はじめに デュ―ラ―の『自画像』
左翼の人々の間では、かつては「文化」を口にする者は、「保守派」の烙印を押されることを覚悟しなければならなかったという。従って「進歩派」と思われるのであれば「経済・社会」をこそ、論じるのでなければならない、という風潮が存在した。つまりマルクス主義者たちは、「文化」は上部構造で、「経済・社会」が下部構造であり、ほとんど決定するのは下部構造の方である、と信じてきたからである。
ところが、今日では左翼の人々が、「文化」を論じることこそ重要で、「社会」分析などして、革命の可能性などと口にする者など、時代遅れだと思うようになっている、という。わたしたちが左翼の階級闘争史観ではなく、「文化と伝統」の方を重んじた歴史教科書づくりの運動をしたとき、当時の共産党の不破委員長が、躍起に立って、それを批判しにかかったのもそうした態度のあらわれであろう。「文化・教育」を制したい、一念が左翼にあるからだと思われる(※1)。
現代の文学でさえも、文学的であることは、左翼的であることのような錯覚をもっている文学青年が多い。文壇雑誌もほとんど大江健三郎輩下の編集者による雑誌になってしまった。その党派性たるや、論壇雑誌同様、文学雑誌の方も顕著なようだ。しかし文学が、大江や村上春樹のそれのように、翻訳語体による空虚な文体で書かれ、日本の伝統・文化を捨象している傾向は、日本文学の衰退に拍車をかけていることも事実である。編集者も評論家もまだ余り気づいていない鈍感さが、日本の文学界を覆っているのだ。
すでに私は、左翼が戦後、フランクフルト学派の意向に従って、「文化」を主戦場にしている、と指摘した。メデイアや大学といったところの中間階級層の意識の変革をねらった「隠れマルクス主義」の運動をしている、と分析した(※2)。それが社会主義国が崩壊した後も、連綿として続けられていると述べている。かつてのストライキを中心にした「労・農」階層の社会主義運動が失敗して、「文化」方面に目を向けた運動のねらいはあたったかもしれない。保守の抵抗も声が小さかった。彼らはヘゲモニーを握ったと思っているようだが、それも文学内容の薄弱さでいずれは疲れ、消えていくであろう。
別にある専門家が、ある分野での研究の結果から、他の分野を研究することは当然のことで、それにより、問題が広がれば他の分野に踏み込んで論じなければならない。私は仏文学から西洋美術史、そして日本美術史、さらに日本の歴史、現代史にまで分野を広げてきたのも、その結果である。別の分野のことを語ることは何ら咎め立てする必要はないと思っている。それが、新鮮な視点を生みだし、専門の人々へ、衝撃を与えることはありうる。私もそれを心がけてきた。
しかし、マルクス主義の経済・社会史の「進歩史観」しか持っていないものが、「文化」を論じ始めると、その矛盾(「古典文化」は「現代・近代文化」よりはるかに高い)に気づかず、おかしな論議をすることになる。
例えば、社会学者の東大教授、姜尚中氏がいる。最近『あなたは誰?私はここにいる』(集英社新書)を出して、芸術を論じている。題名から社会の中の自己を語るエッセイかと思ったら、美術談義である。私はその専門なので、どんな内容かと思って買ったが、最初のデュ―ラ―のところを読んで、げんなりした。現代では、こうした素人談義が、あたかも「権威主義」批判の先鋒のように、大手をふるっている風潮がある。むろんこれも左翼により作られたものである。
氏はNHKに頼まれて日曜日の美術番組の司会者となったとき、「どうして私に」と思いながら、喜んで引き受けた、という。左翼がNHKにもいたのである。私は氏が司会をするようになって、その番組を聞かなくなったが、しかし氏自身は、美術を相当知っているつもりでいるらしい。この本は最初にデュ―ラーの『自画像』のことを思い入れたっぷりに書いている。自分が在日の朝鮮人としてふさぎこんで生きていたときに、留学先のドイツでこの絵に出会って感激したという。「わたしはここにいる、おまえはどこに立っているのだ」と叱責され、それ以後、自分の立っている位置を探求する勇気をえたという。
しかしこの絵が、十五世紀の末に描かれ、これが「近代」と異なっている時代に描かれ、その感激したこと事態が、「近・現代」の否定、つまりこの像がキリストの顔としてデュ―ラ―が描いたその宗教というものの復権というものが問題にされなくてはならないし、また氏がキリスト教徒でなければ、日本に住んでいる朝鮮人という「国籍」を問題にする「近・現代人」というものの批判でなければならなかったはずである。
このデュ―ラ―の像は、ちょうどキリスト教暦でいえば、千五百年という「終末」を前にして(この画家は『黙示録』や『大受難伝』を版画で描いている)、その終末が近いことを自覚していたのである。単にこの時代が《数々の戦乱や飢饉、疫病や殺戮が繰り広げられ》たなどと、一般的な左翼の「暗黒時代の中世」史観を漠然と述べるのではなく(一体、デュ―ラ―の周りにどの戦争があったのか?。農民戦争はもっと後である)、もっとこの画家に即して言わなければ説得力はない。ここにはそれだけでなく、この『自画像』自身が「メランコリー」の性格として、「哲学」や「芸術」を造り出す「創造的精神」を示しており、当時のフィレンツエの哲学者フィチーノの『三重生論』と深い関係がある(この本がデュ―ラ―の名付け親であったコールベルが―によって出版されたのは一四九七年である。読まないはずはない、と思われる。
氏の本の「おわりに」で『メレンコリア・1』について述べているが、まず数字の1ではなく、ラテン語のIと書かれねばならないし、これを論ずるのであれば、千五百年の『自画像』が、これと密接に関係していることを指摘するのが当然である(※3)。つまりこの『自画像』はメランコリーの像でもあったのだ。しかしそうした記述はここにはない。素人としても勉強不足という以外ない。この『自画像』を知っていたから、NHKの美術番組の司会を引き受けた、というにしては、その無知ぶりは、その理由に値しない。
氏の日本のメデイアの上での活躍は、日本の中の朝鮮人というマイノリティの重視という、OSSの「日本計画」の実現の延長上にあることは明らかである。私はまた朝鮮人であろうが、中国人であろうが偏見はないが、日本人として考えれば、氏のような韓国籍の在日が、堂々と公共放送の教養番組に出ていることも、東大の職をいることも不自然に感じるが、それを批判できない雰囲気を与えているのも、この「計画」どうりなのである。まさに「権威主義」を批判する左翼を、東大教授という「権威」につけて、NHKやテレビに出演させて宣伝させるという構造こそ、OSSの「計画」であり、それ故に、批判されねばならない、日本の文化の破壊思想を宿している。
今日の知識人の動きとして、グローバリスムの中で、「多文化主義」とか「異文化理解」とか、要するに、それぞれの国の共同体文化を相対化する見方が促進されているが、逆に、それぞれの国の伝統の文化を破壞する言葉として乱用されている。その実例が姜氏の例であり、日本に同化することのない異文化の韓国人が、妙にマスコミで多用されるという事態となっているのである。しかしその原因は、基本的には戦後のフランクフルト学派を起点とする「隠れマルクス主義」の動きにあったことは、拙著『戦後日本を狂わせたOSS「日本計画」』で明らかにしている。文化を左翼が論じ始めたときから、彼らは、文化を現在の社会を否定する表現として使いはじめ、歴史を破壞する方向に向かったのである。
