田中英道 ※平成28年4月17日掲載
憲法改正の問題が現実化しています。「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」などと「前文」に書かれたことが、いかに嘘の文言であるかが、核・威嚇をする北朝鮮だけではなく、常に反日的な言葉を繰り返す中国、韓国のナショナリズムの勝手な言動を行っていることでもわかります。彼らのどこに「平和を愛する諸国民の公正と信義」があるか、ということです。つまりそれは昔はインターナショナリズム、現在はグローバリズムという、国境を越えて「世界人間」・「地球人間」とかいう人々がいると信じることから始まっています。そんな人々はいないのです。
グローバリズム、多文化主義なとと言う、ひとつのイデオロギーが、学界やマスコミ、知識人たちに一般化し始め、ナショナリズムを超えた人間がいるんだというようなことが、まことしやかに人々に、信じられてきました。そういうことが朝日や NHK など、 あらゆるところで宣伝され、あたかも事実であるかのようにされてしまったのです。それが憲法改正、現憲法破棄の動きを押しとどめようとする左翼の思想となっているのです。
しかし国家が現代において成立している以上、必ず健全なナショナリズムが必要なのです。その国家は、近現代になって出来たものではないのです。日本の歴史学界でも「新しい世界史」〈羽田正著)などが書かれ、地球人間的に捉えることがあたかも良いかのように言っています。『日本国史学』書評欄でもこの本を徹底的に批判をしていますが、特に問題は歴史家が、国家観がなくなっていることです。国家というのは、ベネディクト・アンダーソンが「想像の共同体」だというのを丸呑みにしているのです。
日本だと、吉本隆明が国家はある意味で1つの幻想である。「国家幻想」であるというようなことを、述べて人気を得ました。この吉本という人は、言語論もソシュールだし、国家論もマルクスやアンダーソンと同じことを、自分が発見したように言っていたのです。戦後は歴史家は一斉に、ネイションは完全に近代の発明である」といいました。すべてマルクス主義者です。たしかに日本でもそうした国家論が、明治以降出来たもののように繰り返し論じられて来ました。 そういうふうに戦後言われてきた訳ですが、私たちはそれがみんなウソだということをはっきり言っています。
これは私たちが日本人であるからこそ言えることなのです。「近代」になって初めて国家ができたみたいな事を言い、天皇という存在でさえも、明治以降の虚構であるかのように言っているのです。それがあたかも明治以降の国家主義が出てきた後の問題だと、必ず大体の左翼学者が言っています。そういう国家論に対する我々の強い批判というものがあって、それが一つの国史学会のテーゼになっています。
西洋の国家論は、もともと国家否定のデイアスポラ・左翼ユダヤ人学者が作ったもので、現実の歴史に即していません。歴史は原始時代から、小国家の歴史といって良いでしょう。とくに日本は、縄文時代から小国家があったと考えられるし、古墳時代には日本という祭祀国家が形成され、それがさらに律令的に統一されたのが、飛鳥時代以後ということが出来ます。そして日本では、国家とは、家族を基礎にしていることを、家という言葉を入れていることでわかります。八紘一宇の精神です。それが正しい国家認識です。
日本のナショナリズムとは何かという問題ですが、もっと原初に還って、我々の中の日本人としての生き方の中にあるのです。そこから引き出せる何かが日本のナショナリズムになるわけで、そういう事は決っして、いろいろな外国の知識を得て変わるものでは無いものであり、それがすべての日本人にあるということです。そのことをわれわれが歴史回帰というところに結びつけていく。歴史研究をあらたに立て直すことによって、その事を、日本国史学会に結集して学者を育てていきたいと思います。
戦後70年の今になって改めて、日本人が日本人であると言う事を分かってきた。それは何なのかという事の探求ですね。それを共通の問題として考えて行く、研究していくということ、それが我々の立場だろうと思います。そのことを、国家という問題もまたそれ自体が、研究課題なるわけですが、今これは世界中に顕著に湧き上がってくる問題でもあるわけです。グローバリズムという一時はやった言葉も、色あせて来ている。実態が無かったからです。国際企業がそれだ、というのですが、それを執り行っているのは、各国の人で、それぞれの国に属しているのです。資本もどこかの国に還元される。タックスヘブンで逃げても、限界があります。 グローバリズムで、すでに国家がかき混ぜられることが、今世界でなされているというわけですが、それは全く一部に限られている。現実的ではありません。
私たちは、戦後を狂わした国際主義イデオロギー、マルクス主義的思想を批判を忌憚なく行っていかねばなりません。そのためにはお互いに切磋琢磨して行かねばならないのです。この日本國史学会がその機能を果たせればいいと思っております。