日本一、巨大で、造形的にも力強い、平安時代の初期の毘沙門天像が、岩手県の東和町にある、というと皆、怪訝な顔をします。毘沙門天なら京の都の北方の守り神として、関西に多いだろうし、何しろ七福神のひとつですから、日本各地に毘沙門天像がある、と人は言うでしょう。鞍馬寺や東寺の兜跋毘沙門天を思い起こす人もいると思います。
しかし見て一番、力強い像は、この成島毘沙門天像である、と言っていいと思います。何しろ、五メートル近くある巨像であるだけでなく、その体の動きも自然で、仏師の表現力の高さを感じさせる像なのです。多宝塔を左手に捧げ、槍を右手にとる姿は、仏教を守り、人々を守る意志が感じられ、甲冑の硬い表面のつくりも的確で、雑なところはありません。この御堂そのものが山の中腹にあり、あたかもこの山の主が、毘沙門となってあらわれた、という印象です。色彩でさえ、各処に残っており、何よりも人々がこれを大事にしてきたことが伺えます。
というのも、この毘沙門天は、四天王像のひとつ多聞天で、独立した像として、日本の北方の守り手なのです。東北にその毘沙門天街道ともいえる一連の像が並んでいるのは、そうした意味をもっています。むろん運慶の願成就院の毘沙門天像や、その息子、湛慶の高知・雪蹊寺のそれなど、鎌倉時代に入ってすぐれた毘沙門天が造られます。しかしそれよりも三世紀も古い、平安時代の像なのです。鎌倉のものに比べると洗練さにはやや欠けますが、いかにも日本の北方の守りにふさわしい堂々とした忿怒像です。残念ながら作者の名前はわかっていません。
面白いのはこの像を下から支える地天女の姿です。その女性の手の上にこの毘沙門天が立っているのです。彼女は決して力んだ姿ではありません。その眼を閉じて、あどけない着物姿をし、まるで日本の女性の典型を思わせるほど、自然の姿に見えます。それは女性が大地の神であることを示しているようで、自ずから日本人の自然信仰を示していると言ってもよい。山の神を支える地の神という姿でもあるのです。
この同じ御堂に吉祥天像もあります。こちらの方はまともな大きさですが、その出来栄えは秀逸です。金箔や漆が剥げ落ちてはいますが、かえってそのケヤキの細やかな木目が見えて、いかにも木の精が、このような美しい姿になった、という印象を与えます。眼をつぶっており、唇を突き出しているようで、両手をあげて接吻を待っているような官能性さえ感じられます。吉祥天は毘沙門天の御妃といわれます。頭上には二頭の象が彫られ、もともとはインドの神話で最高神のヴィシュヌの妃と同じである、とされる図像からきています。これらは平泉文化が華開く、十二世紀以前に奥羽地方に、文化の華が開いていたことを予想させます。
毘沙門天街道には、達谷窟(たっこくくつ)毘沙門堂から、水沢市の黒石寺、江刺市の藤里毘沙門堂、北上市の立花毘沙門堂、そしてこの成島毘沙門堂が北上川沿いに建てられており、それが平安初期に、坂上田村麻呂が東北平定のために突き進んでいた道程であったのです。その有力な証拠にこの成島毘沙門堂のもう一点ある阿弥陀如来像の中から墨書きが出てきており、そこに施主の名として「坂上最延」という名前が出ているからです。坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)の子孫の名です。
この阿弥陀如来は、身体は十一面観音で、頭部と両手は阿弥陀如来、というちぐはぐな姿をしていますが、江戸時代の修理するときに間違えてしまったのです。その十一面観音像が造られたときが承徳二年(一〇九八)で、ちょうど「後三年の役」が終わって、平泉文化が始まろうとしていたころです。そこに坂上田村麻呂の子孫が、このような観音像を寄進したのでした。『陸奥話記』にも伝えられるように、田村麻呂の功績は、北方の守り、「北天の化現」であったのです。
この毘沙門天が、一方で坂上田村麻呂の姿だとすると、それは神道の英雄信仰と重なり合います。この毘沙門堂が三熊野神社の中にあるのは、ここが、坂上田村麻呂が東北を平定する際に、紀伊の熊野三山に戦勝祈願をしたことが由来であると伝えられており、イザナミの命、コトサカオの命、ハヤタマオの命の三神を祀っています。三神に守られた田村麻呂の姿がこの毘沙門天であり、その生きいきとした姿は、仏師の中に強く深く記憶されていたことを示しているようです。つまり完全に神仏習合の像なのです。