ところで、哲学というものは、もともと「愛知」philosophaという意味であるが、知を愛する余り、情を語らない。つまり愛とか悲しみ、喜びの感情については、語れないのである。そして芸術についても語れない。それは「理性」や「知性」では片づかないからである。哲学が人間の内面を語っているようでいながら、哲学者の人生が見えてこないことが多いのは、それを隠しているからであろう。
哲学者でありながら、《アウシュビッツの後で詩を書くのは野蛮である》と、文学の世界にまで踏み込んだ発言をしたアドルノは、自己の感情を語った唯一の本がある。それは『ミニマ・モラリア』という本である。
1 ユダヤ人問題の発端
『ミニマ・モラリア』には、文章を書くということ自体への省察が含まれている。《文筆家は自分のテクストのなかに世帯を構える》のだが、《家郷を失った者にとっては書くという行為までが住居の代用となる》と、亡命者アドルノは書いている。つまり祖国を失なっているユダヤ人の学者にとって、書くという仕事によって、その家郷をつくっている、ということを言いたいのであろう。『ミニマ・モラリア』はアドルノの家郷を語ったものと言ってよい。
『ミニマ・モラリア』が書かれたのは一九四四年から四九年にかけてである。その当時は、アドルノは、フランクフルトを追われ、アメリカのロサンジェルスにいた。ナチのドイツから逃げ出すことが出来たユダヤ人として、アメリカの亡命生活は、すでに八年も超えていた。彼は友人のホルクハイマーと共に、『啓蒙の弁証法』の緊密な共同作業を行なう中で『ミニマ・モラリア』の断章を書いたのである。そこにはアドルノの亡命体験が、哲学者らしく晦渋ではあるが、苦々しさと共に、その思いが開陳されている。こうした文学的表現から、その難解な哲学の原点が見ることが出来る貴重な本である。
この頃ドイツでは、一九四二年一月二〇日のヴァンゼー会議を受けて、ナチによるユダヤ人問題の「最終的解決」、すなわち絶滅作戦が進行していた。アウシュビッツのホロコーストが進んでいたのである。むろんそのことを、アドルノが知らなかったはずはない。そして日本は、ルーズベルト大統領の率いるアメリカによって太平洋戦争に引き込まれ、日本との交戦を拡大して行った時期であった。アメリカはOSSという戦術組織によって、これらフランクフルト学派の学者たちを吸収し、利用していた。その代表者ノイマンを通じて、アドルノやホルクハイマーもそれに協力し、ファシズムの追及に、自分たちの学問を応用していたのである。そのことは拙著で述べたから、ここでは繰り返さないが、そのカウンター・プロパガンダの研究は、日本に対するOSSの対策に間接的に役立てられたのである(※4)。
彼はこの本で言っている。すべての亡命知識人は、それを意識しようとしまいと傷ついており、《固く閉じられた自尊心の扉の背後に残酷に》ひそませているそれを、自分で認めるべきた、と。唯一の助けは《自分自身と他人についての確固たる診断》にある、という。この診断は、少なくとも「不幸」に対する「盲目状態」からかれを救いだすことはできるであろう、と。
この『ミニマ・モラリア』の衝撃的部分は、六八章の《人々はお前をじっと見ている》という文である、と私は思う。それはユダヤ人しかわからない、と思われる章だからである。ただ、この文章を読む前に、ユダヤ人とは何か、について、前提の知識が必要となる。というのもユダヤ人とじって見ている人々が、何を感じてそのような行動をとっているのか、日本人にはすぐには理解できないだろうからである。それを引用する前に、少しくユダヤ人がいかに西洋で見られていたか、概略を書いておこう。
私たちはユダヤ人とキリスト教徒の対立は、その聖書の内容から知っている。『新約聖書』において、ユダヤ教徒がイエス・キリストに対する裏切りの民となっているからである。この点からいえば、ユダヤ人とはユダヤ教徒である、という宗教問題が基本である、と理解出来る。従って彼らがキリスト教徒になることを強要されることが、救われる道となった。一四九二年のスペインにおけるユダヤ人の追放の際、キリスト教は改宗するかどうかが問われたのである。もっとも改宗したとしても、改宗者として睨まれ、異端審問にかけられる危険が続いた、と言われる。しかし旧ユダヤ教徒やその末裔も、原則としてキリスト教徒とみなされれば迫害の対象にならなかったのである。
ところが近代になって様子が異なってきた。宗教の力が弱まると、人種問題の方が頭をもたげ、ユダヤ人が血筋の問題にすり代わっていった。キリスト教を改宗しても、彼はまだユダヤ人のままだったのである。それが元来は、ユダヤ人を「解放」したはずのフランス革命の後、とくに十九世紀後半になって顕著になったという。ユダヤ教徒がキリスト教徒と同等の市民権を認める動きのあと、まさに「近代」の「啓蒙主義」が人々の眼を開かせた後の時代に広まった。すでにユダヤ人にはロスチャイルド家に象徴される商業、金融業の成功者が多くなり、ヨーロッパの経済を支配するようになる一方で、このようなユダヤ人を見る眼が、宗教よりその血筋となり、それ故に、その顔、形を凝視するような事態となったと言ってよい。
長い間、各都市にユダヤ人ゲットーが出来、そこに閉じ込められた形となっていたが、商業と金融業で、活路を見出し、それとともに非ユダヤ人の嫉妬と反感が生まれていった。都市の少数派が、キリスト教徒が躊躇する、利息つきの金貸しで利益を上げ、多数派を支配する、という、シェクスピアの「ヴェニスの商人」の守銭奴シャイロックのような存在が、その典型的な人物と見られるようになった、と言ってよい。
マルクスが取り上げたので知られている、八四三年、ブルーノ・バウアーという知識人の『ユダヤ人問題』という本がある。これは非ユダヤ人の立場から、国民国家の形成において、ユダヤ人が平等な市民権をもてないことを述べたために、ユダヤ系知識人から激しい批判が浴びた本である。ユダヤ人の異質性、頑なさを浮き彫りにすることなったこの本に対し、若きマルクスが書評を寄せ、フランス革命以来、国家の成員としての「公民」(シトワイヤン)と「市民」(ブルジョワ)の分裂について指摘をし、その市民社会の変革=革命の必要性を解くという方向で、その打開の方向を示した。
マルクスは市民社会を支配している「汚い商売」「私利私欲」「貨幣崇拝」を「ユダヤ的なものJudentum」と呼び、《ユダヤ人の社会的解放は、ユダヤ的なものからの解放である》とあたかも彼自身がユダヤ人ではないような書き方をした。マルクスにとっては、キリスト教社会が「ユダヤ的なもの」と呼んでいるものが、実は市民社会の原理そのものであることを示し、それを変革することを望んだのである。
マルクスは何代にもわたってユダヤ教のラビの家系にあったが、父親はキリスト教(プロテスタント)に改宗していた。従って彼自身は、自分をユダヤ人と強く意識しなかったために、このようなことが書けたのかもしれない。しかしこの書き方によって、資本主義批判をユダヤ人批判に重ねた「左翼反ユダヤ主義」とも呼ばれる傾向が生まれた、という(※5)。
