「近代・進歩史観」の虚妄

日本の歴史をどうとらえるか、と言う問題にここ十数年取り組んでいる。私が東北大学時代から西洋美術史から日本美術史にシフトし、さらに日本文化史、そして日本史へと、その考察を進めているのは、歴史をどう見るか、という私自身の学問の関心の広がりとともに、将来の世界の文化史、歴史への構想があるからである。

その経過について、ここで自己紹介をさせて頂くと、私は西洋の文化史の頂点と言える、イタリア・ルネッサンスのレオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロ研究を終えた後、日本の天平時代と鎌倉時代の美術を検討してそれぞれ本を出した。『イタリア美術史』(岩崎美術社)『二歩美術全史』(講談社)はそれを総合したものである。文化史の範疇でいえば、西洋については『ル・ネッサンス像の転換』(講談社)、日本については『国民の芸術』(扶桑社)があげられるだろう。

こうした文化史考察を行ったあと、「近代」の歴史そのものに眼を広げると、この時代が物質的に進歩をしていても、文化的、精神的な意味においては、決して進歩していない、むしろほとんど退化、衰弱している、と認識せざるをえない。その物質的な進歩と言っても、それは世界の人口の増加に伴う、大量生産、大量殺戮の兵器の進歩によるもの、と述べてよいものだ。

大きく言えば、「産業革命」も、「市民革命」も、人口の増加に伴う、人々の経済的、政治・社会的な変化に過ぎなかったのである。つまり明確な進歩と見えるのは、機械技術のそれであるが、それは国家を挙げての武器の開発による技術の応用が、基本になっていたと考えられる。コンピューターも航空機も船舶の発展もそれなしに考えられないし、最終的「武器革命」(核開発を指す)により、それは人類の退歩を決定的に示すことになった。現代は人間の自滅の危機に瀕するという、愚かさの時代に入っているのである。  従って現在、歴史家やそれに追随する「近代」史観の持主は、決定的に反省を強いられており、その転換を余儀なくされている。

例えばある歴史家は、次のようなことをいう。「近代」以前は「国家」は存在しなかった、だから「日本」は存在しなかったし、「日本史」に重要なのは「近代史」だけだ、などというような発言である。このような歴史家は「近代」だけが歴史であると思っているアメリカ史家に影響を受けた歴史家に多いが、とんでもない勘違いをしているのである。その裏には、ネーションなどという進んだ概念は「近代」だけのものと思い、それ以前は、共同体はあっても、国家観念はない、と思っていることである。

聖徳太子が日本を「日出づる処」と呼び、隋の皇帝に対し「日没する処」と呼ぶ親書を託したことも、それが『日本書紀』と『隋書』の記述が異なるから事実ではない、と「近代」実証史学の立場から批判した上で、その国家観があったとしても「近代」の「日本」国の意識と異なるのだ、と否定しようとする。太子が「十七条憲法」をつくり、律令国家としての日本を歩みはじめたことも、「古代」の記録の不確かさだけをなぜか指摘して否定しようとする。ほぼ全体の事実から肯定できる総合的な判断をしない。法律的にも天皇を中心とする「国家」の体制をつくり、政治を行っていることは明らかなのに、なぜか同じ「天皇」でも「近代」と異なっている、と考えるらしい。

国家には軍隊がある。それは大宝律令によって制度化されており、二十万人と推定される大規模な軍隊があったことは知られている。その二十万人の兵士の訓練、兵器、牛馬、船舶の帳簿が兵部省による集中管理、軍用道路などいざとなるとすみやかに動員体制がなされていたのである。それが「近代」の「国家」と違う?と思うらしい。たしかに戦車や兵器は異なるがそれは決して「国家」の防備という共通性を違えるものではない。

「防人(さきもり)に 立たむ騒きに 家の妹が なるべきことを 言はず来ぬかも」(『万葉集』二〇-四三六四)(慌ただしく防人に出かけてしまったせいで、妻に田畑のことを何も言わすに来てしまった)。

この歌にあるように、防人という国家の軍隊の召集に応じて、妻に田畑の仕事のことを言わずに出発した、という、日本人が公の私への優先を課している様子を歌っている。こうした実情は「近代」とほとんど変わりはないはずである。

律令国家は中央集権を特徴とし、中央の太政官・八省からの公文書によって通達されたことも知られている。この命令文書も、天武天皇の時代には五畿内七道制の七道を駅制、伝馬制で諸地方に伝えられたのである。これと郵便や、今ではネットやファックスで伝えられるのとどう違うのか。

また『懐風藻』にあるように、天智天皇の時代に「風を調へ俗を化するに、文より尚きはなし。徳を潤し身を光(かがや)かすに執れ学に先んぜん」とし、政治のために徳を養うその目的のために大学が建てられた。国家の人材養成が必要とされたからである。これも果たして、現在の国立大学の官僚養成の状態とどれほど違ったことなのか。

そこには根強い「近代」に作られた「古代」「中世」「近世」「近代」という進歩史観があり、そうした「古代」が、霧の中の夢想の世界をもたらしているのである。ヘーゲルからマルクスへの歴史観の根強さは、アメリカの学者も日本の学者も同じことである。

「うらうらに 照れる春日に ひばり上り 心かなしも 独(ひとり)し思へば」(巻十九,四二九二)(のどかな春の日ざしの中で、ひばりが空に舞い上がる。そんな風景なのに私は心悲しい。独りもの思いしていると)。

この大伴家持の和歌は「近代」人の孤独と同じ質のものを感じさせて有名な歌である。私はしばしばこれと同じ作家の「海行かば 水漬く屍(かばね) 山行けば 草むす屍 王の辺にこそ 死なめ 顧みはせじ」を引用する。これは戦時中歌われた「海行かば」と同じ歌である。大伴家持の孤独と連帯感を合わせもつこの心情こそ、「近代」日本人の、いや世界のあらゆる人間の共通した心情であると指摘した(『日本史の中の世界一』育鵬社)。

「近代」しか「国家」はなく、「古代」には「個人主義」がなかった、などという固定観念など持たない方がいい。そうした「進歩史観」こそ歴史を見る目を失わせてきた。そうした観念は「保守」の側の知識人さえ蔓延しているのもおかしなことである。日本の歴史の連続性はまさに、これまでの西洋に発する「進歩史観」を覆すものと言える。