映画評 ありえない惨憺たる家族像 是枝裕和監督「万引き家族」

ありえない惨憺たる家族像

是枝裕和監督「万引き家族」
映画評

 私はこの映画を、質が高いから、という意味で論じるのではありません。この作品は、ある家族像を描いていながら、あまりにも人間関係に脈絡がなく、各人物にほとんど人間らしさが感じられないという意味で、B級作品として忘れさられていい作品だと思います。しかしどうしてこれが、カンヌ国際映画祭で、パルム・ドールという最高の賞をとったのか、そのことを論じてみましょう。
 
この映画は、今時の東京では珍しいような貧しい家屋に集う、妙な家族の物語です。かつての左翼の映画監督、今村昌平の「豚と軍艦」のような庶民性を思い起こさせますが、戦後のムンムンする熱気もエネルギーも感じられません。
 
主役は、犯罪でしかつながりを持てない家族、と言うことになります。高層マンションの谷間に年金生活の老女が住む、ポツンと取り残された今にも壊れそうな平屋に、ある夫婦とその息子、妻の妹の四人が住み着く、という設定です。

老女の年金以外は、万引きで生計を立てている。そこに捨てられた新たな幼女が加わる。そんな生活が続くはずがないのに、それでも笑いが絶えない。そんな作品といっていいでしょう。それが、パルム・ドールをとったというのです。
 
つまり、映画の欠点だらけを、逆に評価する「否定弁証法」という、50年前に流行った思想に基づいて評価されているようなのです。ただそれは、すでに“終わっている”思想で、それをまだ持っている少数派のイデオロギー・グループが、まだ世界の文化の領域で「権威」となっていることを示しているのです。
 
そのイデオロギーとは、私もフランス留学時代に体験したことがあるもので、20世紀後半の左翼思想、言ってみれば「五月革命」の思想(フランクフルト学派の「批判理論」)なのです。

これは労働者運動では、もう革命が不可能だと知ったマルクス主義者たちが、文化に目をつけ、文化にまっさらな青年、学生たちに教え込もうとしたものなのです。貧しい労働者がいなくなり、みんなサラリーマンになったので、そこに「疎外感を持ち込めば、学生や大学の似非知識人はすぐになびくだろう、と。彼らはまだ貧乏だし、都会の根無し草のようなところがあるから、と。主として大学に巣食うユダヤ・ディアスポラ(世界中に離散しているユダヤ人たち)が考えた思想なのです。
 
犯罪にしても、現実には、しみったれた手口の万引きなどでは、生活することはできないし、しかもこの映画では、捕まりもしないのだから都合のいい設定です。また、血縁もない人々が、こんな睦まじく接することはないでしょうし、一緒に長く住めるはずもありません。しかしその不可能を、可能だと思わせて、疎外を克服することができるのだ、と考えさせるのですからいい加減なものです。
 
こうした思想が、この日本映画にまたそぞろ出てきたのは、西洋思想は何十年かたってようやくわかるのだと考えている、日本の知識人の通弊を表している、と言っていいでしょう。知識輸入をもっぱらとする大学人だけでなく、メディアのジャーナリストも、インターネットの素人目立ちたがりやも、似たようなものです。
 
私はこういう生活破壊、家族破壊のB級映画を、60年代から70年代にかけて、うんざりするほど内外で見た記憶があります。

 それのかなり遅れた日本版がこれだ、といえます。その時代遅れな思想を、今になっても信じている、この日本人監督も、それをもてはやす左翼たちも、それが何の意味もない思想だった、ということを知らないのです。

フランスの映画人たちも、遅ればせながらやってきた日本の監督に、ご褒美のつもりで賞をあげた、というのが本当のところでしょう。まだ、そうした思想にしがみついていたいフランスの映画界にとって、望ましい映画でもあったのです。そうした傾向を是枝裕和監督も知っていた、ということでしょう。

 この映画がカンヌの映画祭で、パルム・ドール賞を獲得したことの一つの効果は、こうした遅れた左翼思想が、まだ生きている、と信じさせたことです。しかしそれは、映画界だけの話です。国連の原爆反対運動でノーベル賞をとったからと言って、その運動ぶりが正しいとは言えないし、権威ある国際映画祭で最高賞をとったところで、意味がないものは意味がないのです。

 それはマルセル・デュシャンという美術家が、白い便器を置いただけの『泉』という作品を発表した際に、世界の評論家たちが「20世紀最高の芸術だと言ったのと同じことです。つまらないものは、つまらない、と言わなければならないのです。デュシャンはその後、作品を作らなくなったのは当然のことです。

東北大学名誉教授・田中英道(たなか・ひでみち)

– 2018.07.06掲載 -