マルクスのこの論考は一般に流布することはなかったが、一八八一年のドイツ社会民主党の機関誌に掲載されて以来、これがユダヤ人が自ら見たユダヤ人の姿が、私利私欲の徒と映っていることを如実に示したことになる。ということは、アドルノが「じっと見られている」ユダヤ人とは、ユダヤ教徒として、決して長いもみ髭を生やし、黒くて長いォ―
バ―、「カフタン」を身にまとったみすぼらしいユダヤ人の姿ではなく、あたりまえの西洋人のかっこうをしながらも、私利私欲の守銭奴に類型化された、ユダヤ人の姿であった、と言ってもよい。
さらに第一次世界大戦前後に出た偽書『シオン長老の議定書』が、ユダヤ人による世界制覇の陰謀を伝えるものとして出され、折から、ロシア革命がその一環である、と考えられたりした(※6)。ボルシェヴィキの大半がユダヤ人であることが、それを裏付け、またユダヤ金融資本が莫大な資金を提供していた。そのような反ユダヤ主義のプロパガンダが功を奏し、一九三三年一月のドイツ、ナチス党の勝利を導く。それにより、フランクフルト大学の社会研究所のユダヤ人学者が亡命を余議なくされたのである。
2 《人々はお前をじっと見ている》
それがユダヤ人の西欧における歴史的背景であった。こうした背景が、ユダヤ人に対しての白人たちの視線の中に隠されていたと言うべきだろう。それが亡命したアドルノの経験の基本にあったに違いない。こうした経験が、ユダヤ人哲学者のの思想を形つくるの源流としてあったことを考えなければならないのである。長くなるが、この文章を引用しておこう。
《人々はお前をじっと見ている――現実に行われた残虐行為を新聞などで読んで普通の穀者の覚える憤慨は、被害者が彼に似ていなければいないほど、つまりブリュネットがかかっていて、「不潔で」肌の浅黒いディゴーじみていればいるほど、小さくなっていく。この事実は、そうした傍観者の態度だけでなく、残虐行為そのものの実体をも明らかにしている。社会的に図式化された反ユダヤ主義者たちの知覚の有り様からすれば、ユダヤ人たちはそもそも人間として見られていないかと思われる。未開人や黒人や日本人はけだものじみている、猿そっくりだ、などというのはしょっちゅう耳にする言い草だが、そうした言い草にユダヤ人迫害の謎を解くてがかりが含まれているのだ。迫害の可能性が決定的になるのは、致命傷を受けた動物の目がじっと人間を見る、その瞬間である。そんなときその視線をはね返す――「たかが動物じゃないか」――依怙地な態度が人間を相手にした残虐行為においてもとめどもなく繰り返されるのであり、そうした行為に従事する連中は、手を下す度に「たかが動物」を念仏のように心のなかで唱えなければならないのである。それというのも、動物についても彼らはそれを全面的に信じていたわけではないからだ。抑圧的な社会においては人間の概念自体が同形説のパロデイ―である。権力者たちが自分自身を鏡に映じたような存在だけを人間として認めるのは、「病的投射」の機制に属することで、人間性をまさしく十人十色のものとしてとらえる能力を彼らは失っているのである。となると殺害は、こうして狂気のために狂いを生じた知覚を、それに輪をかけたような気違い沙汰をやってのけることで道理に叶っているように見せかける試み、ということになるだろう。つまり、人間として見ていなかったけれどもやっぱり人間にはちがいない存在を、人間らしい動作を見せられて自分の目の狂っていることを証明されるなどということがないように、物体にしてしまうのがこの場合の殺人の意味なのである》(※7)。
私はまず、《ユダヤ人たちはそもそも人間として見られていないかと思われる》と書いているのに心がえぐられる思いがした。この感受性は、日本列島の中で、等質の日本人同士で慣れている日本人にはわからないだろう。しかしその次にアドルノは言う。おそらくこれは、アドルノの唯一、日本人について触れた文章である。《未開人や黒人や日本人はけだものじみている、猿そっくりだ、などというのはしょっちゅう耳にする言い草だが、そうした言い草にユダヤ人迫害の謎を解くてがかりが含まれているのだ》。ここで、未開人と黒人、そして日本人が、アドルノにとっては「猿のようなけだもの」と見られている、と書き、それがユダヤ人の差別観の「謎を解く鍵」だと言う。
しかしこのアドルノの何気ない言葉に、私は別の見方をする。つまり《未開人、黒人、日本人》は、白人の偏見から外見がそう見えるのであって、外見でわからない(浅黒い鉤鼻の顔立ちは、別にユダヤ人だけではない)ユダヤ人のそれは、長い歴史から生まれたそうした疑い深い視線からである、と。その区別が出来ない、アドルノの次の文章は、ユダヤ人が動物として殺されることの理由が、ユダヤ人への特有のものであることを、理解しようとしないアドルノの頑なさを見る。《迫害の可能性が決定的になるのは、致命傷を受けた動物の目がじっと人間を見る、その瞬間である》。ここでわかるのは、アドルノが《人間として見ていなかったけれどもやっぱり人間にはちがいない存在》であるユダヤ人と、外見から人間として見ていない《未開人、黒人、日本人》との違いである。それを平気で併記するとき、あるレトリックを感じざるをえない。
このユダヤ人であることの体験は、アドルノの子供の頃から味わったものであった。彼の父はウイーンのワインを商うユダヤ人であり、彼の母は歌手だった。ゆたかな家庭環境に育ったといえる。しかし「意地の悪い学友」(一二三章)と題されたエッセイでは、アドルノは小学校時代に、集団生活になじめない優秀な生徒が、悪童の一団にいじめられている姿を記している。これなどは、決してアドルノでなくとも、いつでもどこでも繰り返されているおなじみの学校風景なのだが、それは、彼らにとってはファシズムの到来の予告なのである、という時、それは自分がユダヤ人故にそうされたという思いがあるからだ。もしユダヤ人でなければ、それはひとつの思い出に過ぎないものが、彼にとっては、それが我が身にふりかかる惨劇の予告であるのだから、よく理解できることだ。アドルノはそのエッセイを《ファシズムの現実においてわたしの少年時代の悪夢は正夢となった》と結んでいる。
こうした体験が、次第に感受性の鋭いユダヤ人にとっては、人生観、恋愛観にまで及んいでいくことは、想像に難くない。アドルノは愛情の可能性さえ否定している。
《ブルジョア社会というのは、何事につけても意志を大いに働かせることを要求するものだ。ただし、唯一、愛だけは、本人の意志にはかわりないもの、感情の直接の流露であるとみなされる。そうした愛へのあこがれ――それは、労働からの免除を意味するものなのだが――の内では、愛についての市民的な理念は、ブルジョワ社会そのものを超越している。ただこの種の愛情観は、何もかも偽りだらけの世の中にいきなり一つの真実を持ち出してくるために、折角の真実も一種の虚偽に成り変わってしまう。すべてが経済づくめで動いている体制にあって、混じり物のない感情などとちがうものが、たとえあり得たとしても、まさしくそうした有様によって、社会的には利害の支配のためのアリバイとなり、実際に存在しない人間性の証拠にされる、ということがあるわけだが、問題はそれだけではない。感情のおのずからなる流露である感情そのものが、始めから実際的な狙いがそこに絡んでいない場合でさえ、一つの建前として確立された途端にまやかしの全体の片棒を担ぐことになるのだ》(※8)。
