさに大東亜戦争を日本人が「悔恨」するものでなければならないというのである。 しかしそれが勝利国の、日本の歴史否定の謀略にのせられていることに気づかないのであろうか。
内田氏の判断の誤りは、次の解釈でもわかる。 聖徳太子が書いたとされる「日出づる処の天子、書を、日没する処の天子に致す」という隋の煬帝への文面を、内田氏は「辺境」であることを「知らないふり」をして書いた言葉だと判断しているのである。 当時の日本の文化、とくにそれまでの古墳文化、法隆寺などを始めとする日本仏教文化の発展を見ると、こうした日本のナショナリズムは当然のように思える。
氏によると「辺境人」とは「起源からの遅れ」ている人々であり、欧米の人たちはこうではない、と断定的に語っている。 「起源」からの隔たっているために、日本人はいつも「世界に対して遅れをとっている」という意識を持ち続けているのだ。 従って外から「学ぶ」しかない、という。つまり日本人にはもともとオリジナリティがないというのである。 私はこのような見方を、うがった見方だと感心する多くの日本の知識人たちを知っている。 しかしそれを自虐趣味だとか、主体喪失の見方などと批判しない。
ただ氏のあげる例証には、「言語」の文面だけで、「形」の歴史で見ていない、大きな欠陥がある、と言わざるをえない。 これは江戸時代の国学者が、言語による文化を日本文化である、と考えたことに端を発するものかもしれない。 それが明治以降の「欧米」文字文化が移入されて、西洋思想の翻訳が氾濫したことにコンプレックスをさらに高めたことによるであろう。
内田氏の指摘に「国体」の問題がある。 ポツダム宣言受託の際に「国体護持」を主張する御前会議で、その「国体」の意味について統一した見解がなかった、と述べ、見解が状況によって変わることに、「辺境人」のメンタリティーである、と述べている点である。 しかしもともと「国体」とは天皇を中心として律令制以来の政治体制であり、天皇の存在があれば成立する政府の「形」のことを述べているのである。 日本の「形」の歴史を見ていない、ということは、こうした「国体」が「形」であり、天皇の存在が肯定されれば、後の言葉によるディテールは例え占領軍がいても変わりがないという認識があったことである。
日本の「形」の歴史は、それ以後も文字で語られない、しっかりと日本「起源」をもった文化と言ってよい。 だからこそ言語の世界であっても、『古事記』『日本書紀』が日本の神話から天皇の由来を語り、それ自体「起源」を語っているのである。 『万葉集』もまた漢字を借りたとはいえ、その思想の「起源」は、日本文化そのものである。 もっともこの筆者は日本のことを称揚すること自体、「辺境性」を示すものだというらしいが、それこそ「偏狭」な見解であろう。 日本もまた世界の一「中心」の文化であるのだから。
西洋や中国に「中心」があって、日本が「辺境」であるという自体が、丸山的発想であることは内田氏が最初から吐露していることである。 フランス文学研究者の通弊でもある。 そのこと自体、相変わらず、丸山を越えられない思想の持ち主であることを示している。 この度し難い西洋コンプレックス、中華コンプレックスは、例えそれ自身が能動的な意味がある、と言っても、真実を衝いているわけではない。
つまり氏の考えは、「始めに言葉ありき」と断ずる一神教の「言葉」を原則とする西洋中心主義への妥協でしかない。 言葉というものが、現実の「形」を捉えることが出来るものではない、というのが、日本人のメンタリティーである。 文字を七世紀まで取り入れなかったこと、取り入れても世界最小の詩形の短歌、俳句しか作らないというのもその意味によるのだ。
漢字輸入の以前の歴史が、日本の歴史からすっぽり抜けてしまうことである。 例えば古墳文化は、中国とも朝鮮とも関係のない、日本「起源」のものである。 またそこから変化した仏教文化も、神道に「起源」を持つ独自なものである。
例えば、この雑誌にふさわしいと思い、意図したエッセイに、憲法9条問題がある。 ひとつに自衛隊の在り方を述べた『9条はどうでしょう』という本への批評文がある。 自衛隊と九条二項の矛盾を論じたもので、これによって、日本国民が「日本はアメリカの属国である」ということを意識の「前景化」すること回避し、 かつ政府はアメリカの軍事的同盟国として出兵させられる機会を先送りしてきた事実を、「佯狂(ようきょう)」(狂ったふりをする)戦略だと述べたものである。 一般の「九条擁護論」と異なって、いささかはすかいに物を見るリベラル派の一変種であるが、それに対する批評はここではしない。