史的唯物論の崩壊を

保守主義者も唯物論・経済史観にとらわれている

戦後日本の歴史観は経済が社会の土台である、とし、物質的世界が基本で(「下部構造」)、後の政治、文化、宗教などは、「上部構造」として社会を分析しようとしてきた。それは実を言えば、マルクス主義者だけでなく、近代の保守的な歴史家まで基本的に同様である。

マルクスは史的唯物論を理論的に次のように説明する。社会の政治・文化などの「上部構造」は経済という「下部構造」に既定され、それによって変化し、同時に「下部構造」に反作用する。従って、生産関係に関して階級対立が存続する限り、政治における支配と被支配をめぐる階級闘争が存続し、社会変革の根本的課題も下部構造に即して提起されるという。つまり富の分配が不平等になり、豊なものと貧しいものと較差が出来、一方が他方を支配する、必然的に闘争が起きる、という闘争史観が生じせしめることになる。保守の歴史家もこの経済史観を受け入れる限り、当然、これを容認せざるを得ない。

これを読む人々は「衣食足りて礼節を知る」(菅子)、というような言葉で、それを納得しようとする。経済とは衣食住のことだから、当然である、と考えるのである。しかし衣食住は実を言えば、その半分は文化の範疇に属するのである。それは風土に影響される共に、人々の共同的な趣向に反映される。生活様式は民族によっても、地方、個人によっても異なる。それはそれぞれの文化に強く影響されるのである。つまり土台の半分は文化に基づくとなれば、「下部構造」と「上部構造」などと、人間社会をはっきりと分けられるものではない、ということがわかる。こうした硬直した図式化が、理論の空洞化を招いたのである。

そして経済史論は、人間の行動の根底は「利己心」である、という。経済行為は「利己心」を動機とするが、「利己心」は「同感(利他心)」という社会的原理を通して、自ずから自然の秩序、公共の福祉をもたらすとして、資本主義経済の法則性を追求することが出来る。こう主張するのは、古典経済学の祖、アダム・スミスだが富の源泉を労働に求める労働価値説、労賃、利潤、地代の決定理論などを展開し、経済学の基礎を築いた、とされる。

それ以後、社会は経済が基本である、という考え方と共に、人間は「利己心」の存在である、と考えるようになったのも当然である。それなしには、経済関係に基づく闘争など起きないからである。マルクス経済学では、利潤、従って資本の秘密を商品の価値の中に探って、剰余価値生産の法則を明らかにし、資本と労働の対立関係が生産力の障害と化する、として社会は崩壊すると説く。階級闘争は必然的に起こるのである。

しかし人間は、「利己心」だけで行動するものだろうか。

「利己心」が原則であれば、「上部構造」は当然、それに従った結果を生みだす以外はないはずである。日本の歴史が示す事実はそうした経済、政治的価値観とは別なところで動いている、と言わねばならない。

歴史は政治、経済の動きだけでなく、文化の力によって動くのであり、それが歴史に価値を生みだすのである。ここに三つの例を提出しよう。

  1.  日本の歴史は、伝統的な力が、経済的な力、政治的な力、軍事的な力に優っていることを示す多くの例がある。例えば世界一長く存続している、天皇の存在である。国家にとって最も重要な首長の存在が、「古代」から、とくに平安時代から徳川時代まで、千年以上、それは対立関係が少なく存在してきたのである。伝統の力が、それだけ支持され、人々によって評価されてきたことは、それら以外の価値を重んじられてきた、ということである。長く続く、ということは、別の価値観を人々が持っていることである。これは天皇だけでなく、日本のあらゆる分野において、この伝統の力が見られることである。
  2.  美しいもの。形の美しいものを大事にすること。例えば、斑鳩の法隆寺、宇治の平等院、伊勢神宮など、人々が美しいと感じたものを保持してきた。それはもっとも焼失し易い、木造であるにも関わらす、それを大事な価値として評価してきたことでもある。美を守る精神以上に、それを創造する精神を保持してきた。和歌、俳句などの分野をはじめ。美術、音楽、文学、演劇、こうした芸術の分野だけでなく、華道、茶道、柔道、剣道、陶磁器など実用的な必要性を超えて美の創造を行って来た。
  3.  超越的なもの。神社や仏閣など、そこに現実的な人間を超えた存在を大切にする、と言う宗教的価値観が、経済的価値観を超えている。現在でもそれぞれ八万に近い、神社、仏閣が残されている。

1は、伝統を大事にする、という伝統価値観の優越であり、2は美を大事にするという審美的な価値観である。3は、宗教的価値観によるものである。

これら三つをまとめる価値観といえば、文化的な価値観と言ってよいものである。これらのことは、経済的な価値観、政治的価値観とは異なるものである。(この価値観は、日本ほどでないにせよ、多かれ、少なかれ、世界各国に見られる現象でもある)。

これについてはこの意味するところとは、人間と動物の違いが、衣食住が生きる目的にならない、ということである。

とすれば、人間は経済が基本といったものでなく、それは人間活動の一部であり、分業体制の中での、ひとつの活動に過ぎない。もっと精神的な存在としての人間の文化的活動を重視しなくてはならないということである。精神が人間史の基本のはずである。こうした文化的な活動による経済の展開の方が、経済活動でさえもリードすることが多いと考えられる。とくに生産主体の社会よりも消費社会が中心になった今日の時代を見れば、それは明らかとなる。