アドルノは「愛」の存在を現実の社会では否定する。まるで、意志が貫徹される全体としてのブルジョワ社会の補完するようなものでなければ、その全体の中になお許容される治外法権の飛地のようなものでも、愛はない、という。《もし、愛というものが、社会の中にあってより良い社会の表現するのだとしても、それができるのは、平和な飛地としてではなく、意識的な抵抗という形においてのことなのだ》という発言は、アドルノの思考の基本の型を伝えている。《あまねく強い意志を求める社会にて以降するためには、意志が要請される、という。《社会全体が、狂っているときに正しい生活というものはあり得ない》ことであるからだ。
現在のような《すべてが経済づくめで動いている体制にあって、混じり物のない感情》など存在しえない、と言うのであるが、むろんアドルノは「愛」の可能性を全面的に否定しているわけではない。そう言い切るのは、なお慎重を要する、とつけ加えていることは忘れてはいない。
《社会の場に置かれた愛情は、意識的な抵抗という形を取ってこそよりよい社会の寓意となり得るのであって、ただ平和な飛地というだけではその用はなさない。ところが、意識的な抵抗は、ほかでもない、どこまでもそれを自然なものと考えたがるブルジョワが愛情を禁じている我意の要素を必要としている。ひとを愛するというのは、経済によって社会生活のあらゆる場面に加えられる媒介の圧力のために、感情の直接性を損なわれぬ能力と言っていいので、そうして節操を貫くことで、感情の直接性もそれ自体において媒介され、圧力に抵抗するしぶとさを身につけていく》(※9)。
アドルノが、マルクス主義的な唯物論の立場に立つと、ひとを愛することでさえ、《経済によって社会生活のあらゆる場面に加えられる媒介の圧力のために》影響を受けることを、重視し、そこに純粋な愛情など認めないことになる。《感情の直接性を損なわれぬ能力》を必要とされるのである。彼の特徴はそのような物質生活、金銭的な問題が、優先する現実に方に賭けるのである。しかしそれは現実の過大視ではないか。
4 人は「幸福」になれない
アドルノは現在における「幸福」は不可能だとさえ述べている。このような分析は、根幹にマルクス主義における疎外の観念があることは予想出来るし、資本主義社会の欠陥としの貧富の格差問題のように聞こえるかもしれない。アドルノが、そうした社会における人生問題に踏みこんで、それまでも疎外されている、という認識を示しているのである。しかしそれが個人の世界に入るとき、事情は、決して画一的なものではない、ということを、生活者は感じているのである。
アドルノは「親密なる愛の場としての家庭」を取り上げる十一番の章(「食卓とベッド」)にはその「幸福」の不可能性の見解を開陳している。
《人が離婚するとなると、当人たちがどんな思いやりのある善良な教養人であっても、たちまちもうもうたる埃が巻きあがり、少しでもかかわりのあるものはすべてを覆いつくし変色させてしまうとしたものだ。・・人間同士の間の親密さとは、相手への思いやりであり、お互い同士の辛抱であり、特異な性癖のための避難所を提供することである。・・結婚というものは、非人間的な普遍のただ中に人間的な小部屋を作り上げる最後の可能性の一つなのだが、その崩壊にさいし、普遍の側は、例外として取っておかれるかに見えていた夫婦関係の襟首をつかみ、縁遠いものであった法と財産の秩序のもとに置き、自分たちに限ってそれから庇護されていると思いこんでいた人々を嘲笑することによって、まんまと復讐をとげるのである。・・夫婦がもともと互いに「寛容な」態度を取り合い、財産や債務のことなど念頭に置くことが少なかった場合ほど、より一層、品位を落とし合う様は醜悪なものとなる。というのも利害の当事者間の争い、中傷や際限のないいざこざが繰り広げられるのは、他ならぬ法的に定義されざるものの領域であるからだ。結婚という制度がそれを地盤として成り立っているいろいろな暗い面、男が女の財産や労働を身勝手に利用する野蛮さとが、男がかりそめに寝る気だとか――結婚という家の屋台がとりこわされるとなると、そうしたいろんなことが地下室や床の下からぞろぞろ出てくるのである》(※10)。夫婦間、人間同士の中における関係も、離婚の際に生じるさまざまな出来事を思いめぐらせば、そこには否定しきれぬ亀裂が顔をだす。アドルノにとっては、それは必然である。しかし、こうした見解はある意味では拡大解釈であって、人々は、誰もが離婚するわけではない。否、離婚する者の方が少数派である。ここでも少数派の出来事を、拡大して、あたかも普遍的なものであると、思考を強要しているのである。未経験の青年とか、世間知らずのインテリには通じても、一般の常識人は、これが極端な判断に見えてくるのは致し方ない。
アドルノは「非人間的な普遍」とか「全体は非真である」という言葉を突きつける。その《非真なる全体としてのこの社会》のただ中にあって、結婚生活は人間性なるものが、なお可能な小部屋が存在しうる最後の可能性ででもあるかのごとき期待している。彼は「相手への思いやり」「お互い同士の辛抱」「特異な性癖のための避難所を提供することになった」と言った結婚生活成功の秘訣まで語っている。しかし、この期待は満たされない、という。人間的な関係の場としての結婚生活の不可能性を論じているのだ。
それが白日のもとにさらされるのが、離婚にいたるプロセスにおけるグロテスクで、滑稽、目もあてられないような大立ち回りだ、と言うのである。アドルノに言わせると、そこでは、非人間的な普遍が、「人間的な特殊」のふりをしたものに対して復讐をとげることになる。全体が非真であるかぎり、その中に真なる特殊(細胞、部分)が棲息することなどありえない。《社会全体が狂っているときに正しい生活というのもはあり得ないのである》(※11)。
《もはや無害なものなど存在しない。・・現に存在するものの圧倒的な力に従順な態度をとる無造作な態度、無頓着、だらしなさの一切に対して、不信の念をいだくことをお勧めしたい。・・たまたま電車の中で、乗り合わせた人と話をすることになり、相手のほんのちょっとした言葉に、その内容を突き詰めると殺人に行きつがざるをえないとしりながらも、相手と事を構えたくないばかりに相づちを打ったとするならば、それだけですでに、ひとつの裏切りなのである。・・他人に同調するという行為、付き合いや参加といった人間的な行為はすべて、非人間的なものを暗黙裡に受け入れていることを隠すためにたんなるマスクに過ぎないのだ》(※12)。しかしこの後にすぐ、そのアンチテーゼ(六章)すなわち同調しないことは、社会からの見せかけだけの抜け道にすぎず、行く手はふさがれているのだ、という洞察が続いている。
アドルノの思想には、権力社会のなかで、個人が無力で、その社会のうちにとりこまれてしまっているが、それなら個々人が同盟し、効果のある連帯行動を起こすことを可能と考えるかってのマルクス主義者のような単純な労働運動に対する期待もない。こうした状況に生活条件が規定されているならば、実践へのアドヴァイスとして残されているのは、ただ《他人に同調するな》ということしかない、という絶望的な状況を知らさせるように見える。ここに彼の「批判理論」の基本がある。
彼は欲望の問題を取り上げる。
《解放された社会の目的をひとに訊くと、人間としてさまざまの可能性の実現とか、豊かな人生といった答えが返ってくる。・・彼らもまた人生をぞんぶんに楽しむことを念願していたのであった。この場合穏当なのは、誰ひとりひもじい思いをしないですむような社会、という一番荒っぽい答えだけであろう。それ以外の答えはおしなべて、本当は人間の欲求にのっとって、定めなければならない状態が問題であるのに人間の態度を問題にしているのであり、しかもその態度というのが、自己目的としての生産をモデルにかたどられたものなのである。たとえば精力絶倫から自由奔放な創造的人間という理想像にも商品の物神崇拝がしみ込んでいるといいのだが、当の物神崇拝は、現実のブルジョワ社会においては、心的抑制、無力感、千遍一律に伴う不毛性などの事態を招いている有様だ。ブルジョワの「没歴史性」と相補的な関係にある力学の概念にしても、現在では絶対的なものに祭り上げられているけれども、もともと生産面の法則が人間学の次元に反映されたものであり、社会が解放された暁にはあらためて人間の欲求と批判的につき合わせて見なければならない性質のものである。束縛のない行動、倦むことの知らない性欲、底なしの健啖、最大限に活用された自由時間などといった観念に養分を供給しているのはブルジョワの自然概念であるが、この概念はかねがね社会的暴力を万古不易の健全な状態と触れ回る上でもっぱら有効性を発揮して来たのであった。マルクスの反発した社会主義の建設的な構想なるものは、以上のような、言い換えるなら野蛮に同調している点において旧態依然たるものがあったわけで、悪平等呼ばわりされているような面に問題があったのではない。》(※13)。
晦渋な訳文だが、要は欲望が、現実のブルジョワ社会な制約の中で、抑圧され無力感にとらわれていることを述べている。それは後で述べるが、彼らの自然概念に由来している、というのだ。
『ミニマ・モラリア』からよく引かれる一文で、《社会全体が間違っているときに、正しい生活などありはしない》(「無宿人収容所」十八章)というのがある。《くりかえし彼が強調しているように、自分の頭でものを考え、自分の責任で行動することを社会の諸関係が阻もうとしている以上、自律的思考や正しく生きることへの呼びかけなど空々しく響く》というのである。しかしこうしたユダヤ人体験を、そのまま世界の状況として、普遍化しようとしていることに問題があるのではないか。
アドルノによれば、「文明」は「野蛮」を外部に締め出すことによって、自らのアイデンティティ(身分)と身の安全を確保する、という。アドルノの思考が、この「同一化=締め出し」としての思考のメカニズムを批判するものであった、と言うことが出来る。彼の文章によく登場する「非同一的なもの」とは、文明によってその外部に締め出されようとするものを表す、と理解できるが、それはまさに彼らユダヤ人たちそのものを指すと言ってよい。これまでのマルクス主義であれば、労働者のことを指すが、そのニュアンスは余りない。この「非同一的なもの」を擁護することに、彼の思考の努力は存在したのだ、と思われるのだ
『ミニマ・モラリア』の中で、、アドルノは《全体は真ならざるものである》という立場をとっており、その視点から個別的なものの微視的な観察と分析を行っている。そして、この社会批判の中で、あるべき姿を思い浮かべながら、現実と概念は社会という同一性の装置をつうじて密かに、そして固く結託していると認識に導く。「同一的なもの」の概念のもつ暴力への批判は、社会批判となって表現される。
個々人に強いる「同一的なるもの」の概念は、社会という現実で個々の主体が経験せざるをえない矛盾の意識化によってこそ、その魔術を解かれうるのだ、とアドルノは言っているのである。そのような経験のうちに、ほとんど全面的に「物象化」された「管理社会」の現象として見つめているのである。
資本主義下において、社会は、「交換」という「同一化」の原理によって成立している。しかしそこには、矛盾を通じて「非同一的なもの」、すなわち「同一化」の強制からこぼれ落ちるものが、決して解消されることなく現前としている、とアドルノは言う。そのことも、そこに生きる自己への省察を通じて明らかにしようとするところに、哲学と社会学を横断する「同一性」批判として「否定弁証法」が生まれる、というのだ。
ここでは、アドルノはヘーゲルやルカーチがなお望んでいたような「真の総体性の成就」を志向してはいない。しかし、実践的な「現実変革」による哲学の自己止揚という、古典的ともいえる思考は隠されている。その点でいえば、《哲学はこれまで世界を解釈してきたに過ぎない。大切なのはそれを変革することである》というマルクスのフォイエルバッハ・テ―ゼの延長上で、「哲学」を考えているのである。たとえ「ミニマ・モラリア」(最小限の道徳)というタイトルのように、逆説的な形で志向されようとも、「変革」というテロス(目標)を、「否定」という行為で、その実現を目指していることになるのだ。
5 人間の「機械化」
「機械化」が人間の態度に及ぼす影響について語る十九番の章では、具体例に即して、次のように言われる。《機械化は身ぶりを――ひいては人間そのものを――いつか精密かつ粗暴にする働きをもっている。それは物腰や態度から、ためらい、慎重、たしなみ、といった要素を一掃してしまう。機械化によって、人間の挙動は事物の非妥協的で、一種没歴史的な要求に従わせられるのである。その結果たとえば、そっとしずかに、しかもびったりドアを締めるというような習慣が忘れられていく。・・また自分の運転する車の馬力にそそのかされ、街頭の虫けらのように見える通行人や児童や自転車乗りを思うさま、惹き殺してみたいという衝撃に駆られた経験は、自分で車を運転する人なら誰しも身に覚えがあるのではあるまいか。機械がそれを操作する人間に要求する動作のなかには、打ちつけたり、続けざまに衝撃を加える凶暴さにおいて、ファシストたちの行う虐待行為との類似点がほの見えてくるのだ。今日経験というものが消滅したことには、いろいろな物が純然たる合目的性の要請の下に作られ、それとの交わりをたんなる操作に限定するような形態を取るにいらったことがすくなからず影響をしている。操作する者には態度の自由とが物の独立性とかいった余分の要素を認めようとしない性急さがつきものだが、実はそうした余分の要素こそ活動の瞬間に消耗しないであとまで残り、経験の各となるものである》(※14)。
ここにはファシストたちの存在が、日常的にある、という恐怖感が語られる。このファシストという言葉が使われることは、すでにドイツにおけるユダヤ人への虐待行為を意識していることであり、彼にオブセッションとして繰り返し述べられる。
アドルノはベンヤミンのエッセイのタイトルにある「経験の貧困(化)」ということを頻繁に口にする。それは、最もひらたく言えば、世界で生気している出来事が受信されていないということ、それを素通りしてしまっているということを語っているという。その原因としては、感覚する能力が鈍い、という可能性と、感覚することを理性がブロックしてしまうという可能性の二通りが考えられる。アドルノはしばしば《規制されることのない経験》とする場合には、後者のことが考えられていることになる。規制の目をひからせているものこそ、理性に他ならない(※15)。
《将来への発展はひとえに生産の向上にかかっているという無邪気な考えはブルジョワ気
質にかぶれているので、一つの全体としてのまとまりをもつブルジョワは数量的思考に支配され、質的差異に敵意を抱いているために一方向にむけての発展しか認められないのである。解放された社会をまさにこうした全体性から解放された社会として心に描くとき、生産の向上やそれを反映した人間像などとあまり関わりのない展望がひらけてくる。抑制のない連中は必ずしも好ましい存在ではないし、本人たち自身、真の自由人とは言い難い。こうした例に顧みて、束縛を脱した社会は、生産力でさえ人間の究極的な拠というわけではなく、商品生産に合わせて歴史的に作り出された有り様でしかないことに思い至るかもしれない。・・「動物のように何もしないで」、水の上に寝そべり、充ち足りて天を仰ぐ、「他に何の職務も満足もいらない、ただ存在しているというそれだけの状態」が手順や作為を必要とする欲望の充足に取って代り、根源に還流するという弁証法的論理の約束を実地において果たすことになるだろう。》(※16)。
歴史の目標は人間の欲求の充足を尺度にして設定されるべきだ、とアドルノは言う。しかしそのとき、「思考の骨折り」を同時に強調するのである。その両者の一体になっているというのだ。
アドルノは全面的に否定の立場を一貫させているのは、その資本主義社会に否定に導くマルクス主義だけでなく、ユダヤ人として被害者意識が、すべての社会生活における対応の仕方に意識されており、それがすべての出発点になっているのだ。
この点で、藤野寛氏が引用しているように、マルテイン・ゼールの指摘は興味深い。彼は「アドルノの観照的倫理」と題するエッセイで言っている。《アドルノは、若い時から、自由や幸福、道徳や正義、総じて個人的・社会的に価値があるものは、現在の諸条件のもとで、否定的にしか規定されえない、と繰り返し強調してきた。倒錯した形姿においてでなければ、それらは認識されえない、と。しかし、明々白々たる錯覚である。というのも、アドルノの倫理は、根本的には肯定的な経験を起点としており、その上さらに、根本的に肯定的な経験を起点としているのだから。満たされた時というプルースト的・ベンヤミン的モチーフが、ここでは強力に影響を及ぼしている。アドルノの哲学全体の重力を形成しているのは、道具的ではない態度振舞いの状態である》(※17)。ゼールは《そろそろアドルノの鉄卓をその否定性のドグマとトラウマから解放する時がきているのではないか》とも言う。
《アウシュビッツ以後、詩を書くことは野蛮だ》とは、アドルノの有名な言葉だが、そのときも、彼は「文明・野蛮」の二分法を混交している。「詩を書くこと」とは、文化の営みの総体を象徴する表現に他ならないから、つまり、文化はすなわち野蛮だ、とアドルノは言っていることになるのである。従って、彼自身作曲家であり、前衛芸術の擁護者でもあったが、野蛮の体現者だった、ということになる。アドルノは一方で、「野蛮」として締め出される側の人間だったことを意味するからだ。現代芸術の中の否定性を、評価していたが故に、前衛芸術の擁護者であったのだ。
暗い、冷たいアドルノ。かれのアフォリズム集のタイトルのとおり、「ミニマ・モラリア」
(最小限の道徳)という逆説的な形で志向されようとも、哲学がよき生活、正しき生への省察であるかぎり、その実現という譲ることのできないテロス(目標)が哲学には組み込まれている(※18)。その実現による現実との一致こそ、哲学のまぎれもない望みなのだ、とすれば、アドルノのこの否定の哲学は。あくまで亡命ユダヤ人のペシミスムに根ざしているものであって、決して普遍化されるべきものではないことは明らかであろう。
6 『啓蒙の弁証法』を批判する
これまで『ミニマ・モラリア』について述べてきたが、このエッセイが、アドルノの個人的な出来事から感じたものを論じ、それは、彼自身の思想形成の源流とでもいうべきものだ、と感じられた。
アドルノとホルクハイマーの共著とされる『啓蒙の弁証法』(※19)は、一九三九年から四四年にかけて、まさに『ミニマ・モラリア』の前提として、書かれた哲学書と言っていいだろう。アメリカの亡命先、カリフォルニアで完成したこの『啓蒙の弁証法』は、四七年にアムステルダムで発行された。一九三〇年代からの『権威主義的パーソナリティ』などが、その基礎にあって書かれたもので、はじめに「啓蒙」という概念そのものがあつかわれ、次いでホメロスやマルキ・ド・サドについての余論が述べられている。そのあとに「文化産業」や反ユダヤ主義といった主要テーマの詳細な実例が続き、最後に一組の「ノ―トと草案」が置かれている。このノート類は『ミニマ・モラリア』の中にあってもよいようなものがある。
二人にとって「啓蒙の弁証法」とは、「文明化」が「野蛮」の克服のプロセスであるはずなのに、古い野蛮の克服は、必ず、あらたな野蛮を生みださずにはすまないという。従って、この書で二人の述べたいことは、《人間がどうして真に人間的な状態に入ることなく、新しい野蛮状態におちいりつつあるのか》を明らかにすることであった。
彼らはドイツ、ナチズムの勃興により、ユダヤ人として、迫害の対象となり、その条件が、重くのしかかった。同時に《ドイツにおける一九三四年以降の展開の共犯者となったすべてのもの》を断罪する権利をもちえた、と感じたのである。
どうして「啓蒙」が、「自己崩壊」するにいたったのか。この「啓蒙」という場合、二人はそれに十八世紀の「進歩思想」よりも広い意味合いを与えている。つまり、かれらはウエ―バ―が古典的な仕方で定義した、「近代」世界における「合理性」あるいは「呪術からの解放」という全過程を含めているのである。「啓蒙」は「神話」を否定すべく努力してきたが、そうしているうちに、こんどは「啓蒙」が「偽りの明晰性」の「神話」となってしまった、という。「迷信」を打破しようとする《十二分に困難な・・唯一の思考方法》が、最後的にはその武器をみずからにつきつけることになってしまったというのである。したがって、人間が《完全に裏切られてはならない》とするなら、「啓蒙」の概念の再考を通じて「過去の希望」を救い出すことこそ、現代の知識人に課せられた義務である、という。
現代では、「啓蒙」は単に操作(マニュピュレーション)と同じことになっている、と述べる。科学的実証主義的な語彙にしたがえば、知識とは事物を操作する力を意味し、事物を理解してゆく過程において、抽象作用という「啓蒙」の用具はその対象を清算してしまう。その単純でどぎつい用語は、支配の実態を表現しているのだ、という。それによって世界は「一つの巨大な分析的判断」に変えられ、ここにおいては「非常な事実」は批判をいれない「聖なる禁猟区」となっている、と語る。しかし、それは言いかえれば、言語による限定、言葉の遊び、ということにならざるをえない。
カントおよびカント派の合理主義者たちは、十九世紀のブルジョワ的秩序に対して因襲と事実を超える「倫理的認可」を何ひとつ残さなかった、と述べる。このことはニーチェが暴露していることである。彼は、同時代人たちが考えているように「理性」の上に「殺人を却けるいかなる根本的な議論」を基礎づけることも「不可能」であるということを広く告げ知らせたと、著者は認識する。これによって彼はブルジョワジ―のお手軽な道徳的オプティミスム、「ただひらすら慰められること」を求めるその「厚顔無恥」をはねつけた、と語る。二人は「救済」が不分明であり、慰めというようなものは、その一部をなしていないことは明らかだとする。それは「支配」と「啓蒙」の「同一性」を宣告するという「無慈悲な学説」を提出したのである。
これだけの言説であれば、資本主義のペシミズムとして考えることが出来るが、その「殺人を却けるいかなる根本的な議論」の内容を考えると、それはナチによるユダヤ人への殺人であることが対象である、と理解できる。そうなると、あくまでユダヤ人にとっての認識であって、決してそれ以外の民族の問題ではない。彼らが言う「文化産業」が「啓蒙」の欺瞞への転化を証明するとするならば、反ユダヤ主義は「啓蒙」の限界を暴露するものであったのだ。
《何故に人類は、真に人間的な状態に踏み入って行く代わりに、一種の新しい野蛮な状態へと落ち込んでいくのか》という問いが、つまり文明がその反対物へと転化しているという現状認識に基づいて、その由来を尋ねることが、『啓蒙の弁証法』の基本的モチーフとなっていることがわかる。この「文明化=啓蒙」の過程は、通常、広義の「進歩」とか、「呪術からの解放」とか「神話から合理性へ」という形で捉えられているものだ。こういう「合理化」の過程が、弁証法的構造を持つということは、歴史的には、神話からの離脱としての啓蒙がふたたび神話へ転落するという事態を指示し、論理的には、それは啓蒙と神話との「非同一性と同一性」という形で展開されるようになる。
これまで私は「啓蒙」と言う言葉にも、「神話」という言葉にもかっこをつけて書いてきたのも、もともとアドルノらが、これを「蒙」を「啓(ひら)く」Enlightenmentの意味で使っていること自体、近代の人間の誤謬である、と私は考えているからである。それは思想、芸術などが、近代以前に確立していることであり、近代の「科学」にせよ、「技術」にせよ、戦争のために開発されたものが中心となったものであり、大きくいえば、人口の大幅の増加に対応した技術の発達に過ぎないからである(産業革命しかり、交通革命しかり、情報革命しかり)。大量生産、大量輸送、大量情報は、量的なものであって、それが過去に対して「啓蒙」である、と定義することこそ、「近代人」の錯覚なのである。
それに対してアドルノらが、それが決して「倫理的認可」を残していない、という判断は正しいし、近代が欺瞞へ転化しており、そこに暴力を復活させている、という認識も正しい。しかしそれを「神話」の復活と考えだとき、それは決してマックス・ウエーバー的な意味での「合理性」に対する言葉ではない、ということである。「神話」が、「近代」によって克服されるべきだ、という見方も、「近代人」の驕りである。というのも、それ自体、人間の生きる上での智慧(知識ではない)といってもよい文学的表現であるからだ。「啓蒙」と「神話」を対立させることは「近代人」の誤りであるのだ。
アドルノらは、「啓蒙」の自己崩壊という近代の過程を記述しているのは、ある意味では正しいが、それはナチの反ユダヤ主義に野蛮に証拠をみている限り、正しい説とはならない。まさに「近代」こそ、過去により「啓蒙」されなくてはならないのである。ナチの「野蛮」も、社会主義国の「野蛮」も、「近代」が大量の人口に対処した「野蛮」であり、過去が「少数」であったたけ、何十倍かの「野蛮」さを意味するのである。ユダヤ知識人たちが、西洋の他の文化ペシミストたちが考えるように、この現状をただ詠嘆しているわけではないことは理解できる。著者たちはまた、歴史の発端にさかのぼり、「近代」だけでなく、「ポスト・モダン」をも貫いて進展していく「啓蒙の弁証法」的過程が、「主体性の原史」という次元にまで掘り下げて問題化されている。
その「主体性」の原理とは、「自然支配」に求められている。人間はさまざまの試練を克服しつつ、自らを支配する主体として自己を形成し、同時に他者を客体として形成することで世界を支配する。言い換えれば、人間は「外なる自然」を科学や技術によって支配し、「内なる自然」を道徳や教育によって支配することによって、さらにそれらを社会的に支配して、自己の「主体性」を確立してきた。しかし、アドルノたちは、生の目標を設定するのが、本来「内なる自然」であるとすれば、その「内なる自然」を支配し抑圧することによって「外なる自然」を支配しようとする目的もまた見失われていくのだ、と述べる。後に残るのは、「自己保存のための自己保存」という自動的反復運動だけになる、というのだ。これらは自然を支配することによって、自己を確立してきた主体性が、ふたたび「自然を頽落する」以外の何ものでもない、と言う。
ここにあるのは「自然」そのものは、「野蛮」で「動物的」だ、という認識である。それを科学や技術で支配し、道徳や教育で改善していこうとする態度をつくりだすのが人間の「主体性」なのだ、という。こうした「自然観」は当然「人間性」と対立する思考に陥る。支配すべき「自然」であり、改善すべき「自然状態」というように、それが低い段階におかれる。しかし私はこのような考え方をとらない。それは私が日本人だからかもしれない。
それは人間の個体としての発達過程を想定するからであって、元来の「自然」はすでに完全なのである。人間は唯一、個人としてそれに知的に追いつこうと努力をする存在なのである。それでなければ人間の中の「野蛮」さを含めた状態を説明出来ない。それを「野蛮」ととるか、「自然」ととるかが問題なのだ。
ふつう、「世界史」というものを、西洋人は次のようにとらえる。有史以前の世界は、「純然たる自然」であった。太古のひとびとは自然のままの状態の中で、自然にとらわれて、不分明の衝動とよくわからない外からの印象とに、そのつど直接反応していた。それが決定的な転機に至ったのは、人間が思考を始めたときである。思考するとは、自然の直接的連関をある箇所で中断し、外的自然と内的自然とを分かつ堤防を、当初はおぼつかないながらも築くことを意味した。人間は種に特有の本能や器官の特殊化からそれ以前にも相対的に自由であったのだが、思考することによって、種に特有な環境にとらわれた状態から脱却していったのである、と(※20)。
しかし前半の部分は、個体の発達のことを重視し過ぎていることを感じるであろう。或いは、猿の段階であったと考えるからかもしれない。猿は猿であって人間ではない。思考をしたものが人間なのである。人間という以上は、最初から思考を始めていた、と考える他ない。
「世界史」が「自然のとりこになった(自然へと頽落した)自然支配」の歴史だとする見方をアドルノがするとき、やはりウエ―バ―流の「進歩史観」に陥っているし、、自分の主張する「同一化」的思考の支配を解明し、説明しようするとき、ナチの下でのユダヤ民族、という特殊な状況を絶対化する危険を冒しているのである。『啓蒙の弁証法』が、おかしいと指摘できるのは、その点である(※21)。
この思考の自立という考え方は、あるがままの「自然」からの自立を意味している限り、現実世界から離れていくことの自覚が、アドルノを含めて西洋哲学者にはなかった。「自然」からの離脱が、人間であるという思想は、そこに言語による客体化、という幻想が見出せる。言語による規定は、必ずしも、客体化にならないのだが、それをロゴスとして、信用してしまったところに、西洋思想の欠点があるのだ。その中核が「神」であったり、「哲学」であったりしたが、それは「事」の「葉」である「言葉」の虚構に過ぎない。とくに「言葉」の発明が「文化」としたとき、「文化」が現実と離れていることが理解できなかった。逆に現実をそれで理解しようとし、動かそうとして人々は悩むようになったのである。それが現実―自然をあからさまに肯定する世界―日本と、現実―自然から人間は自立したいとする西洋との違いである。
アドルノは他の「進歩主義者」と同じように、人間の歴史を、あたかも個人の子供から大人に向かう形成過程と同じものだ、と考える。
《このように太古の世界から人間が抜け出した瞬間、ほかならぬその太古の世界は幸福なものと映った。その魅力は、自然の陰鬱な連関から逃れ出たという、新たな幸福におとらず大きかった。本能に導かれた生存形態から大幅に解き放たれた人間は、外的および内的自然の放つ圧倒的な印象や刺激に反応するにあたって、豊かな内的自然と豊な外的自然を媒介にする自律的な主体としてふるまいはしなかった。そうではなく、内的自然および外的自然をいずれも縮減させて作り出す道具としてふるまうことになった。人間の内的自然は快楽に溺れやすく、また外的自然は人間を快く魅惑するものだが、その一方では、人間の内的自然は恐怖を抱きやすく、また外的自然は人間を恐れさせる。こうした内的および外的自然のもつ性格が、いまや切り縮められ、低く見られることになったのである。このような快楽や恐怖を切り縮めることによって、つねに冷静沈着な態度をもって、人間がどうでもよいもの、あるいは敵と見なしている自然から、その存立を強引に奪い取れるようになるのは当然であった。「自己という、人間の同一的で目的志向的な男性的性格が形づくられるまでに、人類はすさまじいことをわが身に対して、行わねばならなかった。その一部は、いななお誰しもが子どものころに繰り返している。自我をひとつに保とうとする努力は自我のどの成長段階にもついて離れないのであり、自我を喪失させようとする誘惑があったとしても、それは自我を保持しようとする盲目的な決意といつも表裏一体となっていた。・・自己を喪失させるのではないかという不安、また自己を失えば自分と他の生きものとを隔てる境界もなくなってしまうのではないか、という不安、そして死と破壊に対する恐怖の念が、文明を不断に脅かしてきた幸福の約束と表裏の関係にあるのである》(※22)。
しかし人間自身はすべて意識をもち、思考力をはじめから持っていたはずである。しかし人口は少なかったし、共同して組織的な建築や設備をつくるわけにいかなかった。そこが後代の人々によって「原始的」に見えただけである。「本能」で生きていた、と考えることもおかしい。文字も言葉もなかったから、何も考えなかった、というのも、誤りといってよい。事実をありのままに受け入れるのは、文字や言葉がなくても、経験できるのである。それは体でまさに体得することが出来るのである。日本人が縄文時代から、古墳時代まで文字をもたなかったが、十分は文明をもっていたことは、形の遺物で十分に認識できるのである。そのことからも、こうした「進歩史観」「発達史観」が、人間の歴史を惑わしてきたのである。
《何故に人類は、真に人間的な状態に踏み入って行く代わりに、一種の新しい野蛮な状態へと落ち込んでいくのか》という問いそのものが、西洋的な「進歩思想」の誤りから生じるものであって、ユダヤ人問題が、イスラエルの建国によって、全く異なった展開を示すようになった二十世紀後半からの時代に全くそぐわなくなっていることを認識しなくてはならない。新しい野蛮な状態をつくりだしている責任の一旦はユダヤ人自身であり、また一方で、社会主義の崩壊にともなうマルクス主義の衰退は、まさに左翼ユダヤ人思想の崩壊そのものを示すことを理解しなくてはならない。もはや彼らには特権も存在しないし、その誤りを認識すべき状況に来ている。『ミニマ・モラリア』におけるようなユダヤ人を「じっと見ている」視線はもうないし(それはもう人種問題ではない)、人間が個々には「幸福感」も「愛情」も変わることなく感じ、幻想していく人間社会は、過去から変わっていない。つまり文明がその反対物へと転化しているという現状認識を持つ必要はないのである。その転化の由来を尋ねることが、「啓蒙の弁証法」のライトモチーフだとすれば、その「弁証法」のあり方自身がひとつの虚構なのである。
註
(※1)…「共産党と歴史問題」拙著『まとめて反論』扶桑社、二〇〇二年所収。
(※2)…拙著『戦後日本を狂わせたOSS「日本計画」』展転社、二〇一一年。
(※3)…拙著『フォルモロジー研究 ミケランジェロとデュ―ラ―』美術出版社、一九八四年、二〇四頁。
(※4)…拙著『戦後日本を狂わせたOSS「日本計画」』第十二章
(※5)…ポール・ジョンソン『ユダヤ人の歴史 下巻』徳間書店、一九九九年。
(※6)…「『シオン長老の議定書』とユダヤ人ボルシェヴィスム」同右書。
(※7)…アドルノ『ミニマ・モラリア 傷ついた生活裡の省察』三光長治訳、法政大学出版局、一九七九年。六八章、一五〇~一五一頁。
(※8)…一一〇章「コンスタンツェ」邦訳二六一頁。
(※9)…一一〇章邦訳二六二頁。
(※10)…一一章邦訳二八頁。
(※11)…四二・四三章、邦訳八九~九四頁。
(※12)…五章、邦訳十八頁。
(※13)…一〇〇章、邦訳二三七頁。
(※14)…一九章、邦訳四三~四四頁。
(※15)…藤野寛『アウシュビッツ以後、詩を書くことだけが野蛮なのか アドルノと「文化と野蛮の弁証法」』平凡社、二〇〇三年、三七頁参照。
(※16)…一〇〇章 邦訳二三七頁。
(※17)…Seel,Martin,Adornos contemplative Ethik,2002(藤野寛、前掲書、四三頁より引用)。
(※18)…藤野寛、前掲書二二~二三頁。
(※19)…ホルクハイマー、アドルノ『啓蒙の弁証法 哲学的断想』一九四七年、徳永恂訳、一九九〇年。
(※20)…細見和之「自然史の理念再考」『アドルノ 批判のプリズム』徳永恂編著、平凡社、二〇〇二年所収。
(※21)…R・ヴィガ―スハウス『アドルノ入門』原千史、鹿島徹訳、平凡社、九七頁。
(※22)…『啓蒙の弁証法』前掲書、邦訳四三頁。